第1話 聞こえるはずのない三音
新神戸駅への到着予定は十一時四十二分。
ホームから改札まで四分。昼食店までの移動と注文・受け取りに十六分、食事十八分。昼食後、公園入口までは乗り換えを含めて四十一分。途中で迷った場合の予備時間が八分。
希歩はスマートフォンの予定表を上から下まで確認し、もう一度、十一時四十二分の数字に目を戻した。
列車は現在、予定より一分早い。
窓の外では、山の濃い緑と住宅の屋根が流れている。遠くまで見れば、知らない街へ来たという感じは確かにあった。けれど希歩の視線はすぐ、画面右上の時刻へ戻った。
一分早いのは問題ではない。
問題になるのは、その一分をあてにして予定を詰めることだった。
移動には誤差がある。人の流れにも、信号にも、店の混雑にも誤差がある。だから余白は必要だ。
ただしそれは、楽しむための時間ではない。遅延を吸収するための時間だ。
希歩はそう考えている。
出張が嫌いなわけではなかった。現地でしか確認できないこともあるし、遠隔監視の画面だけでは拾えない異常を自分の目で見つけたときには、仕事としての手応えもある。
ただ、知らない土地は読みにくい。
いつもの駅なら、どの階段が空いているか知っている。昼休みに入る店なら、十二時十分を過ぎると列が伸びることも知っている。会社から自宅までなら、雨の日にどの道が三分遅くなるかもだいたいわかる。
出張先には、その蓄積がない。
だから希歩は、できるだけ先に決める。
今回も、神戸に着いてからホテルへ入るまでの行動をほぼ決めていた。
昼食の店だけではない。注文するものまで、候補を一つに絞ってある。
スマートフォンが震えた。
『もうすぐ着く?』
里菜からだった。
『予定どおり。十一時四十二分着』
送信すると、数秒で返事が来る。
『了解。私は先に現場寄ってる。公園入口で十三時十分』
『十三時十分、了解』
『一分単位で返事されると緊張するなあ』
希歩は、そこには返事をしなかった。
予定時刻を確認しただけなのに、何が緊張するのだろう。
列車が減速を始めた。
十一時四十一分五十六秒。
希歩は画面を消し、鞄の持ち手を握った。
*
改札を出たのは十一時四十六分。
ホームから四分。想定どおりだ。
希歩は駅構内の店へ入り、事前に決めていた軽食を注文した。温かいサンドイッチと無糖の紅茶。注文から受け取りまで三分十二秒。
席は入口から二番目のカウンター。
キャリーケースを足元へ寄せ、十二時二分に食べ始める。
十八分あれば十分だった。
パンは思っていたより香ばしく、中の卵は温かかった。けれど希歩が最初に考えたのは、味ではなく、これなら予定時間内に食べ終えられる、ということだった。
向かいの通路を旅行客らしい二人組が歩いていく。
「せっかくだから、何か神戸っぽいもの食べたいよね」
その声が耳に入った。
希歩は紅茶を一口飲んだ。
神戸っぽいもの。
何だろう、と一瞬だけ思う。
けれど調べるほどの必要性は感じなかった。
今日は観光に来たわけではない。十三時十分に里菜と合流し、申告されている異常音を確認する。初日の作業終了予定は十八時二十分。その後ホテルへ移動し、十九時十五分から夕食。二十時十分には部屋へ戻り、当日のログ整理。
優先順位は明確だった。
食べ終えたのは十二時十八分。
予定より二分早い。
希歩はトレーを返却しながら、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。
幸先がいい。
そう思ってから、自分が何を基準に幸先を判断したのかに気づき、少しだけ可笑しくなる。
二分。
たった二分なのに。
それでも、二分は二分だった。
*
公園に着くと、里菜は人工滝の前でしゃがみ込んでいた。
濃い色の作業パンツに薄手の上着。開いた工具バッグの横に保守用端末が置かれている。
「十二時五十九分」
希歩が言うと、里菜が顔を上げた。
「何が?」
