好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


 文化祭の出し物がお化け屋敷に決まり、いよいよ開催を明日に控え、最終準備の段階に入った。廊下をバタバタと駆けていく足音を聞きながら、寺本は床に広げた新聞紙の上に膝をついた。教室の扉に貼る看板は、誰かが適当に木材を組み合わせて作ったものだ。荒さが目立つが、色をつけたら多少は良くなるだろうか。
 パレットに出した絵の具を太い筆で取り、板に付ける。少しずつ塗り広げていたところで、教室に入ってきた白洲がすぐ隣にしゃがんだ。

「なあ……寺本」

 切羽詰まったような声に思わず顔を上げる。ただ喋りに来たにしては顔が深刻そうだ。

「どうした……ってか人形作り終わった?」

「もうちょっとかかる」

 一度作業に没頭すると周りが見えなくなる白洲が、わざわざ抜け出して来るほどの何かが起きたらしい。

「寺本、やりながらでもいいから、ちょっと聞いて」

 白洲は周りを確認し、ぐっと顔を寄せてきた。耳朶に彼の吐息が当たる。

「なに?」

「俺、好きな人できたかも……」

「…………は」

 ──好きな人?
 ポロリと寺本の指から筆が滑り落ち、塗りたての板の上に張り付いた。

「あっ絵の具が」

 白洲が筆を拾い上げる。細くて傷ひとつない指先に、べったりと絵の具がつく。

「ごめん」

 謝りながらも頭の中は混乱していた。
 気になる人ができた、ではなく、好きな人ができた。つまり相手は自分の知らない誰か。

「え、す、好きな人……って?」

 思わず聞き返すと、白洲が「しーっ。小声で」と人差し指を唇に当てた。さらに顔を寄せられる。

「事務所の、一個上の先輩」

「まじか」

「一目惚れだったんだ。それだけならよかったんだけど、最近ダンスコラボとかで会う機会が多くて」

「なんで……俺に? 灰島には言った?」

 白洲は唇を尖らせて首を横に振った。

「宵に恋愛相談しても、ふーんで終わるから。どうせ興味ないよ。寺本はなんかモテそうじゃん」

「いや俺はモテないって。経験も少ないし……」

 灰島は興味がないというより、好きな人の恋愛話を聞きたくなかっただけじゃないのか。

「なあどうしよう」

 腕を掴まれ、潤んだ瞳で見つめられる。まさか推しのアイドル──好きな人に恋バナで頼られる日が訪れるなんて思いもしなかった。

「アイドルになったんだから、当分は恋愛なんかできないって自分でも分かってるけど」

 白洲は見たことがない表情でそう続けた。

「それはまあ、たしかに。推しがデビュー直後にスキャンダルはがちで萎えるな」

「だよな……。寺本は片思いを諦めたことある?」

「……あるよ。二年くらい好きだったけど、もう終わった。振られたとかじゃなくて」

 決して伝えることができないと思っていた感情が、ぽろぽろと勝手に口から溢れ出す。

「俺の場合は、恋愛感情というより憧れだって気がついたんだ。もっと……相手には相応しい人がいると思ったら、気持ちに区切りがついた」

「え、二年間も好きだったのに?」

「そこまで関係が深くなかったから。もっと早く仲良くなってたら諦められなかったかも」

 どこか他人事のようだった。本人を目の前にしても、未練は一切感じない。

「じゃあ、俺もそのうち諦められるかな」

 白洲が小さな声で呟いた。

「距離置いたらいいと思うよ。物理的に近いと意識するし……」

「たしかに」

 この状況も以前だったら昇天しかけていただろう。今こうやって、息がかかりそうなほど近くで見つめ合っても平常心を保っていられる。恋愛フィルターが外れた途端にこれだ。単純すぎる自分に呆れる。

「頑張って。応援してるから──」

 突然、視界が暗くなった。大きな影を見上げると灰島が立っていた。こちらを見下ろす顔には影が差していて、表情がはっきりと見えない。

「灰島?」

「近い」

 白洲と離れろと言わんばかりに、ぐいーっと頭を後ろに向かって押された。新聞からはみ出した尻が硬い床にドンと落ちる。

「お、い! なにすんだよ」

 ──だいたい近づいてきたのは白洲のほうだ。離れろと言う相手は自分じゃないだろう。

「……汚れてる」

 低い声で唸るように言った灰島は、白洲の手首を掴み上げた。

「え、よ、宵? どした」

 よろめきながら白洲が立ち上がる。
 灰島はこちらを一瞥した後、白洲の腕を引いたまま教室から出て行った。

「なっ……」

 ──なんだよ今のはっ!?
 頭のなかで何かが爆発した。みるみるうちに顔が熱くなる。二人が出て行ったドアを睨みながら力任せに拳を握り締めた。ピキピキッと、こめかみあたりで変な音が鳴った気がする。
 気が付いたら立ち上がっていた。廊下に出て向かった先は洗面所。案の定、白洲が手を洗っているところだった。それを壁に寄りかかってつまらなさそうに見つめる灰島。
 過剰反応したくせにこれかよ。連れ去ったなら落とすのを手伝うくらいすればいいのに。

