好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。

 加藤が嬉しそうに顔を綻ばせる。スマホを覗き込んだ彼らの距離が、ぐっと近づいた。他にも作業中の生徒は大勢いるというのに、二人がいるところだけ別世界のような空気が流れている。

「寺本先輩、ここの棚って掃除終わってますか?」

「ひえっ!?」

 変な声が出た。背後からいきなり声をかけられたせいだ。振り返ると、女子生徒がきょとんとした顔で立っていた。
 ──まずい。覗き見していたところを見られてしまった。

「あ、うん。終わってます……」

「はーい」

 幸いにも彼女の興味はすぐに薄れた。びっくりさせんなよと思いつつ正面を向いた時、なぜか隣の書架から移動してきた灰島と目が合った。

「え、なに」

 道具を持って行くでも手伝うでもなく、灰島はただその場に座った。

「喋りに来た」

「は……? サボるなよ」

「寺本が寂しくて泣いてるかと思って」

「うざ。そんなわけねえだろ」

 別に嬉しくない。嬉しくないけど、じわじわと勝手に頬が上がっていく。いつもだったら、喋りたいのはお前じゃんくらいは言えたのに。

「……俺にも貸して」

「ん?」

「本。お前の好きなやつ」

「読まないから駄目」

 考える素振りもなく即答され、寺本は雑巾を持ったまま灰島の隣でしゃがんだ。

「ちゃんと読むし!」

「……こんな忙しい時期に?」

「受験終わったら……」

「まだまだ先じゃん」

「いいから貸せってケチ」

 ──関係が浅い後輩女子には貸すくせに。だいたい喋りに来たならこっち見ろよ。話題を提供しろよ。スマホばっか見てないで。何をそんな夢中になってる?

「何見てんの」

 画面を覗き込もうとした瞬間、額に灰島の掌底が押しつけられた。そのままズイッと後ろに力を込められる。

「近い」

 バランスを崩しかけた寺本は慌ててカーペットに手をついた。

「ひど。ってかそれ……」

 お前が言えること?
 口から出そうになった言葉を飲み込む。数日前の灰島はもっと距離が近かったし、頭も触ってきた。あの珍行動を忘れてしまったのか。自分は良くても人には近づかれたくないって、天邪鬼な猫じゃあるまいし。

「拗ねんなよ。貸してやるから」

「拗ねてない」

「顔に出てる」

 灰島は鼻で小さく笑った。いつもの憎たらしい顔。自分だけに向けられるその態度に、胸の奥でくすぶっていた苛立ちがすっと引いていく。
 照れ隠しに雑巾を持ち直し、腰を上げかけたその時。窓の外が青白く閃いた。直後、バリバリバリッ──と地面を引き裂くような轟音が響き渡る。

「わあっ」

 続いて女子の甲高い声が聞こえた。近くにいた下級生が怯えた顔で頭を抱えている。大丈夫かと思わず声をかけると、彼女は体勢を維持したまま頷いた。

「最悪。すごい雨……」

「どうしよ、傘持ってきてないのにー」

「帰る頃には止むでしょ」

 みんなの嘆く声を、窓に当たる激しい雨音がかき消した。
 見渡す限り一面の空が厚い雲に覆われている。先ほどまで心地良かった室内は、いつの間にか不快な湿気に包まれていた。予報は曇りだったはずだ。傘なんて持ってきてない。
 スマホの画面を見つめていた灰島が、ゆっくりとこちらを見上げた。

「寺本、傘は?」

「……持ってない」

「俺あるけど」

「まじ⁉ ナイスっ」

「入れてほしい?」

 灰島の顔が、こてんと小さく横に倒れる。
 入れてほしいと言ってみろ。
 そんな風に挑発するような仕草だった。腹が立つどころか、胸の奥が妙にざわめいた。不快とも違う。一体これはなんだ。

「なあ」

 返事を催促をする灰島の瞳は黒い。茶色が少しも混じってない漆黒に見つめられ、ざわめきが大きくなった。

「うん……入れて」

 言った途端、灰島は目を瞬かせた。それからぎこちなく視線を逸らされる。

「……寺本が素直になるのキモいな」

「お前が聞いたんだろ」

「そうだけど」

 さっきから変だ。灰島も、自分も。どこか掴めないものに手を伸ばしている時のようなふわふわとした感覚。何も起きてないのに、自然と口角が上がるのを堪えきれない時と似ている。

「キモいとか言うなし」

「本気で言ってない」

 ──だからもう、何なんだよ!
 冗談だって言われなくても分かってる。わざわざ口に出すな。こっちが恥ずかしくなる。
 思わずため息を落としたところで、

「あ、折りたたみだから」

 雷より衝撃的なことをさらっと告げられた。
 後輩たちがせっせと作業を続ける中、図書室を出る。休日の校舎に加え悪天候とだけあってどこもかしこも薄暗い。廊下のほそぼそとした蛍光灯を辿って下駄箱に辿り着いた。

「……雨強くなってね?」

 灰島の呟きが雨音に混ざり合って落ちた。

「それな。どうやって帰るよ」

「仕方ない」

 雨は弱まるどころか勢いが増し、普通の傘でも濡れそうなほど降り続いている。ガラス扉から顔を出した途端、もわっとした空気に包まれた。

「絶対濡れんじゃん。灰島がいてよかった〜」

「だろ。もっと感謝しろよ」

「折りたたみのくせに」

「じゃあ入らなくていい」

 鋭い視線を向けられ、思わずたじろぐ。

「う、うそうそ! 冗談じゃーん」

 灰島は鞄から紺色の傘を取り出し、無言で歩き出した。本当に入れてくれないのかと思ったが、駆け寄ると、隣のスペースを空けてくれた。灰島の腕に肩が触れる。

「せま……」

「文句言うな」

「イイエ文句じゃありません。感想です」

 屋根の外へ足を踏み出した瞬間、激しい雨音に飲み込まれた。傘からはみ出た肩が一瞬にして濡れるのを感じ、反射的に中央に体を寄せる。

「うわ」

 触れるだけだった肌がぴったりと密着する。薄い布越しに伝わってくる灰島の体温に、わけもなく動揺した。横を向けない。今もし目が合ったら取り乱す自信がある。
 しばらく黙って歩いていると、不意に灰島が口を開いた。

