第4話 月明かりの公園
十九時二十二分。
希歩は公園の南口をくぐった。
昼間には犬を連れた人や、ベンチで話す学生がいた遊歩道に、もう人影はほとんどない。
植え込みの足元を照らす小さな灯りと、人工滝の周囲に設置された照明だけが、濡れた石を淡く浮かび上がらせている。
昼からかかっていた薄い雲が切れ、空には月が見えた。
滝から舞った細かな水滴が、照明とは違う白さで一瞬だけ光る。
希歩は足を止めた。
見たのは二秒ほどだった。
すぐに腕時計へ視線を戻す。
十九時二十三分。
「七分前」
「ちゃんと景色見てたのに、結局そこへ戻るんだ」
先に来ていた里菜が、点検扉の前で笑った。
「開始時刻は開始時刻」
「はいはい。こっち、直結準備できてる」
滝側コントローラーには保守端末が接続されている。
昼に見つけた旧チャイムは削除せず、読み取り専用のまま保全済みだ。
希歩は自分の端末を開き、記録表を表示した。
十九時二十八分。
なぎさとの通話をつなぐ。
『本社監視、準備よし。中央配信、通信状態、再接続履歴、全部同じ画面に出してる』
「時刻合わせる」
希歩は言った。
三人で表示時刻を読み上げる。
「十九時二十九分二十秒」
「こっちも二十秒」
『本社、二十秒』
「ずれなし」
希歩は記録する。
仕事を始める前に時計を揃える。
いつもなら当たり前の作業だ。
けれど今夜は、その当たり前が少し頼もしく感じた。
里菜は現地でしか見えないものを見る。
なぎさは本社でしか拾えない差分を見る。
自分は、その二つが同じ瞬間に起きたことを残す。
一人分の正確さだけでは足りない。
十九時三十分。
「開始」
*
管理側の了承を得て、滝周辺の対象系統だけを検証モードにし、夜間配信をいったん停止して十九時三十分に再起動した。公園内のほかの音響系統には影響しない。
待機状態の環境音が止まり、数秒の無音のあと、夜間用の低い電子音が滝の向こうから流れ始める。
一定の拍がある音楽ではない。
長く伸びる音の層が重なり、ときどき細い高音が水面をなぞるように入る。
希歩は滝の正面から少し外れた場所に立った。
「中央配信は?」
『正常。遅延も今のところ平常』
「現地?」
「ストリーム受信中。フォールバック参照なし」
里菜が答える。
五分。
十分。
何も起きない。
電子音楽は途切れず、三音も鳴らない。
十九時四十六分。
里菜が首を傾ける。
「通信断、こっちで作る?」
「まだ」
「昨日と同じ長さなら、安全な手順で落とせるよ」
「その前に自然発生があるか、二十分までは見る」
里菜は「了解」とだけ言って、端末へ戻った。
以前なら、こういう待ち時間を無駄だと思ったかもしれない。
何も起きないことを確認する時間。
けれど今日は違った。
再現しないことも条件の一つだ。
十九時五十分。
風向きが変わった。
滝のしぶきが少しだけ希歩の頬に届く。
月はさっきより高く見えた。
電子音楽の低い響きと、水が石へ落ち続ける音。
昼間と同じ場所なのに、別の場所のようだった。
『十九時五十二分、中央側で軽い遅延』
なぎさの声が入る。
「現地は?」
「受信継続。再接続なし」
三音もない。
希歩は記録した。
遅延だけでは発生しない。
十九時五十六分。
電子音楽が一つ終わり、次の音へ切り替わる。
希歩は耳を澄ませた。
何も鳴らない。
「曲間でもない」
『うん。今の切り替え、接続自体は維持されてる』
なぎさが言う。
里菜が滝側の画面を見たまま聞いた。
「じゃあ次、人工的に瞬断作る?」
希歩はすぐ答えず、昨日からの記録を開いた。
十八時七分十四秒。
ストリーム切断。
十八時七分十五秒。
再接続。
三音。
今日、十九時五十二分。
