穏やかな春の陽光を浴びる瓦屋根のなだらかな傾斜。江戸の街を彷彿とさせられる白塗りの壁と、古びた木が支える建物。門を潜った途端、昭和の面影が強く残ったメリーゴーランドが視界に入った。
「うわ、なんか思ってたより……」
白洲が言い終わる前に、左側からクラシック音楽がかかった。塗装が剥げたスワンが虚ろな目を見開いたまま無機質にそよそよと泳ぎ始める。ものの一分ほどで、チープな警告音とともに動きが止まった。全てがちぐはぐで噛み合っていない気がする。
「……昭和っぽさはある」
寺本が言うと、白洲はぎこちない顔で同意した。
「その時代まだ生まれてないだろ」
灰島の的外れなツッコミを無視しつつ奥へ進んだ。幾度となく無慈悲な雨風に晒されてきたであろうアトラクションはどこもかしこも錆びつき、当時の活気が想像できないほど色褪せている。まるでフィルムカメラの中に迷い込んでしまったみたいに。
「あっ、お化け屋敷入ろうよ」
「え……?」
灰島の顔がさっと曇ったのを見逃さなかった。それまで隣を歩いていたはずの灰島は、お化け屋敷に着いた時には手が届かない距離にいた。遠くから見ても顔が引き攣っている。
「灰島、めっちゃビビってんじゃん」
「……そんなんじゃない」
「じゃあ早くこっち来いよ」
白洲と近づけるチャンスだが、それより恐怖に打ちのめされる灰島が見たい。
「宵、怖いなら俺と寺本だけで行ってこようか?」
「いい……、俺も行く」
灰島が白洲の気遣いを素直に受け取らなかったのは、きっと、ここで入らなかったらダサいというのが分かっているからだ。自分が灰島の立場だったとしてもそうする。
入口に向かって少し伸びた待機列には、見覚えのある他クラスの生徒が大勢いた。同じようなルートを巡っているのだろう。最後尾に並ぶと、前にいた男二人組の会話が耳に入ってきた。
「このお化け屋敷、本物の霊が出るって!」
「えー嘘だろ」
「いやまじ。部活の後輩がこの前言ってた。中は機械のオバケしかいないのに、人影が見えたんだって! 髪の長い女の」
「スタッフじゃね?」
「夢ないこと言うなよ。今日出てきてくんないかな」
なんという、お誂え向きの会話。こちらにも聞こえる声で話してくれた二人に感謝しつつ、恐怖心を煽られたであろう灰島の顔を拝むために振り返った、その瞬間。
「あ?」
頭頂部にずしりと重みを感じた。灰島の大きな手に頭を押さえつけられていて、振り返ろうにも首が動かない。
「こっち向くな」
「おいっ、離せよ」
「前を向け」
「は? なんで?」
「うざいから」
ぐぐっとまた上から押された。普段の運動を怠けているとは思えないほど強い力だ。両手で指を剥がそうにも、びくともしない。身長差による力の差を痛感し、ふつふつと腹の底から怒りが湧いてくる。
ムカつくムカつくムカつく──。
ふと隣を見ると白洲が穏やかな笑顔を浮かべていた。まるで子ども同士の喧嘩を見守る親のような視線に、思わず耳まで熱くなる。
「二人ってなんか相性いいよなあ」
「は……」
「寺本のおかげかな? 宵は前から人見知りで、俺以外の人と喋ろうともしなくてさ。だからふざけ合ってるの見るの新鮮」
「違う、こいつが絡んでくるから」
食い気味に灰島が言った。他責な言い方にむっとする。
「灰島が先にやってきたじゃん!」
「いやお前が振り向こうとするから」
「ふはっ、宵がこんなに感情的になるの寺本にだけだよ」
白洲が揶揄うようにくすくすと笑い、灰島の手が離れていく。灰島と一緒にいるとすぐに素が出るせいで、上手くダウナーのふりができない。困った。
列は進み、とうとう自分たちの番が来た。提灯の下を通って足を踏み入れる。室内は思っていたよりずっと暗く、狭い。足元に小さなライトがぽつぽつと置かれている。自然と白洲が前へ行き、灰島を挟む形で一列になった。ひやりとした空気に肌が粟立つ。
テーマは江戸時代の日本だろうか。スピーカーから流れるノイズ混じりのお経や、おどろおどろしい効果音が響き渡る中、髪を結った着物の女性──人形がぬっと現れたりする。プシューっと白い風を吹きながら妖怪のようなものが飛び出てきても、白洲は怖がるどころか楽しそうに笑い声を上げていた。作り物感が溢れるセットではなかなか没入できない。期待が高まっていただけに、正直がっかりだ。灰島もある意味助かっただろう。
