予定表にない一時間

第3話 最弱のドラゴン、最強のゴブリン



 翌朝、希歩は六時四十二分に目を覚ました。

 アラームは六時四十五分。

 三分早い。

 枕元のスマートフォンへ手を伸ばし、画面を見たところで、昨日の昼と同じようなことを考えている自分に気づいた。

 三分をどこへ戻すか。

 洗面を早めるか。朝食へ早く降りるか。昨夜のログをもう一度見るか。

 そこまで考えてから、希歩はスマートフォンを伏せた。

 アラームが鳴るまで、目を閉じる。

 三分後、予定どおりに起きた。

     *

 ホテルの朝食会場は、七時十三分の時点で半分ほど席が埋まっていた。

 希歩は入口から料理台までの列を見て、待ち時間を目測する。

 二分以内。

 トレーを取り、いつもの出張朝食を選ぶ。
 卵料理。サラダ。ヨーグルト。コーヒー。

 これで十分だった。

 パンの棚の前を通り過ぎかけて、足が止まる。

 籠の端に、表面へ細かな種がついた小さな丸パンがあった。
 名前の札は見たことのないものだった。

 昨夜のザワークラウトを思い出す。

 酸っぱい、と最初は思った。
 けれどソーセージと一緒なら、もう一口食べたくなった。

 希歩は丸パンを一つ取った。

 席に着き、最初に半分へ割ってみる。
 中は思ったより柔らかく、香ばしい匂いがした。

 特別に感動する味ではなかった。
 ただ、取らなければ知らなかった。

 希歩はそれを食べ終え、七時三十一分に席を立った。

 予定より一分遅い。

 気にはなった。

 でも、公園への出発にはまだ十九分の余裕がある。

 一分は誤差ではなく、吸収できる範囲だった。

     *

 八時四十八分。

 希歩が公園入口へ着くと、里菜はもういた。

「二分前に着いた」

 里菜が腕時計を見て言う。

「八時四十六分。十四分前」

「そう。今日は私のほうが早かった」

「競ってない」

 昨日と同じ人工滝の音が、朝の公園に響いている。
 夜より人通りが多く、犬を連れた人や、速足で遊歩道を抜ける人がいる。

 あの三音は聞こえない。

 九時ちょうど、なぎさとの通話をつないだ。

『おはようございます。こちら本社、寝不足アラートは出てませんか』

「七時間二十一分寝た」

『聞いてない数字までありがとう』

「聞いたから答えた」

 里菜が工具ケースを開きながら笑った。

「じゃ、予定変更どおり、こっちから行くよ」

 滝の脇の点検扉を開ける。

 昨日、里菜が古い型だと言った小型コントローラーが収まっている。
 希歩は端末に表示した設備台帳と、機器に貼られた型番を照合した。

「登録あり。設置年は七年前」

「古いけど、保守対象から外れるほどじゃないな」

『中央側の現行構成では、その端末は滝周辺の二系統だけ担当。通常配信は全部、こっちから見えてる』

「ローカル保存領域は?」

「今見る」

 里菜が保守端末を接続する。

 希歩は作業開始時刻を記録した。

 九時八分。

 里菜が画面を操作する。

「通常の配信フォルダ、現行分だけ。夜間用の電子音楽、確認音、非常放送。変なのは見えない」

「三音に該当する音源名は?」

「ない」

『中央設定との差分も今のところなし』

 希歩は昨日の仮説へ線を引いた。

 現地にある?

