好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


「遅かったな」

 綺麗になったばかりの額に汗が滲み出てくる。灰島の家で、灰島の匂いに包まれた部屋で、灰島と二人きり。こんな状態でどうやって平静を保てと言うのか。

「こっち座れば?」

 灰島はソファに背を預けたまま、とんとん、と隣を指先で突いた。
 ソファの空きスペースは男二人が座るにしてはなかなか狭い。身体を密着させることになりそうだ。

「俺は床でいいよ」

「なんで床? ここ座れって」

 育ちが良い灰島には床に座るという概念がないらしい。腕を引かれ、強制的にソファに座らされた。想像通り太ももが密着する。風呂上がりの高い体温が妙に生々しかった。自分の息遣いを聞かれてしまう気がして、呼吸を潜めた。

「お前モテるんだな」

 不意に口を開いた灰島に、冷ややかな視線を向けられた。

「さっきの話? でも告白とかはされてないんだけど。白洲のことがずっと好きだったし」

 聞いてきたくせに相槌すらなかった。腹が立つ。

「灰島は? 高校で誰かと付き合った?」

「一回だけ」

「……まさか白洲じゃないよな」

 意味ありげな表情に一瞬身構えたが、灰島は横に首を振った。ゆったりと組まれた長い足につい視線が持っていかれる。

「颯のこと、好きだった時期はある。でもあいつは女子しか恋愛対象にならないから」

「あ……そう」

 なんとなく予想していたことを実際本人の口から聞かされると、初めて知らされたことのように衝撃的だった。何度も目の前で異性と付き合う様子を見てきたからこそ「やめたほうがいい」と言ったのだろうか。意地悪なんかではなく、単なる優しさとして。

「そんなに颯がいい?」

「え?」

「寺本は未練あるだろ。あんなこと言ってたくせに」

 ちくちくと棘のある言葉で刺された。どうして責められなきゃいけないのか。感情なんて自分でコントロールできるものじゃないのに。

「俺はもう、諦めたって言ったじゃん」

 拗ねたように言い返すしかなかった。

「他の人と恋愛する気は?」

 灰島の真っすぐな視線に射貫かれる。心臓が打ち震えた。
 黒い瞳に映った自分の顔はひどく困惑していた。瞬きも、呼吸さえも忘れ、ただその瞳を見つめ返した。

「……は」

 唇からわずかに息が漏れ出た瞬間、ポケットに入れていたスマホの着信音が部屋に鳴り響いた。画面に表示された『白洲颯』の名前に肩から力が抜ける。なんというタイミング。
 スピーカーに切り替えてすぐ、ざわざわと酷い雑音に混じって白洲の声が部屋に響いた。

『もう打ち上げ終わった〜?』

「ああ、俺と灰島は先に帰ったんだ。今……灰島の家にいる。泊まる、かも」

『泊り⁉ えーめっちゃ楽しそうじゃん。俺もちょうど仕事終わったし行きたいな』

「えっまじ? 来てよ」

『現場が近くだからすぐ行けると思う。俺も泊まっていいかなあ』

 沈黙が流れた。なんで返事をしないんだ──と横を向くと、灰島の鋭い目に睨まれた。

『あれ。宵ってそこいる?』

「…………いいけど」

『じゃ向かうねー』

 プツッと通話が切れた後、さらに重い沈黙が押し寄せてきた。てっきり白洲がいたら灰島も喜ぶと思っていたのに。

「俺が誘ったの、お前だけなんだけど」

 灰島は苛立ちを隠そうともしなかった。むすっと口角が下がっている。

「だ、だって……ごめん」

 反論する気にもなれなかった。泊まらせてもらう立場なのに、権利がない自分が許可するのはまずかった。
 寺本は俯き、先に言われた言葉を考え直した。灰島と恋愛する気はないのかと遠回しに聞かれたような気がする。
 ──まさか、好意を寄せられているのか?
 キスしてみるかと質問してみたり、家で二人きりになりたがったり。そんなことをしておいて、直接的な言葉は何一つ言われていない。灰島はずるい。人の感情ばかりをかき乱すだけかき乱し、自分の望む言葉を引き出そうとするなんて。