「俺と喋ってたんだけど」

 目の前に立って言うと、灰島の眉が釣り上がった。

「は?」

「邪魔すんなよ」

「あっ、さっきごめんな。なんか宵が変で……」

 何も悪くない白洲になぜか謝られた。いいよ、と答える前に、灰島がふっと壁から体を離した。

「なんの話してた? あんなに顔近づけて」

「お前に関係──」

 ないだろと言いかけて、慌てて口を噤む。そういえばこいつは白洲のことが好きなんだった。これから事実を知ってフラれるのだと思うと、頭に上っていた血が引いていく。
 手を洗い終わった白洲がこちらに歩み寄り、声を潜めた。

「恋愛の悩み聞いてもらってたんだ」

 灰島はどんな顔をするだろう。いつもの仏頂面もさすがに少しは崩れるのか。

「恋愛……?」

「好きな人ができたけど、今は付き合えないし。どうしたら諦められるかなって話してた。宵は恋愛とか興味ないじゃん? だから寺本に」

「へえ」

「……え、それだけ?」

 あまりにも薄い反応に、思わず聞き返した。

「宵はいつもこうだから」

 隣から呆れたような白洲のため息が聞こえた。
 ──何度も失恋を繰り返してきたからこうなったのか?
 無表情に見えて実は内心、落ち込んでいるのかもしれない。

「わかりにく……」

 灰島が変なヤツすぎて心配になってきた。白洲の好みのタイプなんだから、気持ちを最大限伝えたら付き合えた可能性だってあるのに。その独特な雰囲気で「俺じゃダメなのか」と迫ったら、どうなっていたんだろう。
 作業に戻らなきゃと言って白洲は足早に立ち去った。自分も一緒に戻るつもりだったのに、灰島の前から体が動かない。

「落ち込んでんの?」

 不意に問いかけられ、ハッと顔を上げる。茶化すでもなく、憐れむでもなく、ただ見つめられる。

「俺は別に。もう諦めてたし」

「ふうん」

 今度は怪しむような目つきだった。

「なんだよ」

「いや。さっき白洲に近寄られて嬉しそうだったから」

「はあ? そんなつもりないけど」

「俺にはそう見えた」

 廊下の奥で、ぎゃははっと誰かの豪快な笑い声が響き渡る。一瞬削がれた意識を戻すと、急に灰島との距離が近すぎるような気がした。じりじりと後ろに下がる。

「お前さあ……俺が近づくと離れるよな。なんで」

「え?」

「白洲にくっつかれたら喜ぶくせに」

 せっかく離れた距離は、灰島が大きく踏み出したせいで一気に縮まった。

「だ、だって、な、なんか……灰島は、圧が……」

 寺本はしどろもどろになりながら踵を下げた。後退するたび、灰島がまた近づいてくる。とうとう背中が壁にぴたりと着いた時には、膝が触れるほど距離が縮まっていた。

「圧がなに」

「ちょ、近いって! まじ勘弁して」

 声が震えた。灰島が醸し出す空気に、気を抜いたら飲み込まれてしまいそうになる。わけもなく心臓がばくばくして苦しい。恋愛フィルターなんて一枚も挟んでいないのに平常心でいられない。
 これ以上こっちに来るなと胸板を押し返すも、びくともしなかった。灰島はムッと眉を寄せた後、さらに体を寄せてきた。

「おい……」

 こんなのおかしい。誰かに見られたら勘違いされる。早く離れなければ──ともう一度灰島の体を押した時、正面のトイレからクラスメイトが出てきた。なんとタイミングの悪いこと。こちらに気が付いて足を止めた彼が不思議そうに首をひねる。

「お前ら何してんの?」

「あいや、ちょっと話してただけ」

 咄嗟に答えたが、彼はにやにやと笑い始めた。なんか嫌な予感がする。

「え~キスしそうな雰囲気だったじゃん」

「はっ⁉ い、いやないない。ないから。こいつとなんて! 俺のタイプじゃねえし」

「あははっ、タイプだったらいいのかよ! やっぱ寺本おもれー」

 クラスメイトが笑いながら遠ざかっていく。教室の扉が閉まると、廊下に再び気まずい静寂が流れた。灰島は一言も喋ってくれない。平凡な床を、ただじっと見つめている。
 ──何を考えているんだろう。

「……灰島?」

「悪かったな。タイプじゃなくて」

 体を引きながら呟いた灰島の暗い瞳が、一瞬だけ、傷ついたみたいに揺れていた。

「え?」

「お前も作業戻れよ」

「あ……」

 すたすたと歩いていく灰島の背中は、なぜか哀愁が漂っているように見えた。