遅延は出たが、切断には至っていない。
十九時五十六分。
曲は変わったが、接続は切れていない。
差は一つに見えた。
「やる。ただし昨日と同じ程度。一秒前後」
「了解」
『中央側、監視強度上げる。手動操作の時刻も記録する』
「二十時ちょうどに実施」
希歩は言った。
四分ある。
里菜が試験手順を読み上げる。
希歩はそれを確認する。
なぎさも中央側で、再接続処理が走ることを確認する。
三人とも、やることは決まった。
二十時までの四分を、誰も急がなかった。
*
「五秒前」
希歩が言う。
「四、三、二、一」
里菜が操作する。
二十時〇分〇秒。
電子音楽が途切れた。
ほんの一瞬。
滝の音だけになる。
その直後。
――ピ、ポ、ン。
三音が、水音の中から浮いた。
昼、保守端末で聞いた音と同じだった。
けれど滝のそばで聞くと印象が違う。
最初の音の立ち上がりを水音が隠す。
最後の余韻も滝に飲まれる。
中央から曲が流れたようには聞こえない。
まるで、滝そのものが一瞬だけ音程を持ったようだった。
「再現」
希歩は言いながら時刻を記録する。
二十時〇分一秒。
『中央、切断一秒。再接続開始。三音の送信履歴なし』
「現地、出た」
里菜の声が重なる。
「フォールバック再生。通常監視に上がらないローカルログが一本」
「識別子」
「FBLK-A003」
希歩は昼の保全記録を開く。
旧チャイムの識別子。
末尾。
A003。
「一致する?」
『こっちでも照合する』
なぎさのキーボード音が通話に入り込む。
数秒後。
『一致。四年前の「最弱のドラゴン、最強のゴブリン」成功チャイム』
里菜が息を吐いた。
「いたね。最弱のドラゴン」
『四年越しで再登場』
「笑ってる場合じゃない」
希歩は言ったが、自分の声も少し軽くなっていた。
音の正体は、もう疑いようがない。
けれど再発防止には、もう一段必要だった。
「もう一度。同じ瞬断で、フォールバック参照が必ず起きるか確認」
「了解」
『次は中央側で再接続処理の開始時刻を細かく取る』
希歩は二回目の試験時刻を決めた。
二十時十分。
今度は、鳴るかどうかを待つ試験ではない。
何が、どの順序で起きるのかを見る。
*
二回目も三音は鳴った。
中央ストリーム切断。
滝側コントローラーが非常用領域を参照。
先頭の旧チャイムを再生。
中央ストリーム再接続。
通常再生へ復帰。
時間にすれば一秒ほど。
なぎさが、ファームウェア更新前の仕様資料を見つけた。
『前の版は、瞬断一秒程度ならローカル音源を参照しない。新しい版は無音を避けるため、接続を失った直後から非常用領域へ切り替える』
「それで更新後から鳴るようになった」
希歩が言う。
「昼に鳴らない理由もつながった」
里菜が続ける。
「昼の環境音はローカル定常再生。そもそもこの夜間ストリームみたいな再接続処理が走らない」
『夜だけ中央ストリームを張ってる。通信が一瞬切れたときだけ、新しいフォールバック処理が古い領域を見る』
「そこに四年前の三音が残っていた」
三人の言葉が、一つの順序に並ぶ。
希歩は記録表へまとめる。
古い音源が残っていた。
それだけでは鳴らない。
ファームウェアが変わった。
それだけでも昼には鳴らない。
夜間の電子音楽が中央ストリームで流れ、通信が瞬断し、再接続処理に入る。
その一秒だけ、古い音源が呼び出される。
中央は三音を送っていない。
だから中央ログには残らない。
滝側の指向性スピーカーだけで鳴るローカル再生。
だから音が明瞭に届く範囲は、滝周辺に限られる。
そして滝の水音が、前後を隠す。
利用者には「滝の音に混じる奇妙な旋律」として聞こえる。
「一本につながった」
希歩は言った。