「灰島は、どうしたいの」

 曖昧な聞き方になってしまった。自分のことをどう思ってるんだと、それくらいはっきり聞ければよかったのに。

「キスしたい」

 迷いのない言葉とともに、ふわっと空気が動いた。整った顔が迫ってくる。普段と違う、体温を伴った匂い。

「え……っ、ちょ、ま……」

 思わず息を飲む。鼻先が触れそうなほどの距離で灰島がわずかに瞼を伏せた。唇を見つめられているのだと分かり、頬に熱が迸った。

「いい?」

 低く艶のある声に鼓膜を撫でられる。ほとんど息を止めたまま、寺本は小さく頷いた。瞬間、引き合うように唇が重なった。

「……っ、ぅ」

 思考が真っ白に染まる。想像していたよりずっと柔らかい。そして温かい。顔の向きを変えられ、今度は深く唇が合わさる。触れた粘膜に驚く間も与えられないまま舌先が割り込んできた。

「ふ、……っん」

 後頭部を押さえつける手のせいで身動きが取れない。鼻で息をするものだと知っていても、口の中を動き回る舌に意識を削がれ、自分が呼吸をしているのかさえ分からなくなった。
 胸の奥がきゅうっと締め付けられる。苦しい。なのに心地良い。

「う、んん」

 寺本は藻掻くように灰島の胸元をつかんだ。ずるずると体の力が抜けていく。溢れそうになった唾液を飲み込んだのをきっかけに、顔が離れた。

「はあっ、待って、お、おわり。もうおわり!」

 気づけば叫んでいた。灰島の下から抜け出し、ふらりと立ち上がる。

「なんで? まだ終わってない」

 灰島は意味不明なことを言って近づいてきた。一瞬でも目を逸らしたら飲み込まれてしまう。睨みつけながら、じりじりと後ろに下がる。

「来るなって……」

 ふくらはぎにベッドのフレームが当たった。留まるつもりだったはずの足がもつれ、体勢を崩した体が背中から後ろへ倒れていく。シーツに沈んだ時、ベッドが軋む音を聞いた。

「あ」

「なにしてんの」

 くつくつと笑いながら、灰島がベッドに乗り上げてきた。慌てて上半身を起こすも、足を押さえつけるように体重をかけられた。両腕で顔の横をふさがれてしまうと、とうとう逃げ道を失った。重なり合った肌から灰島の体温が直に伝わってくる。
 暴れ回る心臓が口から飛び出てしまいそうだ。震える息を深くはいた途端、見計らっていたみたいに再び唇が落ちてきた。
 ──終わりって言ったのに!

「……っ、ぁ」

 ぬめりを帯びた熱い舌に肌が粟立った。上顎をなぞられ、息ごと舌を吸い込まれる。押し潰されそうな甘い痺れが全身に伝わっていく。じんわりと目に涙が浮かんだ。

「ぅん……っふ」

 灰島の胸を強く押したはずの手が呆気なく弾かれる。くらりと眩暈がした。腰の奥深くで、血が集まっていくのを感じた。この感覚には馴染みがある。一度こうなってしまうと簡単には治まらないことを嫌というほど知っている。
 もぞもぞと腰を動かしたせいで灰島の体に触れてしまったらしい。顔を離した灰島と視線が絡んだ。

「はあ……」

 これ以上続けてはいけない。心のどこかで警鐘が鳴り響いている。足の先から頭のてっぺんまで駆け巡る心地の良い熱を拒むことができないまま三度目のキスを受け入れた。
 どれくらい経っただろうか。やっと息の仕方が分かってきた頃、「ピンポーン」と遠くから聞こえた。エントランスからの呼び出し音。
 ──白洲だ。
 弾かれたように体が跳ね上がる。

「んっ、は、灰島、白洲きた……っ」

 離れようとしても灰島は腕の力を緩めなかった。それどころか顎を掴まれ、さらに深く口づけられた。

「ぅん……、お、いっ……来たって!」

 がむしゃらに暴れると、濡れた音を立ててようやく唇が離れた。ほとんどため息に近い息を浅く吐き出した灰島が体を起こす。不機嫌そうな瞳にじっと見下された。

「は、早く出ないと」

 もう一度インターホンが鳴った。灰島が舌打ちとともにベッドから降りる。

「お前が余計なこと言うから」

 数分前までキスしていたとは思えない捨て台詞を残し、灰島は出て行った。扉が閉まった瞬間、

「あああああ……!」

 寺本はうずくまりながら叫び声を枕に浴びせた。
 ──キスした。それも、考えていた何倍もえっちなやつ。男でも意外と唇は柔らかいんだとか、そんな感想を抱く余裕すらなかった。
 体中が火照っている。きっと顔も真っ赤だろう。こんな姿を白洲に見られるわけにはいかないと、部屋から抜け出してトイレに逃げ込んだ。