あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「ぼく、まだ助けてもらったご恩も返せてませんから」

 「そんな、恩だなんて……」

 コマは何か言いたげに奈津を見上げた。
 ふいに、その耳がぴんと立つ。

 「あっ!」

 「どうしたの?」

 「ぼく、まだあなたのお名前を聞いてませんでした!」

 奈津は一瞬きょとんとして、それから柔らかく笑った。

 「奈津よ。九条奈津」

 「九条奈津……」

 コマは確かめるように繰り返してから、ぱっと顔を輝かせた。

 「奈津様!」

 「そんな、様なんてつけなくても」

 「嫌です」

 思いのほかきっぱり返され、奈津は目を丸くする。

 「奈津様は、ぼくを助けてくれた方ですから」

 「でも……」

 「ぼくが、そう呼びたいんです」

 真っ直ぐな琥珀色の瞳に見つめられ、奈津は頬を緩めた。

 「……分かった」

 「はい、奈津様!」

 「それなら……私も、コマって呼んでいい?」

 「もちろんです!」

 嬉しそうに尾を揺らすコマを見て、奈津も自然と頬が緩んだ。
 名前を呼び合う。ただそれだけのことが、なんだか少し嬉しかった。

 しばらくすると、奈津のもとへ昼餉が運ばれてきた。
 目の前に置かれた膳を見て、奈津は瞬きをする。

 炊きたての白米。湯気の立つ汁物。
 香ばしく焼かれた魚に、よく味の染みていそうな煮物。
 取り立てて豪勢な料理というわけではない。
 それでも奈津は、中々箸を取ることができなかった。

 「……これは」

 「奈津様のお昼ごはんですよ」

 傍に座っていたコマが、不思議そうに答える。

 「全部……私が食べていいの?」

 「もちろんです」

 コマはさらに首を傾げた。

 「だって、奈津様のお膳ですから」

 「私の……」

 奈津は目の前の膳を見つめる。
 九条家では、綾乃が何より優先された。
 奈津に与えられるのは薄い粥や残り物ばかりで、罰として食事そのものを抜かれる日も珍しくない。
 ときには綾乃が笑いながら、「お恵み」と称して食べ残しを寄越すことさえあった。

 自分のためだけに用意された温かな食事を、当たり前のように口にできたのは、一体いつまでだっただろう。

 「……いただきます」

 奈津は箸を取り、煮物をひとつ口へ運んだ。
 柔らかく煮えた大根から、じんわりと温かな出汁が広がる。

 「……おいしい」

 ぽたり、と膝の上に雫が落ちた。

 「奈津様?」

 コマが奈津の顔を覗き込む。

 「どうしたんですか!? お腹が痛いんですか?」

 「違うの」

 奈津は慌てて目元を拭った。
 けれど、次から次へと涙が溢れてくる。

 「ごめんなさい。なんでもないの。ただ……」

 もう一度、目の前の膳を見る。

 「温かくて……おいしいなって」

 たったそれだけのことなのに、涙が止まらなかった。

 コマはしばらく奈津を見つめていた。
 やがて、何かを決意したように大きく頷く。

 「じゃあ、いっぱい食べてください!」

 「え?」

 「奈津様、すごく細いですから。いっぱい食べて、元気になってください!」

 奈津は目元を拭いながら、少し笑った。

 「……ありがとう」

 もう一度、箸を取る。
 温かな食事が、身体の奥までゆっくり染み込んでいくようだった。