斜め前の調理台の付近では白洲がエプロンを着けるのに手こずっていた。灰島が背後に回り、「貸して」とぶっきらぼうに紐を取る。調理器具のカチャカチャという金属音が飛び交う中、寺本は二人から視線を外せなかった。
「寺本これ混ぜといてー」
液体の生クリームが入ったボウルを松井に押し付けられた。咄嗟に受け取り、テーブルに置かれたプリント、『カップケーキの作り方』を覗き込む。氷水を張った別のボウルの上で生クリームの角が立つまで混ぜる。簡単な作業だ。
泡立て器を回しながら、寺本の視線はまた斜め前に戻った。体をぴたりと密着させた白洲と灰島が楽しそうに話している。
「はあ……」
班を決める時のことを思い出し、ついため息がこぼれ落ちた。
灰島と別の班になったのは仕方ないことだった。二人ずつの組み合わせとなれば誰かが余る。困ったように立ち尽くす白洲を、どうしても放っておけなかった。ただでさえ芸能活動でみんなと過ごす時間が少ない彼に気まずい思いをさせたくない。自分はいつでも灰島と会えるのだから身を引けばいいと。
「待って宵それ違う。こっちだよ入れんの!」
白洲が軽快に笑い、灰島の背中を叩いた。あそこにいるのが自分だったら──と考えるだけで息が苦しくなる。
「俺が別の班に行くからいいよ」
そう言って譲った時、灰島はあからさまに顔を顰めた。約束したのになんでだよという苛立ちが滲んだ眼差し。しかしそれは一瞬のことで、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
班が分かれてからというもの、灰島と一度も目が合っていない。あいつが怒るのは当然だ。自分だって同じ立場なら腹が立つ。でも、あのとき白洲を見放すのが正しかったと言えるのか。
「寺本、大丈夫?」
同じ班の女子が心配そうに首を傾げた。お好み焼き屋で向かいに座っていた鈴木だ。
「うん。腕が疲れた」
冗談っぽく笑うと、彼女は意を決したみたいな顔で隣に立った。そっと上から手を握られる。
「……え?」
「代わるよ」
「あ、ありがとう」
泡立て器を渡した後も手の甲に冷たい感触が残った。これでときめくことができたら、どれほど良かっただろう。
「あのさ。聞きたいことがあるんだけど」
手を止めずに彼女が呟いた。ちょうど自分にしか聞こえないくらいの小さな声で。
「なに?」
「……うちら、あと半年くらいで卒業じゃん」
「そうだね」
「その、寺本って彼女作る予定ある? そ、卒業までに」
澄んだ瞳に見つめられ、喉の奥が締まった。
これまで異性と付き合ってもしっくりこなかった。なんとなく恋愛対象は同性が合っているような気がする。相手が灰島じゃなかったとしても。
言い淀んでいるうちに、ふと彼女が手を止めた。
「できた」
「あ、えっと……」
「いいよ。無理して言わなくて」
「……ごめん」
「謝らないでよ。まだ告ってもないし」
ふふっと目尻に皺を寄せて笑った顔は悲しそうだった。
ふと視線を感じ、顔を上げる。灰島がこちらを見ていたらしい。目が合った直後に逸らされた。
──灰島も自分と同じ気持ちだったらいいのに。同じくらい、嫉妬してくれたらいいのに。
予熱を取ったカップケーキに生クリームを絞り、チョコチップやらカラースプレーをトッピングする。テーブルに並べ終えた時、不意に背後から誰かの手が伸びてきた。一つを奪い取られる。
「えっ」
犯人は灰島だった。別の手に持っていたカップケーキが目の前に置かれる。
「これ失敗したから」
「はあ? 失敗作かよ」
「黙って食え」
「なんだし……」
失敗したと言う割に綺麗な見た目をしている。まさかと思ったが、味もいい。単に完璧に出来たものを自慢したかったのかもしれない。
席に戻った灰島は、こちらから奪い取ったケーキを淡々と口へ運んでいた。
「なんか寺本って灰島と仲いいよね。性格合わなそうなのに」
鈴木がくすくすと笑いながら言った。
「え、あ……、うん。まあね?」
「授業中もめっちゃふざけてる」
「……よく見てるな」
確か鈴木の席は前のほうで、少し離れている。見られていたなんて恥ずかしい。
「違う、たまたま後ろ向いたら見えただけ」
彼女は頬を赤らめた。釣られて自分も顔が熱くなる。
こんな状況、誰かに見られたらまた勘違いされそうだ。ケーキを食べながら他のクラスメイトと騒いでいる松井に気づかれぬよう、さり気なく鈴木と離れた。
授業終了のチャイムが鳴ったのと同時に、みんなが一斉に立ち上がった。
「甘いの食った後に昼飯とかまじないよなあ」
「な〜、せめてしょっぱいもんが良かった。ポテチとか」
「それは作んのだるそう」
ガヤガヤと騒がしい会話を聞き流しつつ人波に混ざる。なんとなく、今は白洲と灰島のところへ行く気分になれなかった。
ひとりで移動するのは久しぶりだ。教室に戻るまでの廊下がやけに長く感じるのは、灰島が隣にいないせいだろうか。ぼんやりとあいつのことを考えていた、その時。
「寺本」
背後から呼び止められた。──灰島だ。
振り返ると、ポケットに手を突っ込んだ灰島が気怠げな雰囲気を纏って立っていた。一緒にいたはずの白洲の姿はない。
「なに?」
「ちょっと」
灰島は近くにあったトイレを顎でくいっと指し、先に入ってしまった。
「なんだ……?」
不穏な空気を肌で感じ取った。きっと穏やかな内容じゃない。何か不満や文句を言われるのだ。
気づけば周りには誰もいなくなっていた。普段は混み合うトイレが、こんな時に限って空いているらしい。恐る恐る近づいていき、そっと扉を押し開ける。
「……は、灰島?」
足を踏み入れた瞬間、胸元をぐいっと掴まれた。中に引きずり込まれる。
「うっ」
そのまま体を壁に押し付けられた。ごつんと背中を強く打ちつける。視界が揺れ、一体自分の身に何が起こっているのかと混乱した。
「ちょ、なに……」
「お前わざとやってる?」
氷水を頭から被った時のような冷たい声が降ってきたと思えば、唇を塞がれていた。
──こんなところで!?
個室ならまだしも洗面台の前。もしトイレの扉を開けられたら即座に見られてしまう。
「んっ、やめ……っ!」
「うるさい」
両手で顔を掴まれ、押さえつけられた。間髪入れずに舌が割り込んでくる。灰島の手を剥がそうにも離れない。
「ぅ……んん」
心臓が破裂しそうなほど高鳴っている。誰かに見られたらどうしよう。こんな深いキス、さすがに言い訳できない。
次第に酸素不足でくらくらしてきた。息ごとすべてを飲み込まれてしまう。灰島の激情を目の当たりしたのは、これが初めてのことだった。
意識が暗くなりかけたところで、キイイッと扉が開いた。寺本の体が飛び跳ねる。
「っ!」
「──え?」
聞き馴染みのある声だった。薄く瞼を開いた瞬間、さあああっと血の気が引いていく。
──見られた。よりによって、白洲に。一番見られたくなかった人に。
「て、寺本と宵……? な……、なに、してんの……」
愕然と立ち尽くす白洲と目が合った。咄嗟に腕に力が入り、いつの間にか灰島の胸を強く突き飛ばしていた。
「っ、おい」
個室の壁にぶつかった灰島の苛ついた声を背に、寺本は外へと飛び出した。



