第5話 予定にない一時間
翌朝、希歩は目覚ましが鳴る四分前に目を開けた。
枕元の時計は六時四十一分。
体調に問題はない。睡眠時間も足りている。
昨夜、ホテルへ戻ってから報告書を開かなかった判断も、結果として正しかった。
ベッドの上で一度だけ伸びをしてから、希歩は起き上がった。
スマートフォンの予定表を開く。
九時、公園。
九時十五分、修正後確認。
十時三十分、引き渡し。
十一時二十分、駅へ移動。
十三時十二分、帰りの列車。
その間にある昼食欄には、時間だけが入っていた。
十二時前後。
店名はない。
昨日の朝なら、その空白を見た時点で落ち着かなかったはずだ。
いまも、少しだけ気になる。
ただ、それは不備ではない。
決めていないだけだ。
*
公園に着くと、里菜はすでに滝側の制御盤を開けていた。
「おはよう。昨夜、ちゃんと食べた?」
「食べた」
「何?」
「煮込みハンバーグ」
里菜が顔を上げる。
「希歩が予定表に入れてない店に自分から入ったやつ?」
「どうしてそこまで知ってるの」
「なぎさ」
答えは早かった。
ほぼ同時に、イヤホンからなぎさの声が入る。
『情報共有は大事なので』
「業務情報だけにして」
『空腹は稼働情報です』
「分類を見直して」
『改善提案として受け付けました』
里菜が笑う。
希歩も端末を開いた。
「始めよう」
昨夜、旧音源は参照対象から隔離した。
再接続時に参照する先も、現行の無音ファイルへ修正している。
ただし、原因がわかったことと、直ったことは同じではない。
希歩が欲しいのは後者だった。
昼間の通常配信。
夜間モードを想定した電子音楽ストリーム。
短い通信瞬断。
自動再接続。
朝の公園で夜間の条件を確かめるため、滝周辺の対象系統だけを検証モードにし、電子音楽ストリームを手動で起動する。
昨日まで三音を呼び出していた条件を、順番に重ねていく。
「瞬断、入れるよ」
里菜が言う。
「三、二、一」
希歩は時刻を見る。
ストリームが途切れる。
滝の水音だけが残る。
一秒。
二秒。
電子音楽が戻った。
三音は鳴らない。
『中央側、異常なし。再接続一回。設定外配信なし』
なぎさが告げる。
里菜の画面にも、ローカル音源の呼び出しはない。
希歩は結果を入力した。
「もう一回」
「了解」
二回目。
同じ条件。
同じ瞬断。
同じ再接続。
やはり三音は鳴らなかった。
滝の音が、ただの滝の音として続いている。
希歩は記録欄へ「再現なし」と入力した。
「応急対応の確認、二回とも正常」
「じゃあ、残ってる旧チャイムを消す」
昨夜のうちに保全した複製は本社側へ保存済みだった。里菜がメーカー手順を確認し、非常用領域に残っていた旧チャイムだけを削除する。希歩は対象と削除時刻を記録し、なぎさは中央側の現行設定に影響がないことを確認した。
削除後、三人はもう一度だけ同じ再接続試験を行った。
三音は鳴らない。
これで、古い音源を残したまま参照だけ外す応急対応から、不要データそのものを除く恒久対応まで終わった。
希歩は最終結果を記録欄へ追記した。
その文字を見て、昨日の夜より少しだけ肩の力が抜けた。
原因不明の状態が嫌いなのは、今も変わらない。
だから原因を残す。
直した内容を残す。
次に同じことが起きないよう、手順を残す。
それでいい。
*
報告書の最後に、希歩は一行追加した。
「一時利用コンテンツ終了時、中央側削除に加え、各エッジ端末の非常用領域を確認すること」
その下に、対象機器一覧と確認方法を添える。
里菜が横から覗き込んだ。
「そこまで書く?」
「書く。今回は中央側では削除済み扱いだったから、通常の確認だけだと同じ残り方をする可能性がある」
