『時間というのは目に見えないけれど、みんなのまわりにいつもいるんだ。時計はそれを見えるようにする道具なんだよ』
私がまだ幼稚園児だった頃、時計店を営んでいた祖父が修理しながら言った。
けれど当時から食いしん坊だった幼い私は……。
『じゃあおなかの音といっしょだね』
『お腹の音?』
『ぐうってなったら、朝とお昼と夜がわかるもん』
得意げにそんなことを言って祖父をぽかんとさせた。
『ははは。たしかに、腹時計って言うもんなあ』
だけど祖父は大きく、それでいて優しく笑ってくれたのだった。
今にして思えば、すぐになんでも時計に結びつける祖父の時計オタク的な発言だったような気もする。
そんな祖父は私が中学生になった年に亡くなった。
◇
「楽しかったなあ、おじいちゃんと話すの」
またしても下りの東海道新幹線に揺られながら、懐かしい思い出にポツリとこぼす。
ちなみに今回は左側の座席に座っている。なぜなら……。
「あ、東寺の五重塔。京都ですよ」
まもなく京都駅。ボリュームを抑えた声で、隣の人物に声をかける。
「ん? うん」
鳩ヶ谷さんは私越しの窓にチラリと視線をやると、またすぐにスマホに戻した。
「この一瞬の京都に、旅の楽しさ感じません?」
京都を通過する場合は、毎回左側に座るようにしている。
「旅じゃなくて仕事だから。だいたい虚しくないか? 観光できるわけでもないのに」
「まあそうですけど……」
彼とは新幹線の楽しみ方の流儀が違うらしい。
今朝も東京駅で駅弁の【えんがわ押し寿司】を買った私に対して、『朝から寿司?』と怪訝そうな顔をしていた。そして売り場の駅弁をチラリと見て『朝だしなあ』とつぶやくと、ホームの売店で『まあなんでもいいか』と言いながら梅おにぎりを手に取った。
食事って、そういうことじゃないと思うんですけど……と、言いたいのをグッと堪えて、私は出張の幕開けに相応しいえんがわ押し寿司を堪能したのだった。
「鳩ヶ谷さんも食べるべきでしたよ、あれは」
東京駅で買えるえんがわ押し寿司は、少し前にSNSで話題になった売り切れ覚悟の大人気の駅弁だ。
そのふたを開けた瞬間、押し寿司を半分包むようにかけられた大きな笹の葉が目に入った。ニクい演出。それと同時に、ふんわりと甘みのある酢飯の匂いが鼻をくすぐる。そして笹をめくると八切れの飾り気のない無垢な白い寿司が姿を現した。
付属のわさび醤油をつけて口に運ぶ。
カレイのえんがわの柔らかな感触を舌に感じたら……旨みがじゅわりと口いっぱいに広がる。しつこさを感じない脂はずっと口内に残って欲しいくらいだった。
「たしかにあのおにぎりは失敗だった」
「やっぱり駅弁食べたかったですか?」
「いや、梅干し苦手なんだよな」
「ラベル見なかったんですか……」
食に無頓着すぎる。
鳩ヶ谷さんらしいといえばらしいのか……と、思いながら車内販売のコーヒーを口にする。
「それ、明日の?」
私のパソコン画面が目に入った鳩ヶ谷さんが尋ねる。
「海外向けのルカナリなんて珍しいよな。俺も見たかったな」
「楽しみだけどさすがに緊張しますよ」
七月上旬の今日、私たちは兵庫県明石市にやって来た。
正午。新大阪から乗り継いだ電車を降りると、二人の間を生ぬるい風がふわりと抜ける。
「会場は明石駅からすぐですね」
出張のメインの目的は、飛刻時計電子株式会社の交歓会。全国の支社や工場からその年の担当社員が集められ、業績報告や意見交換を行う場だ。私は今年が初参加となる。
「十二時か、チェックインを済ませてもまだ少し時間があるな。懇親会もあるから昼メシは軽めの適当でいいんじゃないか」
ご当地グルメを期待している私でも、今回ばかりは鳩ヶ谷さんに賛成だ。食事よりも優先したいことがある。
「あの、私見たいものがあるんですけど……」
私の言葉に、鳩ヶ谷さんは「言うと思った」とつぶやいた。
「わあ、電車から見えるんですね。時計塔」
山陽明石駅からお隣の人丸前駅へ、たったの一駅の間に私の胸はどんどん高鳴っていった。
駅から歩いてたどり着いたのは、明石市立天文科学館。電車からはその灯台みたいな形の大きな時計塔が見えていた。ここで私が見たかったものは……。
「やっぱり明石といえば、ですよね」
時計塔の真下、私の目の前には【135°E 日本標準時子午線】の文字。
小学校の社会でも習った気がするけれど、日本の時刻の基準となるのが東経135度の子午線で、いくつかの日本の都市を通っている。中でもこの線の真上に天文科学館を建て、街にいくつもモニュメントや看板を置いている明石はいわば日本一の〝標準時子午線推しの街〟。飛刻の交歓会会場が毎回明石なのも、もちろんそれが理由だ。
「時計に携わる人間の聖地ですね」
「聖地かどうかは知らんけど、ここからの景色は好きだな」
時計塔の展望台からの明石海峡を眺めながら鳩ヶ谷さんは言った。
「古閑さんが来たことないとは意外だけど」
「来たことはあるんです、幼い頃に祖父に連れられて。ただ幼すぎて記憶がおぼろげで」
「ああ、時計屋さんだったお祖父さん」
彼の言葉に頷く。
「古閑時計店はもうなくなっちゃいましたけど。祖父は今でも私の神様みたいな存在です」
「古閑さんを時計オタクにした人ってことか」
笑われたけれど、そういうことである。祖父がいなければ、きっと私は今ここにいなかった。
よく覚えていないけれど、この風景を祖父とも見たんだ。
交歓会の前半の報告会では、室長である鳩ヶ谷さんが私たちのここ最近の活動を報告した。私や鳩ヶ谷さんが修理した珍しい時計の写真が映し出されるたびに会場が小さく騒めいたりして、時計メーカーには時計好き(時計オタク?)が集まっているのだと実感する。
そして午後五時から、立食形式の懇親会が始まった。
「本当によく食うな」
二杯目の明石鯛の鯛めしのお椀と、明石ダコの刺身を手にテーブルに戻った私を見て鳩ヶ谷さんが言う。
「あっちに但馬牛のステーキもありましたよ」
内々のパーティーだけれど、想像よりもメニューが充実している。
「酒がうまいんだよな、この会は」
鳩ヶ谷さんは地酒に夢中なようだ。
「これなんですか? 小魚……の、煮物?」
