予定表にない一時間

第2話 予定表にない酸味



 ホテルの自動ドアをくぐったのは十八時五十八分だった。

 予定では十九時三分。

 五分早い。

 希歩はフロントへ向かいながら、その五分をどこへ戻すか考えた。
 チェックインに六分。部屋へ荷物を置くのに五分。十九時九分にはホテルを出る。夕食に決めていた店までは徒歩六分――。

 そこまで頭の中で組み直してから、ふと気づく。

 夕食の予約はしていない。
 十九時十五分は店側に指定された時刻ではなく、「夕食開始」と自分で予定表へ入れただけの時刻だった。

 五分早く着いたからといって、五分早く食べなければならない理由はない。

「チェックインをお願いします」

 それでも、希歩は予定どおりに手続きを済ませた。

 部屋へ入る。
 キャリーケースを壁際へ寄せ、ジャケットをハンガーへ掛け、業務用端末を机の上に置く。充電ケーブルをつなぎ、スマートフォンの残量を確認する。

 七十二パーセント。

 十分だ。

 鏡を見ると、前髪の端が少しだけ湿っていた。人工滝の近くに長くいたせいだろう。

 ――ピ、ポ、ン。

 思い出しただけで、耳の奥に三音が戻ってくる。

 希歩は端末を開きかけた。

 十八時七分十五秒前後。
 中央配信記録なし。
 電子音楽のストリームに短い揺れ。

 今なら、なぎさが切り出したログも届いているかもしれない。

 指が電源ボタンに触れる。

 そこで、机の横に置いたスマートフォンが十九時九分を示した。

 希歩は手を止めた。

「先に食事」

 声に出す必要はなかったが、口にすると決定事項になった。

 予定どおりだ。

     *

 店の前に着いたのは十九時十五分だった。

 予定どおり。

 希歩はまず腕時計を見て、それから店の入口を見た。

 暗い。

 看板の照明がついていない。

 ガラス扉の内側に、白い紙が一枚貼られている。

 《本日、設備点検のため臨時休業いたします》

 希歩は、その文章を二度読んだ。

 設備点検。

 自分も一日じゅう設備点検をしていたから、理由としてはよく理解できる。
 理解できることと、困らないことは別だった。

 スマートフォンを開く。

 第二候補の店は、ここから徒歩十四分。
 混雑表示は「通常より混んでいます」。
 店へ着くまで十四分。待ち時間を十五分と仮定。食事二十五分。ホテルへ戻るのに十八分。

