第2話 予定表にない酸味
ホテルの自動ドアをくぐったのは十八時五十八分だった。
予定では十九時三分。
五分早い。
希歩はフロントへ向かいながら、その五分をどこへ戻すか考えた。
チェックインに六分。部屋へ荷物を置くのに五分。十九時九分にはホテルを出る。夕食に決めていた店までは徒歩六分――。
そこまで頭の中で組み直してから、ふと気づく。
夕食の予約はしていない。
十九時十五分は店側に指定された時刻ではなく、「夕食開始」と自分で予定表へ入れただけの時刻だった。
五分早く着いたからといって、五分早く食べなければならない理由はない。
「チェックインをお願いします」
それでも、希歩は予定どおりに手続きを済ませた。
部屋へ入る。
キャリーケースを壁際へ寄せ、ジャケットをハンガーへ掛け、業務用端末を机の上に置く。充電ケーブルをつなぎ、スマートフォンの残量を確認する。
七十二パーセント。
十分だ。
鏡を見ると、前髪の端が少しだけ湿っていた。人工滝の近くに長くいたせいだろう。
――ピ、ポ、ン。
思い出しただけで、耳の奥に三音が戻ってくる。
希歩は端末を開きかけた。
十八時七分十五秒前後。
中央配信記録なし。
電子音楽のストリームに短い揺れ。
今なら、なぎさが切り出したログも届いているかもしれない。
指が電源ボタンに触れる。
そこで、机の横に置いたスマートフォンが十九時九分を示した。
希歩は手を止めた。
「先に食事」
声に出す必要はなかったが、口にすると決定事項になった。
予定どおりだ。
*
店の前に着いたのは十九時十五分だった。
予定どおり。
希歩はまず腕時計を見て、それから店の入口を見た。
暗い。
看板の照明がついていない。
ガラス扉の内側に、白い紙が一枚貼られている。
《本日、設備点検のため臨時休業いたします》
希歩は、その文章を二度読んだ。
設備点検。
自分も一日じゅう設備点検をしていたから、理由としてはよく理解できる。
理解できることと、困らないことは別だった。
スマートフォンを開く。
第二候補の店は、ここから徒歩十四分。
混雑表示は「通常より混んでいます」。
店へ着くまで十四分。待ち時間を十五分と仮定。食事二十五分。ホテルへ戻るのに十八分。
二十時を越える。
予定では二十時十分から、今日のログ整理と明日の確認項目の作成を始める。
さらに遅れれば、就寝時刻まで押す。
希歩は地図を閉じた。
コンビニなら、ホテルの向かいにある。
買うのに五分。部屋で食べれば二十分。予定をほぼ維持できる。
合理的だった。
スマートフォンが震える。
三人の業務用チャットだった。
『ホテル着いた?』
里菜から。
希歩は歩道の端へ寄った。
『着いた。夕食の店が臨時休業』
送ってから、余計な報告だったかもしれないと思う。
すぐに里菜から返ってきた。
『それは予定表も泣いてる』
『コンビニに変更する』
今度はなぎさが反応した。
『却下』
希歩は眉を寄せる。
『なぜ』
『食事を削ってもログは賢くならないから』
続けてもう一件。
『希歩の稼働率を下げるな。休憩も稼働条件です』
『コンビニでも食事はできる』
『できる。でも今の文面、食事じゃなくて時間短縮の話しかしてない』
希歩は返事を打たなかった。
言われてみれば、そのとおりだった。
何を食べたいかは一度も考えていない。
何分で済むかしか考えていない。
だからといって、食べたいものが急に浮かぶわけでもない。
希歩は顔を上げた。
知らない通りだった。
ホテルから六分しか歩いていないのに、駅から移動したときとは街の見え方が違う。昼より看板の光が目立ち、歩道を行く人の速度も少しゆっくりしている。
右手に細い路地がある。
その入口に、黒板が立っていた。
白いチョークで、ソーセージらしい絵が描かれている。
その下に、小さく《お一人さまもどうぞ》とあった。
黒板の上には、小さく《ドイツ家庭料理》とある。
検索したことはない。
待ち時間も知らない。
口コミも見ていない。
希歩は黒板の前で止まった。
コンビニへ戻れば三分。
この店へ入れば、何分かかるかわからない。
ガラス越しに中を覗く。
