「紫鬼様――」
歓喜に笑みを浮かべた綾乃の腕を、紫鬼が強く掴んだ。
期待に顔を上げたその先にあったのは、好意とは程遠い、凍てつくような深紫の瞳だった。
「今、何をした」
綾乃の笑みが固まる。
「な、何のことでしょう?」
「急に妙な気配が膨れ上がった」
紫鬼の視線が、綾乃の懐へ落ちた。
大量の霊力を一度に流し込んだことで、これまで隠されていた香玉の禍々しさが、ほんの一瞬だけ漏れ出したのかもしれない。
けれど、それに気づいたのは紫鬼だけだった。
「そこにあるものを出せ」
「……何もございませんわ」
誤魔化そうとしても、紫鬼の手は緩まない。
張りつめた空気を裂くように、低い声が響いた。
「――離せ」
夜刀が紫鬼の腕を掴んだ。
「夜刀?」
奈津が驚いたように名を呼ぶ。
夜刀は苦しげに顔を歪め、額には汗が滲んでいる。それでも綾乃を守るように、紫鬼との間へ身体を入れた。
「綾乃様に……触るな」
「もう一度言う。退け」
「……分かってます」
夜刀は歯を食いしばった。
「こんなの、おかしいって分かってんだよ。それでも……どけねぇ」
自分の意思ではないと理解しながら、それでも逆らえない。
その姿を見て、綾乃の胸に再び歓喜が広がった。
夜刀ほどの鬼でさえ、紫鬼に逆らってまで自分を守ろうとしている。
すると今度は、九重まで一歩前へ出た。
「紫鬼様……申し訳ございません。ですが、綾乃様をお離しください」
「九重様まで……?」
奈津が息を呑む。
九重もまた、苦しげな表情を浮かべていた。本来なら当主である紫鬼に逆らうはずのない者が、それでも綾乃を庇わずにはいられない。
やがて騒ぎを聞きつけた鬼たちまで集まり始め、気づけば綾乃を守るようにその周囲を囲んでいた。
「綾乃様は何もしておりません」
「どうか、お離しください」
次々と向けられる言葉に、綾乃は満足そうに奈津を見る。
夜刀も、九重も、屋敷の鬼たちも。今や誰もが、奈津ではなく自分を選んでいる。
(見たでしょう、お姉様)
けれど奈津のそばには、変わらずコマが寄り添っていた。
そして紫鬼もまた、綾乃に心を奪われた様子など微塵もない。
そのことだけが、どうしても気に入らなかった。
「紫鬼様、皆様もこうおっしゃっていますわ。ですから――」
その時、夜刀の身体が大きく揺れた。
「……っ、ぐ……!」
「夜刀!」
夜刀は胸元を押さえたまま膝をついた。その首筋には黒い穢れが浮かび上がり、見る間に胸元へと広がっていく。
「……え?」
綾乃の笑みが消えるのとほぼ同時に、九重も苦しげに息を詰めた。
その手の甲にも同じ穢れが浮かび、さらに綾乃を囲んでいた鬼たちまで次々と呻き声を漏らし始める。
腕に、首に、頬に。黒い穢れが、異様な速さでその身体を侵していく。
「どうして……?」
こんなことは聞いていない。
香玉は、ただ妖に自分を好かせるためのものだったはずだ。それなのに今、目の前では堂目道家の鬼たちが次々と穢れに蝕まれている。
紫鬼は苦しむ鬼たちを一瞥すると、綾乃へ鋭い視線を戻した。
「今すぐ、それを止めろ」
「わ、私は……」
「止めろ!」
綾乃は慌てて香玉へ意識を向けた。
霊力を注ぐ方法も、引き出す方法も分かる。
けれど、暴走した香玉をどう止めるのかだけは、何ひとつ教えられていなかった。
綾乃の顔から血の気が引く。
止め方なんて、知らない。