小鉢に醤油味らしき茶色の小魚が盛られている。
「イカナゴのくぎ煮。このあたりの郷土料理だよ」
「イカナゴ?」
「関東方面ではコウナゴだったかな」
コウナゴなら聞き覚えがある。といっても、小魚の種類というくらいの認識だけれど。
「古閑さんも飲めば? 生姜も効いてて酒に合うよ、イカナゴ」
「あ、私は修理案件の前日は――」
「あの! 歴史編纂室の方ですよね」
その声に振り返ると、若い男性が二人立っていた。
「大阪支社、営業の目白です」
「あ、自分は開発室の渡会っていいます」
二人とも私と同じか少し上くらいだろうか。
「歴史編纂室にはプラチナマイスターがいるって聞いてて」
「ずっとどんな人だろうって、お会いしてみたかったんです」
彼らの声に逸る気持ちが滲み出すのも無理はない。
飛刻全社を見渡しても、現在プラチナマイスターは片手で余る程度なのだから。
「握手してください!」
握手かあ。どうしようかな。
鯛めしをごくりと飲み込んで、二人の方に視線をやった。
「え……?」
二人から差し出された手は、鳩ヶ谷さんの方を向いている。
「君たちさあ、勘違いしてるよ」
「え?」
鳩ヶ谷さんは右手にお猪口を持ったまま、左手で「こっち」と私を指差した。
「ええ!」
まあ、これも時々あることだ。
「す、すみません」
「いえ」
私は苦笑いで、彼らは出していた手を引っ込めた。
どうやら〝歴史編纂室にはプラチナマイスターがいる〟という部分だけが社内に認知されているらしい。
そして私以外のプラチナはみんな四十代以上の男性だと聞いている。
加えて、私たちの古閑紡希と鳩ヶ谷奏というジェンダーレスな名前も勘違いを呼ぶらしい。
夜八時。
「古閑さんも来れば?」
すでにほろ酔いの鳩ヶ谷さんに二次会に誘われたけれど、「明日の準備があるので」とホテルに向かう。大事な大事な用事があるのだ。
「ルカナリの修理、うまくいきますように!」
シャワーを浴びて、部屋のデスクに置いたお守りの腕時計に手を合わせる。これは、難しそうな時計の案件の前には必ずやっている儀式。
「そして帰りの新幹線で、これを美味しく飲めますように」
隣には、黄色の木馬とオレンジのうさぎのかわいらしいイラストが描かれたカップ酒。兵庫県加東市のお酒だ。
私は時計の修理の前日は禁酒すると決めている。理由はベストなコンディションで時計と対面したいから。そして、ひと仕事終えた後に勝利の美酒に酔いたいから。
顔を上げたら目の前の鏡に映る自分と目が合って、軽くため息。
「プラチナ感、ないかあ。見た目の問題?」
先ほどの二人の驚いた顔を思い出す。
認証を受けて一年。まだまだ実績が足りないんだ。
翌日、午前十一時。
明石工場や周辺の顧客への挨拶回りの鳩ヶ谷さんとは別行動で、私は依頼人の家へと向かう。
「飛刻時計電子株式会社の古閑です。本日はよろしくお願いします」
依頼の主である牛尾令美さんの家は、明石駅のほど近くだった。
「ほら、律もご挨拶なさい」
玄関で挨拶を交わした令美さんの脚の後ろから、小さな顔が見え隠れしている。
「うしおりつ。四さい」
「こんにちは。えらいねー」
少し屈んで覗き込むと、律くんはそのまん丸な目で私を見据えた。
「ばあちゃんのひよこ時計、直るん?」
「え?」
きょとん顔の私を令美さんが「説明します」とリビングルームに案内した。
「うわあ……本物だあ。ふあぁ」
「姉ちゃん、変なかお」
律くんの指摘にハッとして、にやけた顔をシャキッとさせるように頬を両手で軽く叩いた。
ルカナリ(Le Canari)は小鳥のカナリアの名を持つ置き時計だ。赤を主とした七宝焼きで花柄をあしらった、着物の柄を思わせる日本的なフレーム。その中に一時間ごとに歌う機械仕掛けの金色のカナリアが取り付けられた、優美という言葉がふさわしい品だ。七〇年代に飛刻がごく少数を生産したけれど、輸出を目的とした製品だったため日本国内にはほとんど出回っていない。
飛刻本社のショールームにも置いていないから、私も実物を見るのは初めてだ。
「ばあちゃんのひよこ、歌わなくなってん」
律くんは先ほども『ばあちゃん』と口にした。
「この時計、この子の祖母――私の母から譲り受けたものなんです。イギリスに住んでいるんですけど、律が生まれた時に贈ってくれて。母が日本に来るたびに二人で仲良く眺めているんです」
令美さんは兵庫のやわらかなイントネーションで教えてくれた。
つまりは個人的な逆輸入品ということだ。
「それにしても美しい」
くすみのある七宝の色合いが古風で、日本的な奥ゆかしさを感じさせる。しかし、それを修理するとなると手袋の下の手にじんわりと汗が滲む。
「では、ふたを開けさせていただきますね」
緊張しつつも、これだけ珍しい時計に触れられるのはやはり嬉しくて胸はわくわくと高揚している。
今回は事前に状況もしっかり教えてもらい、使われている部品はあらかじめ全て揃えてきたから部品が足りないということはない。古い時計は、凝って見えても案外最近のものより部品が少ない単純な作りだったりする。
「さっすがルカナリ。中まできれいに作られてる」
いや、さすがと言うべきは飛刻の時計職人だろうか。
メンテナンスとクリーニングも兼ねて、パーツをバラして並べていく。
「じゃあ次はカナリアのパーツを取り外しますね」
時計から、カナリアを外そうと指を伸ばした時だった。
「いやや!」
律くんが私の右腕を小さな両手で掴むと、拒絶するように首を横に振った。
「え、あの、律くん?」
「姉ちゃんはひよこにさわらんで!」
「こら! 律! お姉さんが困ってるでしょう」
「カナリアを壊そうとしてるわけじゃないよ。大丈夫だよ」
けれど彼は腕を離してくれない。それどころか、ぶんぶん首を振ったその目には涙が光っている。
「ばあちゃんのひよこやもん! ばあちゃんのひよこに触らんで!」
「律!」
「だめー!」
とうとう盛大に泣き出してしまった。
どうしたら良いかわからず、慌てて時計から手を離した。
律くんはお母さんに抱きついたまま、泣き続けている。