突然、ふっと灰島が足を止めた。踏み止まれず、顔面が灰島の背中にぶつかる。
「いたっ、なにしてん……灰島?」
視線の先を辿ると、今にも飛び出してきそうな人形があった。赤い光に照らされて浮かび上がる髪の長い女性。腰から下はなく、頭が壁側に突き出ている。そこを通らなければ前に進めない。そうこうしているうちに白洲が行ってしまった。
「おい歩けよ。こんなのただの人形じゃん」
「……む、無理。動けない」
「はあ? いや、行かなきゃ出らんねーし」
灰島がゆっくりと振り返った。見たこともない、怯えきった表情。背中は丸まり、肩がかすかに震えている。
「ぶっ」
寺本は噴き出して笑った。ここまで怖がるなんて想像もしていなかった。
「笑うな」
「あ、あはっ、おまえっ、か、顔……!」
場にそぐわない笑い声が響いた。まさかお化け屋敷で爆笑する日が来るとは。ひーひー言いながら灰島の背中を叩くと、その手を掴まれた。ぎゅうっと強く握られ、喉が詰まる。
「……え?」
「先に歩け」
「は? てか、手……」
「早く行けよ!」
「おい押すなって!」
センサーに反応し、人形がガタンッと大きく動いた。
「ひい」
引き攣るような灰島の声。背中にべったりと灰島の体が密着してくる。耳の近くで感じる吐息に、なぜか鼓動が速くなっていく。
「は、灰島……」
──距離が近い。近すぎる。これはなんか、まずい。こんなところを白洲に見られたら勘違いされてしまう。しかし本気で怯えている灰島を突き放すのはさすがに可哀想だ。離れろと言うつもりが、いつしか握った手に力を籠めていた。
半ば押されるように出口に辿り着き、扉から出る。
「はあ……」
灰島のため息とともに手が離れていった。出たところで待っていた白洲が顔を上げる。
「あ、やっと来た。大丈夫?」
「ああ」
「置いてったの普通に気付かなかった! 二人ともごめん」
「いや……てか白洲ってホラー好きなの」
「うん。でも今のは全然怖くなかったよな〜? 人形もリアル感なくて」
たしかに、と頷くと、白洲は悔しそうに眉を寄せた。
「本物のオバケ探したけどいなかったし」
「……そんなもん、探すな」
灰島が地を這うような声で言い返した。ごめんごめんと笑って返す白洲は、灰島の取り扱いに慣れていた。
スカイツリーの奥から差し込む夕日が桜の花を照らし始めた隅田公園には、依然として花見客がちらほら残っていた。人が少ない場所を探し歩く。そのうちメロンソーダの上に乗ったソフトクリームは溶け、澄んだ緑色はすっかり濁ってしまった。
「ああっ、手べとべとになった」
木の下に座るなり、白洲が指を擦り合わせる。ここに来るまで一度も口をつけていなかったのだろう。
「後で洗いに行く?」
「買ってくる」
問いかけに答えたのは白洲ではなく、立ち上がった灰島だった。
「え?」
「ウエットティッシュ」
「いやいいよ。悪いし」
「面倒だろ、洗いに行くの」
「そうだけど……」
灰島は無言で街の中へ消えていった。せっかくちょうどいい景色を眺めながら白洲と過ごせるのに、この機会を逃していいのだろうか。それにしても人のためにわざわざ買ってきてあげるなんて──。やっぱり灰島は、好きな人にはとことん優しい。自分には到底できないような気遣いを平気な顔でやったりする。
「灰島って、昔からあんな感じ?」
「あんなって?」
「白洲に優しいじゃん」
「あ~、うん。言われてみたらそうかも。宵は冷たいって言われることあるけど、仲よくなった人にはすごい優しい」
「白洲にだけだろ」
意図せず不愛想な言い方になった。白洲はどこまでも無自覚で、ときどき残酷だ。自分を好きな男が二人も近くにいるというのに、まるで気づく気配がない。それに対して苛立ちを覚えるのは身勝手だろうか。
「でも、寺本のこと好きだと思うよ」
「え?」
「宵は好き嫌いがはっきりしてるから。嫌いな人には話そうともしないし、触ったりも絶対しない」
「…………あれで?」
あんな風に刺々しい態度を取っておいて嫌いじゃないなんて、一体どんな天邪鬼だ。対抗してしまう自分も大概だけれど。