「私の到着時刻」
「待ち合わせ十三時十分だよ」
「十一分前」
「それは見ればわかる」
里菜は笑って立ち上がった。
「遠くからお疲れ。お昼食べた?」
「食べた。予定より二分早く終わった」
「感想そこ?」
「他に何があるの」
「味とか」
希歩はサンドイッチを思い出した。
「温かかった」
「うん。最低限の食レポありがとう」
里菜は工具バッグを閉じた。
軽口を叩いているが、作業はもう進んでいるらしい。滝の脇にある点検扉が開いていた。
「先に見た感じ、スピーカー本体と配線に目立った異常なし。濡れもなし。端子も緩んでない。ただ、あっちのコントローラー、ずいぶん古い型だね」
「型番は?」
「あとで写真送る。希歩が持ってる台帳と照合して」
こういうところが里菜だった。
電源、配線、ネットワーク、音響。担当境界にこだわらず、現場で必要なものを次々に触る。ただし、触ったことは必ず残す。写真も、変更箇所も、作業時刻も。
希歩はその速さを、ときどき危ういと思う。
里菜から見れば、希歩の慎重さは、ときどき遅く見えるらしい。
どちらが正しいかではなく、たぶん仕事が違うのだろう。
希歩は鞄から業務端末を取り出した。
「なぎさ、つなぐね」
通話を開始すると、すぐに明るい声が返ってきた。
『はーい、本社監視センター、今日も元気に稼働中です』
「それ、毎回言う必要ある?」
『希歩が毎回時刻を読み上げるのと同じくらいには』
里菜が吹き出した。
希歩は無視して画面共有を始める。
「現地到着十二時五十九分。里菜が先行確認済み。スピーカー本体と配線に外観異常なし。これから申告時刻と中央ログを照合する」
『了解。こっちは過去一週間の通信状態、もう抜いてる。重大アラートはゼロ。瞬断っぽいのは何本かあるけど、今のところ音の申告と一致するかまでは見てない』
「申告内容をもう一度」
『利用者から三件。公園管理側から一件。文言はばらばらだけど、共通してるのは滝の近く。「水音に混じって変な音がする」「電子音みたいな短い旋律」「三音くらい聞こえた気がする」。発生は夕方から夜寄り』
希歩は端末に表示された時刻を見た。
十七時五十八分。
十八時十二分。
十九時四十一分。
二十時三分。
「昼の申告は?」
『なし』
「夜間モードとの相関は?」
『まだ不明。申告時刻だけなら可能性あり』
希歩はメモ欄へ入力した。
発生時間帯――夕方以降。
発生位置――滝周辺。
中央監視――重大異常なし。
「じゃ、鳴らしてみようか」
里菜が言った。
「通常の確認音から?」
「うん。そのあとチャンネルごと」
里菜が現地機器を操作する。
滝の音が絶えず響いていた。
人工の滝とはいえ、水が落ちる音は思った以上に大きい。近くへ寄ると、低い轟きの上に細かな飛沫の音が重なり、会話の輪郭まで少し削られる。
そこへ短い確認音が流れた。
澄んだ一音。
「右側、正常」
希歩が言う。
里菜が次へ切り替える。
「左側も正常」
『中央送信も一致。遅延は許容範囲』
なぎさの声がイヤホンから返る。
確認を繰り返す。
滝側の指向性スピーカーを含め、どのスピーカーも異常なし。
音割れも、途切れも、勝手な再生もない。
十五時を過ぎたころには、希歩の画面に「正常」の記録だけが並んでいた。
「出ないねえ」
里菜がベンチの背にもたれた。
「出ないことも結果」
「希歩、そういう言い方好きだよね」
「結果だから」
『同意。ただし、出ないまま帰ると明日も来る結果になります』
「それもそう」
なぎさは通話の向こうで何かをクリックしている。
『申告、やっぱり夕方以降に偏ってる。最も早いので十七時五十八分』
「夜間モードは?」
『季節設定だと十八時から』
希歩の指が止まった。
十八時。
今日の現地点検終了予定は十八時二十分。
夜間モードへの切替は確認できる。
ただし、その後に異常が出るまで待つとなれば、終了予定を越える可能性が高い。