「まあ、それはそう」
「企画終了時の撤去チェックにも追加したほうがいい」
『本社側の標準手順にも反映申請出しとく』
なぎさが言う。
希歩はうなずいた。
今回の障害を、今回だけの特殊例として閉じない。
失敗したときや異常が出たとき、何が足りなかったかを振り返る。
次は足りないままにしない。
そこは、出張前から変わっていない。
変わったのは、改善のために未来の時刻まで埋め尽くす必要はないとわかったことだ。
決まっていない条件には、止める基準だけ置けばいい。
「昨日の終了条件も、それだったね」
里菜が言った。
「何が?」
「二十二時半で安全判断。前の希歩なら『二十一時五十分終了予定』とか書いて、二十一時五十一分になった瞬間に顔が固くなってた」
「そんな顔してない」
『してる』
なぎさが即答した。
「二人とも、よく見てるね」
『監視担当なので』
「私も監視担当だけど」
『じゃあ自己監視の精度に改善余地あり』
希歩は反論しかけた。
里菜が先に言う。
「でも、昨日のやつは良かったと思うよ。終わる時刻を決められないなら、安全の線だけ決める。ああいうのでいいじゃん」
「条件が不明だったから、確定していない部分を空けただけ」
『それを世間では余白と呼びます』
「呼ばない」
『呼びます』
里菜がまた笑った。
希歩は予定表を見た。
十時十八分。
引き渡し予定までは十二分ある。
以前なら、その十二分にも確認作業を足した。
今は報告書をもう一度読み、直すところがないことだけ確認して端末を閉じた。
空いた十二分を、無理に作業で埋めなくてもいい。
*
公園管理側の準備が整ったため、説明は予定より少し早く始まり、そのまま滞りなく終わった。
里菜は別の保守先へ向かうため、公園前で別れることになった。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れさま」
「次の出張も一緒なら、今度は飯くらい付き合ってよ」
「ひとりメシの案件じゃなくなる」
「そこ気にする?」
『じゃあ私は遠隔参加で』
イヤホンからなぎさが入る。
「食事を遠隔参加しないで」
『写真だけ待ってます』
「送らない」
「昨日のハンバーグは?」
「撮ってない」
里菜が少し驚いた顔をする。
「珍しい。記録しなかったんだ」
「必要な記録じゃなかったから」
言ってから、希歩は自分でも少し可笑しくなった。
必要な記録ではない。
でも、覚えている。
湯気も、ソースの匂いも。
月明かりの滝も。
記録しなければ残らないものばかりではないらしい。
「じゃあね、希歩」
「うん。また」
里菜が手を上げて歩き出す。
なぎさとの通話も切れた。
一人になる。
神戸へ来てから三日目。
初日は、一人になればすぐ次の予定を見た。
いまも発車時刻は頭に入っている。
十三時十二分。
忘れてはいない。
*
駅の近くへ戻った時点で、十二時前だった。
希歩は改札前の案内表示を見る。
帰りの列車までは、まだ一時間以上ある。
荷物は大きくない。
指定席も取ってある。
発車ホームも確認済み。
今すぐ改札へ入る理由はなかった。
以前なら、それでも入った。
列車が止まったら。
道が混んだら。
店で待たされたら。
起こるかもしれない遅れを、全部先に潰しておくほうが安心だった。
希歩は予定表を開く。
十二時前後、昼食。
それだけ。
検索欄を開けば、駅から近い店も、待ち時間が短そうな店も、口コミの多い店もすぐ出る。
指が動きかける。
止めた。
スマートフォンをポケットへ戻す。
駅とは反対側へ数歩歩く。
知らない通りだった。
それでも、初日のような落ち着かなさはない。
発車までの残り時間はわかっている。