 通常領域にはない。

 なら、仮説が外れたのか。

 里菜はすぐに次の画面へ移った。

「ストレージ容量、ちょっと変だな」

「何が?」

「使用量が多い」

 希歩は機器仕様書を開く。

「現行音源の総容量は?」

『中央登録分なら二百六十メガ弱』

「こっち、使用済みが四百近い」

 里菜が答えた。

 希歩は数字を見比べる。

 百メガ以上、説明がつかない。

「ログ?」

「ログ領域は別」

『キャッシュ?』

「それにしては固定で食ってる感じ」

 里菜の手が止まった。

「昔の構成、残ってない?」

 希歩はすぐに設備履歴を検索した。

 大規模改修なし。
 端末交換なし。
 音響系統変更なし。

 見える履歴だけなら、今の構成がずっと続いている。

『待って』

 なぎさが言った。

 声の調子が変わった。

『設備台帳じゃなくて、構成管理の古いほうを掘る。こういう一時利用、正式台帳に残らないことある』

「探せる?」

『探す。ファイル名が人類に優しければ』

「期待できないね」

 里菜が言う。

『去年の“最終版_本当の最終_修正版2”を見た私に怖いものはない』

 希歩は話を聞きながら、里菜の操作履歴を記録する。

 通常領域確認。
 現行構成との差分なし。
 ストレージ使用量に不一致。

 里菜は別の診断画面を開いた。

「希歩、こっちにも通常画面から見えない領域がある。非常時フォールバック用」

「中身は?」

「権限上げないと見えない。先に履歴待つ?」

 希歩は時計を見た。

 九時四十六分。

 昨日までの自分なら、予定順に沿って先に中央設定との差分確認へ進んだかもしれない。

 けれど今は、容量の不一致がある。
 見えない領域もある。

「履歴と並行。里菜はフォールバック領域を読み取り専用で確認。変更はしない」

「了解」

 里菜は迷わず作業を組み替えた。

 その速さを見て、希歩は少しだけ考える。

 里菜は予定を無視しているわけではない。

 新しい情報が出るたびに、次に確かめる価値が高いものを入れ替えている。
 そして、何を変えたかは残している。

 順番が変わることと、雑であることは同じではない。

 希歩は自分の作業メモへ、変更理由を入力した。

 《容量不一致確認のため、非常用領域を優先確認》

 予定変更。

 理由あり。

 それなら問題ない。

     *

 十時十三分。

『見つけた』

 なぎさが言った。

 里菜と希歩が同時に通話画面を見る。

『四年前。市の地域回遊企画。期間限定で滝周辺に位置連動コンテンツを追加してる』

「企画名は?」

『えーと……』

 なぎさが一拍置いた。

『「最弱のドラゴン、最強のゴブリン」』

 沈黙した。

 滝だけが鳴っている。

「何それ」

 最初に言ったのは里菜だった。

『私に聞かれても。正式名称です。誤字じゃない』

「逆じゃない?」

『だから企画書も確認した。最弱のドラゴンを、最強のゴブリンから助ける地域回遊ゲームだって』

「ドラゴン、弱いんだ」

『かなり弱かったみたい。企画書に“逃げ足だけは速い”って書いてある』

 里菜が笑う。

 希歩は笑わず、なぎさが共有した古い構成図を拡大した。

「滝側端末に追加設定あり」

『そう。位置判定は別システムだけど、成功時の短いチャイムだけ現地端末から鳴らしてる。中央経由だと遅延が出るから、ローカル保存』

「長さは?」

『一秒ちょっと。三音』

 希歩と里菜が顔を見合わせた。

「ファイル名わかる?」

『ゲーム側の資料だと、SUCCESS_WATERFALL_03』

 里菜が保守端末へ視線を戻す。

「非常用領域、見えた」

 一覧の中に、意味のわからない古い識別子がいくつか並んでいた。
 通常配信フォルダとは違い、人が読む前提ではない表示だ。

「これ、日時が四年前」

 里菜が一つを指す。

 希歩はなぎさの資料と照合する。

「容量は?」

「小さい。音なら一秒くらい」

「再生しないでコピーできる?」

「できる」

「保全して、複製が元データと一致するのを確認してから再生」

「了解」

 里菜がすぐに操作する。

 なぎさが笑った。

『希歩、ゲームのチャイム相手でも捜査資料みたいだね』

「原因を消したら比較できない」

『ごもっとも』

 数分後、保全した音源を里菜の保守端末だけで再生した。

 音量を絞る。

 ――ピ、ポ、ン。

 三音。

 昨日、滝の音の中から浮いたものと同じ並びだった。

 希歩の背中が少し伸びる。

「一致」

「うん。これだ」

『企画資料の試聴データとも波形ほぼ一致』

 なぎさが答える。

 音の正体は見つかった。

 けれど希歩は、安堵するより先に別の違和感を覚えた。

 四年前から、ここにあった。

「企画終了後の削除記録は?」

『中央側はある。ゲーム用配信データ削除、位置連動設定撤去、ってなってる』

「現地端末は?」

『記録上は“設定復旧確認”だけ。非常用領域まで消した記載はない』

 里菜が腕を組む。

「じゃあ、消し忘れだ」

「残存はそう。でも、それだけじゃ昨日鳴った理由にならない」

「だよね」

 里菜はすぐに頷いた。

「四年間ずっと鳴ってたなら、もっと前から申告がある」

『管理側の履歴でも、今回みたいな申告が増えたのはここ一か月くらい』

 希歩は画面を切り替えた。

「最近の変更は?」

『待って。保守履歴だと――』

 なぎさが検索する。

『三週間前にファームウェア更新』

 希歩の指が止まった。

「対象はこの型も?」

『対象。通信断時の再接続処理が変更されてる』

 里菜が保守端末で更新履歴を開く。

「ほんとだ。フォールバック周りも触ってる」

「内容は?」