奥にテーブル席がいくつかあり、手前はカウンターになっている。満席ではない。カウンターには一人で座っている客が二人いる。
入りにくい理由は、少なくとも見当たらなかった。
希歩はスマートフォンを開き、予定表を見た。
二十時十分、ログ整理。
指を当てる。
二十時三十分へ動かした。
それから扉を開けた。
*
「お一人ですか?」
「はい」
「カウンター、どうぞ」
案内されたのは端から二番目の席だった。
椅子に座ると、目の前の棚に形の違うグラスが並んでいるのが見えた。厨房から、肉の焼ける音がする。
ジュッ、と短く強い音。
滝のそばで聞いた三音とは、まったく違う。
希歩は鞄を膝の横へ置いた。
メニューを開く。
知らない料理名がいくつか並んでいた。
説明を読めばわかるものもあるが、事前に決めていない状態で選択肢を見ること自体が、妙に落ち着かない。
何が一番早いのだろう。
そう考えたところで、またなぎさの文面を思い出した。
時間短縮の話しかしていない。
希歩はメニューを上から読み直した。
焼きソーセージの盛り合わせ。
付け合わせ、ザワークラウト。
ザワークラウト。
名前は知っている。
キャベツを発酵させたもの、という程度には。
ただ、自分から注文したことはなかった。
「こちら、ソーセージは何本ですか?」
店員に尋ねる。
「三種類です。付け合わせにじゃがいもとザワークラウトがつきます」
「では、それを」
「お飲み物は?」
「炭酸水で」
注文が終わる。
希歩は反射的に時計を見た。
十九時三十一分。
厨房の音が続く。
隣の客がグラスを置く。
奥のテーブルで、誰かが小さく笑う。
希歩はスマートフォンへ手を伸ばした。
ログを見ようと思った。
けれど、画面を開く前にやめた。
今ここで十八時七分の記録を見ても、できることは少ない。
現地機器には触れない。中央側に三音の送信記録がないことも、もう確認済みだ。
だったら、二十分後に見ても同じだ。
希歩はスマートフォンを伏せた。
手元から画面の光が消える。
急に、することがなくなった。
何もしないまま座っている時間が、こんなに長く感じるとは思わなかった。
水が入ったグラスの表面についた細かな気泡を眺める。
厨房の奥から香辛料の匂いが来る。
窓の外には、さっき自分が立っていた路地が見える。
傘を持った女性が通り過ぎた。
自転車が一台、角を曲がる。
店の黒板を見て、入らずに歩いていく人もいる。
誰も希歩の予定を知らない。
二十時十分に何をするつもりだったかも知らない。
当然のことなのに、少し不思議だった。
「お待たせしました」
皿が置かれる。
三種類の焼きソーセージ。皮の表面に薄い焼き色がついている。横にじゃがいも。そして、淡い色の細切りキャベツがこんもり盛られていた。
「ザワークラウトです」
店員が言った。
「ありがとうございます」
希歩はまず、そのキャベツを少しだけフォークに取った。
口へ入れる。
酸っぱい。
思っていたより、はっきり酸っぱい。
希歩は咀嚼しながら皿を見る。
これが正解なのだろうか。
自分が知っているキャベツの付け合わせは、もっと甘いか、塩味が穏やかなものが多い。これは酸味が前に出てくる。
嫌い、と決めるほどではない。
ただ、単独ならたくさん食べたい味でもなかった。
次にソーセージを切る。
ナイフを入れると皮が小さく鳴った。
ひと口食べる。
塩気が強く、肉の脂が熱い。
炭酸水を飲もうとして、希歩はふと思いつき、もう一度ザワークラウトを少し取った。
ソーセージと一緒に食べる。
「あ」
声が出た。
酸味が、さっきとは違った。
肉の脂が舌に残る前にキャベツの酸味が入り、口の中が軽くなる。すると、もう一度ソーセージを食べたくなる。
希歩は二本目を切った。
今度は最初からザワークラウトを少し添える。
合う。
単独で食べたときには、こんなふうになるとは思わなかった。
だからといって、そこから何か大げさな意味を考える気にはならない。
ただ、知らなかった食べ方を一つ知った。
それで十分だった。
気づけば、時計をしばらく見ていなかった。
希歩は確認しようとして、やめる。
料理はまだ温かい。
店も混んでいない。
ホテルは近い。
