あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「これが……穢れなんですよね」

 紫鬼の瞳が僅かに揺れる。
 奈津は一歩、コマへ近づいた。

 「近づくな」

 即座に低い声が飛んだ。
 けれど、足は止まらなかった。

 「戻れ」

 今度は、はっきりとした警告だった。

 それでも、一歩。
 また一歩と進む。
 紫鬼の目が鋭く細められた。

 「死にたいのか」

 「……死にたくなんて、ありません」

 声は情けないほど震えていた。
 死にたくない。
 つい先ほどまで、本気で生きたいと願って逃げていたのだから。

 「……この子を、このまま死なせたくないんです」

 紫鬼は僅かに眉を寄せた。

 「人間のお前に、何ができる」

 「……分かりません」

 奈津は唇を噛む。

 「私には、浄化の力さえありませんから」

 これまで一度だって、何か特別な力を感じたことはない。
 だからこそ、自分には何もできないのだと、ずっと思ってきた。

 それでも――胸の奥に芽生えた感覚だけは、どうしても消えなかった。

 怖い。
 近づけば、今度こそ襲われるかもしれない、それでも。

 ――この子は、私を殺さなかった。
 あの一瞬を信じたかった。

 「何ができるかは、分かりません。でも……」

 奈津は震える息を吐いた。

 「何もしないまま、諦めたくないんです」

 この子が、自分を傷つけまいと抗ってくれたのなら。
 奈津も、この子をここで諦めたくなかった。
 助けたい。
 ただ、強くそう思った。

 白い雨の帳が、二人の間を幾重にも落ちていく。
 紫鬼はしばらく奈津を見つめていた。
 何を考えているのか分からない。
 やがて、紫色の光が、奈津の視界を鋭く横切った。

 「……っ!」

 頬を撫でるように風が抜ける。
 ぼとり。
 手首を締めつけていた縄が、泥の上へ落ちた。

 「……え?」

 自由になった両手を見てから、奈津は紫鬼を振り返る。
 紫鬼は何も言わない。
 ただ、手にした紫の刃を下ろしていた。

 止めはしない。
 けれど、コマが奈津へ襲いかかれば――その時は迷わず斬るつもりなのだろう。

 奈津は再び、コマへ向き直った。
 赤く濁った瞳。剥き出しの牙。

 「でも……あなた、苦しいんでしょう?」

 赤い瞳が、僅かに揺れた。
 奈津はコマの前へ膝をつく。

 「大丈夫」

 今度は、自分自身にも言い聞かせるように。

 「私は、あなたを傷つけないから」

 そして、震える指先が、黒く濡れた毛へ触れた。

 「……っ!」

 胸の奥で、何かが弾けた。
 次の瞬間、眩い光が、奈津の身体から溢れ出す。