駅まで戻るのに何分かかるかも、大まかには見積もれる。
全部を決めなくても、必要なところだけ押さえていれば戻れる。
角を曲がる。
どこかから、鉄板にへらが当たる乾いた音がした。
続いて、焼けたソースの匂いが流れてくる。
希歩は足を止めた。
小さな店だった。
暖簾の横に、手書きの品書きが出ている。
お好み焼き。
焼きそば。
そばめし。
「そばめし……」
声に出してから、少し笑う。
そばなのか、飯なのか。
どちらか一つでいいのでは、と一瞬思った。
その判断の仕方が、妙に自分らしい。
店内を見る。
カウンターに一席空いている。
時計を見る。
十二時七分。
列車までは、まだ一時間以上ある。
店で食べる時間も、駅へ戻る時間もある。
希歩は扉を開けた。
「一人です」
カウンターへ案内される。
目の前に鉄板がある。
熱が少し頬へ届く。
「そばめし、お願いします」
注文した。
それだけで、少し妙な気分になった。
初日の昼は、列車の中で注文まで決めていた。
初日の夜は、決めていた店が閉まっていたから別の店へ入った。
昨夜は、仕事が終わって空腹に気づいてから、自分で道を曲がった。
今日は、何も起きていない。
店が閉まっていたわけでもない。
誰かに勧められたわけでもない。
予定が崩れたわけでもない。
ただ、一時間あった。
だから、自分で使った。
鉄板の上で、焼きそばとご飯が細かく刻まれていく。
へらが何度も鉄板を打つ。
ソースが回しかけられた瞬間、香りが強くなる。
麺とご飯の境目は、だんだんわからなくなった。
皿に盛られたそばめしは、想像していたよりずっと細かい。
希歩は箸を入れた。
一口。
最初にソースの甘辛い味が来る。
次に、細かく刻まれた麺の弾力と、ご飯の粒が一緒に残る。
熱い。
鉄板の前だから、皿までしっかり熱を持っている。
希歩は水を飲んだ。
もう一口食べる。
焼きそばだけとも、ご飯だけとも違う。
そこで、初日の夜の酸味を思い出した。
ザワークラウト。
あのときも、最初は単独で食べて戸惑った。
ソーセージと一緒に食べて、もう一口と思った。
味はまるで違う。
共通しているのは、それくらいだった。
知らなかったものを、自分で選んで口にした。
希歩はそれ以上、意味を考えなかった。
目の前の皿が冷めるほうが惜しい。
へらの音。
隣の客が水を注ぐ音。
店の奥から聞こえる短い笑い声。
公園の滝とは違う音ばかりだ。
でも今は、仕事の異常音として数えなくていい。
希歩はゆっくり食べた。
*
店を出たのは十二時三十八分だった。
発車まで三十四分。
駅までは、来た道を戻れば十分もかからない。
希歩は歩きながら時刻を確認する。
余裕はある。
早足になる必要もない。
ソースの匂いが、まだ少し服に残っている気がした。
駅へ戻る途中、スマートフォンが震えた。
なぎさからだった。
『無事帰還中?』
『駅へ戻ってる』
数秒後。
『昼食は?』
希歩は返信欄を開く。
『そばめし』
送る。
すぐにスタンプが三つ返ってきた。
続いて里菜からも届く。
『写真』
希歩は立ち止まった。
写真はない。
食べる前に撮ろうとも思わなかった。
『ない』
『また?』
『食べたから』
送ってから、希歩は笑った。
写真がなくても、何を食べたかは覚えている。
店の場所も、鉄板の熱も。
次に同じ街へ来たとき、同じ店へ行くかはわからない。
別の店へ入るかもしれない。
それでいい。
*
列車は十三時十二分、予定どおりに動き出した。
希歩は窓側の席に座り、荷物を足元へ収める。
公園の最終確認結果を本社へ送る。
報告書の提出予約も済ませた。
これで今回の出張業務は終わりだった。
予定表を開く。
