あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 紫鬼の腕が止まる。
 深い紫の瞳が、初めて奈津を正面から捉えた。

 「……何だ」

 凍てつくような低い声だった。
 それだけで、奈津の喉が詰まる。

 「この子は、まだ……」

 「下がれ」

 「でも――」

 「近づくな。喰われるぞ」

 淡々とした口調。奈津を心配しているというより、当然の事実を告げているだけのようだった。
 それでも奈津は首を横に振る。

 「この子、さっき私を襲おうとしました。でも、途中で止まったんです!」

 奈津は喉元へ手をやった。

 「この子自身が……私を襲わないように」

 紫鬼は何も答えなかった。
 ただ、刃を握る指に僅かに力がこもる。

 「だったら、まだ助けられるんじゃ――」

 「だからこそだ」

 「……え?」

 「まだ自分が残っているうちに、終わらせる」

 紫鬼の瞳がコマへ戻る。

 「ここまで穢れに呑まれた妖は、浄化の力でも元には戻せない」

 低い声が雨の中へ落ちた。
 それは、奈津も知っていた。

 昨夜もそうだった。
 ほんの少し前まで理性を残していた妖が、完全に異形化した途端――もう浄化では戻せないと告げられた。
 そして奈津は、何もできないまま、その命が絶たれるのを見ていることしかできなかった。

 奈津はコマを見る。
 真っ黒な穢れに覆われ、原形さえ失いかけた姿。
 昨夜の妖よりも、ずっとひどい。
 それでもこの妖は、自分を襲うのを止めた。

 もう戻れない。

 (本当に……?)

 本当に、黒い穢れに覆われてしまったら。
 その者自身まで、消えてしまったことになるのだろうか。
 その時、胸の奥に沈んでいた遠い記憶が、不意に蘇った。

 ◇

 まだ母が生きていた頃、奈津は一度、結界の森について尋ねたことがある。

 『奈津。結界の森には、決して近づいてはいけませんよ』

 穢れに呑まれ、理性を失った妖たちがいる場所。
 幼い奈津は、母の袖をぎゅっと掴んだ。

 『……そこにいる妖は、みんな悪い妖なの?』

 母は静かに首を横に振った。

 『いいえ。穢れに呑まれて、本当の心を見失ってしまっているだけよ』

 母は奈津の頭を撫でた。

 『覚えておいて、奈津。穢れと、その者自身を同じものだと思ってはいけません』


 ◇

 「……違う」

 奈津の唇から、無意識に言葉が零れた。
 紫鬼がこちらを見る。

 「何?」

 「この子と……この黒いものは、違います」

 禍々しい黒の、その奥にはまだ。
 先ほど自分を襲うことを必死に堪えた、この妖自身がいる。

 ――なぜだろう。
 胸の奥で、母の言葉がもう一度響いた。
 『穢れと、その者自身を同じものだと思ってはいけません』

 (……まだ、助けられる)

 根拠なんて、何もないのに。
 不思議なほど強く、そう思えた。