好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


 年に一度の球技大会。そして明日から春の大型連休が始まるということもあり、生徒はみな浮足立っていた。雲一つない爽やかな空の下、熱を帯びた声援がグラウンドに響き渡っている。

「陽向!」

 斜め前方を走っていたクラスメイトが振り向きざまに叫んだ。自分の足元を目掛けてボールが飛んでくる。右足の甲で受け止め、そのまま人がいないほうへ蹴り出す。敵チームの二人が負けじと食らいついてきた。足が速い。このままでは取られてしまう。

「……っ」

 ゴールを目前にして周りを見た。後方のサイドを走る灰島と目が合う。戻すことになっても取られるよりはいい。思い切って飛ばしたボールは鋭く転がり、彼のもとへ届いた。
 だる……と言わんばかりの顔で灰島は怠そうにボールを受け取った。すぐさま周りを囲んだ敵を長い足でくるりと躱し、意外にも軽やかな足取りで駆け出す。
 ──いけ。ゴール前は空いている。そのまま突っ切れば得点は確実だ。
 ふと灰島は顔を上げ、無言でボールを蹴った。なぜかこちらに飛んでくる。

「え?」

 咄嗟に出た足に収まったのはいいものの、周囲には敵が何人もいる。圧倒的に不利だ。目の前を塞がれ、灰島に蹴り戻すこともできなくなった。近くに味方もいない。仕方なくボールを持ったまま人の間を縫って走り、ペナルティエリアに入る。キーパーの動きなんて読めるわけがない。
 力任せに打ち込んだボールがクロスバーすれすれを抜ける。ネットが大きく揺れた瞬間、試合終了のホイッスルが鳴り響く。わあっとクラスメイトが歓声を上げた。駆け寄ってきた彼らに取り囲まれ、「よくやった」「さすがだね」と労いの言葉をかけられる。

「はあ……っ」

 いつの間に息が上がっていたのだろう。夢中になりすぎたみたいだ。肩で呼吸を繰り返していると、すっと何処からか灰島が現れた。顔に何かを押し付けられる。

「うっ」

 なんだと思う前に、頬に柔らかな感触を覚えた。視界を塞いだ物の正体がタオルだと認識し、一瞬強張った肩から力が抜けていく。
 ──これって……。
 鼻腔に広がった香りに、ふと既視感を覚えた。どこかで嗅いだことがある。タオルが離れ、思ったより至近距離にあった灰島の顔に驚いた。

「な、なんで」

「汗まみれの顔じゃダウナーっぽく見えないから」

 薄笑いを浮かべてそう言う灰島の顔にも珍しく汗が滲んでいる。自分のタオルで他人の顔を拭いてやるなんて、好きな人が相手ならまだしも、友達にまでやるものなのか。汚いと思わないのか。信じられない。

「優しいのかバカにしてんのかどっち……うっ」

 今度は強い力で、タオルを口元に押し付けられた。黙れと言わんばかりに。

「っ、もういいって!」

「二人ともお疲れ〜」

「あっ」

 弾むような白洲の声に振り向くと、白洲が笑顔を振りまきながら駆け寄ってきた。額に張り付いた前髪。首筋に浮かぶ汗。スポーツドリンクの広告にでも出てきそうな爽やかさ。
 ──アイドルの汗ってなんで輝いてるんだろうね。全然汚く見えない。
 アイドルオタクの友達が昔言っていた言葉に、今さら共感することになるとは。
 咄嗟に伸ばしかけた背筋を丸め、手をポケットに突っ込む。今さら取り繕っても手遅れだろうかと思いつつも、重いため息とともに「だるかった……」と呟いてみる。

「最後のシュートかっこよかった!」

 白洲が興奮気味に正面から抱きついてきた。後ろに回された手が、すごい、すごいと背中を叩いてくる。
 ふわりと清潔感が溢れる香りに鼻をくすぐられた。浅草で密着した時にも感じたものだ。ふと、白洲の背後で汗を拭く灰島の姿が目に留まる。
 ──同じだ。さっきタオルから感じたのと、まったく同じ香りが白洲の首元から漂っている。