画面の中で、なぎさが笑った気配がした。
『珍しく感想っぽい』
「事実」
「でも、うれしそう」
里菜も言う。
「原因不明が解消されたから」
『はいはい』
希歩は返事をせず、これまでの記録を見返した。
一日目の十八時七分。
自分が秒単位で残した発生時刻。
里菜が口にした、古い型のコントローラー。
なぎさが拾った、通信瞬断。
四年前の構成台帳。
ファームウェア更新。
夜間ストリームの差分。
どれか一つでも欠けていたら、もっと遠回りしただろう。
自分の記録だけでも足りない。
里菜の現場判断だけでも足りない。
なぎさの監視だけでも足りない。
三つの観察が同じ時刻につながったから、原因までたどり着けた。
「応急対応、やろう」
里菜が言う。
希歩は時計を見る。
二十時二十二分。
「旧音源を隔離。非常用領域の参照先を現行の無音ファイルへ変更。削除は明日の恒久対応で手順確認後」
『中央側、変更監視する』
「変更前後の状態、全部記録する」
役割を言い合う必要は、もうほとんどなかった。
*
作業は順調に進んだ。
旧チャイムを通常参照から外す。
非常用領域の先頭参照を現行設定へ戻す。
再接続時の動作を確認する。
二十時五十八分。
一回目の再試験。
電子音楽が一瞬途切れる。
三音は鳴らない。
二十一時七分。
二回目。
三音なし。
なぎさの監視にも、設定外の再生はない。
「今日はここまででいい」
希歩は言った。
里菜が時計を見る。
「二十一時十一分。安全判断まで一時間十九分余った」
「余らせるための上限じゃない」
「知ってる」
『でも、原因特定までって書いた予定は達成したね』
「応急対応まで終わった」
『そこ、予定より増えてますけど』
希歩は返事をせず、作業終了時刻を記録した。
二十一時十三分。
予定表には、十九時三十分から「原因特定まで」としか書いていない。
終わってみれば一時間四十三分だった。
以前なら、最初から二十一時十三分まで書けなかったことに落ち着かなさを覚えたかもしれない。
今は、必要な情報がない時点で固定しなかったことのほうが正しかったと思える。
予想ではなく、条件を決める。
何時までに終えるかではなく、何を終え、どこで安全上止めるか。
時間に正確でいることと、未来の時刻を全部決めることは同じではなかった。
里菜が工具ケースを閉じた。
「私は先戻るね。明日の交換手順、ホテルでメーカー資料だけ確認したい」
「無理しないで」
「希歩に言われる日が来るとは」
『歴史的瞬間』
「二人とも、明日九時」
「はいはい」
里菜は手を振り、公園出口へ歩いていった。
なぎさも本社側の監視を通常状態へ戻す。
『じゃ、私は一旦切る。何か出たら連絡する』
「ありがとう」
希歩が言う。
通話が一瞬静かになった。
『どういたしまして』
なぎさの声が、少しだけやわらかくなる。
『では最後の監視対象について一件』
「何」
『希歩本人。空腹アラート出てない?』
希歩は答えようとして、止まった。
腹部に意識を向ける。
空腹だった。
昼のサンドイッチから、もう九時間近い。
「出てる」
『重大アラートになる前に処理してください』
「了解」
『そこは素直なんだ』
通話が切れた。
*
公園出口まで歩く。
もう電子音楽は通常どおり流れている。
滝のそばを通った。
足が止まる。
――ピ、ポ、ン。
頭の中では、もう音を再現できる。
けれど実際に聞こえるのは、水の音だけだった。
月明かりが、滝のしぶきへ散っている。
希歩は今度は時計を見ずに、それを少し長く眺めた。
仕事を始める前にも見た。
同じ月で、同じ滝だったはずなのに、今のほうがよく覚えている気がした。
三音が止まったあとの水音は、思っていたより複雑だった。