希歩は予定表を開いた。
十八時二十分、現地終了。
十八時二十七分、移動開始。
十九時三分、ホテル到着見込み。
十九時十五分、夕食。
「夜まで見よう」
里菜が言った。
希歩は顔を上げる。
「申告が夕方以降に偏ってる。昼に再現しないなら、切替の前後は見たほうがいい」
「予定では十八時二十分終了」
「知ってる」
「明日も確認できる」
「それも知ってる。でも今日、切替まで見て再現するなら、明日の調査順を変えられる。再現しなくても、夜間モードでは出なかったって情報になる」
『私は里菜案に一票』
なぎさが入る。
『今夜の切替ログ、私も同時に見られる。ここで一回合わせたほうが、明日の朝から絞りやすい』
希歩は二人の言葉を聞きながら、自分の記録を見直した。
昼間は再現なし。
申告はすべて夕方以降。
夜間モード開始は十八時。
確認する価値はある。
十八分。
予定を延長することそのものが嫌なのではない。
意味のない延長が嫌なのだ。
意味があるなら、予定を更新すればいい。
「十八時四十分まで延長」
「お」
「切替前後の挙動確認。再現しなければ今日は終了。再現した場合は、発生時刻とログだけ確保して詳細切り分けは明日」
『了解。予定変更、記録しました』
なぎさの声が少し笑っている。
里菜は両手を上げた。
「異議なし」
希歩は予定表を書き換えた。
十九時十五分の夕食には間に合う。
*
十八時が近づくにつれて、公園の空気が変わった。
昼間は散歩する人や子どもの声が途切れなかったが、夕方になると足音が減り、代わりに滝の音が広く聞こえるようになった。
照明が順に灯る。
希歩は滝の脇に立ち、イヤホンを片耳だけ外した。
「十七時五十九分三十秒」
「カウントダウンする?」
里菜が聞く。
「しない」
『してくれてもいいよ。盛り上がるし』
「業務です」
『はいはい』
十八時。
昼間の環境音がゆっくり下がり、夜間用の電子音楽へ切り替わった。
輪郭の柔らかな低音が、滝の音の向こうに広がる。
細い電子音が重なり、夜の公園に少しだけ別の温度を与える。
希歩は画面を見る。
「切替正常」
『中央送信、正常。ストリーム維持』
「現地も問題なし」
里菜が答える。
一分。
二分。
三分。
何も起こらない。
希歩は申告時刻の一覧を見返した。
「少し位置を変える」
滝の正面から、遊歩道側へ二歩。
さらに三歩。
音の聞こえ方が変わる。
水音が強い場所では電子音楽が埋もれ、少し離れると逆に音楽の輪郭が戻る。
「この辺りが申告位置に近い?」
「たぶん。管理側の写真だと、そこの柵からベンチの間」
里菜が答えた。
希歩はその位置で止まった。
十八時七分十四秒。
電子音楽の低音が続く。
次の瞬間、曲がほんのわずかに薄くなった。
希歩は反射的に画面へ目を落とす。
通信か。
そう思った、その直後だった。
――ピ、ポ、ン。
三音。
短い。
あまりに短くて、聞き間違いだと思えばそう思える長さだった。
けれど水音の中で、その三つだけが妙にはっきり浮いた。
希歩は顔を上げた。
里菜と目が合う。
「今の」
「聞いた」
里菜の表情から笑いが消えていた。
「なぎさ」
『待って。今、追ってる』
キーボードを叩く音。
希歩はすぐに時刻を記録する。
十八時七分十五秒付近。
電子音楽一瞬低下。
三音。
滝付近。
「中央から何か送った?」
『送ってない』
「確認音は?」
『なし。設定変更なし。臨時配信なし』
「じゃあ、今の三音は何?」
『それを今から探す』
なぎさの声は軽くなかった。
里菜が滝側の機器へ歩いていく。
「こっちの再生履歴見る」
「待って。触る前に現状保存」
「了解」
希歩は中央監視の画面を見た。
十八時七分。
電子音楽のストリームに、ごく短い揺れ。
それだけだった。
三音を再生した記録は、どこにもない。
けれど希歩は聞いた。
里菜も聞いた。
滝の水音は、何事もなかったように落ち続けている。