「ごめんなさいね。一度こうなってしまうと、しばらくは落ち着かないんです」
令美さんは律くんの背中をさすりながら、申し訳なさそうに言った。
「もう十二時ですし、良かったらお昼を食べてきてください。その間に落ち着くかもしれないので」
令美さんの提案を受け、お昼に出ることにした。
牛尾家を出る私に、彼女は〝うおんたな商店街〟という場所を教えてくれた。
『おいしい海鮮もたくさんあって、明石の観光名所ですよ』
普段ならわくわくする言葉だけれど……。
「あ」
歩いて七、八分ほどで【魚の棚商店街】の看板を見つけた。赤い鯛のレリーフも添えられている。
「うおのたな?」
令美さんは『うおんたな』と言った気がするけれど……と、よく見るとたしかに〝UON TANA〟とアルファベットが書かれている。
アーケード商店街に一歩踏み入れると、思わず「わあ」と声が漏れた。頭上高くの真ん中には鯛の絵が描かれた大きな看板、その脇にタコの絵と店名の書かれた小さな看板がアーケードの奥まで何枚も並んでいる。この街の名物が一目でわかる商店街。
ここは昼間でも賑わっている。
関西弁の飛び交う通りからは、あちこちから食べ物の匂いも漂ってくるというのに……。
律くんの泣き顔が頭から離れない。
子どもを泣かせてしまうなんて。彼の顔には〝嫌い〟と書いてあった気がする。
大事な時計をバラバラにする極悪人に見えてしまったのだろうか。そうだよねえ、まだ四歳だもん。
「はあ……っ」
心の声が出てしまったような大きなため息が漏れた。
「姉ちゃんどないしてん」
私の様子を見ていたTシャツ姿のおじさんが声をかけてきた。坊主頭にはタオルを巻いている。
「なんか嫌なことでもあったん?」
見ず知らずの人間にこの距離感。さすが関西と言ったら偏見だろうか。
「まあ、ちょっと……」
「そんなん美味いもんでも食べて忘れたらええ。ちょうど昼飯の時間やし」
おじさんはガハハと豪快に笑った。
「……でもなんか、あんまり食欲が……」
〝難題にぶつかった時こそ栄養補給!〟の古閑紡希でも、今回は胃がもやもやしていて食べられそうにない。
「姉ちゃん何言うてん。そんな時の明石焼きや」
「へ?」
「ふわっふわのとろっとろを、あったか〜いだし汁につけて食べるんやから、お腹に優しいに決まってるわ」
それはたしかに……。ゴクリと喉が鳴る。
「知らんけど」
思わずズッコケそうになった。
「でもそうだなあ、せっかく明石に来たんだし。そういうことかも」
「決まりやな! ついて来ぃ」
親指で「こっちや」と行き先を示したおじさんのTシャツの背には、【たま蛸】というロゴと、タコのイラストが描かれていた。
押し売りやぼったくりかもしれないと若干の警戒心が芽生えるけれど、『ふわっふわのとろっとろ』と言った時のおじさんの熱のこもった顔を信用することにした。その顔を思い出したらつい、ふふっと笑ってしまった。
案内された店はこじんまりとしていて、看板や戸口は年季の入っていそうなオーラを放っている。店先におかれたテーブルではすでに常連客らしき人たちが一杯やっていて、地元の人気店のようだ。【玉子焼き】と書かれた紺色ののぼりを横目に見ながら入店する。
店内はこれまた年季の入った食堂という雰囲気。レトロな扇風機が回っている。
「どれにする? 八個、十六個、二十四個」
カウンター席の向こうから、おじさんに明石焼きの数を聞かれる。
「じゃあ……八個で」
「姉ちゃん、八個はないわ。絶対足りんて」
「でも食欲が……」
「ほな残してもええから十六個にしとき。代金も八個分でええよ」
驚いて「え! そんな」と言うと、おじさんは「ええって、ええって」と丸いくぼみが八個並んだ銅板二枚に油を敷きはじめた。
「お姉ちゃん得したなぁ」
今度は隣に座っていた女性客に話しかけられる。私の母くらいに見えるから、五十代くらいだろうか。
「ここのがこの辺で一番美味しいから、おばちゃんでも十六個なんてペロリよ」
なぜかお客さんが自慢げだ。彼女の前には、もうほとんど食べ終えている明石焼きの赤い板がある。
そんな数は絶対に無理だと思いつつも、鼻は店内に漂う優しいだしの香りに喜んでいる。
焼き上がりを待っている間、おばちゃんが魚の棚のことを教えてくれた。やはり地元の人は『うおんたな』と呼んでいるらしい。そして年末年始は商店街にたくさんの大漁旗が飾られて大賑わいなのだそうだ。
「へえ、それも見てみたいです」
カラフルな光景を想像したところで「はい。お待ち」という声とともに、目の前におばちゃんのと同じ板が置かれた。
赤くて四角い板いっぱいに焼きたての丸い明石焼きが並んで、ほかほかと湯気を立てている。
「あ、ちょっと斜めなんだ」
板は手前に向かって下り坂を描いている。
「その方が取りやすいやろ? ほら、これに浸して食うてみて」
お椀に入っただし汁は澄んだ黄金色をしている。湯気が鼻をかすめると、だしの間から刻んだ三ツ葉の青い香りが顔をのぞかせる。
おじさんとおばちゃんから期待の視線が注がれて、妙に緊張しながら箸で明石焼きを挟んでみる。
「わ」
たこ焼きを想像していた私は、そのゆるっとした掴みにくい感触に驚く。慎重に箸でつまんで黄金色の中にダイブさせると、形が少しだけ崩れた。
慌ててお椀を少し口に近づけて、今度は口に箸を運ぶ。
「はふっはっふっ」
出来たての明石焼き、そして潜らせた温かなだし汁。
「落ち着いて食べ」
ちょっと想像すれば口の中がどうなるかわかることなのに、この匂いには抗えない。
だし汁で崩れた部分から塊がほろほろとほどけていく。玉子の風味を感じたら、中から現れたプリップリのタコが弾ける。だしと玉子がとろりと混ざり合って、食べているというより飲んでいる感覚。
はふはふと口内が熱いまま、気づいたら次の玉をだし汁に浸けていた。
次、次、少しだし汁を啜ってまた次……。
「あれ?」
板を滑る箸のカツンという音で、そこが空になったことに気づく。
驚く私を見て、おじさんはまたガハハと笑った。
「だから言うたやろ」
おばちゃんも笑っている。
「嘘みたい」
あんなに食欲がなかったというのに。
お腹の中がじんわりとぬくもって、元気が出てきた。