強く落ちる音。
石へ当たって細かく弾ける音。
少し遅れて聞こえる低い響き。
昨日までは、それらを異常音の背景としてしか聞いていなかった。
希歩は公園を出る。
そこで初めて時計を見る。
二十一時二十七分。
当初の想定より遅い。
ホテルへ戻る最短経路は、右だった。
コンビニも右にある。
左には、まだ灯りの残る通りが見える。
店を探す時間まで予定に入れてはいない。
昨夜なら、臨時休業がなければ左を見ることもなかった。
希歩は右へ向きかけた。
空腹だった。
コンビニなら早い。
ホテルの部屋なら、明日の報告書の下書きもできる。
でも、応急対応は終わった。
報告書は明朝でも間に合う。
今やる必要がある仕事はない。
希歩は左へ歩いた。
何を食べるかは決めていない。
*
二つ目の角を曲がったところに、小さな洋食店があった。
入口の脇に、手書きのメニューが出ている。
ハンバーグ。
オムライス。
グラタン。
どれも知っている料理だった。
昨夜のザワークラウトのような、名前だけで立ち止まるものはない。
それでも希歩は、店の前で少し迷った。
空腹を満たすだけなら、もっと早い方法がある。
けれど今日は、早さを競う必要がない。
店内を見る。
カウンターに空席がある。
希歩は扉を開けた。
一人だと告げ、端の席へ座る。
注文したのは、煮込みハンバーグだった。
理由は単純だった。
店へ入った瞬間、奥から温かいソースの匂いがしたから。
料理が届くまで、希歩はスマートフォンを出さなかった。
仕事の端末も開かない。
カウンターの向こうで皿が重なる音を聞く。
外を歩く人の影が窓を横切る。
しばらくして、湯気の立つ皿が置かれた。
濃い色のソースの中に、丸いハンバーグが沈んでいる。
添えられたじゃがいもにも湯気が立っていた。
フォークを入れる。
中から熱が逃げる。
ひと口食べると、肉より先にソースの甘さと塩気が来た。
熱い。
希歩は少しだけ息を吹く。
昨日のように、知らない味ではない。
それでも、仕事が終わったあとに一人で座り、自分で選んだ温かい皿は、昼のサンドイッチとは違った。
誰かに誘われたわけではない。
店が休みだったから仕方なく入ったわけでもない。
今日は、自分から曲がった。
ホテルへの最短経路ではない道へ。
希歩はもう一口食べる。
時計は見なかった。
明日の開始時刻は九時。
ホテルまでの道もわかっている。
睡眠時間も十分に取れる。
必要な条件は、頭に入っている。
なら、この皿を食べ終える時刻まで決めなくてもいい。
*
店を出たとき、二十二時を少し回っていた。
公園で決めていた安全上限、二十二時三十分より前だ。
希歩はホテルへ向かいながら予定表を開いた。
今日の実績を入れる。
再現試験開始、十九時三十分。
原因特定、二十時十二分。
応急対応完了、二十一時十三分。
そこまで入力する。
夕食。
空欄だった項目を見つける。
店名。
開始時刻。
終了時刻。
指が止まった。
いつもなら記録する。
何時に入り、何時に出たか。
明日以降の参考にできるよう、待ち時間まで残すこともある。
けれど、今日の食事は業務記録ではない。
何分かかったかを残さなくても、忘れない気がした。
月明かりの滝。
三音が消えたあとの水音。
温かいソースの匂い。
それで十分だった。
希歩は夕食欄を開かないまま、予定表を閉じた。
仕事の時刻は、明日へ正確に引き継ぐ。
自分で選んだ一皿まで、数字にしなくてもいい。
ホテルの入口が見える。
希歩は歩きながら、明日の列車の発車時刻を思い出した。
もちろん、忘れてはいない。
ただ、その前の昼食をどこで食べるかは、まだ決めていなかった。
(End)
