好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


 校庭を彩る紅葉が散り始めると、図書室へ足を運ぶ機会はめっきり減った。委員会の任期が終わりを迎えたからだ。それと同時に、灰島と二人で過ごす時間も、芸能活動で忙しい白洲と同じくらい少なくなってしまった。

「今日、図書室で勉強して帰らない?」

 ホームルームが終わった直後に寺本は後ろを向いた。

「……いいけど」

 淡白な返事をした灰島が鞄を持って立ち上がる。
 物足りない。以前ならこんな些細な会話でも冗談や悪態をついていたはずだ。決して避けられているわけではないが、どことなく灰島と距離を感じる。親しくない相手と街で鉢合わせたときのような空気感。何もしていないのに変な汗が出てくる。

「行かないの」

 灰島は教室の扉を開けたまま怠そうに振り返った。

「あ、俺ちょっとトイレ行っていい?」

「じゃあ先に向かってる」

 灰島は振り返ることもなく廊下に消えていった。
 ──やっぱり一緒に来ないんだ。
 あの日からお互いにキスの話題には触れていない。それどころか、キスさえしていない。どんなに二人きりになれる場所があっても、どんなに距離が近くても。キスしたのは夢だったのかと思うほど。
 素っ気ない灰島の態度に時には腹が立った。受験の結果によってはあと数ヶ月で会えなくなるのに。
 ──なんて、自分が言える立場じゃないけど。

 白洲の態度にも少しばかり変化があった。説明もせずに逃げ出したせいか、気を遣われているのがよく分かる。腫れ物に触るようにというより、邪魔はしないからという配慮。どうやら隠しごとをされていたことに疎外感を抱いているらしかった。
 トイレを出たところで、ちょうど帰り際の白洲と出くわした。

「あっ、白洲」

「おおー。今呼び出されて怒られたんだけど」

「なんで」

「提出期限過ぎてるプリント早く出せって。でもたったの一週間だよ?」

「いや、だめだろ普通に」

 あははっと白洲の爽快な笑い声が廊下に響いた。

「寺本はもう帰り?」

「いや。このあと灰島と勉強するんだけど……、白洲も来る?」

 彼の大きな目が丸くなった。
 白洲が進学しないことは知っていた。だから勉強会に誘ってもほとんど来ないが、一応声はかける。友達として、または声はかけたという自己満のために。

「図書室で」

 そう付け加えると、白洲はぎこちない笑顔を浮かべた。

「俺は受験しないからいいや。これから撮影だし」

「そっか。頑張って」

「うん……ってか、寺本。あのさ……」

「ん?」

 白洲は廊下を通り過ぎていく生徒をちらりと確認し、おずおずと口を開いた。

「なんか悩んでることとかない?」

 急な質問に戸惑った。灰島との関係について聞かれているのだろうか。それとも勉強のことだろうか。

「あ……っと」

 言葉を喉で詰まらせていると、

「話ならいつでも聞くから。頼って」

 優しく腕を撫でられた。彼の手ひらは、この時期にしては驚くほど温かかった。

「あ、りがと」

「勉強がんばってな」

「おう」

 いつか白洲にはすべてを言わなければいけない。あのとき説明できなくてごめん。打ち明けるのが遅くなってごめん。引かれるのが怖くて言えなかった──と。

 閑散とした図書室で、灰島は一番端の席にぽつんと座っていた。重い足取りで近づく。

「お待たせ」

 敢えて明るい声を出した寺本は、灰島の正面の椅子を引いた。本当は隣がよかったけど、こっちのほうが顔が見やすい。

「なんで家じゃないの」

 独り言みたいに呟いた灰島が顔を上げる。

「い、家だと家族いて集中できないから」

「自分の部屋あるだろ」

「……壁薄いんだよ。お前と違ってボロ家だし」

 笑えるはずの自虐は沈黙に落ちていった。
 咳払いをしつつノートを広げる。静まり返った図書室には、さらさらとシャーペンの音だけが聞こえている。カウンターにいる後輩の図書委員はこちらを気に留める素振りもなく、ふたりともスマホで動画を視聴していた。ついこの前まで自分たちがあそこにいたとは思えない。
 しばらくして、灰島が静かにまた口を開いた。

