あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「きゃあああっ!」

 悲鳴が、往来に響き渡った。

 人々が我先にと逃げ惑う。
 店先の商品が踏み散らされ、倒れた荷車を避けるように人波が大きく乱れていく。

 奈津も逃げようとしたが、押し寄せる人波に呑まれた。
 気づけば、一人取り残されている。

 目の前には、一体の妖。
 若い男に近い姿をしているが、頭には(いたち)のような耳、腰には細長い尾がある。
 そして、その身体には――黒い靄のようなものが濃くまとわりついていた。

 「ぐ……っ、あ……」

 妖は頭を抱え、苦しげに身体を震わせている。
 震える腕が、不意に大きく振れた。
 近くに積まれていた木箱が倒れ、店先の商品がばらばらと地面へ落ちる。

 「ひっ……!」

 すぐ傍にいた男が、転がるように逃げ出した。
 妖の腕が、その背を追うように伸びる。
 けれど――。

 「ぐ……っ!」

 寸前で止まった。
 妖は震える腕を、もう片方の手で必死に押さえ込んでいる。

 奈津は息を呑んだ。

 (まだ……理性が残ってる)

 こんな間近で、穢れに呑まれかけた妖を見るのは初めてだった。
 今日は人手が足りないからと、妹に半ば強引に連れ出され、負傷者の手当てや道具運びを任されていた。
 妖と真正面から対峙することなど、想定していなかった。

 (怖い……)

 逃げなければ。
 そう思うのに、足がすくんで動かない。

 奈津は、妖の身体を覆う黒い靄へ目を向けた。

 ――《穢れ(けがれ)》。

 妖は、憎しみや悲しみ、妬みといった負の感情を、穢れとしてその身に取り込む。
 本来は自ら浄められるものの、溜め込む量がその力を上回れば、やがて心も身体も蝕まれていく。

 「ぐ……っ、う……」

 再び、妖の身体が大きく震える。
 まとわりついていた穢れが、先ほどよりも濃く膨れ上がった。

 「……っ」

 妖自身も異変に気づいたのか、目を見開いた。

 「う、あああっ!」

 突然腕が大きく振り抜かれ、奈津は避けきれなかった。
 肩に強い衝撃が走り、身体が地面へ投げ出される。

 「……っ!」

 痛みに顔を歪めた、その時。

 「お姉様」

 聞き慣れた声がした。
 奈津が顔を上げる。

 混乱する往来の向こうから、ひとりの少女が悠々とこちらへ歩いてくる。
 その周囲には、彼女を守るように数人の祓い師(はらいし)が控えていた。

 そこにいたのは、二つ年下の妹――綾乃(あやの)だった。
 亜麻色の髪を揺らし、薄紅の着物に濃色の袴を合わせた綾乃は、やがて奈津の前で足を止める。

 「まあ、お姉様」

 綾乃は倒れた奈津を見下ろし、くすりと笑った。

 「こんな低級妖相手に、ずいぶん情けない姿ね」

 「綾乃……」

 「本当に、役に立たないのね」

 奈津は唇を噛み、妖へ目を戻した。
 まだ、人に近い姿を保っている。
 瞳にも、辛うじて理性の光が残っていた。

 綾乃も妖へ視線を向ける。

 「……もう駄目そうね」

 その言葉に、周囲に控えていた祓い師たちが刀へ手をかけた。

 「待って……!」

 奈津が咄嗟に声を上げた。

 「何?」

 「まだ完全には異形化してない」

 綾乃が眉を寄せる。
 妖が穢れに呑まれ、理性も本来の姿も失う。
 それが――《異形化(いぎょうか)》だ。

 「今なら、浄化すれば助けられるかもしれない」

 奈津は縋るように綾乃を見る。

 「お願い。綾乃ならできるでしょう?」

 「……はぁ?」

 綾乃は、心底呆れたような顔をした。

 「嫌よ」

 「……え?」

 綾乃は、苦しげに身を震わせる妖を冷めた目で見やった。

 「名家の方でもない、こんな低級妖に、どうして私が力を使わなきゃいけないの?」

 「でも、このままだと――」

 「だったら、異形化してから祓い師に討ってもらえばいいでしょう?」

 「そんな……」

 奈津が息を呑んだ、その時。

 「綾乃」

 男の声が割って入った。
 祓い師たちの中から、一人の青年が進み出る。

 久世宗一(くぜそういち)
 祓い師の名家・久世家の嫡男で、奈津とは幼い頃からの顔馴染みだ。
 宗一の視線が、妖へ向けられる。

 「下がっていろ」

 「宗一さん、待って。この妖はまだ――」

 その瞬間、妖の身体が大きく脈打った。
 黒い穢れが、一気に膨れ上がる。

 「ぐ、あああああっ!」

 細かった腕が異様に膨らみ、指先から鋭い爪が伸びる。
 背が大きく湾曲し、人に近かった面影が崩れていく。

 そして。
 瞳に残っていた、最後の理性の光が消えた。

 「異形化したぞ!」

 祓い師のひとりが叫ぶ。
 奈津の顔から血の気が引いた。

 「綾乃、お願い! 浄化を……!」

 「無駄よ」

 綾乃は冷めた目で妖を見た。

 「完全に異形化した妖に、浄化は効かないって知ってるでしょ?」

 「でも……!」

 「もう遅いの」

 さっきなら、まだ、助けられたかもしれなかったのに。
 宗一が刀を抜く。

 「討つぞ」

 宗一の声に、数人の祓い師が一斉に刀を構えた。

 「待って……!」

 奈津の声を置き去りに、白刃が閃く。
 やがて――異形と化した妖の身体が、地面へ崩れ落ちた。
 奈津は、ただ見ていることしかできなかった。

 ほんの少し前まで、あの妖には理性が残っていた。
 伸ばしかけた腕を、自分で止めようとしていた。
 助けられたかもしれない。
 それなのに、奈津には何もできなかった。

 「お姉様」

 綾乃が足を止め、奈津を見下ろした。

 「そんな顔をするくらいなら、自分で浄化すればよかったのに」

 「……っ」

 できないと知っているくせに。
 奈津は俯き、強く手を握りしめた。