【終】
十九時二十二分。
希歩は公園の南口をくぐった。
昼間には犬を連れた人や、ベンチで話す学生がいた遊歩道に、もう人影はほとんどない。
植え込みの足元を照らす小さな灯りと、人工滝の周囲に設置された照明だけが、濡れた石を淡く浮かび上がらせている。
昼からかかっていた薄い雲が切れ、空には月が見えた。
滝から舞った細かな水滴が、照明とは違う白さで一瞬だけ光る。
希歩は足を止めた。
見たのは二秒ほどだった。
すぐに腕時計へ視線を戻す。
十九時二十三分。
「七分前」
「ちゃんと景色見てたのに、結局そこへ戻るんだ」
先に来ていた里菜が、点検扉の前で笑った。
「開始時刻は開始時刻」
「はいはい。こっち、直結準備できてる」
滝側コントローラーには保守端末が接続されている。
昼に見つけた旧チャイムは削除せず、読み取り専用のまま保全済みだ。
希歩は自分の端末を開き、記録表を表示した。
十九時二十八分。
なぎさとの通話をつなぐ。
『本社監視、準備よし。中央配信、通信状態、再接続履歴、全部同じ画面に出してる』
「時刻合わせる」
希歩は言った。
三人で表示時刻を読み上げる。
「十九時二十九分二十秒」
「こっちも二十秒」
『本社、二十秒』
「ずれなし」
希歩は記録する。
仕事を始める前に時計を揃える。
いつもなら当たり前の作業だ。
けれど今夜は、その当たり前が少し頼もしく感じた。
里菜は現地でしか見えないものを見る。
なぎさは本社でしか拾えない差分を見る。
自分は、その二つが同じ瞬間に起きたことを残す。
一人分の正確さだけでは足りない。
十九時三十分。
「開始」
*
管理側の了承を得て、滝周辺の対象系統だけを検証モードにし、夜間配信をいったん停止して十九時三十分に再起動した。公園内のほかの音響系統には影響しない。
待機状態の環境音が止まり、数秒の無音のあと、夜間用の低い電子音が滝の向こうから流れ始める。
一定の拍がある音楽ではない。
長く伸びる音の層が重なり、ときどき細い高音が水面をなぞるように入る。
希歩は滝の正面から少し外れた場所に立った。
「中央配信は?」
『正常。遅延も今のところ平常』
「現地?」
「ストリーム受信中。フォールバック参照なし」
里菜が答える。
五分。
十分。
何も起きない。
電子音楽は途切れず、三音も鳴らない。
十九時四十六分。
里菜が首を傾ける。
「通信断、こっちで作る?」
「まだ」
「昨日と同じ長さなら、安全な手順で落とせるよ」
「その前に自然発生があるか、二十分までは見る」
里菜は「了解」とだけ言って、端末へ戻った。
以前なら、こういう待ち時間を無駄だと思ったかもしれない。
何も起きないことを確認する時間。
けれど今日は違った。
再現しないことも条件の一つだ。
十九時五十分。
風向きが変わった。
滝のしぶきが少しだけ希歩の頬に届く。
月はさっきより高く見えた。
電子音楽の低い響きと、水が石へ落ち続ける音。
昼間と同じ場所なのに、別の場所のようだった。
『十九時五十二分、中央側で軽い遅延』
なぎさの声が入る。
「現地は?」
「受信継続。再接続なし」
三音もない。
希歩は記録した。
遅延だけでは発生しない。
十九時五十六分。
電子音楽が一つ終わり、次の音へ切り替わる。
希歩は耳を澄ませた。
何も鳴らない。
「曲間でもない」
『うん。今の切り替え、接続自体は維持されてる』
なぎさが言う。
里菜が滝側の画面を見たまま聞いた。
「じゃあ次、人工的に瞬断作る?」
希歩はすぐ答えず、昨日からの記録を開いた。
十八時七分十四秒。
ストリーム切断。
十八時七分十五秒。
再接続。
三音。
今日、十九時五十二分。
遅延は出たが、切断には至っていない。