 二十時を越える。

 予定では二十時十分から、今日のログ整理と明日の確認項目の作成を始める。

 さらに遅れれば、就寝時刻まで押す。

 希歩は地図を閉じた。

 コンビニなら、ホテルの向かいにある。
 買うのに五分。部屋で食べれば二十分。予定をほぼ維持できる。

 合理的だった。

 スマートフォンが震える。

 三人の業務用チャットだった。

『ホテル着いた?』

 里菜から。

 希歩は歩道の端へ寄った。

『着いた。夕食の店が臨時休業』

 送ってから、余計な報告だったかもしれないと思う。

 すぐに里菜から返ってきた。

『それは予定表も泣いてる』

『コンビニに変更する』

 今度はなぎさが反応した。

『却下』

 希歩は眉を寄せる。

『なぜ』

『食事を削ってもログは賢くならないから』

 続けてもう一件。

『希歩の稼働率を下げるな。休憩も稼働条件です』

『コンビニでも食事はできる』

『できる。でも今の文面、食事じゃなくて時間短縮の話しかしてない』

 希歩は返事を打たなかった。

 言われてみれば、そのとおりだった。

 何を食べたいかは一度も考えていない。
 何分で済むかしか考えていない。

 だからといって、食べたいものが急に浮かぶわけでもない。

 希歩は顔を上げた。

 知らない通りだった。

 ホテルから六分しか歩いていないのに、駅から移動したときとは街の見え方が違う。昼より看板の光が目立ち、歩道を行く人の速度も少しゆっくりしている。

 右手に細い路地がある。

 その入口に、黒板が立っていた。

 白いチョークで、ソーセージらしい絵が描かれている。
 その下に、小さく《お一人さまもどうぞ》とあった。

 黒板の上には、小さく《ドイツ家庭料理》とある。

 検索したことはない。
 待ち時間も知らない。
 口コミも見ていない。

 希歩は黒板の前で止まった。

 コンビニへ戻れば三分。
 この店へ入れば、何分かかるかわからない。

 ガラス越しに中を覗く。

 奥にテーブル席がいくつかあり、手前はカウンターになっている。満席ではない。カウンターには一人で座っている客が二人いる。

 入りにくい理由は、少なくとも見当たらなかった。

 希歩はスマートフォンを開き、予定表を見た。

 二十時十分、ログ整理。

 指を当てる。

 二十時三十分へ動かした。

 それから扉を開けた。

     *

「お一人ですか?」

「はい」

「カウンター、どうぞ」

 案内されたのは端から二番目の席だった。

 椅子に座ると、目の前の棚に形の違うグラスが並んでいるのが見えた。厨房から、肉の焼ける音がする。

 ジュッ、と短く強い音。

 滝のそばで聞いた三音とは、まったく違う。

 希歩は鞄を膝の横へ置いた。

 メニューを開く。

 知らない料理名がいくつか並んでいた。
 説明を読めばわかるものもあるが、事前に決めていない状態で選択肢を見ること自体が、妙に落ち着かない。

 何が一番早いのだろう。

 そう考えたところで、またなぎさの文面を思い出した。

 時間短縮の話しかしていない。

 希歩はメニューを上から読み直した。

 焼きソーセージの盛り合わせ。
 付け合わせ、ザワークラウト。

 ザワークラウト。

 名前は知っている。
 キャベツを発酵させたもの、という程度には。
 ただ、自分から注文したことはなかった。

「こちら、ソーセージは何本ですか?」

 店員に尋ねる。

「三種類です。付け合わせにじゃがいもとザワークラウトがつきます」

「では、それを」

「お飲み物は?」

「炭酸水で」

 注文が終わる。

 希歩は反射的に時計を見た。

 十九時三十一分。

 厨房の音が続く。
 隣の客がグラスを置く。
 奥のテーブルで、誰かが小さく笑う。

 希歩はスマートフォンへ手を伸ばした。

 ログを見ようと思った。

 けれど、画面を開く前にやめた。

 今ここで十八時七分の記録を見ても、できることは少ない。
 現地機器には触れない。中央側に三音の送信記録がないことも、もう確認済みだ。

 だったら、二十分後に見ても同じだ。

 希歩はスマートフォンを伏せた。

 手元から画面の光が消える。

 急に、することがなくなった。

 何もしないまま座っている時間が、こんなに長く感じるとは思わなかった。

 水が入ったグラスの表面についた細かな気泡を眺める。
 厨房の奥から香辛料の匂いが来る。
 窓の外には、さっき自分が立っていた路地が見える。

 傘を持った女性が通り過ぎた。
 自転車が一台、角を曲がる。
 店の黒板を見て、入らずに歩いていく人もいる。

 誰も希歩の予定を知らない。

 二十時十分に何をするつもりだったかも知らない。

 当然のことなのに、少し不思議だった。

「お待たせしました」

 皿が置かれる。

 三種類の焼きソーセージ。皮の表面に薄い焼き色がついている。横にじゃがいも。そして、淡い色の細切りキャベツがこんもり盛られていた。

「ザワークラウトです」

 店員が言った。

「ありがとうございます」

 希歩はまず、そのキャベツを少しだけフォークに取った。

 口へ入れる。

 酸っぱい。

 思っていたより、はっきり酸っぱい。

 希歩は咀嚼しながら皿を見る。

 これが正解なのだろうか。

 自分が知っているキャベツの付け合わせは、もっと甘いか、塩味が穏やかなものが多い。これは酸味が前に出てくる。

 嫌い、と決めるほどではない。
 ただ、単独ならたくさん食べたい味でもなかった。

