好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


 松井の両親が営んでいるというお好み焼き屋は、こぢんまりとした個人店だった。靴を脱いで畳に上がる。背の低い六卓のテーブルに四人ずつ座ると、店内はそれだけでぎちぎちになった。貸切にしてくれたのも頷ける。

「これ、お姉さんからのサービスね!」

 松井にそっくりの女性が、オレンジジュースがたんまり入ったピッチャーをテーブル端に置いた。忙しなく動き回るおばさんに皆で礼を言う。
 目の前に座った女子はとても気が利く人だった。「代わるよ」と言っても焼き続けてくれている。しかし綺麗に皿に取り分けられてもなお、申し訳なくなるほど箸は進まなかった。

「食わないの」

 隣から灰島の箸が伸びてきて、寺本の皿からお好み焼きを半分ほど掻っ攫う。
 ──お前のせいだって自覚ないのかよ。

「勝手に食うなし……」

 口いっぱいに頬張った男を睨みつつ、オレンジジュースを静かに啜る。灰島がキスの話をしたせいでおかしくなってしまった。普通に接したくても、いつまたあの話題が出るのかとそわそわする。

「私、一年の頃に寺本と同クラだったじゃん? 絡みあんまりなかったけど」

 ひとしきり焼き終えた彼女が不意に語り出した。まともに会話をした記憶がない。寺本は曖昧に頷いた。

「寺本って何気に男子人気二位だったんだよ。あ、一位はもちろん白洲だけど。知ってた?」

「……俺が?」

「うん。顔いいし運動もできたじゃん。あとノリもよかったし」

「そう、かな」

 その割にモテた記憶はない。白洲は常に女子に囲まれていたが、自分は女友達すら作れなかった。

「なんか……最近の寺本、落ち着いてて良いよね」

 彼女は小さな声でぼそっと呟き、お好み焼きに齧りついた。赤らんでいる頬を見てようやく褒められたことに気付く。

「あ、ありがと」

「うぇーい、なんか二人いい感じじゃん」

 隣から茶々を入れられ、彼女は笑いながら手で顔を覆った。

「ねえやめて」

「寺本って彼女いんの?」

「や……、いないけど」

「じゃあこいつと付き合ってやれば?」

「ねえーほんとやめてよっ」

 勝手に盛り上がっていく雰囲気に戸惑った。しかしあからさまに照れている相手を前にして、嫌がる素振りはできない。

「寺本」

 くんっと制服の袖を隣から引かれた。振り向く前に灰島が顔を寄せてくる。

「……このあと俺の家、泊まりに来て」

 耳に吹き込まれた、低く色っぽい声。ぞわぞわっと鳥肌が立った。
 ──このあと? 灰島の家? 二人きりで? 泊まり? 何をするために?

「な、……んで」

「話したいことがある」

「てか寺本も顔赤くね〜? 脈アリだったりして」

「いっ、いやない! ないから!」

 顔の前で思い切り手を振った途端、場の空気が冷えていくのを感じた。どうやら彼女との恋愛について言われていたらしい。咄嗟にごめんと謝ったが手遅れだった。

「用事あるから先帰る」

 灰島がすくっと立ち上がった。

「え……」

「寺本も」

 腕を掴まれ、引き上げられる。困惑したのは自分だけではなかった。周囲の卓に座っていたクラスメイト達がざわつき出す。

「おいおい二人で抜けんの?」

「金は明日持って来いよ〜」

「わかった」

「あはっ、あいつら自由人かよ」

 咎めるような声を背中に受けながら、腕を振り払うこともできないまま、灰島に連れて行かれた。


 自動ドアを通り、黒い石畳が敷き詰められたエントランスに足を踏み入れる。だだっ広い空間に背の高い観葉植物と革張りの大型ソファ。柔らかな照明に反射してガラスに映った制服姿の自分がひどく場違いな気がして、自然と肩が丸くなる。灰島の住まいが高級マンションだと知っていたら、もっと来るのを躊躇ったのに。