三日間の項目が並んでいる。
到着。
点検。
再現確認。
ログ解析。
夜間試験。
引き渡し。
帰路。
時刻の記録は、ほぼ埋まっている。
初日の昼食には十八分。
昨夜の夕食欄は空白。
今日の昼食欄も、店名は入っていない。
希歩はそれを見た。
直したいとは思わなかった。
画面を翌月へ送る。
一件、別の都市への出張予定が入っている。
日付。
目的地。
作業内容。
まだ移動手段もホテルも確定していない。
以前なら、この段階で周辺の地図を開いていた。
駅から現地までの経路を調べ、昼食候補を三つ出し、口コミの待ち時間まで確認していたはずだ。
列車もホテルも、仕事の開始時刻も確認する。
必要な準備は、これからも変えない。
ただ、食事まで今ここで決める必要はない。
希歩は検索欄を開いた。
目的地の名前を入れる。
続けて、
「一人 夕食」
と打ちかけた。
指を止める。
窓の外へ目を向けた。
神戸の街が後ろへ流れていく。
山の斜面。
屋根。
高架。
遠くの建物。
来たときにも見た景色だった。
でも、その間にあるものを、今は少し知っている。
滝のそばの古い機械。
三音のチャイム。
月明かり。
酸っぱいキャベツ。
温かいハンバーグ。
鉄板の上で混ざった麺とご飯。
どれも出発前の予定表にはなかった。
希歩は検索欄の文字を消した。
「着いてから決めてもいいかもしれない」
誰に言うでもなく、つぶやく。
列車は速度を上げる。
次の出張でも、予定はきちんと立てるだろう。
発車時刻も、集合時刻も、必要な余白も確認する。
そのうえで、一つくらい決めない時間を残してみる。
そこに何が入るのかは、その街へ着いてから考えればいい。
次は、何を食べることになるのだろう。
希歩は予定表を閉じた。
そのことを、少しだけ楽しみにしていた。
(End)
【終】
【完】
翌朝、希歩は目覚ましが鳴る四分前に目を開けた。
枕元の時計は六時四十一分。
体調に問題はない。睡眠時間も足りている。
昨夜、ホテルへ戻ってから報告書を開かなかった判断も、結果として正しかった。
ベッドの上で一度だけ伸びをしてから、希歩は起き上がった。
スマートフォンの予定表を開く。
九時、公園。
九時十五分、修正後確認。
十時三十分、引き渡し。
十一時二十分、駅へ移動。
十三時十二分、帰りの列車。
その間にある昼食欄には、時間だけが入っていた。
十二時前後。
店名はない。
昨日の朝なら、その空白を見た時点で落ち着かなかったはずだ。
いまも、少しだけ気になる。
ただ、それは不備ではない。
決めていないだけだ。
*
公園に着くと、里菜はすでに滝側の制御盤を開けていた。
「おはよう。昨夜、ちゃんと食べた?」
「食べた」
「何?」
「煮込みハンバーグ」
里菜が顔を上げる。
「希歩が予定表に入れてない店に自分から入ったやつ?」
「どうしてそこまで知ってるの」
「なぎさ」
答えは早かった。
ほぼ同時に、イヤホンからなぎさの声が入る。
『情報共有は大事なので』
「業務情報だけにして」
『空腹は稼働情報です』
「分類を見直して」
『改善提案として受け付けました』
里菜が笑う。
希歩も端末を開いた。
「始めよう」
昨夜、旧音源は参照対象から隔離した。
再接続時に参照する先も、現行の無音ファイルへ修正している。
ただし、原因がわかったことと、直ったことは同じではない。
希歩が欲しいのは後者だった。
昼間の通常配信。
夜間モードを想定した電子音楽ストリーム。
短い通信瞬断。
自動再接続。
朝の公園で夜間の条件を確かめるため、滝周辺の対象系統だけを検証モードにし、電子音楽ストリームを手動で起動する。