「接続が落ちたとき、無音時間を減らすためにローカル音源を先に参照するよう変わってるっぽい」

 希歩は昨日の記録を見る。

 十八時七分十四秒、短い通信断。
 十五秒、再接続。
 その間に三音。

 条件が近づいた。

 里菜が言う。

「じゃ、この古い音を消して、同じ瞬断作れば症状止まるか見られるね」

「消さない」

 希歩は即答した。

 里菜が手を止める。

「うん?」

「それで三音が止まっても、原因の一部しか証明できない。四年間鳴らずに、なぜ更新後から鳴ったのか。昼間にも瞬断はあるのに、なぜ昨日は夜だけ鳴ったのか。それが残る」

「ああ」

 里菜は一秒も反発しなかった。

「確かに。消すのは最後でいい」

『私も賛成。昼の瞬断、昨日と同じくらいの長さのものを何本か拾ってるけど、申告なし』

「なら、条件がもう一つある」

 希歩は昨日の時系列を開く。

 昼間。
 異常なし。

 十八時。
 夜間モードへ切替。
 電子音楽開始。

 十八時七分。
 通信瞬断。
 三音。

「夜間の電子音楽」

 希歩が言う。

 里菜が頷いた。

「ストリームの種類か、再接続の仕方が違うか」

『そこ、今夜なら中央側から全部追える』

 なぎさが言った。

 希歩は時刻を見る。

 十一時二十六分。

 午前のうちに、正体の半分までは来た。

 古い音はある。
 通信瞬断も関係している。
 ファームウェア更新も怪しい。

 残るのは、夜だけ鳴る理由。

     *

 十二時十二分。

「私、外で食べてくるけど、希歩どうする?」

 里菜が工具を片づけながら聞いた。

「私はここで軽く食べる」

「仕事しながら?」

「しない」

 里菜の手が止まった。

「今、何て?」

「十五分、端末を閉じる」

「誰?」

「希歩」

『本人確認が必要です』

 通話越しになぎさまで言う。

「二人とも失礼」

 希歩は公園売店で買っておいたサンドイッチと水を取り出した。

 里菜は笑いながら手を振る。

「じゃ、私はその十五分で何か見つけてくる」

「十三時に戻って」

「はいはい」

 里菜が公園の外へ向かう。

 なぎさとの通話もいったん切った。

 希歩はベンチへ座る。

 端末の蓋を閉じる。

 スマートフォンも鞄へ入れる。

 十五分。

 昨日の店より短い。
 料理も、珍しいものではない。

 それでも、食べながらログを見ないと決めた。

 理由はある。

 午前中に増えた情報が多い。
 古い企画。
 非常用領域。
 ファームウェア更新。
 夜間電子音楽。

 画面を見続けたまま考えるより、一度区切ったほうが整理できる。

 休むことも、条件整理の一部。

 なぎさに言われたからではない。
 今日は自分でそう決めた。

 サンドイッチをひと口食べる。

 滝の音が聞こえる。

 昼間の滝は、昨日の夜よりただの水音に近かった。

 三音はない。

 希歩は時計を見ずに食べ終えた。

 それから初めて時刻を確認する。

 十二時二十七分。

 ちょうど十五分だった。

「これは偶然」

 誰もいないのに、希歩は言った。

     *

 午後は、今夜の再現試験の条件整理に使った。

 なぎさが中央側で、昼と夜の配信方式の差を洗う。
 里菜は現地端末のフォールバック設定を読み出す。
 希歩は昨日の時刻と、過去一か月の申告、ファームウェア更新日を一つの表へ並べた。

 更新前の申告は、確認できる範囲でゼロ。
 更新後に四件。
 すべて夕方以降。

 偶然だけで片づけるには、偏りすぎている。

『夜間の電子音楽だけ、常時ファイル再生じゃなくてストリームを張り直す処理が入ってる』

 なぎさが言った。

「昼は?」

『環境音はローカル側の定常再生が中心。通信が一瞬揺れても、再取得そのものが少ない』

 里菜が画面を覗き込む。

「じゃ、夜間ストリームが切れた瞬間に、この端末がフォールバック領域を見る。そこに先頭で昔の三音がいる、と」

「まだ仮説」

 希歩が言う。

「今夜、同時に見れば確定できる」

「了解」

『こっちは中央配信、通信状態、再接続時刻を監視する』

「里菜は現地直結ログ」

「任せて」

「私は発生時刻と現地音、両方記録する」

 三人の役割が決まる。

 希歩は予定表を開いた。

 十九時三十分。

 《再現試験》

 終了時刻の欄へ指を置く。

 二十時三十分。

 そう入力しかけて、止まった。

 一時間で原因が出る保証はない。
 かといって、終わるまで無制限に続けるのも違う。

 公園の保守作業には、安全面で守るべき時間がある。
 疲労した状態で機器を触れば、別の事故を作る。

 希歩は終了欄を消した。

 代わりに入力する。

 《原因特定まで。ただし22:30で安全判断》

 里菜が横から覗いた。

「ずいぶん幅を持たせたね」

「幅じゃない。未確定だから固定しないだけ」

『そういうの、世間では余白って言うんじゃない?』

 なぎさの声がする。

「安全上限は決めてる」

「そこが希歩らしい」

 里菜は笑った。

 希歩は予定表を保存する。

 十九時三十分から、原因特定まで。
 ただし二十二時三十分で安全判断。

 終わる時刻は、まだ決まっていない。

 それでも、不安ではなかった。

 わからないものを、わからないまま予定へ書く。
 その代わり、どこで止めるかだけは決めておく。

 正確さを捨てたわけではない。

 正確に進むために、今は固定しないほうがいい。

 希歩は滝のそばの古いコントローラーを見る。

 四年前の三音は、そこに残っていた。

 だが、残っているだけなら鳴らない。

 今夜、電子音楽が流れ、通信が切れた瞬間に何が起きるのか。

 そこまで見れば、ようやく原因が一本につながる。

 人工滝は、何も知らないように水を落とし続けていた。

(End)
【終】