希歩はもう一度、発生時刻を秒単位で記録した。
記録にないものは、比較できない。
比較できないものは、原因を残せない。
原因を残せなければ、次に同じことが起きても改善できない。
だから希歩は、原因がわからない状態を嫌う。
「今日はここまでにする?」
里菜が尋ねた。
希歩は時計を見た。
十八時十二分。
予定した延長時間の範囲内だった。
「現状保存とログ回収まで。分解は明日」
「賛成」
『こっちも十八時七分前後を切り出しておく。希歩、食事の予定あるんでしょ?』
「十九時十五分」
『秒は?』
「ない」
『成長した』
「秒まで予約してないだけ」
里菜がまた笑った。
作業を終え、公園を出るころには空がすっかり暗くなっていた。
希歩はキャリーケースではなく、仕事用の鞄を肩へ掛け直した。
「せっかく神戸なんだから、何か食べて帰れば?」
里菜が言う。
「食べるよ」
「そうじゃなくて。何か、そのへんで見つけるとか」
「店は決めてある」
「やっぱり」
「待ち時間が少ない。ホテルから徒歩六分」
「完璧」
里菜は肩をすくめた。
「じゃ、私は別方向だからここで。明日九時、公園入口」
「八時五十分にはいる」
「でしょうね」
手を振って、里菜が夜の通りへ消えていく。
希歩はホテルへの経路を開いた。
夕食予定の店まで含めても、十九時十五分には十分間に合う。
予定は崩れていない。
それなのに、歩き出してからも頭に残っているのは、十九時十五分の数字ではなかった。
――ピ、ポ、ン。
滝の音に混じった、三つの音。
確かに聞こえた。
なのに、記録にはない。
希歩は歩きながらスマートフォンを開き、業務メモの最下段に一行だけ追加した。
《中央送信なし。現地発生の可能性を確認》
入力して、画面を閉じる。
知らない街の夜の匂いがした。
けれど今の希歩には、それを立ち止まって確かめる余裕はなかった。
十九時十五分。
まずは予定どおり、食事を終える。
そのつもりだった。
(End)
【終】
新神戸駅への到着予定は十一時四十二分。
ホームから改札まで四分。昼食店までの移動と注文・受け取りに十六分、食事十八分。昼食後、公園入口までは乗り換えを含めて四十一分。途中で迷った場合の予備時間が八分。
希歩はスマートフォンの予定表を上から下まで確認し、もう一度、十一時四十二分の数字に目を戻した。
列車は現在、予定より一分早い。
窓の外では、山の濃い緑と住宅の屋根が流れている。遠くまで見れば、知らない街へ来たという感じは確かにあった。けれど希歩の視線はすぐ、画面右上の時刻へ戻った。
一分早いのは問題ではない。
問題になるのは、その一分をあてにして予定を詰めることだった。
移動には誤差がある。人の流れにも、信号にも、店の混雑にも誤差がある。だから余白は必要だ。
ただしそれは、楽しむための時間ではない。遅延を吸収するための時間だ。
希歩はそう考えている。
出張が嫌いなわけではなかった。現地でしか確認できないこともあるし、遠隔監視の画面だけでは拾えない異常を自分の目で見つけたときには、仕事としての手応えもある。
ただ、知らない土地は読みにくい。
いつもの駅なら、どの階段が空いているか知っている。昼休みに入る店なら、十二時十分を過ぎると列が伸びることも知っている。会社から自宅までなら、雨の日にどの道が三分遅くなるかもだいたいわかる。
出張先には、その蓄積がない。
だから希歩は、できるだけ先に決める。
今回も、神戸に着いてからホテルへ入るまでの行動をほぼ決めていた。
昼食の店だけではない。注文するものまで、候補を一つに絞ってある。
スマートフォンが震えた。
『もうすぐ着く?』
里菜からだった。
『予定どおり。十一時四十二分着』
送信すると、数秒で返事が来る。
『了解。私は先に現場寄ってる。公園入口で十三時十分』
『十三時十分、了解』
『一分単位で返事されると緊張するなあ』
希歩は、そこには返事をしなかった。