「なあ……お前らって」

「ん?」

 体を離した白洲が首を傾げた。しかし、核心を突く言葉が喉に詰まって出てこない。

「てか寺本って水泳部だったよな。なんでサッカーできんの?」

「別に。ただ適当に蹴ったら入っただけ」

「だからそれが凄いんだって〜。おかげで優勝だよ。ああでも宵と俺も活躍はしたよな? 一応……」

 言われて、はっと思い出した。

「そうだ。灰島、なんでさっき自分でゴール入れなかったんだよ」

「お前が入れたそうな顔してたから」

「入れたそうな顔? そんなんしてねえわ! どうせ自分じゃ決める自信なかったんだろ」

「は? せっかく譲ってやったのに」

「譲ってほしいなんて言ってません〜」

 子どもみたいなくだらない言い合いの最中、

「なんか閉会式始まるっぽい。行こ」

 白洲の掛け声によってやむなく停戦となった。
 灰島と並んで歩き出すと、前を歩いていた白洲がいつものようにクラスメイトに囲まれた。灰島のパスが意味不明だったとか、優勝特典は高級アイスのギフト券だとか、好き勝手に盛り上がっている。白洲もまだ頬から赤みが引いていない。

「はあ……疲れた」

 灰島のため息が雑音に混ざってぎりぎり聞き取れた。さっきの動きは見間違いだったのかと思うほど、もう気怠げな雰囲気に戻っている。欠伸しながら首を回す。ただそれだけなのに、ダウナー系男子の完璧な見本だ。横目で見つつ、隣でこっそり真似しておく。
 やっぱりいつ見ても余裕そうな顔だが、鼻の下にじんわり汗が滲んでいた。

「見るな」

 寺本の視線に気が付いた灰島が眉を寄せた。例のタオルで荒々しく顔を拭う。
 ──普通、タオルから香るのは柔軟剤や洗剤の匂いだけだ。白洲と同じ匂いがしたということは、まさか香水を振りかけたのだろうか。

「灰島」

「あ?」

「それ……、タオルに香水つけてんの」

「なんで。いい匂いした?」

 煽るような言い方に腹が立たなかったわけではない。それより、二人で香りを共有していることが気になった。自分だけ取り残された気分だ。

「……白洲と同じ匂い、したから」

 思わず小声になった。前にいる白洲はまだ、こちらの会話に気が付いてない。

「ああ。同じ香水使ってるからな」

 いつ、どこでお揃いにしたのか。二人で買いに行ったのか。その香りにはどんな意味があるのか。
 寺本は唇を噛みしめ、地面を睨みつけた。
 ざりり、ざりり。
 なぜか胸の奥に湧いてくる暗い不快感を打ち消すように砂を蹴った。前へ進みたいのに、足がどんどん重くなる。

「ちょっと前、あいつがくれた。誕プレで」

 静かに灰島が口を開いた。

「誕プレ……」

「寺本も同じもの使いたいなら颯に聞けば」

 ──同じのを使う?
 そんなこと考えもしなかった。特別な感情が伴っていないのに、同じ匂いになったところで何の意味があるのか。独りよがりで、恥ずかしい思いをするだけ。

「……いや」

「なんで」

「お前はいいの? 俺が使ったら、二人だけのお揃いじゃなくなるけど」

「別に」

 クラスメイトの列に合流したのをきっかけに会話が途切れた。「別に気にしない」とか、そういう言葉を続けるつもりだったのだろうか。灰島が気にしなくてもこっちは気になってしまうのに。
 そう言えるわけもなく、寺本は前を向いた。
 灰島と白洲の間に根付いたものを思い知らされるたびに、胸のあたりが苦しくなる。どうしたって自分はそこに入れない。どれだけ仲良くなろうが、自分は誰の一番にもなれないのだと。

 湯船に浸かりながら、ふくらはぎを軽く揉みほぐす。かれこれ三十分くらい浸かっていただろうか。お湯はとうにぬるくなってしまった。重い体をなんとか持ち上げ、体を洗って出る。水を飲んでふらふらと寝室へ向かった。
 明後日は白洲の最終審査がある。アイドルになれるかどうか決まる、大切な日。前々から楽しみにしていた。けど、そのことを考える気力が沸かないのは何故だろう。こんなんじゃファン失格だ。白洲颯の第一号のファンになりたいのに。
 寺本は鞄からメモ帳とペンを掴み取り、ベッドに寝転んだ。ぺらぺらと紙を捲る。これまで地味に書き溜めた目標は小さいながらも達成してきた。
 白洲に話しかける。
 白洲の好みを聞く。
 白洲にメッセージを送る。
 親しくなった今こうやって振り返ると、メモに書くほどのことではなかった気がする。

「なんて書こう……」

 新しいページを開いてみたものの、ペンは動かない。
 アイドルになった白洲を応援したい。アイドルになれば今よりもっと遠い存在になってしまう。でも不思議と、仲良くなりたいと思う反面、手が届かない存在になってほしいと心の隅で望む自分がいる。

「わけわかんねえ」

 ごちゃごちゃと絡まった考えを解くのに疲れた。今はとりあえず、白洲を応援することを優先しなければ。

 白洲颯がアイドルになれますように。

 願いを込めて書き込んだあと、思考から逃げるように寺本は瞼を閉じた。