「まだまだ食べられそう」
「追加八個、食うか?」
「あ、だったら」
実はこのだし汁と玉子の風味を味わいながら、絶対美味しいに違いないと思っていたメニューがある。
「玉子焼き、ください。のぼりに書いてあったやつ」
私の言葉におじさんとおばちゃんは顔を見合わせた。それから一拍あいて、二人はわははと笑い出した。
「え? 何ですか?」
「姉ちゃん、それもう食うとるで」
「え?」
「私らはこれ、玉子焼きって呼んでんのよ」
おばちゃんは空の板を指差して言った。
「えっ」と言って店内をキョロキョロ見回すと、たしかに壁のメニューに【玉子焼き(明石焼き)】と書かれていた。
どういうことか尋ねると、『玉焼き』から変化した『玉子焼き』の方が『明石焼き』よりも古い呼び方なのだと教えてくれた。(でも諸説あるらしい)
「私は絶対明石焼きとは言わんなあ。大阪のたこ焼きに対抗して明石焼きって感じやん。玉子焼きは玉子焼きや」
「けど姉ちゃんみたいな観光客にはわかりやすいんと違う? 俺は柔軟に使い分けたらいいと思うわ」
「商売人やなあ」
おばちゃんはケラケラと笑っている。
「ふーん、呼び方の違いかあ。そういえば清水でもそんなこと、あったなあ」
『黒はんぺん』は外の呼び方だと言っていたっけ。
そういえばここだって、地元の人には『うおんたな』だし。
――『イカナゴ?』
――『関東方面ではコウナゴだったかな』
あれもそういうことだ。と思った瞬間、律くんの顔が浮かんだ。
「……ひょっとして、そういうこと?」
「姉ちゃんどないしたん? 追加いくか?」
「すみません! 急用ができたのでおかわりはやめておきます!」
そう言って、十六個分の代金を差し出す。もっと出したっていいくらいのリーズナブルさに驚く。
「明石に来たら必ずまた来ます! ごちそうさまでした!」
店を出て、早足で牛尾さんの家を目指す。
考えが間違っていたらまた律くんを泣かせてしまうかもしれないと思うと緊張するけれど。
「戻りました」
律くんはリビングのソファに座って、見張るみたいにバラバラの時計を見ていた。
「律くん」
呼びかけに返事がもらえず、小さく息を漏らす。それだけ不安にさせて傷つけてしまったのだ。ゆっくりと彼に近づいて、それからしゃがんで目線の高さを合わせた。
「律くん、ごめんね。律くんのおばあちゃんのひよこなのに間違えた名前で呼んじゃって」
私の言葉に、彼はハッとしたように目を合わせた。
「この時計は『ばあちゃんのひよこ時計』だよね。お姉ちゃんがひよこを直すから、触っていいかな?」
急に態度を変えるのが恥ずかしいのか、彼はコクリと小さく頷いた。
「がんばるね!」
私はあらためて時計に手を合わせる。
たしかにこの時計の正式名称は『ルカナリ』だ。
私にとっては正式名称で呼ぶことが時計に対しての最大級の敬意だ。けれど、そんなものは律くんにとって押し付けでしかない。
――『母が日本に来るたびに二人で仲良く眺めているんです』
二人の間にはきっとたくさんの会話があって、その分だけ積み重ねた思い出があるのだから。
「私、まだまだだなあ」
そんなこともわからないなんて。
部品を一つ一つ拭いて、ダメになったものは交換、噛み合わなくなっている部分も修理していく。
パーツを触れば触るほど、よく出来ていると感心する。
「ひよこ、歌うようになったよ」
作業は二時間半ほどかかって完了した。その間、小さな律くんはずっと真剣に作業を眺めていた。
「ひよこ、歌うてる!」
律くんの目が、嬉しそうにキラキラと輝いている。
「姉ちゃん、時計のお医者さんや! ブラックジャックや!」
「律、ありがとうでしょ」
「姉ちゃんありがとう!」
彼の笑顔につられて、こちらも笑う。
「私の時計もね、おじいちゃんの思い出の時計なんだ」
腕の〝お守り〟を律くんに見せる。
「ひよこ時計をこれからもずっと大事にしてね」
「また壊れたら、姉ちゃんが直しに来てな!」
二人で『約束』と指切りをした。
今回の任務も無事完了。
午後四時半。
帰りの新幹線に乗る西明石駅で鳩ヶ谷さんに連絡を入れようとした時だった。
「鳩ヶ谷さん」
別々に帰ることにしていた彼を偶然発見する。それも、駅弁売り場で。
「え、それ買うんですか?」
どこかバツの悪そうな表情の鳩ヶ谷さんは、兵庫の人気駅弁を手にしている。たこ壷形の容器に入ったたこ飯の……特撮ヒーロー柄のものだ。
「でもそれ東京でも売ってましたよ」
「知ってる。朝買ったら出張の間中、邪魔だろ?」
「あ」
――『朝だしなあ』
昨日の朝のつぶやき。あれはそういう意味だったんだ。
「鳩ヶ谷さん、特撮お好きなんですね」
「かっこいいじゃん、三分で世界の平和を守ってさあ」
鳩ヶ谷さんは照れくさそうだ。
人にはいろんな一面があるんだなあと嬉しくなって、思わず笑みをこぼす。
「ルカナリの修理は無事に終わったので、後ほど報告書をお送りします」
指定席を取っているから、鳩ヶ谷さんとは別行動。
私にはお楽しみがあるから都合がいい。
「なんとか今日も美味しくいただけそうです」
座席のテーブルを出して、例のカップ酒とデパ地下の惣菜店で買ったイカナゴのくぎ煮を並べる。イカナゴの旬は春先らしいけれど、どうしても食べてみたかった。
〝今回もありがとうございました〟
カップ酒を開け、律くんの笑顔を思い出しながら腕時計に乾杯。
可愛らしいイラスト入りカップの酒は、見た目に反した辛みを感じた後に芳醇な旨みと甘みが鼻を抜けた。
鳩ヶ谷さんの言っていた通り、生姜の効いた甘辛いくぎ煮は日本酒のアテに持ってこいで、この酒はその濃いめの味付けにも負けていない。
「イカナゴ、コウナゴ……それぞれの呼び方、かあ」
――『姉ちゃん、時計のお医者さんや! ブラックジャックや!』
律くんの言葉がよぎってくすりと笑う。
「ブラックジャックも悪くないね」
プラチナマイスターと呼ばれるより、まずは時計修理士の古閑紡希として認知してもらわないと……ですね。
張り詰めていた仕事スイッチが、徐々にオフになっていく。
「明石焼き、絶対また食べに行こ」