予定時刻を確認しただけなのに、何が緊張するのだろう。
列車が減速を始めた。
十一時四十一分五十六秒。
希歩は画面を消し、鞄の持ち手を握った。
*
改札を出たのは十一時四十六分。
ホームから四分。想定どおりだ。
希歩は駅構内の店へ入り、事前に決めていた軽食を注文した。温かいサンドイッチと無糖の紅茶。注文から受け取りまで三分十二秒。
席は入口から二番目のカウンター。
キャリーケースを足元へ寄せ、十二時二分に食べ始める。
十八分あれば十分だった。
パンは思っていたより香ばしく、中の卵は温かかった。けれど希歩が最初に考えたのは、味ではなく、これなら予定時間内に食べ終えられる、ということだった。
向かいの通路を旅行客らしい二人組が歩いていく。
「せっかくだから、何か神戸っぽいもの食べたいよね」
その声が耳に入った。
希歩は紅茶を一口飲んだ。
神戸っぽいもの。
何だろう、と一瞬だけ思う。
けれど調べるほどの必要性は感じなかった。
今日は観光に来たわけではない。十三時十分に里菜と合流し、申告されている異常音を確認する。初日の作業終了予定は十八時二十分。その後ホテルへ移動し、十九時十五分から夕食。二十時十分には部屋へ戻り、当日のログ整理。
優先順位は明確だった。
食べ終えたのは十二時十八分。
予定より二分早い。
希歩はトレーを返却しながら、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。
幸先がいい。
そう思ってから、自分が何を基準に幸先を判断したのかに気づき、少しだけ可笑しくなる。
二分。
たった二分なのに。
それでも、二分は二分だった。
*
公園に着くと、里菜は人工滝の前でしゃがみ込んでいた。
濃い色の作業パンツに薄手の上着。開いた工具バッグの横に保守用端末が置かれている。
「十二時五十九分」
希歩が言うと、里菜が顔を上げた。
「何が?」
「私の到着時刻」
「待ち合わせ十三時十分だよ」
「十一分前」
「それは見ればわかる」
里菜は笑って立ち上がった。
「遠くからお疲れ。お昼食べた?」
「食べた。予定より二分早く終わった」
「感想そこ?」
「他に何があるの」
「味とか」
希歩はサンドイッチを思い出した。
「温かかった」
「うん。最低限の食レポありがとう」
里菜は工具バッグを閉じた。
軽口を叩いているが、作業はもう進んでいるらしい。滝の脇にある点検扉が開いていた。
「先に見た感じ、スピーカー本体と配線に目立った異常なし。濡れもなし。端子も緩んでない。ただ、あっちのコントローラー、ずいぶん古い型だね」
「型番は?」
「あとで写真送る。希歩が持ってる台帳と照合して」
こういうところが里菜だった。
電源、配線、ネットワーク、音響。担当境界にこだわらず、現場で必要なものを次々に触る。ただし、触ったことは必ず残す。写真も、変更箇所も、作業時刻も。
希歩はその速さを、ときどき危ういと思う。
里菜から見れば、希歩の慎重さは、ときどき遅く見えるらしい。
どちらが正しいかではなく、たぶん仕事が違うのだろう。
希歩は鞄から業務端末を取り出した。
「なぎさ、つなぐね」
通話を開始すると、すぐに明るい声が返ってきた。
『はーい、本社監視センター、今日も元気に稼働中です』
「それ、毎回言う必要ある?」
『希歩が毎回時刻を読み上げるのと同じくらいには』
里菜が吹き出した。
希歩は無視して画面共有を始める。
「現地到着十二時五十九分。里菜が先行確認済み。スピーカー本体と配線に外観異常なし。これから申告時刻と中央ログを照合する」
『了解。こっちは過去一週間の通信状態、もう抜いてる。重大アラートはゼロ。瞬断っぽいのは何本かあるけど、今のところ音の申告と一致するかまでは見てない』
「申告内容をもう一度」