十九時五十六分。
曲は変わったが、接続は切れていない。
差は一つに見えた。
「やる。ただし昨日と同じ程度。一秒前後」
「了解」
『中央側、監視強度上げる。手動操作の時刻も記録する』
「二十時ちょうどに実施」
希歩は言った。
四分ある。
里菜が試験手順を読み上げる。
希歩はそれを確認する。
なぎさも中央側で、再接続処理が走ることを確認する。
三人とも、やることは決まった。
二十時までの四分を、誰も急がなかった。
*
「五秒前」
希歩が言う。
「四、三、二、一」
里菜が操作する。
二十時〇分〇秒。
電子音楽が途切れた。
ほんの一瞬。
滝の音だけになる。
その直後。
――ピ、ポ、ン。
三音が、水音の中から浮いた。
昼、保守端末で聞いた音と同じだった。
けれど滝のそばで聞くと印象が違う。
最初の音の立ち上がりを水音が隠す。
最後の余韻も滝に飲まれる。
中央から曲が流れたようには聞こえない。
まるで、滝そのものが一瞬だけ音程を持ったようだった。
「再現」
希歩は言いながら時刻を記録する。
二十時〇分一秒。
『中央、切断一秒。再接続開始。三音の送信履歴なし』
「現地、出た」
里菜の声が重なる。
「フォールバック再生。通常監視に上がらないローカルログが一本」
「識別子」
「FBLK-A003」
希歩は昼の保全記録を開く。
旧チャイムの識別子。
末尾。
A003。
「一致する?」
『こっちでも照合する』
なぎさのキーボード音が通話に入り込む。
数秒後。
『一致。四年前の「最弱のドラゴン、最強のゴブリン」成功チャイム』
里菜が息を吐いた。
「いたね。最弱のドラゴン」
『四年越しで再登場』
「笑ってる場合じゃない」
希歩は言ったが、自分の声も少し軽くなっていた。
音の正体は、もう疑いようがない。
けれど再発防止には、もう一段必要だった。
「もう一度。同じ瞬断で、フォールバック参照が必ず起きるか確認」
「了解」
『次は中央側で再接続処理の開始時刻を細かく取る』
希歩は二回目の試験時刻を決めた。
二十時十分。
今度は、鳴るかどうかを待つ試験ではない。
何が、どの順序で起きるのかを見る。
*
二回目も三音は鳴った。
中央ストリーム切断。
滝側コントローラーが非常用領域を参照。
先頭の旧チャイムを再生。
中央ストリーム再接続。
通常再生へ復帰。
時間にすれば一秒ほど。
なぎさが、ファームウェア更新前の仕様資料を見つけた。
『前の版は、瞬断一秒程度ならローカル音源を参照しない。新しい版は無音を避けるため、接続を失った直後から非常用領域へ切り替える』
「それで更新後から鳴るようになった」
希歩が言う。
「昼に鳴らない理由もつながった」
里菜が続ける。
「昼の環境音はローカル定常再生。そもそもこの夜間ストリームみたいな再接続処理が走らない」
『夜だけ中央ストリームを張ってる。通信が一瞬切れたときだけ、新しいフォールバック処理が古い領域を見る』
「そこに四年前の三音が残っていた」
三人の言葉が、一つの順序に並ぶ。
希歩は記録表へまとめる。
古い音源が残っていた。
それだけでは鳴らない。
ファームウェアが変わった。
それだけでも昼には鳴らない。
夜間の電子音楽が中央ストリームで流れ、通信が瞬断し、再接続処理に入る。
その一秒だけ、古い音源が呼び出される。
中央は三音を送っていない。
だから中央ログには残らない。
滝側の指向性スピーカーだけで鳴るローカル再生。
だから音が明瞭に届く範囲は、滝周辺に限られる。
そして滝の水音が、前後を隠す。
利用者には「滝の音に混じる奇妙な旋律」として聞こえる。
「一本につながった」
希歩は言った。
画面の中で、なぎさが笑った気配がした。
