「えー、これからみなさんにやってもらう蔵書点検っていうのは、書架の本が正しい位置にあるか、紛失してないか、損傷した本がないか……などを確認する作業です。もちろん書架の掃除もしてもらいます。三年生の人は受験勉強で大変だと思うんで、まあ、夕方前には帰ってもいいですよ。それじゃあやり方を──」
淡々と流れていく司書教諭の話を聞きながら、寺本はこっそり生あくびを漏らした。
──退屈だ。ただでさえ興味のない図書委員の仕事に加え、休日に召集されたこと、そしてほぼ一日を潰されることへの不満はどうしたって拭えない。この委員会を選んだのがそもそもの間違いだった。
「じゃ、寺本さんと灰島さん、あと二年の加藤さん。三人は掃除担当ね。濡れ雑巾で拭いたあとに必ず乾拭きしてください」
よりによって一番つまらない掃除。完全にやる気が損なわれた。
「はいっ」
背後で威勢よく返事をしたのは、おそらく二年の加藤とかいう女子だろう。そのまま全ての掃除をお願いしたいくらいだ。
担当の振り分けが終わり、掃除用具を渡された。
「あの……先輩、加藤美里と言います。よろしくお願いします!」
加藤と名乗った彼女は目の前で深々と腰を折り、愛嬌のある笑顔を見せた。
「あ、はい」
「よろしく」
生返事で会釈をした寺本の隣で、灰島は意外にも律儀に返事をした。
──挨拶とかするんだ。どうせ無視すると思ってたのに。
自分は一番端の書架を、灰島と加藤は互いに背を向ける形で隣の通路を担当することになった。本を一旦カゴの中に積み入れ、ハンディモップと雑巾を使って書架を細かいところまで拭きあげていく。その間に点検された本が元の位置に戻される。
「汚すぎる……」
日頃は簡単な掃除しかしていないせいだろう。たった一度濡れ雑巾で拭くだけで表面が真っ黒に染まる。バケツに張った水で濯ぐと、すぐに水が濁った。立っては屈む。単純な作業ながらも、じんわり額に汗が滲んできた。
「結構大変な作業ですよね」
「ああ」
加藤と灰島の声だ。書架を挟んだ隣の通路から聞こえてくる。
「灰島先輩って何部ですか?」
「文芸部」
「そうなんですね! 活動って何するんですか?」
「小説とか詩とか書く。週一参加でいいからそこにしただけ……」
「え、すごーい。先輩が書いた小説読んでみたいです!」
「それは断らせてもらう」
──ずいぶん盛り上がってるみたいだな。
寺本は雑巾を静かに絞り、会話に聞き耳を立てた。
「小説は好きですか? 私は最近、『コンビニ人間』って本読んだんですけど」
「ああ。芥川賞とったやつ」
「あっ、知ってます? なんか読みやすくて好きでした。頭に映像が浮かんでくる感じ」
「……他には」
「え?」
「他に好きな作家」
「あ、ええと、宇佐見りんです。だってあの人すごいんですよ! ハタチぐらいのときに文藝賞とって、そのあと芥川賞も! 自分があと三年後にそれやってみろって言われても絶対ムリですもん」
作業のために抜いた本と本の隙間から、鼻息を荒くして語る加藤の顔が見えた。彼女の身体は書架ではなく、完全に灰島のほうを向いていた。灰島は振り向きこそしないが律儀に返事をしてあげている。
──なにやってるんだ? 喋ってないで掃除しろよ。
自分は彼らの会話に入れない。物理的な問題ではなく、入れたとしても内容を理解できないのだ。その自覚がある。だから余計に腹立たしい。しかし隙間から注意するのはさすがにキモい気がして、ゴシゴシと雑巾を動かしながら、どうするかと思考を巡らせた。
「先輩は誰が好きなんですか?」
「伊坂幸太郎とか」
「あ〜有名ですよね。まだ読んだことないや」
「……読みたいなら、貸すけど」
「え?」
加藤の声と、喉の奥で漏れた自分の声が重なった。灰島は出会ったばかりの相手に物の貸し借りをするような性格じゃないはずだ。余程の好意を抱いていない限り、あり得ない。
「どうする」
灰島はちらりと振り返り、加藤を見つめながら低い声で呟いた。
「あっ、はい! 読みたいです!」
軍隊よろしく背筋をピンッと伸ばし、目を輝かせた加藤の仕草は年相応で、可愛らしいものだった。ふっと口角を上げた灰島が「わかった」と柔らかく頷く。
衝撃的な光景にすっかり手を止めて見入っていると、
「寺本さん、手動かしてねー」
後ろからやって来た司書教諭に注意を受けた。
「す、すみません」
──灰島って、友達以外の前でもあんな風に笑うんだ。
人に興味がなくて、閉鎖的で、無愛想で。灰島は他人からどう思われても気にしない性格だと思っていた。
「持つ」
「あ、ありがとうございます……」
また彼らの声が聞こえた。覗くと、本が入ったカゴを抱えている灰島が見えた。隣に立っておろおろとしている加藤の申し訳なさそうな顔。どうやら彼女の代わりに持ってあげたらしい。
そういえば、灰島は以前、好みのタイプは自分と真逆なのがいいと言っていた。社交的で、一緒にいて楽しい人。
──もしかして加藤のことを意識しているのか?
寺本は雑巾を置き、ふらりと隣の通路へ移動した。
「なにサボってんの」
「……は?」
急に割り込んできて、なに空気が読めないことを言ってるんだ。
二人がそんな顔をした。柔らかかったはずの空気が一変し、緊張感のあるものへと変わっていく。自分だけが浮いていると感じるのはいつぶりだろうか。嫌な羞恥心で耳が熱くなった。それでも、止められない。
「喋ってないで掃除しろって」
「してるけど」
「いや、してなかったじゃん」
「なに。覗き見してた?」
なんでこいつはこう、いつも人を苛立たせる言い方をするのか。
「話せる相手いなくて寂しかったんだろ。こっちやれば」
まるで子どもを諭すような言い方だった。誰とも喋らず、一人で黙々と作業をしていた自分が正しいのに。こめかみが脈打ち、視界が狭くなる。
「俺はいい。お前が相手してやれよ」
「はあ?」
寺本はそそくさと元の場所へ戻り、バケツの横で頭を抱えて座り込んだ。
──くそくそくそ、恥ずかしい。相手してやれって何だよ。そんな風に言ったら、自分が構ってもらえてなくて寂しかったみたいじゃないか。
変に思われたかも……と抱いた不安をよそに、灰島と加藤の会話がまた聞こえ始めた。
「すみません。私が話しかけちゃったから」
「いや。あいつが変なだけ」
「ふふっ、灰島先輩って面白い人ですよね」
「……俺が?」
「はい! 今日初めて話したとは思えないくらい、すっごく楽しいです」
悲しいことに、二人が近づくためのダシにされてしまったらしい。聞こえてくる楽しそうな会話を聞きながら、バケツの中で雑巾を絞る。
自分だけ疎外されたような気分に耐えられない。今からでも隣に移動したい。さっきのは冗談だったと、アホなふりをして笑ってしまえばいい。恥をかいたという事実はどうしたって変わらないのだから。
「あの……、せ、先輩の連絡先……教えてもらえませんか? 本をお返しする時も、すれ違ったら困りますし」
──出会ったばかりなのに連絡先?
本の貸し借りだけなら、そんなもの必要ない。教室に行けば済む話だ。さすがに灰島もこれは断るだろうと思ったが、
「いいよ」
向こう側から聞こえてきたのは真逆の返事だった。