今すぐ正確な残り時間を計算しなくても、困ることはない。
ソーセージをもう一切れ。
ザワークラウトを少し。
今度は酸味が来るのを知っている。
窓の外を、路線バスが通り過ぎた。
行き先表示は読めなかった。
希歩はそれを目で追った。
今日、駅を出てから初めて、仕事とも最短経路とも関係のないものを見ている気がした。
*
ホテルの部屋へ戻ったのは二十時二十八分だった。
予定を変更した二十時三十分より二分早い。
希歩は靴を脱ぎながら、その二分に少し笑った。
結局、二分早い。
昼と同じだ。
けれど昼の二分とは、何かが違う気がした。
理由を考える前に、業務用端末を開いた。
なぎさから、十八時七分前後のログが共有されている。
希歩は炭酸水のペットボトルを机に置き、画面へ向かった。
中央配信。
ストリーム状態。
通信遅延。
再接続履歴。
時刻を揃える。
十八時七分十二秒。
遅延が一度だけ跳ねる。
十八時七分十四秒。
ストリームが短く切断扱いになる。
十八時七分十五秒。
再接続。
希歩の現地メモでは、そのほぼ同時刻に三音。
椅子へ座り直す。
通信瞬断。
やはり関係している。
けれど、それだけでは説明できない。
希歩は中央側の再生履歴をもう一度確認した。
夜間用の電子音楽。
それ以外の音源送信なし。
確認音もない。
手動再生もない。
設定変更もない。
なら、三音はどこから来たのか。
希歩は十八時七分の前後を何度も見た。
送っていない。
それなのに、鳴った。
頭の中に、昼間の里菜の声が戻る。
――あっちのコントローラー、ずいぶん古い型だね。
希歩は新しいメモを開いた。
《中央送信なし》
その下へ一行。
《通信瞬断直後に発生》
さらに、その下。
指が一度止まる。
《送っていないなら、現地にある?》
入力した文字を見つめた。
明日は当初、中央サーバー側の設定確認から始める予定だった。
希歩は予定表を開く。
九時、公園。
九時十分、中央設定再確認。
十時、現地系統確認。
順序を入れ替える。
九時十分、滝側コントローラー確認。
十時、中央設定との差分確認。
予定変更。
以前なら、変更した理由を何度も見直し、本当に当初案を崩す必要があるか考えただろう。
今は、それほど引っかからなかった。
情報が増えた。
だから、計画を更新する。
ただそれだけだ。
希歩は変更理由を作業メモへ残し、なぎさと里菜へ共有した。
『明日、滝側ローカル機器を先に確認したい。中央送信なし、瞬断直後に三音。現地側に音源か再生条件が残っている可能性あり』
里菜からすぐに返事が来た。
『賛成。朝イチで開ける』
なぎさも続く。
『こっちは古い構成履歴も探しとく。あと希歩』
『何』
『ちゃんと食べた?』
希歩は数秒考えた。
『焼きソーセージ』
『おお』
里菜が割り込む。
『予定にないやつ?』
『ザワークラウトもついてた』
『希歩から料理名が出た』
『そこまで珍しくない』
『昨日の昼は「温かかった」だった人が?』
希歩は画面を見たまま、返事をやめた。
代わりに予定表を明日へ送る。
朝食。
公園移動。
現地点検。
昼休憩。
ログ解析。
夕食。
その欄で指が止まった。
いつもなら、ここに店名を入れる。
営業時間を調べ、ホテルからの距離を確認し、混雑しにくい時間を選ぶ。
検索画面を開きかける。
今日の店の黒板を思い出した。
《お一人さまもどうぞ》
あれを見つけたのは、検索結果ではなかった。
ザワークラウトの酸味も、予定にはなかった。
希歩は「夕食」の開始時刻だけを残した。
店名の欄は空白。
一度、保存する。
落ち着かない。
空欄だけが、予定表の中で妙に目立っている。
希歩はもう一度そこを押した。
何か入れたほうがいい。
候補だけでも。
指が動く。
けれど、入力欄を開かずに戻った。
「一日くらいなら」
小さく言う。
机の上では、十八時七分のログがまだ表示されている。
仕事の原因は、明日きちんと探す。
わからないままにはしない。
でも夕食まで、今夜のうちに答えを決めなくてもいい。
希歩は業務用端末を閉じた。
予定表には、店名のない夕食だけが残った。
その空白を見ても、さっきよりは気にならなかった。
(End)