昨日まで三音を呼び出していた条件を、順番に重ねていく。
「瞬断、入れるよ」
里菜が言う。
「三、二、一」
希歩は時刻を見る。
ストリームが途切れる。
滝の水音だけが残る。
一秒。
二秒。
電子音楽が戻った。
三音は鳴らない。
『中央側、異常なし。再接続一回。設定外配信なし』
なぎさが告げる。
里菜の画面にも、ローカル音源の呼び出しはない。
希歩は結果を入力した。
「もう一回」
「了解」
二回目。
同じ条件。
同じ瞬断。
同じ再接続。
やはり三音は鳴らなかった。
滝の音が、ただの滝の音として続いている。
希歩は記録欄へ「再現なし」と入力した。
「応急対応の確認、二回とも正常」
「じゃあ、残ってる旧チャイムを消す」
昨夜のうちに保全した複製は本社側へ保存済みだった。里菜がメーカー手順を確認し、非常用領域に残っていた旧チャイムだけを削除する。希歩は対象と削除時刻を記録し、なぎさは中央側の現行設定に影響がないことを確認した。
削除後、三人はもう一度だけ同じ再接続試験を行った。
三音は鳴らない。
これで、古い音源を残したまま参照だけ外す応急対応から、不要データそのものを除く恒久対応まで終わった。
希歩は最終結果を記録欄へ追記した。
その文字を見て、昨日の夜より少しだけ肩の力が抜けた。
原因不明の状態が嫌いなのは、今も変わらない。
だから原因を残す。
直した内容を残す。
次に同じことが起きないよう、手順を残す。
それでいい。
*
報告書の最後に、希歩は一行追加した。
「一時利用コンテンツ終了時、中央側削除に加え、各エッジ端末の非常用領域を確認すること」
その下に、対象機器一覧と確認方法を添える。
里菜が横から覗き込んだ。
「そこまで書く?」
「書く。今回は中央側では削除済み扱いだったから、通常の確認だけだと同じ残り方をする可能性がある」
「まあ、それはそう」
「企画終了時の撤去チェックにも追加したほうがいい」
『本社側の標準手順にも反映申請出しとく』
なぎさが言う。
希歩はうなずいた。
今回の障害を、今回だけの特殊例として閉じない。
失敗したときや異常が出たとき、何が足りなかったかを振り返る。
次は足りないままにしない。
そこは、出張前から変わっていない。
変わったのは、改善のために未来の時刻まで埋め尽くす必要はないとわかったことだ。
決まっていない条件には、止める基準だけ置けばいい。
「昨日の終了条件も、それだったね」
里菜が言った。
「何が?」
「二十二時半で安全判断。前の希歩なら『二十一時五十分終了予定』とか書いて、二十一時五十一分になった瞬間に顔が固くなってた」
「そんな顔してない」
『してる』
なぎさが即答した。
「二人とも、よく見てるね」
『監視担当なので』
「私も監視担当だけど」
『じゃあ自己監視の精度に改善余地あり』
希歩は反論しかけた。
里菜が先に言う。
「でも、昨日のやつは良かったと思うよ。終わる時刻を決められないなら、安全の線だけ決める。ああいうのでいいじゃん」
「条件が不明だったから、確定していない部分を空けただけ」
『それを世間では余白と呼びます』
「呼ばない」
『呼びます』
里菜がまた笑った。
希歩は予定表を見た。
十時十八分。
引き渡し予定までは十二分ある。
以前なら、その十二分にも確認作業を足した。
今は報告書をもう一度読み、直すところがないことだけ確認して端末を閉じた。
空いた十二分を、無理に作業で埋めなくてもいい。
*
公園管理側の準備が整ったため、説明は予定より少し早く始まり、そのまま滞りなく終わった。
里菜は別の保守先へ向かうため、公園前で別れることになった。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れさま」
