あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 その問いに答えるように、異形の身体が大きく震えた。
 黒いものが全身から滲み出し、そのたびに身体が痙攣する。
 その時だった。

 「コマ!」

 鋭い声が、激しい雨音を切り裂いた。
 異形がびくりと大きく身を震わせる。
 奈津も、弾かれたように振り返った。

 木々の間から、一人の男が現れる。
 最初に目を奪われたのは、雨に濡れてなお月光のように映える白銀の髪だった。
 纏うのは墨色を基調とした上等な装束。
 すらりとした長身からは、雨の夜の森を圧するような存在感が放たれていた。

 「……あ……」

 奈津は息を呑んだ。
 昼間、町で見かけた男だった。
 人々がこぞって道を空け、綾乃が熱っぽい眼差しを向けていた、堂目道家当主。

 紫鬼(しき)
 紫鬼が一歩踏み出しただけで、周囲に残っていた妖の気配がさらに遠ざかっていく。
 まるで、この森にいるすべての妖が、紫鬼へ道を譲っているかのようだった。

 「……コマ」

 紫鬼が、もう一度その名を呼ぶ。
 目の前の異形が、苦しげに喉を鳴らした。

 「ぐ……ぅ……」

 奈津に襲いかかった時とは違う。
 赤く濁った瞳が紫鬼を捉えた途端、その巨体が激しく震え始めた。

 まるで――その声を覚えているかのように。
 紫鬼もまた、コマから目を逸らさない。
 けれど、その顔に浮かんでいたのは安堵ではなかった。

 「……遅かったか」

 押し殺したような呟き。
 その視線は、コマの全身を覆う黒い穢れへ向けられていた。
 コマが一歩、紫鬼へ近づこうとした瞬間。

 「ガァァアアッ!」

 耳を劈く咆哮が響いた。

 黒い穢れが激しく蠢き、コマの身体が大きく仰け反る。
 巨大な爪が地面へ食い込んだ。

 紫鬼へ飛びかかろうとしている。それなのに、前へ進まない。
 身体の内側にある何かと争うように、四肢を震わせながら必死に踏みとどまっていた。
 紫鬼の目が僅かに細められる。

 「……もういい」

 静かな声だった。

 「十分だ」

 コマの耳らしきものが、ぴくりと動く。
 紫鬼が片手を上げると、森の空気が一変した。

 「……っ!」

 奈津は反射的に息を呑む。
 紫鬼の身体から、凄まじい妖気が溢れ出した。

 目には見えないはずの力が、肌を刺すほど濃く辺りを満たしていく。
 吹きつける雨さえ、その身を避けるように弾かれていった。
 白銀の髪がふわりと浮き上がる。
 その隙間から、ゆっくりと二本の漆黒の角が姿を現した。

 「……鬼」

 奈津の唇から、掠れた声が零れる。
 妖の中でも、頂点に立つ種族。
 やがて紫鬼の掌へ紫色の光が集まり、一本の刃を形作っていく。
 その切っ先が、コマへ向けられた。

 「……何を……」

 「これ以上、苦しませるくらいなら」

 紫鬼はコマだけを見つめていた。

 「俺が終わらせる」

 「待って!」

 気づけば、奈津は叫んでいた。