奈津は宗一を見る。
「宗一様……」
けれど宗一は、目を逸らしただけだった。
「……仕方ないだろ。お前が黙って僕と結婚すると言えば、こんなことにはならなかった」
まるで悪いのは奈津だと言わんばかりの声音だった。
馬車の速度が、ゆっくりと落ち始めた。
奈津の心臓が嫌な音を立てる。
「ねえ、どこに——」
「お姉様」
遮るように、綾乃が言う。
「私、考えたの。何が一番の正解なのか」
奈津の背筋が冷たくなる。
「答えは、とても簡単だったわ」
綾乃はにっこり笑った。
「お姉様が、自分からいなくなればいいの」
「……え?」
「不慮の怪我で、子どもを望むことが難しくなってしまった」
奈津の顔から血の気が引く。
「婚約したばかりだったお姉様は、宗一様に申し訳ないとひどく思い詰めて――」
綾乃は、にこりと笑った。
「自ら《結界の森》へ入っていった」
奈津は息を呑んだ。
「……まさか」
綾乃の笑みが、深くなる。
「そういうことにするの」
その瞬間、馬車が止まった。
がちゃり、と扉が開く。
冷たい雨と、湿った森の匂いが一気に車内へ流れ込んできた。
《結界の森》
そこは、穢れを溜め込み、異形化の危険が高まった妖たちが隔離される場所だった。
浄化の力を持つ人間の娘は数が少なく、その多くは妖の花嫁となる。
嫁入り前であっても、高位の妖から優先して浄化が行われるため、すべての妖にまで手が行き届くわけではない。
そのため、浄化を受けられないまま穢れを溜め込み続ける妖もいる。
やがて穢れに呑まれ、理性も本来の姿も失えば、異形化する。
一度、完全に異形化してしまえば、通常の浄化ではもう元には戻せない。
そうした危険な妖たちは《結界の森》へ送られ、強い結界の内側に閉じ込められている。
その結界は、外から内へ入ることはできても、内側から越えることはできない。
穢れに苦しむ妖が自ら森へ入ることもあれば、彷徨ううちに迷い込むこともあるという。
けれど、一度中へ入れば――祓い師が結界を解かない限り、外へ戻ることはできない。
森の奥には、すでに異形化した妖たちも数多く彷徨っている。
ごく稀に結界そのものを破り、人里へ現れるものがいれば、祓い師によって討たれる。
そんな場所へ人間がひとたび迷い込めば――。
その匂いを嗅ぎつけた妖たちに、たちまち襲われてしまうのだ。
襲われ。噛みつかれ。
肉も、骨も、跡形さえ残らないほどに、喰い尽くされる。
『決して、結界の森に入ってはいけない』
幼い頃から、何度もそう教えられてきた。
そこは、人間にとって――死と同じ意味を持つ場所だった。
「……私を……殺すつもりなの?」
「まあ」
綾乃は目を丸くした。
「人聞きの悪いことを言わないで。私たちが殺すわけじゃないわ」
楽しそうに笑う。
「妖が勝手に、お姉様を喰べるだけ」
「……っ」
ぞっと、全身から血の気が引いた。
指先から震えが走り、それは瞬く間に腕へ、肩へと広がっていく。
歯の根が合わず、かちかちと小さな音が鳴った。
「そうすれば」
綾乃は宗一へちらりと視線を向けた。
「宗一様がお姉様を傷つけたことも」
そして自分の胸へ手を添える。
「私とのことも。誰にも知られずに済むでしょう?」
次の瞬間、馬車の扉が開いた。
轟音のような雨音が、一気に流れ込んでくる。
「いや……」
声にしたつもりなのに、掠れた息しか出てこない。
――妖に喰われる。
その意味が、ようやく現実味を帯びた。
「宗一様……」
けれど宗一は、目を逸らしただけだった。
「……仕方ないだろ。お前が黙って僕と結婚すると言えば、こんなことにはならなかった」
まるで悪いのは奈津だと言わんばかりの声音だった。
馬車の速度が、ゆっくりと落ち始めた。
奈津の心臓が嫌な音を立てる。
「ねえ、どこに——」
「お姉様」
遮るように、綾乃が言う。
「私、考えたの。何が一番の正解なのか」
奈津の背筋が冷たくなる。
「答えは、とても簡単だったわ」
綾乃はにっこり笑った。
「お姉様が、自分からいなくなればいいの」
「……え?」
「不慮の怪我で、子どもを望むことが難しくなってしまった」
奈津の顔から血の気が引く。
「婚約したばかりだったお姉様は、宗一様に申し訳ないとひどく思い詰めて――」
綾乃は、にこりと笑った。
「自ら《結界の森》へ入っていった」
奈津は息を呑んだ。
「……まさか」
綾乃の笑みが、深くなる。
「そういうことにするの」
その瞬間、馬車が止まった。
がちゃり、と扉が開く。
冷たい雨と、湿った森の匂いが一気に車内へ流れ込んできた。
《結界の森》
そこは、穢れを溜め込み、異形化の危険が高まった妖たちが隔離される場所だった。
浄化の力を持つ人間の娘は数が少なく、その多くは妖の花嫁となる。
嫁入り前であっても、高位の妖から優先して浄化が行われるため、すべての妖にまで手が行き届くわけではない。
そのため、浄化を受けられないまま穢れを溜め込み続ける妖もいる。
やがて穢れに呑まれ、理性も本来の姿も失えば、異形化する。
一度、完全に異形化してしまえば、通常の浄化ではもう元には戻せない。
そうした危険な妖たちは《結界の森》へ送られ、強い結界の内側に閉じ込められている。
その結界は、外から内へ入ることはできても、内側から越えることはできない。
穢れに苦しむ妖が自ら森へ入ることもあれば、彷徨ううちに迷い込むこともあるという。
けれど、一度中へ入れば――祓い師が結界を解かない限り、外へ戻ることはできない。
森の奥には、すでに異形化した妖たちも数多く彷徨っている。
ごく稀に結界そのものを破り、人里へ現れるものがいれば、祓い師によって討たれる。
そんな場所へ人間がひとたび迷い込めば――。
その匂いを嗅ぎつけた妖たちに、たちまち襲われてしまうのだ。
襲われ。噛みつかれ。
肉も、骨も、跡形さえ残らないほどに、喰い尽くされる。
『決して、結界の森に入ってはいけない』
幼い頃から、何度もそう教えられてきた。
そこは、人間にとって――死と同じ意味を持つ場所だった。
「……私を……殺すつもりなの?」
「まあ」
綾乃は目を丸くした。
「人聞きの悪いことを言わないで。私たちが殺すわけじゃないわ」
楽しそうに笑う。
「妖が勝手に、お姉様を喰べるだけ」
「……っ」
ぞっと、全身から血の気が引いた。
指先から震えが走り、それは瞬く間に腕へ、肩へと広がっていく。
歯の根が合わず、かちかちと小さな音が鳴った。
「そうすれば」
綾乃は宗一へちらりと視線を向けた。
「宗一様がお姉様を傷つけたことも」
そして自分の胸へ手を添える。
「私とのことも。誰にも知られずに済むでしょう?」
次の瞬間、馬車の扉が開いた。
轟音のような雨音が、一気に流れ込んでくる。
「いや……」
声にしたつもりなのに、掠れた息しか出てこない。
――妖に喰われる。
その意味が、ようやく現実味を帯びた。