そして、今日もまた窓の自分と乾杯した。
「今回もおつかれさまでした」

私がまだ幼稚園児だった頃、時計店を営んでいた祖父が修理しながら言った。
けれど当時から食いしん坊だった幼い私は……。
『じゃあおなかの音といっしょだね』
『お腹の音?』
『ぐうってなったら、朝とお昼と夜がわかるもん』
得意げにそんなことを言って祖父をぽかんとさせた。
『ははは。たしかに、腹時計って言うもんなあ』
だけど祖父は大きく、それでいて優しく笑ってくれたのだった。
今にして思えば、すぐになんでも時計に結びつける祖父の時計オタク的な発言だったような気もする。
そんな祖父は私が中学生になった年に亡くなった。
◇
「楽しかったなあ、おじいちゃんと話すの」
またしても下りの東海道新幹線に揺られながら、懐かしい思い出にポツリとこぼす。
ちなみに今回は左側の座席に座っている。なぜなら……。
「あ、東寺の五重塔。京都ですよ」
まもなく京都駅。ボリュームを抑えた声で、隣の人物に声をかける。
「ん? うん」
鳩ヶ谷さんは私越しの窓にチラリと視線をやると、またすぐにスマホに戻した。
「この一瞬の京都に、旅の楽しさ感じません?」
京都を通過する場合は、毎回左側に座るようにしている。
「旅じゃなくて仕事だから。だいたい虚しくないか? 観光できるわけでもないのに」
「まあそうですけど……」
彼とは新幹線の楽しみ方の流儀が違うらしい。
今朝も東京駅で駅弁の【えんがわ押し寿司】を買った私に対して、『朝から寿司?』と怪訝そうな顔をしていた。そして売り場の駅弁をチラリと見て『朝だしなあ』とつぶやくと、ホームの売店で『まあなんでもいいか』と言いながら梅おにぎりを手に取った。
食事って、そういうことじゃないと思うんですけど……と、言いたいのをグッと堪えて、私は出張の幕開けに相応しいえんがわ押し寿司を堪能したのだった。
「鳩ヶ谷さんも食べるべきでしたよ、あれは」
東京駅で買えるえんがわ押し寿司は、少し前にSNSで話題になった売り切れ覚悟の大人気の駅弁だ。
そのふたを開けた瞬間、押し寿司を半分包むようにかけられた大きな笹の葉が目に入った。ニクい演出。それと同時に、ふんわりと甘みのある酢飯の匂いが鼻をくすぐる。そして笹をめくると八切れの飾り気のない無垢な白い寿司が姿を現した。
付属のわさび醤油をつけて口に運ぶ。
カレイのえんがわの柔らかな感触を舌に感じたら……旨みがじゅわりと口いっぱいに広がる。しつこさを感じない脂はずっと口内に残って欲しいくらいだった。
「たしかにあのおにぎりは失敗だった」
「やっぱり駅弁食べたかったですか?」
「いや、梅干し苦手なんだよな」
「ラベル見なかったんですか……」
食に無頓着すぎる。
鳩ヶ谷さんらしいといえばらしいのか……と、思いながら車内販売のコーヒーを口にする。
「それ、明日の?」
私のパソコン画面が目に入った鳩ヶ谷さんが尋ねる。
「海外向けのルカナリなんて珍しいよな。俺も見たかったな」
「楽しみだけどさすがに緊張しますよ」
七月上旬の今日、私たちは兵庫県明石市にやって来た。
正午。新大阪から乗り継いだ電車を降りると、二人の間を生ぬるい風がふわりと抜ける。
「会場は明石駅からすぐですね」
出張のメインの目的は、飛刻時計電子株式会社の交歓会。全国の支社や工場からその年の担当社員が集められ、業績報告や意見交換を行う場だ。私は今年が初参加となる。
「十二時か、チェックインを済ませてもまだ少し時間があるな。懇親会もあるから昼メシは軽めの適当でいいんじゃないか」
ご当地グルメを期待している私でも、今回ばかりは鳩ヶ谷さんに賛成だ。食事よりも優先したいことがある。
「あの、私見たいものがあるんですけど……」
私の言葉に、鳩ヶ谷さんは「言うと思った」とつぶやいた。
「わあ、電車から見えるんですね。時計塔」
山陽明石駅からお隣の人丸前駅へ、たったの一駅の間に私の胸はどんどん高鳴っていった。
駅から歩いてたどり着いたのは、明石市立天文科学館。電車からはその灯台みたいな形の大きな時計塔が見えていた。ここで私が見たかったものは……。
「やっぱり明石といえば、ですよね」
時計塔の真下、私の目の前には【135°E 日本標準時子午線】の文字。
小学校の社会でも習った気がするけれど、日本の時刻の基準となるのが東経135度の子午線で、いくつかの日本の都市を通っている。中でもこの線の真上に天文科学館を建て、街にいくつもモニュメントや看板を置いている明石はいわば日本一の〝標準時子午線推しの街〟。飛刻の交歓会会場が毎回明石なのも、もちろんそれが理由だ。
「時計に携わる人間の聖地ですね」
「聖地かどうかは知らんけど、ここからの景色は好きだな」
時計塔の展望台からの明石海峡を眺めながら鳩ヶ谷さんは言った。
「古閑さんが来たことないとは意外だけど」
「来たことはあるんです、幼い頃に祖父に連れられて。ただ幼すぎて記憶がおぼろげで」
「ああ、時計屋さんだったお祖父さん」
彼の言葉に頷く。
「古閑時計店はもうなくなっちゃいましたけど。祖父は今でも私の神様みたいな存在です」
「古閑さんを時計オタクにした人ってことか」
笑われたけれど、そういうことである。祖父がいなければ、きっと私は今ここにいなかった。
よく覚えていないけれど、この風景を祖父とも見たんだ。
交歓会の前半の報告会では、室長である鳩ヶ谷さんが私たちのここ最近の活動を報告した。私や鳩ヶ谷さんが修理した珍しい時計の写真が映し出されるたびに会場が小さく騒めいたりして、時計メーカーには時計好き(時計オタク?)が集まっているのだと実感する。
そして午後五時から、立食形式の懇親会が始まった。
「本当によく食うな」
二杯目の明石鯛の鯛めしのお椀と、明石ダコの刺身を手にテーブルに戻った私を見て鳩ヶ谷さんが言う。
「あっちに但馬牛のステーキもありましたよ」
内々のパーティーだけれど、想像よりもメニューが充実している。
「酒がうまいんだよな、この会は」
鳩ヶ谷さんは地酒に夢中なようだ。
「これなんですか? 小魚……の、煮物?」
小鉢に醤油味らしき茶色の小魚が盛られている。
