好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


 かたかたと薄く開いた窓が揺れた。台風の予兆を孕んだ生ぬるい風とともに、甘く柑橘めいた金木犀の香りが部屋に舞い込んでくる。
 濃い橙色が差し込む図書室は冷えていた。整然と並んだ机の表面を寺本の指が滑っていく。迫り来る灰島から目を逸らせないまま、寺本は後ずさっていた。机に体をぶつけぬよう位置を確かめながら。

「こ、ここじゃだめだって……」

 拒否を意味するはずの言葉には期待が滲み出ていた。書架の奥まったスペースに入り、ついに行き止まりとなった。一瞬後ろに視線を向けた途端、すいっと顎を掬い上げられた。背中を丸めた灰島と至近距離で目が合う。

「誰も来ない」

「そういう問題じゃ──っ」

 重なった灰島の唇に言葉を吸い込まれた。ただ触れるだけだったらまだいい。が、当然のように舌が侵入してきた。灰島が完全に瞼を伏せ、体を密着させてくる。これは始まりの合図でもあった。

「ん……」

 柔らかなものがざらりと上顎を通り、自分の舌に絡みつく。息は簡単に乱れた。常に無気力で怠惰な灰島のキスは意外と情熱的でねちっこい。離れようとしても追いかけられる。

「っ……ぅ」

 後頭部に書架の棚板が当たった。年月を感じる酸化した本の匂い。こんなところで、こんなことをしているという背徳感。つるりと重なる舌や唇の柔らかな感触に思考が溶かされていく。
 灰島とキスをするのは何度目だろう。家に泊まった日から、ふとした時に灰島が迫ってくるようになった。誰もいないトイレの中、放課後の教室、そして──今日みたいに図書室で。二人きりになった途端に空気が変わる。それまでどんなに悪態をついていても、機会を逃さないとばかりにキスが始まる。
 
「なに考えてんの」

 顔に添えられていた指で耳朶をつままれ、ぞくりと背中が震えた。薄暗い部屋の中でじっと見つめてくる顔はそれこそ思考が読めない。
 ──少しは感情を表に出したらどうなんだ。キスする理由くらい説明したらどうなんだ。
 聞きたいことも言いたいことも山ほどあるのに、灰島からの言葉を求めている自分がいる。

「なんでもない。もう閉める時間だろ」

 体を押し退けようとした手を掴まれた。逆に引き寄せられ、腰から下が密着する。

「もう少し……」

 再び唇を塞がれた。
 いつ誰が来るか分からない。早くやめなければ。そう思うのに、「欲しくてたまらない」みたいな顔をされると拒めなくなる。今この顔を向けられているのは自分だけなのだと実感できるから。
 瞼を閉じ、腕を背中に回そうとした瞬間。入口のほうでガラガラッと扉が開くような音が鳴った。

「あれ? 誰かいますかー」

 続けて聞こえた声に、一気に目が覚める。

「あ、っ!」

 寺本は咄嗟に灰島を突き飛ばした。よろけて下がった灰島を横目に、手の甲を唇に当てながらカウンターに走る。

「すみません」

「ああ、この本、連続で借りたいんすけど。次の予約なければいいんでしたっけ」

「はい。再貸出にしますね」

「あざっす」

 生徒が軽くお辞儀をして出て行ったのと同時に、窓の戸締まりをしていた灰島がこちらに向かって来た。中断されたせいか不満そうな顔だ。

「あー焦った。こんなとこでしてくるから」

「じゃあどこならいいわけ?」

「え……」

「どこでしても『だめ』って言うくせに」

 鞄を肩にかけた灰島はそう言って扉の外へ消えてしまった。

「あ、待って!」

 慌てて機械の電源を落とし、図書室から出る。廊下の少し進んだところで灰島は待っていた。隣に並んで歩き始めると、先に言われた言葉が頭の中を埋め尽くした。
 ──なんと言えばよかったんだろう。
 恋人でも何でもない自分たちがキスをするのに適切な場所なんて、そもそも存在しないのに。

「寺本は志望校どうすんの」

 不意に話しかけられ、思わず肩が跳ねた。鞄を道路側に持ち直す。

「一応、灰島と同じところにする。オーキャンも良かったし」

 オープンキャンパスが言い訳みたいになってしまった。

「ふーん……」

 灰島は一度だけ頷き、視線を落とした。相変わらず言葉足らずで理解できない。少なくともこういうときは普通、一緒に行けたらいいなと鼓舞するものだ。もしかして、同じ大学に行こうと言ったのは冗談だったのか。

「ど、どう? 灰島は。勉強」

「なに。親かよ」

「だってお前、自分のこと全然話さないじゃん」

 十月の帰路は暗い。まだ耳奥に蝉の鳴き声がへばりついているのに、自分たちの影は街灯がなければもう見えない。

「……今度、加藤のお兄さんに教えてもらうことになった」

「え!? なんで?」

「あそこの大学通ってるらしくて」

「まじか……、そんな偶然あるんだ。ってか加藤さんと仲良いな」

「まあ、趣味合うから」

 灰島が当然のように頷いたことに少し、いや、かなりガッカリした。趣味も性格も似てない自分には価値がないと遠回しに言われたようだった。

「……どこで教えてもらうの」

「加藤の家だけど」

 ──わざわざ家に行くのか? もし加藤と二人きりになる機会があったらどうしよう。
 ベッドで灰島に押し倒される加藤の姿が頭に思い浮かんだ途端、すーっと足先から体が冷えていくのを感じた。

「へ、へえ。本格的」

 灰島に言われた通りだ。嫉妬以外に、この気持ちにどんな名前をつけられるのだろう。いい加減もう認めざるを得ない。
 自分は灰島に恋愛的な好意を抱いている。白洲に抱いた綺麗な憧憬なんかではなく、もっとドロドロとした生々しいもの。白洲は多くの人に好かれてほしいけど、灰島は自分以外の人と関わってほしくない。

「……寺本」

 不意に肩を叩かれ、ハッとした。

「え、ごめん。なに」

「だから、明日の調理実習。ペアになろうって言ってんの」

「……俺でいいの?」

 思わず聞き返すと、灰島はきょとんとした顔で首を傾げた。

「そんなに料理下手なんだ」

「あいや、そういうんじゃなくて。てか四人組じゃなかった?」

「男女二人ずつ。先週説明してただろ」

「そうだっけ」

「エプロン忘れんなよ。じゃ、俺は塾あるから」

「ああ」

 来た道を戻って行く灰島の背中に手を振り、ふと気が付いた。塾があるのに駅まで見送ってくれたことに。

「……っ、あーもう……」

 不意打ちで見せられる優しさに、馬鹿みたいに振り回されてしまう。