「次の出張も一緒なら、今度は飯くらい付き合ってよ」
「ひとりメシの案件じゃなくなる」
「そこ気にする?」
『じゃあ私は遠隔参加で』
イヤホンからなぎさが入る。
「食事を遠隔参加しないで」
『写真だけ待ってます』
「送らない」
「昨日のハンバーグは?」
「撮ってない」
里菜が少し驚いた顔をする。
「珍しい。記録しなかったんだ」
「必要な記録じゃなかったから」
言ってから、希歩は自分でも少し可笑しくなった。
必要な記録ではない。
でも、覚えている。
湯気も、ソースの匂いも。
月明かりの滝も。
記録しなければ残らないものばかりではないらしい。
「じゃあね、希歩」
「うん。また」
里菜が手を上げて歩き出す。
なぎさとの通話も切れた。
一人になる。
神戸へ来てから三日目。
初日は、一人になればすぐ次の予定を見た。
いまも発車時刻は頭に入っている。
十三時十二分。
忘れてはいない。
*
駅の近くへ戻った時点で、十二時前だった。
希歩は改札前の案内表示を見る。
帰りの列車までは、まだ一時間以上ある。
荷物は大きくない。
指定席も取ってある。
発車ホームも確認済み。
今すぐ改札へ入る理由はなかった。
以前なら、それでも入った。
列車が止まったら。
道が混んだら。
店で待たされたら。
起こるかもしれない遅れを、全部先に潰しておくほうが安心だった。
希歩は予定表を開く。
十二時前後、昼食。
それだけ。
検索欄を開けば、駅から近い店も、待ち時間が短そうな店も、口コミの多い店もすぐ出る。
指が動きかける。
止めた。
スマートフォンをポケットへ戻す。
駅とは反対側へ数歩歩く。
知らない通りだった。
それでも、初日のような落ち着かなさはない。
発車までの残り時間はわかっている。
駅まで戻るのに何分かかるかも、大まかには見積もれる。
全部を決めなくても、必要なところだけ押さえていれば戻れる。
角を曲がる。
どこかから、鉄板にへらが当たる乾いた音がした。
続いて、焼けたソースの匂いが流れてくる。
希歩は足を止めた。
小さな店だった。
暖簾の横に、手書きの品書きが出ている。
お好み焼き。
焼きそば。
そばめし。
「そばめし……」
声に出してから、少し笑う。
そばなのか、飯なのか。
どちらか一つでいいのでは、と一瞬思った。
その判断の仕方が、妙に自分らしい。
店内を見る。
カウンターに一席空いている。
時計を見る。
十二時七分。
列車までは、まだ一時間以上ある。
店で食べる時間も、駅へ戻る時間もある。
希歩は扉を開けた。
「一人です」
カウンターへ案内される。
目の前に鉄板がある。
熱が少し頬へ届く。
「そばめし、お願いします」
注文した。
それだけで、少し妙な気分になった。
初日の昼は、列車の中で注文まで決めていた。
初日の夜は、決めていた店が閉まっていたから別の店へ入った。
昨夜は、仕事が終わって空腹に気づいてから、自分で道を曲がった。
今日は、何も起きていない。
店が閉まっていたわけでもない。
誰かに勧められたわけでもない。
予定が崩れたわけでもない。
ただ、一時間あった。
だから、自分で使った。
鉄板の上で、焼きそばとご飯が細かく刻まれていく。
へらが何度も鉄板を打つ。
ソースが回しかけられた瞬間、香りが強くなる。
麺とご飯の境目は、だんだんわからなくなった。
皿に盛られたそばめしは、想像していたよりずっと細かい。
希歩は箸を入れた。
一口。
最初にソースの甘辛い味が来る。
次に、細かく刻まれた麺の弾力と、ご飯の粒が一緒に残る。
熱い。
鉄板の前だから、皿までしっかり熱を持っている。