「イカナゴのくぎ煮。このあたりの郷土料理だよ」
「イカナゴ?」
「関東方面ではコウナゴだったかな」
コウナゴなら聞き覚えがある。といっても、小魚の種類というくらいの認識だけれど。
「古閑さんも飲めば? 生姜も効いてて酒に合うよ、イカナゴ」
「あ、私は修理案件の前日は――」
「あの! 歴史編纂室の方ですよね」
その声に振り返ると、若い男性が二人立っていた。
「大阪支社、営業の目白です」
「あ、自分は開発室の渡会っていいます」
二人とも私と同じか少し上くらいだろうか。
「歴史編纂室にはプラチナマイスターがいるって聞いてて」
「ずっとどんな人だろうって、お会いしてみたかったんです」
彼らの声に逸る気持ちが滲み出すのも無理はない。
飛刻全社を見渡しても、現在プラチナマイスターは片手で余る程度なのだから。
「握手してください!」
握手かあ。どうしようかな。
鯛めしをごくりと飲み込んで、二人の方に視線をやった。
「え……?」
二人から差し出された手は、鳩ヶ谷さんの方を向いている。
「君たちさあ、勘違いしてるよ」
「え?」
鳩ヶ谷さんは右手にお猪口を持ったまま、左手で「こっち」と私を指差した。
「ええ!」
まあ、これも時々あることだ。
「す、すみません」
「いえ」
私は苦笑いで、彼らは出していた手を引っ込めた。
どうやら〝歴史編纂室にはプラチナマイスターがいる〟という部分だけが社内に認知されているらしい。
そして私以外のプラチナはみんな四十代以上の男性だと聞いている。
加えて、私たちの古閑紡希と鳩ヶ谷奏というジェンダーレスな名前も勘違いを呼ぶらしい。
夜八時。
「古閑さんも来れば?」
すでにほろ酔いの鳩ヶ谷さんに二次会に誘われたけれど、「明日の準備があるので」とホテルに向かう。大事な大事な用事があるのだ。
「ルカナリの修理、うまくいきますように!」
シャワーを浴びて、部屋のデスクに置いたお守りの腕時計に手を合わせる。これは、難しそうな時計の案件の前には必ずやっている儀式。
「そして帰りの新幹線で、これを美味しく飲めますように」
隣には、黄色の木馬とオレンジのうさぎのかわいらしいイラストが描かれたカップ酒。兵庫県加東市のお酒だ。
私は時計の修理の前日は禁酒すると決めている。理由はベストなコンディションで時計と対面したいから。そして、ひと仕事終えた後に勝利の美酒に酔いたいから。
顔を上げたら目の前の鏡に映る自分と目が合って、軽くため息。
「プラチナ感、ないかあ。見た目の問題?」
先ほどの二人の驚いた顔を思い出す。
認証を受けて一年。まだまだ実績が足りないんだ。
翌日、午前十一時。
明石工場や周辺の顧客への挨拶回りの鳩ヶ谷さんとは別行動で、私は依頼人の家へと向かう。
「飛刻時計電子株式会社の古閑です。本日はよろしくお願いします」
依頼の主である牛尾令美さんの家は、明石駅のほど近くだった。
「ほら、律もご挨拶なさい」
玄関で挨拶を交わした令美さんの脚の後ろから、小さな顔が見え隠れしている。
「うしおりつ。四さい」
「こんにちは。えらいねー」
少し屈んで覗き込むと、律くんはそのまん丸な目で私を見据えた。
「ばあちゃんのひよこ時計、直るん?」
「え?」
きょとん顔の私を令美さんが「説明します」とリビングルームに案内した。
「うわあ……本物だあ。ふあぁ」
「姉ちゃん、変なかお」
律くんの指摘にハッとして、にやけた顔をシャキッとさせるように頬を両手で軽く叩いた。
ルカナリ(Le Canari)は小鳥のカナリアの名を持つ置き時計だ。赤を主とした七宝焼きで花柄をあしらった、着物の柄を思わせる日本的なフレーム。その中に一時間ごとに歌う機械仕掛けの金色のカナリアが取り付けられた、優美という言葉がふさわしい品だ。七〇年代に飛刻がごく少数を生産したけれど、輸出を目的とした製品だったため日本国内にはほとんど出回っていない。
飛刻本社のショールームにも置いていないから、私も実物を見るのは初めてだ。
「ばあちゃんのひよこ、歌わなくなってん」
律くんは先ほども『ばあちゃん』と口にした。
「この時計、この子の祖母――私の母から譲り受けたものなんです。イギリスに住んでいるんですけど、律が生まれた時に贈ってくれて。母が日本に来るたびに二人で仲良く眺めているんです」
令美さんは兵庫のやわらかなイントネーションで教えてくれた。
つまりは個人的な逆輸入品ということだ。
「それにしても美しい」
くすみのある七宝の色合いが古風で、日本的な奥ゆかしさを感じさせる。しかし、それを修理するとなると手袋の下の手にじんわりと汗が滲む。
「では、ふたを開けさせていただきますね」
緊張しつつも、これだけ珍しい時計に触れられるのはやはり嬉しくて胸はわくわくと高揚している。
今回は事前に状況もしっかり教えてもらい、使われている部品はあらかじめ全て揃えてきたから部品が足りないということはない。古い時計は、凝って見えても案外最近のものより部品が少ない単純な作りだったりする。
「さっすがルカナリ。中まできれいに作られてる」
いや、さすがと言うべきは飛刻の時計職人だろうか。
メンテナンスとクリーニングも兼ねて、パーツをバラして並べていく。
「じゃあ次はカナリアのパーツを取り外しますね」
時計から、カナリアを外そうと指を伸ばした時だった。
「いやや!」
律くんが私の右腕を小さな両手で掴むと、拒絶するように首を横に振った。
「え、あの、律くん?」
「姉ちゃんはひよこにさわらんで!」
「こら! 律! お姉さんが困ってるでしょう」
「カナリアを壊そうとしてるわけじゃないよ。大丈夫だよ」
けれど彼は腕を離してくれない。それどころか、ぶんぶん首を振ったその目には涙が光っている。
「ばあちゃんのひよこやもん! ばあちゃんのひよこに触らんで!」
「律!」
「だめー!」
とうとう盛大に泣き出してしまった。
どうしたら良いかわからず、慌てて時計から手を離した。
律くんはお母さんに抱きついたまま、泣き続けている。
「ごめんなさいね。一度こうなってしまうと、しばらくは落ち着かないんです」