「寺本は反応が可愛いから揶揄いたくなるんだろうね」
「……嬉しくないな」
ストローを咥えたのをきっかけに沈黙が流れた。隅田川に反射して煌めく夕日と、それを見つめる白洲の整った横顔。男にしては長い睫毛の影が頬に落ち、細い髪がふらりと風に揺らされる。
目の前にいても、手が届かない存在に感じてしまうのはなぜなのか。これから親しくなれる未来すら想像できない。
まだ本格的な芸能活動はしていないが、きっと白洲は芸能界で活躍できる。いや、しなければならない。それだけの価値がある人だ。活躍すれば次第に彼の記憶から自分の存在が消えていき、いつかは名前も忘れてしまう。
「来月の最終審査、宵が見に来てくれる予定なんだ。一般公開されるから」
白洲が静かに呟いた。それからズズズとメロンソーダを飲み干す。ふっと向けられた瞳の虹彩に淡い橙色が映し出され、輝いている。
「寺本も来られない?」
「行ってもいいなら」
「もちろん! 応援してもらいたい。めっちゃ緊張するし……」
「白洲も緊張とかするんだ」
「するよ、俺のことなんだと思ってんの」
白洲の滑らかな頬にふわりと柔らかな笑みが浮かんだ。この可愛らしい笑顔を、これまで灰島はどんな気持ちで見てきたのだろう。
「あのさ……白洲って、何人と付き合ったことある? ずっと彼女いた?」
「え、どしたん急に」
「別に。気になったから」
「んー、すぐ別れたのを含めると六人くらいかな」
「めちゃくちゃ多いな」
白洲ほどになると、告白されて断るほうが面倒くさいのかもしれない。
「多くないって。浅い恋愛ばっかりだったし」
氷だけになったカップの中を、ズズ……と複雑な気分で啜った。灰島が告白しないのは、すぐに彼女が変わるのを隣で見てきたからなのか。警告された理由が少しだけ分かったような気がした。
「……灰島は?」
「宵は全然だよ。まず人に興味ないし、好きな人とかの話も聞いたことない。好みのタイプとかも知らないなあ」
──やっぱり白洲は灰島の気持ちに気が付いていない。ライバルだというのに、この状況はひどくもどかしい。
「俺の陰口か」
ふと後ろから低い声をぶつけられて振り向くと、仏頂面でウエットティッシュを握りしめた灰島が仁王立ちしていた。
「宵! ほんとに買ってきてくれたんだ」
「いや」
自分と白洲の間にあった隙間に割り込むように座った灰島は首を振り、「ん」と持っていたものをぶっきらぼうに差し出した。
「まじでありがとう」
「で、なんの話。どうせ俺の陰口言ってたんだろ」
「ちが──」
「いやいや違うよ」
口を開いた途端、白洲の声に遮られた。
「宵の好きなタイプ知りたいんだってー、寺本が」
「……は?」
寺本と灰島の声がぴたりと重なった。
──そんなことは言ってない。
──そんなことを知ってどうする。
口を半開きにしたまま、無言で互いの顔を見つめ合う。
「俺も知らないし。宵のタイプってどんな人?」
白洲が天使みたいに、否、悪魔みたいに笑った。
聞かなくても分かるから聞くなよ。もしここで灰島が、「タイプはお前」とか爆弾発言したらどうする。もしそこから恋愛に発展したらどうする。手を繋いで帰る二人を、ひとり泣きながら見守るなんて絶対に嫌だ。
「し、白洲。その話はもう……」
「自分と真逆なのがいい」
あっさりと言った灰島に、白洲が「真逆?」と首をひねる。
「社交的で、一緒にいて楽しい人」
「へえ。清楚な女の子が合いそうだなと思ってたけど、好みは元気系なのかあ」
白洲は他人事みたいに笑顔で頷いた。
「あ、じゃあ俺の友だち紹介してあげようか? 事務所に最近仲良くなった先輩がいるんだ。可愛いし面白いよ」
──あ、悪魔だ。無自覚人たらし。流石に灰島が可哀想になってきた。カミングアウトしていないからだろうが、恋愛対象を女子だと決めつけられ、その上好きな人に相手を紹介してやると言われるなんて。可能性ゼロだから諦めろと遠回しに言われたようなものじゃないか。
「自分で見つけるからいい」
灰島は低い声で吐き捨て、なぜかこちらを向いた。切なさが滲む瞳を見たら冗談を言う気にもなれず、慰めの意味を込めて背中を叩いてやった。



