あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 それから数刻が過ぎ、春の日が少し傾き始めた頃。

 「奈津」

 聞き慣れた低い声に振り返ると、紫鬼が立っていた。

 「紫鬼様」

 「来い」

 「どちらへ行くんですか?」

 「来れば分かる」

 相変わらず多くを語らない紫鬼に、奈津は首を傾げながらついていく。

 連れてこられたのは、庭の奥だった。
 そこには、大きな桜の木が一本立っている。
 少し前まで蕾だった花は、いつの間にか満開になっていた。

 「綺麗……」

 柔らかな春風が吹き抜け、淡い花びらが二人の周りへ舞い落ちる。
 奈津が桜を見上げていると、隣に立つ紫鬼が静かに口を開いた。

 「奈津」

 「はい?」

 「……後悔はないか」

 思いがけない問いに、奈津は目を瞬いた。
 紫鬼は桜ではなく、まっすぐ奈津を見つめている。

 「九条家と決別したことも、この屋敷にいることも」

 「……私の人生は」

 奈津は一度言葉を切り、これまでの日々を振り返るように目を伏せた。

 「これまでずっと、誰かに従うか、せめて迷惑にならないよう、隅でひっそり息をしているだけの毎日でした」

 自分が何をしたいのか、どこにいたいのか。
 そんなことを考える余裕すらなかった。

 「でも、ここに来て……初めて、自分の気持ちを大切にしてもいいんだって思えるようになったんです」

 奈津はゆっくりと顔を上げる。

 「ここにいたいと思うことも、大切な人のそばにいたいと思うことも、誰かに許してもらわなくていいんだって」

 深い紫の瞳をまっすぐ見つめ、奈津は柔らかく笑った。
 答えなんてとっくに決まっていた。

 「だから、後悔なんてしません」

 奈津はまっすぐ紫鬼を見つめた。

 「九条家と決別したことも、ここにいることも。全部、私が自分の意思で選んだことですから」

 「……そうか」

 短い返事だった。
 けれど、その声音にはどこか安堵したような響きがあった。
 奈津は少しだけ頬を染め、それでも目を逸らさずに続ける。

 「それに……何より、私はこれからも紫鬼様のおそばにいたいと思ったんです」

 紫鬼は、まるで奈津の言葉を胸の奥へ刻むように、しばらくその顔を見つめていた。
 やがて紫の瞳に、これまで見たことのないほど優しい色が宿る。

 「俺も、お前を手放したくない」

 「……紫鬼様?」

 その時、風に乗った桜の花びらが一枚、奈津の髪へ落ちた。
 紫鬼の大きな手がそれをそっと摘む。
 触れた指先はそのまま、愛おしむように奈津の頬をなぞった。

 「奈津」

 「……はい」

 白銀の髪が春風に揺れる。
 深い紫の瞳には、ただひとり――奈津だけが映っていた。

 「今度は、ただの肩書きではない」

 奈津の胸が、大きく跳ねる。

 「俺の、本当の花嫁になってくれ」