令美さんは律くんの背中をさすりながら、申し訳なさそうに言った。
「もう十二時ですし、良かったらお昼を食べてきてください。その間に落ち着くかもしれないので」
令美さんの提案を受け、お昼に出ることにした。
牛尾家を出る私に、彼女は〝うおんたな商店街〟という場所を教えてくれた。
『おいしい海鮮もたくさんあって、明石の観光名所ですよ』
普段ならわくわくする言葉だけれど……。
「あ」
歩いて七、八分ほどで【魚の棚商店街】の看板を見つけた。赤い鯛のレリーフも添えられている。
「うおのたな?」
令美さんは『うおんたな』と言った気がするけれど……と、よく見るとたしかに〝UON TANA〟とアルファベットが書かれている。
アーケード商店街に一歩踏み入れると、思わず「わあ」と声が漏れた。頭上高くの真ん中には鯛の絵が描かれた大きな看板、その脇にタコの絵と店名の書かれた小さな看板がアーケードの奥まで何枚も並んでいる。この街の名物が一目でわかる商店街。
ここは昼間でも賑わっている。
関西弁の飛び交う通りからは、あちこちから食べ物の匂いも漂ってくるというのに……。
律くんの泣き顔が頭から離れない。
子どもを泣かせてしまうなんて。彼の顔には〝嫌い〟と書いてあった気がする。
大事な時計をバラバラにする極悪人に見えてしまったのだろうか。そうだよねえ、まだ四歳だもん。
「はあ……っ」
心の声が出てしまったような大きなため息が漏れた。
「姉ちゃんどないしてん」
私の様子を見ていたTシャツ姿のおじさんが声をかけてきた。坊主頭にはタオルを巻いている。
「なんか嫌なことでもあったん?」
見ず知らずの人間にこの距離感。さすが関西と言ったら偏見だろうか。
「まあ、ちょっと……」
「そんなん美味いもんでも食べて忘れたらええ。ちょうど昼飯の時間やし」
おじさんはガハハと豪快に笑った。
「……でもなんか、あんまり食欲が……」
〝難題にぶつかった時こそ栄養補給!〟の古閑紡希でも、今回は胃がもやもやしていて食べられそうにない。
「姉ちゃん何言うてん。そんな時の明石焼きや」
「へ?」
「ふわっふわのとろっとろを、あったか〜いだし汁につけて食べるんやから、お腹に優しいに決まってるわ」
それはたしかに……。ゴクリと喉が鳴る。
「知らんけど」
思わずズッコケそうになった。
「でもそうだなあ、せっかく明石に来たんだし。そういうことかも」
「決まりやな! ついて来ぃ」
親指で「こっちや」と行き先を示したおじさんのTシャツの背には、【たま蛸】というロゴと、タコのイラストが描かれていた。
押し売りやぼったくりかもしれないと若干の警戒心が芽生えるけれど、『ふわっふわのとろっとろ』と言った時のおじさんの熱のこもった顔を信用することにした。その顔を思い出したらつい、ふふっと笑ってしまった。
案内された店はこじんまりとしていて、看板や戸口は年季の入っていそうなオーラを放っている。店先におかれたテーブルではすでに常連客らしき人たちが一杯やっていて、地元の人気店のようだ。【玉子焼き】と書かれた紺色ののぼりを横目に見ながら入店する。
店内はこれまた年季の入った食堂という雰囲気。レトロな扇風機が回っている。
「どれにする? 八個、十六個、二十四個」
カウンター席の向こうから、おじさんに明石焼きの数を聞かれる。
「じゃあ……八個で」
「姉ちゃん、八個はないわ。絶対足りんて」
「でも食欲が……」
「ほな残してもええから十六個にしとき。代金も八個分でええよ」
驚いて「え! そんな」と言うと、おじさんは「ええって、ええって」と丸いくぼみが八個並んだ銅板二枚に油を敷きはじめた。
「お姉ちゃん得したなぁ」
今度は隣に座っていた女性客に話しかけられる。私の母くらいに見えるから、五十代くらいだろうか。
「ここのがこの辺で一番美味しいから、おばちゃんでも十六個なんてペロリよ」
なぜかお客さんが自慢げだ。彼女の前には、もうほとんど食べ終えている明石焼きの赤い板がある。
そんな数は絶対に無理だと思いつつも、鼻は店内に漂う優しいだしの香りに喜んでいる。
焼き上がりを待っている間、おばちゃんが魚の棚のことを教えてくれた。やはり地元の人は『うおんたな』と呼んでいるらしい。そして年末年始は商店街にたくさんの大漁旗が飾られて大賑わいなのだそうだ。
「へえ、それも見てみたいです」
カラフルな光景を想像したところで「はい。お待ち」という声とともに、目の前におばちゃんのと同じ板が置かれた。
赤くて四角い板いっぱいに焼きたての丸い明石焼きが並んで、ほかほかと湯気を立てている。
「あ、ちょっと斜めなんだ」
板は手前に向かって下り坂を描いている。
「その方が取りやすいやろ? ほら、これに浸して食うてみて」
お椀に入っただし汁は澄んだ黄金色をしている。湯気が鼻をかすめると、だしの間から刻んだ三ツ葉の青い香りが顔をのぞかせる。
おじさんとおばちゃんから期待の視線が注がれて、妙に緊張しながら箸で明石焼きを挟んでみる。
「わ」
たこ焼きを想像していた私は、そのゆるっとした掴みにくい感触に驚く。慎重に箸でつまんで黄金色の中にダイブさせると、形が少しだけ崩れた。
慌ててお椀を少し口に近づけて、今度は口に箸を運ぶ。
「はふっはっふっ」
出来たての明石焼き、そして潜らせた温かなだし汁。
「落ち着いて食べ」
ちょっと想像すれば口の中がどうなるかわかることなのに、この匂いには抗えない。
だし汁で崩れた部分から塊がほろほろとほどけていく。玉子の風味を感じたら、中から現れたプリップリのタコが弾ける。だしと玉子がとろりと混ざり合って、食べているというより飲んでいる感覚。
はふはふと口内が熱いまま、気づいたら次の玉をだし汁に浸けていた。
次、次、少しだし汁を啜ってまた次……。
「あれ?」
板を滑る箸のカツンという音で、そこが空になったことに気づく。
驚く私を見て、おじさんはまたガハハと笑った。
「だから言うたやろ」
おばちゃんも笑っている。
「嘘みたい」
あんなに食欲がなかったというのに。
お腹の中がじんわりとぬくもって、元気が出てきた。
「まだまだ食べられそう」
「追加八個、食うか?」
