文化祭は両日ともに一般公開された。他校の生徒との出会いに期待を膨らませたクラスメイトの女子は普段よりスカートを短く折り、髪の毛のセットにも気合いを入れていた。
朝から大雨に見舞われた二日目。廊下を行き交う人の数が見るからに少ない。初日が盛況に終わっただけに、どこか校内の空気はどんよりしている。
「お化け屋敷の入口こちらでーす。今ならすぐ入れまーす」
階段を上がってきた男子二人組に声をかけたが、チラリと視線を寄越した彼らは、口元に薄笑いを浮かべて通り過ぎていった。
「全然こねえな」
壁に寄りかかって黙々と小説を読む灰島を横目で見る。受付係のペアの生徒が体調不良で急きょ休みになり、よりによって代わりに来たのがこいつだった。これでは何のために二人いるのか分からない。
「灰島も声出せよ」
「だるい」
「じゃあ遊んで来ていい?」
「だめ」
本から目を逸らさずにキッパリと言われる。廊下で話した後からずっとこの調子だった。
──まさか、「タイプじゃない」と勢いで言ったことに怒っているのか?
いや。それがどうして灰島の機嫌に影響する。ただの冗談だと理解しているはずだ。
「……一人だけ本読んでんのずるい」
「……はあ」
灰島はため息をついて本を閉じた。これでいいんだろと言わんばかりに、ポケットに押し入れるところを見せつけられる。
自分も隣で壁に寄りかかりながら、やってしまった、と思った。本を読んでいた時には特に気にならなかった沈黙がやけに重い。気まずくなるくらいなら言わなきゃよかった。
廊下を通り過ぎて行く人を必死に目で追っていると、不意に灰島からの突き刺さるような視線を感じた。
「なに」
正面を向いたまま問いかけたが、返事は何もなかった。横を向いたらきっと目が合う。昨日みたいな展開になったら困る。
「寺本の好きなタイプってどんなの」
ぎくりとした。
「え、な……なんで急に」
「急じゃないだろ」
やはり昨日の言葉を気にしていたらしい。どうせ聞いたところで、興味ない反応をするくせに。
「どうでもいいじゃん。俺のタイプなんて」
「白洲颯?」
「げほっ」
突然出された名前に思わず咳き込んだ。
「……フルネームやめろや」
「じゃあ答えろよ」
そう言われても、今となっては好みのタイプが自分でもよく分からない。中学時代は告白をされたらなんとなくで付き合っていた。高校に入ってから白洲を好きになり、他の人など眼中にもなかった。一目惚れをした相手は白洲だけだと考えると、好みのタイプは彼なのかもしれない。
「えー、白洲、みたいな人なのかな。顔も好きだし……」
迷いつつ答えた寺本に、灰島は鼻で笑った。
「颯が相手ならキスできんの」
「えっ!?」
「恋愛的な感情じゃないって言ってたのに?」
灰島と視線が交わった。黒く引き込まれる瞳の中に怒りが含まれているような気がして、無意識にごくんと喉仏が降りる。灰島が求めていた答えではなかったらしい。
好みのタイプだからキスしたい。でも恋愛感情は伴わない。貞操観念があるなら、それはおかしな話だ。こいつが言いたいのはそういうことだろう。
「分かんねえよ……キスしたことないし」
言ったあとに、質問の答えになっていないことに気が付いた。灰島に見られていると頭が回らなくなる。
「してみる?」
「……え」
──してみるって、何を?
──キスをしてみるかって聞かれたのか?