『珍しく感想っぽい』
「事実」
「でも、うれしそう」
里菜も言う。
「原因不明が解消されたから」
『はいはい』
希歩は返事をせず、これまでの記録を見返した。
一日目の十八時七分。
自分が秒単位で残した発生時刻。
里菜が口にした、古い型のコントローラー。
なぎさが拾った、通信瞬断。
四年前の構成台帳。
ファームウェア更新。
夜間ストリームの差分。
どれか一つでも欠けていたら、もっと遠回りしただろう。
自分の記録だけでも足りない。
里菜の現場判断だけでも足りない。
なぎさの監視だけでも足りない。
三つの観察が同じ時刻につながったから、原因までたどり着けた。
「応急対応、やろう」
里菜が言う。
希歩は時計を見る。
二十時二十二分。
「旧音源を隔離。非常用領域の参照先を現行の無音ファイルへ変更。削除は明日の恒久対応で手順確認後」
『中央側、変更監視する』
「変更前後の状態、全部記録する」
役割を言い合う必要は、もうほとんどなかった。
*
作業は順調に進んだ。
旧チャイムを通常参照から外す。
非常用領域の先頭参照を現行設定へ戻す。
再接続時の動作を確認する。
二十時五十八分。
一回目の再試験。
電子音楽が一瞬途切れる。
三音は鳴らない。
二十一時七分。
二回目。
三音なし。
なぎさの監視にも、設定外の再生はない。
「今日はここまででいい」
希歩は言った。
里菜が時計を見る。
「二十一時十一分。安全判断まで一時間十九分余った」
「余らせるための上限じゃない」
「知ってる」
『でも、原因特定までって書いた予定は達成したね』
「応急対応まで終わった」
『そこ、予定より増えてますけど』
希歩は返事をせず、作業終了時刻を記録した。
二十一時十三分。
予定表には、十九時三十分から「原因特定まで」としか書いていない。
終わってみれば一時間四十三分だった。
以前なら、最初から二十一時十三分まで書けなかったことに落ち着かなさを覚えたかもしれない。
今は、必要な情報がない時点で固定しなかったことのほうが正しかったと思える。
予想ではなく、条件を決める。
何時までに終えるかではなく、何を終え、どこで安全上止めるか。
時間に正確でいることと、未来の時刻を全部決めることは同じではなかった。
里菜が工具ケースを閉じた。
「私は先戻るね。明日の交換手順、ホテルでメーカー資料だけ確認したい」
「無理しないで」
「希歩に言われる日が来るとは」
『歴史的瞬間』
「二人とも、明日九時」
「はいはい」
里菜は手を振り、公園出口へ歩いていった。
なぎさも本社側の監視を通常状態へ戻す。
『じゃ、私は一旦切る。何か出たら連絡する』
「ありがとう」
希歩が言う。
通話が一瞬静かになった。
『どういたしまして』
なぎさの声が、少しだけやわらかくなる。
『では最後の監視対象について一件』
「何」
『希歩本人。空腹アラート出てない?』
希歩は答えようとして、止まった。
腹部に意識を向ける。
空腹だった。
昼のサンドイッチから、もう九時間近い。
「出てる」
『重大アラートになる前に処理してください』
「了解」
『そこは素直なんだ』
通話が切れた。
*
公園出口まで歩く。
もう電子音楽は通常どおり流れている。
滝のそばを通った。
足が止まる。
――ピ、ポ、ン。
頭の中では、もう音を再現できる。
けれど実際に聞こえるのは、水の音だけだった。
月明かりが、滝のしぶきへ散っている。
希歩は今度は時計を見ずに、それを少し長く眺めた。
仕事を始める前にも見た。
同じ月で、同じ滝だったはずなのに、今のほうがよく覚えている気がした。
三音が止まったあとの水音は、思っていたより複雑だった。