「あ、だったら」
実はこのだし汁と玉子の風味を味わいながら、絶対美味しいに違いないと思っていたメニューがある。
「玉子焼き、ください。のぼりに書いてあったやつ」
私の言葉におじさんとおばちゃんは顔を見合わせた。それから一拍あいて、二人はわははと笑い出した。
「え? 何ですか?」
「姉ちゃん、それもう食うとるで」
「え?」
「私らはこれ、玉子焼きって呼んでんのよ」
おばちゃんは空の板を指差して言った。
「えっ」と言って店内をキョロキョロ見回すと、たしかに壁のメニューに【玉子焼き(明石焼き)】と書かれていた。
どういうことか尋ねると、『玉焼き』から変化した『玉子焼き』の方が『明石焼き』よりも古い呼び方なのだと教えてくれた。(でも諸説あるらしい)
「私は絶対明石焼きとは言わんなあ。大阪のたこ焼きに対抗して明石焼きって感じやん。玉子焼きは玉子焼きや」
「けど姉ちゃんみたいな観光客にはわかりやすいんと違う? 俺は柔軟に使い分けたらいいと思うわ」
「商売人やなあ」
おばちゃんはケラケラと笑っている。
「ふーん、呼び方の違いかあ。そういえば清水でもそんなこと、あったなあ」
『黒はんぺん』は外の呼び方だと言っていたっけ。
そういえばここだって、地元の人には『うおんたな』だし。
――『イカナゴ?』
――『関東方面ではコウナゴだったかな』
あれもそういうことだ。と思った瞬間、律くんの顔が浮かんだ。
「……ひょっとして、そういうこと?」
「姉ちゃんどないしたん? 追加いくか?」
「すみません! 急用ができたのでおかわりはやめておきます!」
そう言って、十六個分の代金を差し出す。もっと出したっていいくらいのリーズナブルさに驚く。
「明石に来たら必ずまた来ます! ごちそうさまでした!」
店を出て、早足で牛尾さんの家を目指す。
考えが間違っていたらまた律くんを泣かせてしまうかもしれないと思うと緊張するけれど。
「戻りました」
律くんはリビングのソファに座って、見張るみたいにバラバラの時計を見ていた。
「律くん」
呼びかけに返事がもらえず、小さく息を漏らす。それだけ不安にさせて傷つけてしまったのだ。ゆっくりと彼に近づいて、それからしゃがんで目線の高さを合わせた。
「律くん、ごめんね。律くんのおばあちゃんのひよこなのに間違えた名前で呼んじゃって」
私の言葉に、彼はハッとしたように目を合わせた。
「この時計は『ばあちゃんのひよこ時計』だよね。お姉ちゃんがひよこを直すから、触っていいかな?」
急に態度を変えるのが恥ずかしいのか、彼はコクリと小さく頷いた。
「がんばるね!」
私はあらためて時計に手を合わせる。
たしかにこの時計の正式名称は『ルカナリ』だ。
私にとっては正式名称で呼ぶことが時計に対しての最大級の敬意だ。けれど、そんなものは律くんにとって押し付けでしかない。
――『母が日本に来るたびに二人で仲良く眺めているんです』
二人の間にはきっとたくさんの会話があって、その分だけ積み重ねた思い出があるのだから。
「私、まだまだだなあ」
そんなこともわからないなんて。
部品を一つ一つ拭いて、ダメになったものは交換、噛み合わなくなっている部分も修理していく。
パーツを触れば触るほど、よく出来ていると感心する。
「ひよこ、歌うようになったよ」
作業は二時間半ほどかかって完了した。その間、小さな律くんはずっと真剣に作業を眺めていた。
「ひよこ、歌うてる!」
律くんの目が、嬉しそうにキラキラと輝いている。
「姉ちゃん、時計のお医者さんや! ブラックジャックや!」
「律、ありがとうでしょ」
「姉ちゃんありがとう!」
彼の笑顔につられて、こちらも笑う。
「私の時計もね、おじいちゃんの思い出の時計なんだ」
腕の〝お守り〟を律くんに見せる。
「ひよこ時計をこれからもずっと大事にしてね」
「また壊れたら、姉ちゃんが直しに来てな!」
二人で『約束』と指切りをした。
今回の任務も無事完了。
午後四時半。
帰りの新幹線に乗る西明石駅で鳩ヶ谷さんに連絡を入れようとした時だった。
「鳩ヶ谷さん」
別々に帰ることにしていた彼を偶然発見する。それも、駅弁売り場で。
「え、それ買うんですか?」
どこかバツの悪そうな表情の鳩ヶ谷さんは、兵庫の人気駅弁を手にしている。たこ壷形の容器に入ったたこ飯の……特撮ヒーロー柄のものだ。
「でもそれ東京でも売ってましたよ」
「知ってる。朝買ったら出張の間中、邪魔だろ?」
「あ」
――『朝だしなあ』
昨日の朝のつぶやき。あれはそういう意味だったんだ。
「鳩ヶ谷さん、特撮お好きなんですね」
「かっこいいじゃん、三分で世界の平和を守ってさあ」
鳩ヶ谷さんは照れくさそうだ。
人にはいろんな一面があるんだなあと嬉しくなって、思わず笑みをこぼす。
「ルカナリの修理は無事に終わったので、後ほど報告書をお送りします」
指定席を取っているから、鳩ヶ谷さんとは別行動。
私にはお楽しみがあるから都合がいい。
「なんとか今日も美味しくいただけそうです」
座席のテーブルを出して、例のカップ酒とデパ地下の惣菜店で買ったイカナゴのくぎ煮を並べる。イカナゴの旬は春先らしいけれど、どうしても食べてみたかった。
〝今回もありがとうございました〟
カップ酒を開け、律くんの笑顔を思い出しながら腕時計に乾杯。
可愛らしいイラスト入りカップの酒は、見た目に反した辛みを感じた後に芳醇な旨みと甘みが鼻を抜けた。
鳩ヶ谷さんの言っていた通り、生姜の効いた甘辛いくぎ煮は日本酒のアテに持ってこいで、この酒はその濃いめの味付けにも負けていない。
「イカナゴ、コウナゴ……それぞれの呼び方、かあ」
――『姉ちゃん、時計のお医者さんや! ブラックジャックや!』
律くんの言葉がよぎってくすりと笑う。
「ブラックジャックも悪くないね」
プラチナマイスターと呼ばれるより、まずは時計修理士の古閑紡希として認知してもらわないと……ですね。
張り詰めていた仕事スイッチが、徐々にオフになっていく。
「明石焼き、絶対また食べに行こ」
そして、今日もまた窓の自分と乾杯した。
「今回もおつかれさまでした」