「お邪魔しまーす……」

 恐る恐る玄関に入ると、灰島は慣れた仕草で下駄箱の中に靴を仕舞った。年中いくつも靴を出しっぱなしにしているうちの家とは大違いだ。

「親、残業で遅くなるって」

 ──よりによって二人きりかよ。

「へ、へえ〜忙しいんだな。俺いたら迷惑になんない?」

「ならない。もう許可もらった」

「……そうすか」

 整頓されまくった綺麗なリビングを抜けた先にある灰島の部屋は、壁際のぎっちり詰まった本棚と黒色に統一された家具が印象的だった。一丁前に二人掛けのソファも置かれている。

「灰島って金持ちだったんだな……」

 自分の部屋より倍くらい広い空間を、落ち着かない気分で見回す。

「先シャワー浴びてくる」

「え⁉」

「なに」

「あ、いや。わかった」

 そりゃあそうだ。体に染み付いたお好み焼きの独特な匂いを早く落としたいと思うのは当然だろう。
 灰島が出て行った後、ソファに浅く腰かけた。手のひらに滲んだ汗を太ももに擦り付ける。誰かの家に来てこれほど緊張するのは初めてだった。
 戻ってきたらどんな話をするのか。自分もシャワーを浴びていいのか。寝巻きは貸してもらえるのか。どこで寝ればいいのか。というか、そもそも、なんで泊まることになったんだっけ。話をするだけならどこでもできたはずだ。ここに来るまでに人気のない公園や夜道はいくらでもあった。

「急に泊まりなんて……変、だよな?」

 また学校で話せばいいという結論に至り、寺本はそそくさと荷物を持った。灰島が戻って来る前に帰ってしまえば気まずくない。
 ──浴室はどこにあるんだろう。
 警戒しつつ忍び足で歩いていた時、真横の扉が突然開いた。石鹸の香りと蒸気を身に纏った灰島がぬっと現れる。

「あ……」 

 裸の上半身が視界に入り、思わず声が漏れた。運動しないくせに意外と引き締まっている。薄く隆起した筋肉に散らばった水滴から目が離せない。

「逃げんの?」

 挑発する声に、寺本は弾かれたように顔を上げた。

「……っ、ちがう! 遅いから見に来ただけ」

「へえ。その鞄は?」

「こ、これは、不用心だから」

「空の財布なんか誰が盗るんだよ」

「はあ〜? 結構入ってるし。てか服着ろ!」

「何キレてんの。あ、シャンプーとか適当に使って。着替えは用意しておく」 

 灰島は寺本の鞄をひょいと奪い取り、口元に笑みを浮かべたまま部屋へ消えて行った。

 たまに自分の幼稚なところが嫌になる。表面をつつかれただけでムキになって言い返したり、思ってもない言葉が口をついて出たり、相手の挑発に乗らされたりする。そのたびに後悔する。今回も例に漏れずシャワーを浴びながら猛反省した。泊まりは緊張するから学校で話したいと正直に打ち明けていたら、さすがの灰島でも承諾しただろうに。
 普段より丁寧に──というより、のろのろと時間をかけて体を洗い上げた。部屋に戻ることを考えただけで億劫だった。脱衣所には、ご丁寧にも畳まれた寝巻きとビニール袋に包まれた未開封の歯ブラシセットが用意されていた。
 洗面所はリビングよりも生活感がある。花柄のヘアクリップが挟んであるボックスには、灰島のお父さんが使うであろうヘアジェルや歯間ブラシなどが並べられていた。それらを眺めながら歯を磨いていると、少しだけ灰島に親近感を抱いた。いくら金持ちでもこういうところは普通の家庭と同じらしい。
 たっぷりと時間を使ったからといってここから逃げられるわけではない。髪を完全に乾かし終わり、そのへんにあった化粧水を勝手に借りて肌に付けると、いよいよやることがなくなった。

「ああ……どうしよう」

 奇跡が起きて、灰島が寝落ちしていますように。
 祈りながら静かに部屋の扉を開けた途端、ソファに座っていた彼と目が合った。