『利用者から三件。公園管理側から一件。文言はばらばらだけど、共通してるのは滝の近く。「水音に混じって変な音がする」「電子音みたいな短い旋律」「三音くらい聞こえた気がする」。発生は夕方から夜寄り』
希歩は端末に表示された時刻を見た。
十七時五十八分。
十八時十二分。
十九時四十一分。
二十時三分。
「昼の申告は?」
『なし』
「夜間モードとの相関は?」
『まだ不明。申告時刻だけなら可能性あり』
希歩はメモ欄へ入力した。
発生時間帯――夕方以降。
発生位置――滝周辺。
中央監視――重大異常なし。
「じゃ、鳴らしてみようか」
里菜が言った。
「通常の確認音から?」
「うん。そのあとチャンネルごと」
里菜が現地機器を操作する。
滝の音が絶えず響いていた。
人工の滝とはいえ、水が落ちる音は思った以上に大きい。近くへ寄ると、低い轟きの上に細かな飛沫の音が重なり、会話の輪郭まで少し削られる。
そこへ短い確認音が流れた。
澄んだ一音。
「右側、正常」
希歩が言う。
里菜が次へ切り替える。
「左側も正常」
『中央送信も一致。遅延は許容範囲』
なぎさの声がイヤホンから返る。
確認を繰り返す。
滝側の指向性スピーカーを含め、どのスピーカーも異常なし。
音割れも、途切れも、勝手な再生もない。
十五時を過ぎたころには、希歩の画面に「正常」の記録だけが並んでいた。
「出ないねえ」
里菜がベンチの背にもたれた。
「出ないことも結果」
「希歩、そういう言い方好きだよね」
「結果だから」
『同意。ただし、出ないまま帰ると明日も来る結果になります』
「それもそう」
なぎさは通話の向こうで何かをクリックしている。
『申告、やっぱり夕方以降に偏ってる。最も早いので十七時五十八分』
「夜間モードは?」
『季節設定だと十八時から』
希歩の指が止まった。
十八時。
今日の現地点検終了予定は十八時二十分。
夜間モードへの切替は確認できる。
ただし、その後に異常が出るまで待つとなれば、終了予定を越える可能性が高い。
希歩は予定表を開いた。
十八時二十分、現地終了。
十八時二十七分、移動開始。
十九時三分、ホテル到着見込み。
十九時十五分、夕食。
「夜まで見よう」
里菜が言った。
希歩は顔を上げる。
「申告が夕方以降に偏ってる。昼に再現しないなら、切替の前後は見たほうがいい」
「予定では十八時二十分終了」
「知ってる」
「明日も確認できる」
「それも知ってる。でも今日、切替まで見て再現するなら、明日の調査順を変えられる。再現しなくても、夜間モードでは出なかったって情報になる」
『私は里菜案に一票』
なぎさが入る。
『今夜の切替ログ、私も同時に見られる。ここで一回合わせたほうが、明日の朝から絞りやすい』
希歩は二人の言葉を聞きながら、自分の記録を見直した。
昼間は再現なし。
申告はすべて夕方以降。
夜間モード開始は十八時。
確認する価値はある。
十八分。
予定を延長することそのものが嫌なのではない。
意味のない延長が嫌なのだ。
意味があるなら、予定を更新すればいい。
「十八時四十分まで延長」
「お」
「切替前後の挙動確認。再現しなければ今日は終了。再現した場合は、発生時刻とログだけ確保して詳細切り分けは明日」
『了解。予定変更、記録しました』
なぎさの声が少し笑っている。
里菜は両手を上げた。
「異議なし」
希歩は予定表を書き換えた。
十九時十五分の夕食には間に合う。
*
十八時が近づくにつれて、公園の空気が変わった。
昼間は散歩する人や子どもの声が途切れなかったが、夕方になると足音が減り、代わりに滝の音が広く聞こえるようになった。
照明が順に灯る。
希歩は滝の脇に立ち、イヤホンを片耳だけ外した。
「十七時五十九分三十秒」
「カウントダウンする?」
里菜が聞く。
「しない」
『してくれてもいいよ。盛り上がるし』
「業務です」
『はいはい』
十八時。
昼間の環境音がゆっくり下がり、夜間用の電子音楽へ切り替わった。
輪郭の柔らかな低音が、滝の音の向こうに広がる。