【終】
ホテルの自動ドアをくぐったのは十八時五十八分だった。
予定では十九時三分。
五分早い。
希歩はフロントへ向かいながら、その五分をどこへ戻すか考えた。
チェックインに六分。部屋へ荷物を置くのに五分。十九時九分にはホテルを出る。夕食に決めていた店までは徒歩六分――。
そこまで頭の中で組み直してから、ふと気づく。
夕食の予約はしていない。
十九時十五分は店側に指定された時刻ではなく、「夕食開始」と自分で予定表へ入れただけの時刻だった。
五分早く着いたからといって、五分早く食べなければならない理由はない。
「チェックインをお願いします」
それでも、希歩は予定どおりに手続きを済ませた。
部屋へ入る。
キャリーケースを壁際へ寄せ、ジャケットをハンガーへ掛け、業務用端末を机の上に置く。充電ケーブルをつなぎ、スマートフォンの残量を確認する。
七十二パーセント。
十分だ。
鏡を見ると、前髪の端が少しだけ湿っていた。人工滝の近くに長くいたせいだろう。
――ピ、ポ、ン。
思い出しただけで、耳の奥に三音が戻ってくる。
希歩は端末を開きかけた。
十八時七分十五秒前後。
中央配信記録なし。
電子音楽のストリームに短い揺れ。
今なら、なぎさが切り出したログも届いているかもしれない。
指が電源ボタンに触れる。
そこで、机の横に置いたスマートフォンが十九時九分を示した。
希歩は手を止めた。
「先に食事」
声に出す必要はなかったが、口にすると決定事項になった。
予定どおりだ。
*
店の前に着いたのは十九時十五分だった。
予定どおり。
希歩はまず腕時計を見て、それから店の入口を見た。
暗い。
看板の照明がついていない。
ガラス扉の内側に、白い紙が一枚貼られている。
《本日、設備点検のため臨時休業いたします》
希歩は、その文章を二度読んだ。
設備点検。
自分も一日じゅう設備点検をしていたから、理由としてはよく理解できる。
理解できることと、困らないことは別だった。
スマートフォンを開く。
第二候補の店は、ここから徒歩十四分。
混雑表示は「通常より混んでいます」。
店へ着くまで十四分。待ち時間を十五分と仮定。食事二十五分。ホテルへ戻るのに十八分。
二十時を越える。
予定では二十時十分から、今日のログ整理と明日の確認項目の作成を始める。
さらに遅れれば、就寝時刻まで押す。
希歩は地図を閉じた。
コンビニなら、ホテルの向かいにある。
買うのに五分。部屋で食べれば二十分。予定をほぼ維持できる。
合理的だった。
スマートフォンが震える。
三人の業務用チャットだった。
『ホテル着いた?』
里菜から。
希歩は歩道の端へ寄った。
『着いた。夕食の店が臨時休業』
送ってから、余計な報告だったかもしれないと思う。
すぐに里菜から返ってきた。
『それは予定表も泣いてる』
『コンビニに変更する』
今度はなぎさが反応した。
『却下』
希歩は眉を寄せる。
『なぜ』
『食事を削ってもログは賢くならないから』
続けてもう一件。
『希歩の稼働率を下げるな。休憩も稼働条件です』
『コンビニでも食事はできる』
『できる。でも今の文面、食事じゃなくて時間短縮の話しかしてない』
希歩は返事を打たなかった。
言われてみれば、そのとおりだった。
何を食べたいかは一度も考えていない。
何分で済むかしか考えていない。
だからといって、食べたいものが急に浮かぶわけでもない。
希歩は顔を上げた。
知らない通りだった。
ホテルから六分しか歩いていないのに、駅から移動したときとは街の見え方が違う。昼より看板の光が目立ち、歩道を行く人の速度も少しゆっくりしている。
右手に細い路地がある。
その入口に、黒板が立っていた。
白いチョークで、ソーセージらしい絵が描かれている。
その下に、小さく《お一人さまもどうぞ》とあった。
黒板の上には、小さく《ドイツ家庭料理》とある。
検索したことはない。
待ち時間も知らない。
口コミも見ていない。
希歩は黒板の前で止まった。
コンビニへ戻れば三分。
この店へ入れば、何分かかるかわからない。
ガラス越しに中を覗く。
