あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~


 襖が開き、一人の男が入ってくる。
 焦茶の長い髪を低い位置でゆるく束ねた、端正な顔立ちの男だった。
 穏やかに細められた目元とは裏腹に、その立ち姿には隙がなく、自然と人を従わせるような威厳がある。
 見た目は人間とそう変わらないのに、奈津には一目で分かった。

 ――妖だ。

 男は奈津の前で、丁寧に一礼した。

 「九重(ここのえ)と申します。お加減はいかがですか?」

 「九重……様」

 「まだ、お身体は痛みますか?」

 「……お腹が、少し」

 奈津はそっと腹部へ手を添えた。

 「腹部にひどい痣があると聞いております。かなり強く打たれたようですね」

 その言葉に、奈津の指先が強張った。
 宗一に蹴られた瞬間が蘇る。

 『お姉様、もう子どもを授かるのは難しいかもしれないんですって』

 そして、綾乃の楽しげな声まで。
 奈津はそれ以上考えないよう、視線を落とした。
 そこでようやく、自分が見覚えのない寝間着を着ていることに気づく。

 その視線に気づいた九重が口を開いた。

 「昨夜のお召し物は雨と泥で随分と汚れておりましたので、女中に頼んで着替えさせています。勝手をして申し訳ありません」

 「い、いえ……そんな」

 むしろ、礼を言うべきなのはこちらだ。

 「ありがとうございます」

 九重は傍らに置いた盆から椀を取り、奈津へ差し出した。

 「こちらをどうぞ。薬湯です」

 「薬湯……?」

 「人間にも効くはずです。少々苦いですが」

 奈津は、差し出された椀をじっと見つめた。
 淡い褐色の液体から、薬草の匂いが立ち上っている。
 手を伸ばしかけて、少しだけ躊躇う。
 すると、傍らのコマが身を乗り出した。

 「九重様の薬湯は、よく効くんですよ!」

 「……そうなの?」

 「はい! すっごく苦いですけど!」

 「コマ」

 九重に名前を呼ばれ、コマが慌てて付け足す。

 「でも、本当によく効きます!」

 その必死な様子に、奈津は思わず小さく笑った。
 それから、今度こそ椀を受け取る。

 「……いただきます」

 恐る恐る口をつける。

 「……っ」

 舌に広がった強い苦味に、眉が寄った。
 コマが心配そうに顔を覗き込む。

 「……が、頑張ってください。あと少しです!」

 その一生懸命な励ましに口元を緩ませ、奈津は薬湯を最後まで飲み干した。
 苦味のあとから、じんわりとした温かさが喉を通り、冷えていた身体の奥へ染み込んでいく。

 「……ありがとうございます」

 「礼には及びません」

 九重は穏やかに微笑んだ。
 奈津は椀を両手で包みながら、改めて周囲を見回す。

 (……そういえば)

 目を覚ましてから慌ただしくて、肝心なことをまだ何も聞いていなかった。

 「あの……九重様」

 「はい」

 「ここは、どこなのでしょうか」

 「堂目道家のお屋敷でございます」

 奈津の手が止まった。

 「堂目道家……?」

 堂目道家。妖の頂点に君臨する鬼の一族の中でも、ひときわ強大な力を持つ名家として知られている。

 (ここが……紫鬼様のお屋敷)

 改めてその事実を実感し、胸が強張った。