細い電子音が重なり、夜の公園に少しだけ別の温度を与える。
希歩は画面を見る。
「切替正常」
『中央送信、正常。ストリーム維持』
「現地も問題なし」
里菜が答える。
一分。
二分。
三分。
何も起こらない。
希歩は申告時刻の一覧を見返した。
「少し位置を変える」
滝の正面から、遊歩道側へ二歩。
さらに三歩。
音の聞こえ方が変わる。
水音が強い場所では電子音楽が埋もれ、少し離れると逆に音楽の輪郭が戻る。
「この辺りが申告位置に近い?」
「たぶん。管理側の写真だと、そこの柵からベンチの間」
里菜が答えた。
希歩はその位置で止まった。
十八時七分十四秒。
電子音楽の低音が続く。
次の瞬間、曲がほんのわずかに薄くなった。
希歩は反射的に画面へ目を落とす。
通信か。
そう思った、その直後だった。
――ピ、ポ、ン。
三音。
短い。
あまりに短くて、聞き間違いだと思えばそう思える長さだった。
けれど水音の中で、その三つだけが妙にはっきり浮いた。
希歩は顔を上げた。
里菜と目が合う。
「今の」
「聞いた」
里菜の表情から笑いが消えていた。
「なぎさ」
『待って。今、追ってる』
キーボードを叩く音。
希歩はすぐに時刻を記録する。
十八時七分十五秒付近。
電子音楽一瞬低下。
三音。
滝付近。
「中央から何か送った?」
『送ってない』
「確認音は?」
『なし。設定変更なし。臨時配信なし』
「じゃあ、今の三音は何?」
『それを今から探す』
なぎさの声は軽くなかった。
里菜が滝側の機器へ歩いていく。
「こっちの再生履歴見る」
「待って。触る前に現状保存」
「了解」
希歩は中央監視の画面を見た。
十八時七分。
電子音楽のストリームに、ごく短い揺れ。
それだけだった。
三音を再生した記録は、どこにもない。
けれど希歩は聞いた。
里菜も聞いた。
滝の水音は、何事もなかったように落ち続けている。
希歩はもう一度、発生時刻を秒単位で記録した。
記録にないものは、比較できない。
比較できないものは、原因を残せない。
原因を残せなければ、次に同じことが起きても改善できない。
だから希歩は、原因がわからない状態を嫌う。
「今日はここまでにする?」
里菜が尋ねた。
希歩は時計を見た。
十八時十二分。
予定した延長時間の範囲内だった。
「現状保存とログ回収まで。分解は明日」
「賛成」
『こっちも十八時七分前後を切り出しておく。希歩、食事の予定あるんでしょ?』
「十九時十五分」
『秒は?』
「ない」
『成長した』
「秒まで予約してないだけ」
里菜がまた笑った。
作業を終え、公園を出るころには空がすっかり暗くなっていた。
希歩はキャリーケースではなく、仕事用の鞄を肩へ掛け直した。
「せっかく神戸なんだから、何か食べて帰れば?」
里菜が言う。
「食べるよ」
「そうじゃなくて。何か、そのへんで見つけるとか」
「店は決めてある」
「やっぱり」
「待ち時間が少ない。ホテルから徒歩六分」
「完璧」
里菜は肩をすくめた。
「じゃ、私は別方向だからここで。明日九時、公園入口」
「八時五十分にはいる」
「でしょうね」
手を振って、里菜が夜の通りへ消えていく。
希歩はホテルへの経路を開いた。
夕食予定の店まで含めても、十九時十五分には十分間に合う。
予定は崩れていない。
それなのに、歩き出してからも頭に残っているのは、十九時十五分の数字ではなかった。
――ピ、ポ、ン。
滝の音に混じった、三つの音。
確かに聞こえた。
なのに、記録にはない。
希歩は歩きながらスマートフォンを開き、業務メモの最下段に一行だけ追加した。
《中央送信なし。現地発生の可能性を確認》
入力して、画面を閉じる。
知らない街の夜の匂いがした。
けれど今の希歩には、それを立ち止まって確かめる余裕はなかった。
十九時十五分。
まずは予定どおり、食事を終える。
そのつもりだった。
(End)
【終】