奥にテーブル席がいくつかあり、手前はカウンターになっている。満席ではない。カウンターには一人で座っている客が二人いる。
入りにくい理由は、少なくとも見当たらなかった。
希歩はスマートフォンを開き、予定表を見た。
二十時十分、ログ整理。
指を当てる。
二十時三十分へ動かした。
それから扉を開けた。
*
「お一人ですか?」
「はい」
「カウンター、どうぞ」
案内されたのは端から二番目の席だった。
椅子に座ると、目の前の棚に形の違うグラスが並んでいるのが見えた。厨房から、肉の焼ける音がする。
ジュッ、と短く強い音。
滝のそばで聞いた三音とは、まったく違う。
希歩は鞄を膝の横へ置いた。
メニューを開く。
知らない料理名がいくつか並んでいた。
説明を読めばわかるものもあるが、事前に決めていない状態で選択肢を見ること自体が、妙に落ち着かない。
何が一番早いのだろう。
そう考えたところで、またなぎさの文面を思い出した。
時間短縮の話しかしていない。
希歩はメニューを上から読み直した。
焼きソーセージの盛り合わせ。
付け合わせ、ザワークラウト。
ザワークラウト。
名前は知っている。
キャベツを発酵させたもの、という程度には。
ただ、自分から注文したことはなかった。
「こちら、ソーセージは何本ですか?」
店員に尋ねる。
「三種類です。付け合わせにじゃがいもとザワークラウトがつきます」
「では、それを」
「お飲み物は?」
「炭酸水で」
注文が終わる。
希歩は反射的に時計を見た。
十九時三十一分。
厨房の音が続く。
隣の客がグラスを置く。
奥のテーブルで、誰かが小さく笑う。
希歩はスマートフォンへ手を伸ばした。
ログを見ようと思った。
けれど、画面を開く前にやめた。
今ここで十八時七分の記録を見ても、できることは少ない。
現地機器には触れない。中央側に三音の送信記録がないことも、もう確認済みだ。
だったら、二十分後に見ても同じだ。
希歩はスマートフォンを伏せた。
手元から画面の光が消える。
急に、することがなくなった。
何もしないまま座っている時間が、こんなに長く感じるとは思わなかった。
水が入ったグラスの表面についた細かな気泡を眺める。
厨房の奥から香辛料の匂いが来る。
窓の外には、さっき自分が立っていた路地が見える。
傘を持った女性が通り過ぎた。
自転車が一台、角を曲がる。
店の黒板を見て、入らずに歩いていく人もいる。
誰も希歩の予定を知らない。
二十時十分に何をするつもりだったかも知らない。
当然のことなのに、少し不思議だった。
「お待たせしました」
皿が置かれる。
三種類の焼きソーセージ。皮の表面に薄い焼き色がついている。横にじゃがいも。そして、淡い色の細切りキャベツがこんもり盛られていた。
「ザワークラウトです」
店員が言った。
「ありがとうございます」
希歩はまず、そのキャベツを少しだけフォークに取った。
口へ入れる。
酸っぱい。
思っていたより、はっきり酸っぱい。
希歩は咀嚼しながら皿を見る。
これが正解なのだろうか。
自分が知っているキャベツの付け合わせは、もっと甘いか、塩味が穏やかなものが多い。これは酸味が前に出てくる。
嫌い、と決めるほどではない。
ただ、単独ならたくさん食べたい味でもなかった。
次にソーセージを切る。
ナイフを入れると皮が小さく鳴った。
ひと口食べる。
塩気が強く、肉の脂が熱い。
炭酸水を飲もうとして、希歩はふと思いつき、もう一度ザワークラウトを少し取った。
ソーセージと一緒に食べる。
「あ」
声が出た。
酸味が、さっきとは違った。
肉の脂が舌に残る前にキャベツの酸味が入り、口の中が軽くなる。すると、もう一度ソーセージを食べたくなる。
希歩は二本目を切った。
今度は最初からザワークラウトを少し添える。
合う。
単独で食べたときには、こんなふうになるとは思わなかった。
だからといって、そこから何か大げさな意味を考える気にはならない。
ただ、知らなかった食べ方を一つ知った。
それで十分だった。
気づけば、時計をしばらく見ていなかった。
希歩は確認しようとして、やめる。
料理はまだ温かい。
店も混んでいない。
ホテルは近い。