意味をじわじわと理解するのに伴って、身体が硬直していく。
「タイプじゃなくてもキスできるのか」
普段は一直線に結ばれている灰島の薄い唇が釣り上がった。
「あの、すみません」
唐突に後ろから声をかけられ、寺本は飛び跳ねた。振り返ると、文化祭のパンフレットを持った三人組の女性達が近くに立っていた。
「お化け屋敷入りたいんですけど」
「あっ、ああ! すみません。これ、中で使うお札です。それと、お化けには触らないようにお願いします」
「はーい」
「こちらから入ってください」
寺本は教室の扉を開けて入室を促した。
他校の生徒だろうか。見たことない制服に身を包んだ彼女たちの目元はきらきらと光っていて、唇は赤く艶がある。女性アイドルには明るくないが、何十人もいるグループのメンバーだと言われたら信じてしまいそうなほど整った容姿だ。
それぞれがゆっくり教室に足を踏み入れていく中、最後の一人が振り向いた。
「……ん?」
彼女が上目遣いでニコリと微笑んだ瞬間、何度か経験したことがある特有の感覚が蘇った。しかし胸は全く踊らない。灰島に言われた言葉がぐるぐると頭を駆け巡っている。
「早く閉めろよ」
「あ、ごめん」
灰島に指摘され、慌てて扉を閉めた。元の位置に戻りながら乱れてもいない制服を整える。
──何を言えばいいのだろう。もし仮に「してみたい」と言って、冗談だと笑われたらどうする。でも揶揄われたようには感じなかった。
「で?」
灰島がゆらりと真正面に立った。壁に手をつかれ、逃げ道を塞がれる。ダウナー系のくせに壁ドンなんてするなよ──と冗談の一つでも言えたらよかったのに、口が半端に開いたまま動かせない。
「返事は」
「あっ! て、てかそろそろ交代の時間じゃね? 何時だろ……」
慌ててポケットからスマホを抜いた時、一緒に入れていたメモ帳が飛び出した。パチンッと床に落ちたそれに、灰島の視線が注がれる。
「なにこれ」
「あ待ってやばいこれはだめっ」
拾い上げようと掴んだメモ帳を灰島の手に奪い取られる。手が届かないところまで上げられてしまったが最後、身長差という壁にぶつかった。
「まじで返して。頼むよ」
懇願する声を無視した灰島は、頭上で表紙から一枚一枚捲り始めた。
「『今日の目標 白洲に話しかける』『今日の目標 白洲の趣味を調べる』……え、いちいち書いてんの?」
「もう読んだならいいじゃん、返せって!」
「意外。お前がこういうことしてんの」
「ダサくて悪かったな」
「……俺の名前出てきた。『灰島より魅力的なダウナー系男子になる』」
──まずい。まずいまずいまずい。これより先を読まれたら終わる。
額にじわりと汗が滲んだ。しかし灰島の紙を捲る手が止まる気配はない。
「『灰島と普通に話す』……、『灰島に振り回されないようにする』……。最後のほうは俺のことばっかりだな。これ目標ノート?」
がくりと項垂れた寺本は仕方なく頷いた。
本人に見られるなんて最悪だ。言われた通り、ここ最近は灰島のことばかり書いていた。白洲より関わる時間が増えたのだから当然だろうと、言い返すのはさすがに恥ずかしい。
「くそっ、もういいだろ。返せよ」
「聞いてるんだけど」
「だから……そうだよ、目標ノート。別にいいだろ暇つぶしでやってただけだし。最近お前なんか変──」
「それじゃない。キスしてみるかって聞いてんの」
言葉を被せられ、虚を突かれた。
「な、なんで……」
キスしても灰島にはメリットがないだろう。何故いきなりキスをするという話になってしまったんだ。灰島は好きな相手じゃなくてもキスできるという自覚があるのか。それとも自分も試してみたいと思っているのか。付き合ってもないのにキスなんて良くない。
断る言い訳をいくつも思い浮かべた。どれも的外れだ。しっくりこない。考えているうちに、「してみたい」の感情がすべてを押しのけ、前に出た。
──したい。灰島とキスをしたい。
一度そう思ったら、それしか考えられなくなった。
どくん。どくん。どくん……。廊下の雑音が消え、口から飛び出しそうなほど高鳴っている鼓動の音だけが聴こえる。
返事を待つ灰島の顔はいつも通り冷淡だ。白洲がオーディションに受かっても変化のなかったこの顔は、キスしたら少しは変わるのだろうか。見てみたい。
「……っ」
「あっ寺本〜」
口を開きかけたその時、廊下の奥からクラスメイトがこちらに向かって来た。
「交代遅くなってごめん! 灰島も悪いな。遊んできていいよ」
「あ、ああ」
熱を含んだ言葉が行き場を失い、宙ぶらりんになった。あと少しだったのに。
「そういや寺本、今日の打ち上げ来るっしょ?」
「え?」
「えって、前から言ってたじゃん。松井の家がお好み焼き屋だから貸切にしてくれるんだって」
「そうだっけ」
忘れんなよ〜、と寺本の肩を小突いた彼は、遠慮がちに灰島を見上げた。
「灰島は……来ないよな? そういうの」
「寺本が行くなら、俺も行く」
途端にクラスメイトの顔がパッと明るくなった。
灰島は大勢で騒ぐのが苦手だ。打ち上げなんて、特に面倒がって行きたくないはずなのに。
「まじか! 灰島が来るとかレアじゃん。寺本、来るよな?」
期待に満ちた目で見つめられたら、断ることなんて出来ない。
「じ、じゃあ……」
「よしっ。松井に言っとくわ」
「あ、でもやっぱり」
「寺本。もう交代の時間だから」
灰島は小説が入ってないほうのポケットにメモ帳を突っ込み、歩き始めてしまった。まるで、「これを返してほしいなら一緒に来い」とでも言うように。



