あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「紫鬼様。奈津様をお連れしました」

 「入れ」

 低い声が返ってくる。
 九重が襖を開く。

 部屋の奥に、紫鬼が座っていた。
 昨夜見た漆黒の角も、紫色の刃もない。
 白銀の髪を背へ流し、墨色の装束を纏っている。
 それでも、部屋へ一歩踏み入れただけで、奈津の背筋は自然と伸びた。

 纏う空気そのものが、ほかの妖とは明らかに違っていた。
 奈津は少し離れたところへ腰を下ろし、深く頭を下げる。

 「あの……昨夜は、助けていただきありがとうございました」

 「礼は要らない」

 紫鬼は淡々と答えた。

 「昨夜のことを、覚えているか」

 「……はい」

 「なら、話は早い」

 深い紫の瞳が奈津を射抜く。

 「お前は、何をした?」

 「……え?」

 「コマを元へ戻した、あの力だ」

 奈津は膝の上で指を握る。

 「……分かりません」

 紫鬼の眉が動いた。

 「分からない?」

 「はい。本当に……自分でも何が起きたのか」

 奈津は自分の手のひらへ目を落とした。
 昨夜。ここから溢れ出した、淡く温かな光。

 「あの子を助けたいと思って……触れたら、突然」

 「浄化の力は?」

 奈津は顔を上げた。

 「ありません。少なくとも、これまで一度も現れたことはありません」

 紫鬼の視線が細くなる。

 「お前は、どこの家の者だ」

 「九条家です」

 その名を聞き、九重の表情が変わった。

 「九条……祓い師の家ですね」

 「はい」

 奈津は小さく頷く。

 「妹には、とても強い浄化の力があります。でも、私は……何も」

 言葉にすると、昔から胸の奥にあった痛みがまた疼いた。
 紫鬼は奈津を見つめたあと、九重へ視線を向ける。

 「九重」

 「はい」

 九重が奈津へ向き直った。

 「昨夜、コマの身体から穢れが完全に消えておりました」

 「……完全に?」

 「ええ」

 先ほどまでの柔らかな笑みが、九重の顔から消える。

 「それだけではありません。昨夜のコマは、完全に異形化していました。
 あそこまで異形化が進んだ妖が、本来の姿へ戻るなど、通常ではあり得ません」

 それは、人間の間でも常識として知られていることだった。
 異形化した妖は――二度と元には戻らない。

 「どれほど強い浄化の力を持つ者であっても、です」

 奈津の胸が、どくりと鳴った。

 「でも……コマは」

 「戻った」

 紫鬼が言い切る。

 「お前が触れて、元の姿に」

 奈津は言葉を失った。
 九重が言葉を継ぐ。

 「古い記録に、似た力について記されたものがあります」

 「……似た力?」

 「ええ。穢れに呑まれた妖そのものを傷つけることなく、その身を蝕む穢れだけを取り除く力です」

 奈津の指先が震えた。
 昨夜、自分が確かに感じたもの。
 穢れの奥に、まだ残っていたコマ自身。

 「その力を持つ者は――《癒し子》と呼ばれていたそうです」