今すぐ正確な残り時間を計算しなくても、困ることはない。
ソーセージをもう一切れ。
ザワークラウトを少し。
今度は酸味が来るのを知っている。
窓の外を、路線バスが通り過ぎた。
行き先表示は読めなかった。
希歩はそれを目で追った。
今日、駅を出てから初めて、仕事とも最短経路とも関係のないものを見ている気がした。
*
ホテルの部屋へ戻ったのは二十時二十八分だった。
予定を変更した二十時三十分より二分早い。
希歩は靴を脱ぎながら、その二分に少し笑った。
結局、二分早い。
昼と同じだ。
けれど昼の二分とは、何かが違う気がした。
理由を考える前に、業務用端末を開いた。
なぎさから、十八時七分前後のログが共有されている。
希歩は炭酸水のペットボトルを机に置き、画面へ向かった。
中央配信。
ストリーム状態。
通信遅延。
再接続履歴。
時刻を揃える。
十八時七分十二秒。
遅延が一度だけ跳ねる。
十八時七分十四秒。
ストリームが短く切断扱いになる。
十八時七分十五秒。
再接続。
希歩の現地メモでは、そのほぼ同時刻に三音。
椅子へ座り直す。
通信瞬断。
やはり関係している。
けれど、それだけでは説明できない。
希歩は中央側の再生履歴をもう一度確認した。
夜間用の電子音楽。
それ以外の音源送信なし。
確認音もない。
手動再生もない。
設定変更もない。
なら、三音はどこから来たのか。
希歩は十八時七分の前後を何度も見た。
送っていない。
それなのに、鳴った。
頭の中に、昼間の里菜の声が戻る。
――あっちのコントローラー、ずいぶん古い型だね。
希歩は新しいメモを開いた。
《中央送信なし》
その下へ一行。
《通信瞬断直後に発生》
さらに、その下。
指が一度止まる。
《送っていないなら、現地にある?》
入力した文字を見つめた。
明日は当初、中央サーバー側の設定確認から始める予定だった。
希歩は予定表を開く。
九時、公園。
九時十分、中央設定再確認。
十時、現地系統確認。
順序を入れ替える。
九時十分、滝側コントローラー確認。
十時、中央設定との差分確認。
予定変更。
以前なら、変更した理由を何度も見直し、本当に当初案を崩す必要があるか考えただろう。
今は、それほど引っかからなかった。
情報が増えた。
だから、計画を更新する。
ただそれだけだ。
希歩は変更理由を作業メモへ残し、なぎさと里菜へ共有した。
『明日、滝側ローカル機器を先に確認したい。中央送信なし、瞬断直後に三音。現地側に音源か再生条件が残っている可能性あり』
里菜からすぐに返事が来た。
『賛成。朝イチで開ける』
なぎさも続く。
『こっちは古い構成履歴も探しとく。あと希歩』
『何』
『ちゃんと食べた?』
希歩は数秒考えた。
『焼きソーセージ』
『おお』
里菜が割り込む。
『予定にないやつ?』
『ザワークラウトもついてた』
『希歩から料理名が出た』
『そこまで珍しくない』
『昨日の昼は「温かかった」だった人が?』
希歩は画面を見たまま、返事をやめた。
代わりに予定表を明日へ送る。
朝食。
公園移動。
現地点検。
昼休憩。
ログ解析。
夕食。
その欄で指が止まった。
いつもなら、ここに店名を入れる。
営業時間を調べ、ホテルからの距離を確認し、混雑しにくい時間を選ぶ。
検索画面を開きかける。
今日の店の黒板を思い出した。
《お一人さまもどうぞ》
あれを見つけたのは、検索結果ではなかった。
ザワークラウトの酸味も、予定にはなかった。
希歩は「夕食」の開始時刻だけを残した。
店名の欄は空白。
一度、保存する。
落ち着かない。
空欄だけが、予定表の中で妙に目立っている。
希歩はもう一度そこを押した。
何か入れたほうがいい。
候補だけでも。
指が動く。
けれど、入力欄を開かずに戻った。
「一日くらいなら」
小さく言う。
机の上では、十八時七分のログがまだ表示されている。
仕事の原因は、明日きちんと探す。
わからないままにはしない。
でも夕食まで、今夜のうちに答えを決めなくてもいい。
希歩は業務用端末を閉じた。
予定表には、店名のない夕食だけが残った。
その空白を見ても、さっきよりは気にならなかった。
(End)
【終】