「寺本は卒業旅行どうする」

 視線はノートに注がれたままだった。本当に興味を持たれているのかさえ分からない。

「どっか遠いところ行きたい。海とか? 美味いもん食べたいな」

「へえ」

「……灰島は?」

「俺も行く」

 ──誰と?
 ──どこに?
 頭にはてなマークが浮かんだ。今の言い方は「行くけどお前とじゃない」という感じだった。誘うつもりなら、せめてそれらしいことを言うはず。
 もはや誘ってもくれないのかと、目の奥がじんわり熱くなる。

「だよな」

 目の前で涙なんか見せても引かれるだけだ。慌てて立ち上がり、瞼を見開いたまま書架の前に移動する。参考書を探すふりをした。 
 二人きりでどこかへ行きたい。そう思っているのは自分だけなのだろう。灰島が誘うのは白洲か加藤あたりだ。あいつの選択肢には、きっと寺本陽向の名前はない。

「なにしてんの」

「おわっ」

 背後から聞こえた灰島の声に、変な声が出た。

「参考書は向こうの棚だけど」

「あっ、いや、息抜き! 疲れたから」

「は? まだそんなやってないだろ」

「いいじゃん。ちょっとくらい」

 図書委員に見られない場所だからって、お互いに普段と同じ声量になった。
 呆れたようにため息をついた灰島こそ、何をしにここへ来たのか。会話が終わっても退こうとしないのを不思議に思った。
 ──まさか、キスするつもりか?
 見つめ合いながらこっそり唾を飲んだ。しかし灰島はそのまま踵を返そうとした。

「待って」

 咄嗟に腕を掴んでいた。なに、と振り向いた灰島の顔は冷めきっている。恐ろしい。
 もう一度喉を鳴らし、つま先を伸ばす。自分からキスをするのは初めての試みだった。顔を近づけた瞬間、すっと灰島の体が後ろへ引いた。
 ──避けられた?
 ショックの余り体が硬直した。背中を冷たい空気が流れていく。

「……もうやめよう」

 ぼそりと灰島が呟いた。

「え?」

「キス」

 絡み合った視線を保ったまま、薄い水の膜が張った灰島の黒い瞳はかすかに揺れていた。手放したくないものを手放した時のような名残惜しさを残し、離れていく。

「あ」

「……用あるから、帰る」

 俯きながら灰島は出て行った。当然だ。気まずい空気が漂う中で勉強に集中できるほうがおかしい。
 言われた言葉を何度も反芻しながら自分も校舎を出た。
 キスをやめる。
 極めて単純で、残酷な一言だった。キスを始めたのはお前だろうという文句すら浮かばなかった。
 コンクリートの感触を確かめるみたいに時間をかけて歩いた。ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちては吸い込まれていく。滲む視界では、どこから雨が落ちてきているのか分からなかった。
 目の前に現れた青色の信号が点滅していた。走る気力など到底ない。歩道の前で足を止めた時、ふと信号の先に視線を奪われた。

「……え」

 数百メートル先、一つの傘に収まって並び歩く灰島と加藤がいた。傘を持っているのは灰島だ。かつて自分も入れてもらったあの折りたたみ傘だった。
 ぽつりとまた地面に雨粒が落ちていく。

「はは」

 反対に口から出た笑いは乾ききっていた。
 ──なるほど。なるほどな?
 腑に落ちた気がした。加藤のことを好きになったからキスしないということなら、そう言ってくれればよかったのに。事情を知らずにキスしようとした自分が馬鹿みたいじゃないか。どうしてこんなに惨めな気持ちにならなきゃいけないんだ。
 周りに蹴飛ばせる小石も見つけられず、ため息を吐くことしかできなかった。