 次にソーセージを切る。

 ナイフを入れると皮が小さく鳴った。
 ひと口食べる。

 塩気が強く、肉の脂が熱い。

 炭酸水を飲もうとして、希歩はふと思いつき、もう一度ザワークラウトを少し取った。

 ソーセージと一緒に食べる。

「あ」

 声が出た。

 酸味が、さっきとは違った。

 肉の脂が舌に残る前にキャベツの酸味が入り、口の中が軽くなる。すると、もう一度ソーセージを食べたくなる。

 希歩は二本目を切った。

 今度は最初からザワークラウトを少し添える。

 合う。

 単独で食べたときには、こんなふうになるとは思わなかった。

 だからといって、そこから何か大げさな意味を考える気にはならない。

 ただ、知らなかった食べ方を一つ知った。

 それで十分だった。

 気づけば、時計をしばらく見ていなかった。

 希歩は確認しようとして、やめる。

 料理はまだ温かい。
 店も混んでいない。
 ホテルは近い。

 今すぐ正確な残り時間を計算しなくても、困ることはない。

 ソーセージをもう一切れ。
 ザワークラウトを少し。

 今度は酸味が来るのを知っている。

 窓の外を、路線バスが通り過ぎた。
 行き先表示は読めなかった。

 希歩はそれを目で追った。

 今日、駅を出てから初めて、仕事とも最短経路とも関係のないものを見ている気がした。

     *

 ホテルの部屋へ戻ったのは二十時二十八分だった。

 予定を変更した二十時三十分より二分早い。

 希歩は靴を脱ぎながら、その二分に少し笑った。

 結局、二分早い。

 昼と同じだ。

 けれど昼の二分とは、何かが違う気がした。

 理由を考える前に、業務用端末を開いた。

 なぎさから、十八時七分前後のログが共有されている。

 希歩は炭酸水のペットボトルを机に置き、画面へ向かった。

 中央配信。
 ストリーム状態。
 通信遅延。
 再接続履歴。

 時刻を揃える。

 十八時七分十二秒。
 遅延が一度だけ跳ねる。

 十八時七分十四秒。
 ストリームが短く切断扱いになる。

 十八時七分十五秒。
 再接続。

 希歩の現地メモでは、そのほぼ同時刻に三音。

 椅子へ座り直す。

 通信瞬断。

 やはり関係している。

 けれど、それだけでは説明できない。

 希歩は中央側の再生履歴をもう一度確認した。

 夜間用の電子音楽。
 それ以外の音源送信なし。

 確認音もない。
 手動再生もない。
 設定変更もない。

 なら、三音はどこから来たのか。

 希歩は十八時七分の前後を何度も見た。

 送っていない。

 それなのに、鳴った。

 頭の中に、昼間の里菜の声が戻る。

 ――あっちのコントローラー、ずいぶん古い型だね。

 希歩は新しいメモを開いた。

 《中央送信なし》

 その下へ一行。

 《通信瞬断直後に発生》

 さらに、その下。

 指が一度止まる。

 《送っていないなら、現地にある?》

 入力した文字を見つめた。

 明日は当初、中央サーバー側の設定確認から始める予定だった。

 希歩は予定表を開く。

 九時、公園。
 九時十分、中央設定再確認。
 十時、現地系統確認。

 順序を入れ替える。

 九時十分、滝側コントローラー確認。
 十時、中央設定との差分確認。

 予定変更。

 以前なら、変更した理由を何度も見直し、本当に当初案を崩す必要があるか考えただろう。

 今は、それほど引っかからなかった。

 情報が増えた。
 だから、計画を更新する。

 ただそれだけだ。

 希歩は変更理由を作業メモへ残し、なぎさと里菜へ共有した。

『明日、滝側ローカル機器を先に確認したい。中央送信なし、瞬断直後に三音。現地側に音源か再生条件が残っている可能性あり』

 里菜からすぐに返事が来た。

『賛成。朝イチで開ける』

 なぎさも続く。

『こっちは古い構成履歴も探しとく。あと希歩』

『何』

『ちゃんと食べた?』

 希歩は数秒考えた。

『焼きソーセージ』

『おお』

 里菜が割り込む。

『予定にないやつ?』

『ザワークラウトもついてた』

『希歩から料理名が出た』

『そこまで珍しくない』

『昨日の昼は「温かかった」だった人が?』

 希歩は画面を見たまま、返事をやめた。

 代わりに予定表を明日へ送る。

 朝食。
 公園移動。
 現地点検。
 昼休憩。
 ログ解析。

 夕食。

 その欄で指が止まった。

 いつもなら、ここに店名を入れる。
 営業時間を調べ、ホテルからの距離を確認し、混雑しにくい時間を選ぶ。

 検索画面を開きかける。

 今日の店の黒板を思い出した。

 《お一人さまもどうぞ》

 あれを見つけたのは、検索結果ではなかった。

 ザワークラウトの酸味も、予定にはなかった。

 希歩は「夕食」の開始時刻だけを残した。

 店名の欄は空白。

 一度、保存する。

 落ち着かない。

 空欄だけが、予定表の中で妙に目立っている。

 希歩はもう一度そこを押した。

 何か入れたほうがいい。
 候補だけでも。

 指が動く。

 けれど、入力欄を開かずに戻った。

「一日くらいなら」

 小さく言う。

 机の上では、十八時七分のログがまだ表示されている。

 仕事の原因は、明日きちんと探す。
 わからないままにはしない。

 でも夕食まで、今夜のうちに答えを決めなくてもいい。

 希歩は業務用端末を閉じた。

 予定表には、店名のない夕食だけが残った。

 その空白を見ても、さっきよりは気にならなかった。

(End)
【終】