あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「嫌……!」

 「降りろ」

 宗一が冷たく言う。

 「嫌です……!」

 必死に首を振る。

 「宗一様、お願いです。九条家にも何も言いません。だから――」

 宗一は無言で、後ろ手に縛られた奈津の腕を掴んだ。

 「やめてっ!」

 必死に抵抗する。
 けれど後ろ手を縛られ、怪我までしている奈津に抗えるはずもない。
 宗一に引きずられるようにして、馬車から降ろされた。
 激しい雨が、一瞬で全身を濡らす。

 「……っ」

 足元はぬかるみ、まともに立つことさえできない。
 少し離れたところには、淡く光る巨大な壁のようなものが見えた。
 奈津は息を呑む。
 あの向こうへ入れば、もう自分の力では戻れない。

 「いや……嫌……!」

 宗一は奈津のことを、そのまま結界へ向かって力ずくで引きずっていく。

 その後ろから、綾乃がゆっくりと降りてきた。
 深紅の傘を差して。この激しい雨の中、綾乃だけがほとんど濡れていない。
 着物も、髪も。すべて綺麗に整ったままだった。

 「やめて……」

 奈津は首を振った。

 「……お願い……」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
 宗一が奈津を見る。そこに、かつての優しい面影は欠片もなかった。

 「お前さえいなくなれば、全部丸く収まるんだ」

 奈津の身体から、ふっと力が抜けた。

 『僕は、奈津がいい』
 あの言葉が、今になってひどく遠く感じる。

 ——最初から。
 私を選んでくれた人なんて、どこにもいなかった。

 「さあ、お姉様」

 綾乃が隣へやってくる。
 傘の下から、嬉しそうに奈津を覗き込んだ。

 「お別れですわね」

 「綾乃……」

 「出来損ないのお姉様」

 綾乃の唇が、美しく弧を描く。

 「最後には役に立ててよかったわね」

 その白い手が、奈津の背中へ触れた。

 「――妖の餌として」

 「……!」

 とん、と。ほんの軽く、綾乃が背中を押す。
 けれど怪我を負い、ぬかるむ足場に立っていた奈津には、それだけで十分だった。

 「あっ――」

 次の瞬間にはもう、結界の内側へ踏み越えていた。
 足元の斜面を滑り落ち、そのまま泥の中へ投げ出される。

 「……っ!」

 痛みに顔を歪めながら、奈津は慌てて振り返った。

 「待って……!」

 必死に身体を起こし、斜面を這うようにして戻ろうとする。
 結界へ手を伸ばした、その瞬間。

 「……っ!」

 見えない壁に阻まれるように、奈津の手が弾かれた。
 戻れない。
 分かっていたはずなのに、その事実が改めて奈津を絶望させた。

 雨の向こう。結界の外には、宗一と綾乃の姿がぼんやりと見えている。

 「待って……お願い……!」

 けれど綾乃は微笑んだまま背を向け、宗一も何も言わず馬車へ戻っていく。
 扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出した。

 「行かないで……」

 奈津は結界へ縋るように手を伸ばす。
 けれど、その声が二人に届くことはなかった。

 やがて、馬車の姿は完全に見えなくなった。
 あとに残ったのは、激しい雨音と。
 人の世界から隔てられた森に、一人きり取り残された奈津だけだった。