「なんで今日静かなの」

「……雨うるさいし」

「ふうん」

 灰島相手に緊張なんてしているのは、白洲と同じ香りがするからだろうか。そうじゃなきゃ説明がつかない。
 車道の脇に出ると、とうとう足の踏み場がなくなった。シャーッと勢いよく水しぶきをあげながら車が通り過ぎていく。咄嗟に避けようとして、灰島の体にぶつかった。

「あっ」

「おい押すなよ」

「だって濡れるじゃん! もっとそっち行って」

「もう行けない、押すなっ」

「いいから行けって!」

 言い合っているうちに、どちらからともなく肩がぶつかった。押されて完全に傘から体が出る。負けじと灰島を突き飛ばすと、深い水たまりの中に彼の足が突っ込んだ。

「うわっ」

 驚いた灰島が傘をあらぬ方向に持ち上げた。頭から全身に降り注ぐ、雨。

「あ……」

 灰島と同時に顔を見合わせた。灰島の顔に大粒の雨が落ち、ぺりゃりと髪の毛が潰れていく。そのなんとも情けない表情に思わず噴き出して笑った。

「あはっ、はははっ!」

「くそ……」

 わざとらしく眉を寄せた灰島の口角がわずかに上がっていることに気が付き、笑いが止まらなくなった。
 ──高校三年生にもなって一体何をしてるんだよ、まったく。

「あーあ、結局びしょ濡れか」

 いっそ傘を差さずにこのまま帰ってもいいかもしれない。諦めて歩き出そうとした瞬間、ふっと灰島が動いた。

「寺本こっち」

「え?」

 腕を掴まれ、強引に連れて行かれたのは一年前に潰れた酒屋の軒下だった。硬く閉じられたシャッターは久しく開けられていないようで、茶色く錆ついている。雨宿りするには心許ない屋根。でも雨を凌ぐのにちょうどいい。

「めちゃくちゃ濡れた」

 灰島はため息とともに傘を畳み、シャッターに持ち手を立て掛けた。

「風邪引きそう……」

 言いながらぶるりと体が震えた。五月中旬とはいえ雨の日は気温が低い。おまけに制服の下に着込んだ肌着まで濡れてしまって、肌にぴたりと張り付いている。鳥肌が立ちっぱなしだ。

「寒い?」

「うー、まあ若干」

「どうする。このまま帰るか、弱まるの待つか」

 駅まであと十分は歩く。待つより走ったほうが良い気がするが、ここに連れて来てくれたことを考えると、なんとなく言えなかった。

「……雨雲レーダーみたいやつあるよな? ちょっと調べるわ」

 寺本はスマホを取り出した。画面には大雨警報の通知が届いており、予報ではこれからさらに強い雨が降るそうだ。

「さすがに移動しないと……」

 言いながら顔を上げたところで、ふわりと首筋に柔らかなものが押し付けられた。灰島のハンカチだ。考えなくてもすぐに分かった。

「お、俺はいいって。自分で使えよ」

「拭かないと風邪引く」

 突っぱねた手はあっさり払われた。
 ごく真剣な目つきで、背中を丸めた灰島がそっとハンカチを当ててくる。頭から頬。前髪を掴んで、おでこ。近づくたびにあの匂いが鼻をくすぐる。

「……っ」

 球技大会の時もそうだった。自分より先に他人にタオルを使わせるなんて、灰島の優しさはちょっと変わってる。
 そうやって余計なことを必死に考えた。どくどくどく、と駆け回る心臓の音は、雨音がきっとかき消してくれている。

「もう、いいから」

「まだ濡れてる」

「……お前さ、キモくないの? 自分が使う前に拭いちゃって」

「キモい? そんなこと思わない」

「や、でも……汚れるし」

 灰島は本当に理解ができないと言うように、「何で汚れんの」と首を傾げた。

「何って、まあ汗とか。わかんないけど」

「俺は気にならない」

「変なの」

 下手な照れ隠しだった。まともに礼も言えないまま、すっと灰島の手が離れていく。
 ──早く移動しなきゃいけない。お互い分かっているはずが、なぜかシャッターに凭れかかった。濡れた腕が触れ合っている。分かっていてもわざわざ離れるのは憚られた。
 ざああっと目の前を大きな雨の波が通り過ぎていく。他には誰もいない。自分と、灰島の二人だけ。

「……灰島ってさ、タイプなの? 加藤さん」

 正面を向いたまま問いかけた寺本の声が、雨に吸い込まれていった。

「なんでそう思った?」

「だって、なんか。見てて思った。話してる時も楽しそうだったし。連絡先も……交換してあげてさ」

 喋れば喋るほど、本人には言いたくなかった言葉が出てくる。これじゃあまるで嫉妬してるみたいだ。

「嫉妬してんの」

「えっ!?」

 横を向いた瞬間、灰島と視線が交わった。すべてを見透かされそうな瞳。逃れられない。何か言わなければと頭を回転させているうちに、

「冗談」

 灰島の諦めにも似たような声がぽつりと落ちた。