あやかしの癒し子 ~餌として捨てられた私は、鬼の王の唯一となる~

 「紫鬼様……」

 駆け寄りかけた奈津の耳に、苦しげな呻き声が届く。
 振り返った先では、夜刀の腕を黒い穢れが覆い、その指先が少しずつ異形のものへと変わり始めていた。

 「……夜刀?」

 震える声で名を呼ぶ。

 『夜刀様……九重様……!』

 コマも苦しげに声を漏らした。
 その隣では九重も膝をつき、額から伸びる角が歪な形へ変わり始めている。

 「……申し訳、ございません……」

 「嫌……」

 奈津は二人のもとへ駆け寄ろうとする。
 だが、すでに廊下の向こうからも、庭からも、屋敷の奥からも新たな悲鳴が上がっていた。

 夜刀を助ければ、その間に誰かが異形化する。
 九重へ手を伸ばせば、別の場所でまた誰かが苦しみ始める。
 どこへ向かえばいいのか分からないほど、助けを必要とする者が増えていく。

 「……間に合わない」

 掠れた声が、奈津の唇から零れた。
 一人ずつ浄化していたのでは、到底間に合わない。
 これまで奈津へ笑いかけ、食事を用意し、何気なく声をかけ、この屋敷に居場所を作ってくれた者たちが、次々と目の前で失われようとしていた。
 
 『奈津様……』

 コマが荒い息を吐きながら、奈津へ顔を向けた。
 毛並みは乱れ、それでも奈津を守るようにそのそばを離れようとしない。

 誰か一人を選ぶことなんてできない。
 一人を救うために、ほかの誰かを諦めることもできない。
 夜刀も、九重も、紫鬼も、この屋敷で自分を受け入れてくれた皆も――誰一人、失いたくなかった。
 奈津は胸の前で、祈るように強く手を握りしめる。

 (お願い……)

 誰に願うでもなく、ただ心の底から願った。

 (みんなを、助けさせて――)

 その瞬間、奈津の身体から眩い光が溢れ出した。

 「……奈津?」

 紫鬼が目を見開く。
 白く澄んだ光は奈津の足元から波紋のように広がり、畳を伝って廊下へ、さらに屋敷の奥へと駆け抜けていく。
 その光の中には、いつしか桜の花びらにも似た淡い輝きが舞い始めていた。

 ひらひらと舞う光は瞬く間に屋敷中へ広がり――。
 堂目道家を覆い尽くしていた黒い穢れが、一斉に揺らいだ。