強く落ちる音。
石へ当たって細かく弾ける音。
少し遅れて聞こえる低い響き。
昨日までは、それらを異常音の背景としてしか聞いていなかった。
希歩は公園を出る。
そこで初めて時計を見る。
二十一時二十七分。
当初の想定より遅い。
ホテルへ戻る最短経路は、右だった。
コンビニも右にある。
左には、まだ灯りの残る通りが見える。
店を探す時間まで予定に入れてはいない。
昨夜なら、臨時休業がなければ左を見ることもなかった。
希歩は右へ向きかけた。
空腹だった。
コンビニなら早い。
ホテルの部屋なら、明日の報告書の下書きもできる。
でも、応急対応は終わった。
報告書は明朝でも間に合う。
今やる必要がある仕事はない。
希歩は左へ歩いた。
何を食べるかは決めていない。
*
二つ目の角を曲がったところに、小さな洋食店があった。
入口の脇に、手書きのメニューが出ている。
ハンバーグ。
オムライス。
グラタン。
どれも知っている料理だった。
昨夜のザワークラウトのような、名前だけで立ち止まるものはない。
それでも希歩は、店の前で少し迷った。
空腹を満たすだけなら、もっと早い方法がある。
けれど今日は、早さを競う必要がない。
店内を見る。
カウンターに空席がある。
希歩は扉を開けた。
一人だと告げ、端の席へ座る。
注文したのは、煮込みハンバーグだった。
理由は単純だった。
店へ入った瞬間、奥から温かいソースの匂いがしたから。
料理が届くまで、希歩はスマートフォンを出さなかった。
仕事の端末も開かない。
カウンターの向こうで皿が重なる音を聞く。
外を歩く人の影が窓を横切る。
しばらくして、湯気の立つ皿が置かれた。
濃い色のソースの中に、丸いハンバーグが沈んでいる。
添えられたじゃがいもにも湯気が立っていた。
フォークを入れる。
中から熱が逃げる。
ひと口食べると、肉より先にソースの甘さと塩気が来た。
熱い。
希歩は少しだけ息を吹く。
昨日のように、知らない味ではない。
それでも、仕事が終わったあとに一人で座り、自分で選んだ温かい皿は、昼のサンドイッチとは違った。
誰かに誘われたわけではない。
店が休みだったから仕方なく入ったわけでもない。
今日は、自分から曲がった。
ホテルへの最短経路ではない道へ。
希歩はもう一口食べる。
時計は見なかった。
明日の開始時刻は九時。
ホテルまでの道もわかっている。
睡眠時間も十分に取れる。
必要な条件は、頭に入っている。
なら、この皿を食べ終える時刻まで決めなくてもいい。
*
店を出たとき、二十二時を少し回っていた。
公園で決めていた安全上限、二十二時三十分より前だ。
希歩はホテルへ向かいながら予定表を開いた。
今日の実績を入れる。
再現試験開始、十九時三十分。
原因特定、二十時十二分。
応急対応完了、二十一時十三分。
そこまで入力する。
夕食。
空欄だった項目を見つける。
店名。
開始時刻。
終了時刻。
指が止まった。
いつもなら記録する。
何時に入り、何時に出たか。
明日以降の参考にできるよう、待ち時間まで残すこともある。
けれど、今日の食事は業務記録ではない。
何分かかったかを残さなくても、忘れない気がした。
月明かりの滝。
三音が消えたあとの水音。
温かいソースの匂い。
それで十分だった。
希歩は夕食欄を開かないまま、予定表を閉じた。
仕事の時刻は、明日へ正確に引き継ぐ。
自分で選んだ一皿まで、数字にしなくてもいい。
ホテルの入口が見える。
希歩は歩きながら、明日の列車の発車時刻を思い出した。
もちろん、忘れてはいない。
ただ、その前の昼食をどこで食べるかは、まだ決めていなかった。
(End)
【終】