希歩は水を飲んだ。
もう一口食べる。
焼きそばだけとも、ご飯だけとも違う。
そこで、初日の夜の酸味を思い出した。
ザワークラウト。
あのときも、最初は単独で食べて戸惑った。
ソーセージと一緒に食べて、もう一口と思った。
味はまるで違う。
共通しているのは、それくらいだった。
知らなかったものを、自分で選んで口にした。
希歩はそれ以上、意味を考えなかった。
目の前の皿が冷めるほうが惜しい。
へらの音。
隣の客が水を注ぐ音。
店の奥から聞こえる短い笑い声。
公園の滝とは違う音ばかりだ。
でも今は、仕事の異常音として数えなくていい。
希歩はゆっくり食べた。
*
店を出たのは十二時三十八分だった。
発車まで三十四分。
駅までは、来た道を戻れば十分もかからない。
希歩は歩きながら時刻を確認する。
余裕はある。
早足になる必要もない。
ソースの匂いが、まだ少し服に残っている気がした。
駅へ戻る途中、スマートフォンが震えた。
なぎさからだった。
『無事帰還中?』
『駅へ戻ってる』
数秒後。
『昼食は?』
希歩は返信欄を開く。
『そばめし』
送る。
すぐにスタンプが三つ返ってきた。
続いて里菜からも届く。
『写真』
希歩は立ち止まった。
写真はない。
食べる前に撮ろうとも思わなかった。
『ない』
『また?』
『食べたから』
送ってから、希歩は笑った。
写真がなくても、何を食べたかは覚えている。
店の場所も、鉄板の熱も。
次に同じ街へ来たとき、同じ店へ行くかはわからない。
別の店へ入るかもしれない。
それでいい。
*
列車は十三時十二分、予定どおりに動き出した。
希歩は窓側の席に座り、荷物を足元へ収める。
公園の最終確認結果を本社へ送る。
報告書の提出予約も済ませた。
これで今回の出張業務は終わりだった。
予定表を開く。
三日間の項目が並んでいる。
到着。
点検。
再現確認。
ログ解析。
夜間試験。
引き渡し。
帰路。
時刻の記録は、ほぼ埋まっている。
初日の昼食には十八分。
昨夜の夕食欄は空白。
今日の昼食欄も、店名は入っていない。
希歩はそれを見た。
直したいとは思わなかった。
画面を翌月へ送る。
一件、別の都市への出張予定が入っている。
日付。
目的地。
作業内容。
まだ移動手段もホテルも確定していない。
以前なら、この段階で周辺の地図を開いていた。
駅から現地までの経路を調べ、昼食候補を三つ出し、口コミの待ち時間まで確認していたはずだ。
列車もホテルも、仕事の開始時刻も確認する。
必要な準備は、これからも変えない。
ただ、食事まで今ここで決める必要はない。
希歩は検索欄を開いた。
目的地の名前を入れる。
続けて、
「一人 夕食」
と打ちかけた。
指を止める。
窓の外へ目を向けた。
神戸の街が後ろへ流れていく。
山の斜面。
屋根。
高架。
遠くの建物。
来たときにも見た景色だった。
でも、その間にあるものを、今は少し知っている。
滝のそばの古い機械。
三音のチャイム。
月明かり。
酸っぱいキャベツ。
温かいハンバーグ。
鉄板の上で混ざった麺とご飯。
どれも出発前の予定表にはなかった。
希歩は検索欄の文字を消した。
「着いてから決めてもいいかもしれない」
誰に言うでもなく、つぶやく。
列車は速度を上げる。
次の出張でも、予定はきちんと立てるだろう。
発車時刻も、集合時刻も、必要な余白も確認する。
そのうえで、一つくらい決めない時間を残してみる。
そこに何が入るのかは、その街へ着いてから考えればいい。
次は、何を食べることになるのだろう。
希歩は予定表を閉じた。
そのことを、少しだけ楽しみにしていた。
(End)
【終】
【完】



