東海道新幹線下りの座席選びは非常に悩ましい。
「なんだよ古閑、まだ悩んでんの?」
時刻は正午をとっくに回って昼休み。会社のデスクでパソコン画面とにらめっこしていると、お昼を食べて戻ってきた上司の鳩ヶ谷さんが声をかけてきた。声色が若干引き気味なのは気のせいだろうか。
「だって新幹線の席って大事じゃないですか」
「隣があいてたらラッキーって程度で、それ以外は別にどこでも変わらないだろ。平日は結構空いてるし。あ、三人がけの真ん中は嫌だけどな」
彼の発言に思わずハァとため息を漏らす。
「そういうことじゃないんですよねえ。静岡行きの東海道新幹線は」
鳩ヶ谷さんは全然ピンと来ていないという表情だ。
「右側に座れば富士山、左側に座れば海。どっちを見ながら駅弁を食べるのがベストか、悩みどころですよ」
「いや、東京から静岡で駅弁食うか? 一時間くらいだろ」
思わず眉間に力が入る。
「だって出張ですよ?」
「〝出張においては駅弁がとっても大事なんですよ。あそこの駅で買うならあれがおすすめで、あれは何時に行かないと売り切れちゃうんですよねえ〟だろ? 耳タコ」
私の口調を真似た鳩ヶ谷さんに考えていたことを言い当てられて、眉間のしわは行き場を失った。
「ちょっと久々だし、やっぱり王道の富士山側にしよ」
そんなこんなで私、古閑紡希の次の出張のプランが決定した。
ちなみにさきほどの鳩ヶ谷さんの発言には一つだけ間違いがある。
出張において大事なのは駅弁だけではない。朝昼晩、すべての食事が大事なのだ。
「静岡かぁ」
静岡グルメを想像したら、お腹が小さく鳴いた。
◇
出張当日。腕の時計によれば現在朝八時。黒のパンツスーツに身を包んだ私@東京駅グランスタ。
五月も連休を過ぎた平日とはいえ、東京駅は私みたいな出張のサラリーマンに通勤客も多いから朝からわいわいと混雑している。
「限定のサンドイッチパックひとつ」
ずっと気になっていた朝ごはんを調達する。
サンドイッチ専門店のグランスタ東京限定サンドイッチパック。
定番のたまごサンドやハムトマト、それにエビカツと、キウイやイチゴがごろっと入ったフルーツサンドまでセットになっていて、見ているだけで顔がニヤける。
ホームで買ったホットコーヒーのカップを手にして新幹線に乗り込む。もちろん予約済みの右側の窓側席。隣の座席はあいているらしい。
鳩ヶ谷さんの言う通り、たしかに東京・静岡間は一時間程度と短く、別に駅弁なんて食べなくったってすぐに着いてしまう。だけど……。
「そういうことじゃないんだよなあ」
ズボラを自認している一人暮らしの二十九歳。自炊もしないわけではないけれど、さすがにお弁当までは作れない。
そんな私にとってはお弁当自体が特別で、ましてや流れる車窓の景色を見ながら食べる駅弁は現実から少し離れたところに連れて行ってくれる超特別な存在だ。
左側の離れた窓からちらちら覗く海を横目に見ながら、まずはハムトマト。トマトが甘酸っぱくて、よくあるハムサンドとはちょっと違う。ほどよくソースの味がするエビカツを食べて、大好きなたまごサンド。厚焼きたまごタイプのサンドイッチもよく見かけるけれど、私はたまごフィリングの方が圧倒的に好き。特にこのお店のたまごサンドはフィリングもパンもふわふわで、頬張った瞬間に幸せで口元が無重力になる。
窓の外に富士山が現れる頃には最後のフルーツサンド。
ケーキのスポンジともまた違った優しい弾力のあるパン生地。朝食でも重たくない、あっさりとした生クリーム。そこにフルーツのほどよい酸味が加わって……。
「この高揚感、富士山にも負けてない」
雄大な裾野の広がった富士山を見ながらこれを食べられるなんて。今日の席選びは大正解だった。
「さて、と」
甘いひとときに区切りを付けるようにコーヒーを口にする。
このひと口が、私を仕事モードにしてくれるスイッチみたいなものだ。
ノートパソコンを取り出して、今回の依頼人の資料に改めて目を通す。
【蒐集家】
【父】
【遺品】
資料には気になるワードが並んでいる。中でも【蒐集家】の文字列に心躍ったタイミングで、『まもなく静岡』のアナウンス。
静岡駅からまた少しだけ電車に乗って、午前十時半、私がたどり着いたのは港町である静岡市清水区のとあるお宅。
「ご依頼いただきありがとうございます。今回担当させていただく飛刻時計電子の古閑紡希と申します」
依頼人の家の居間で名刺を差し出し、ぺこりと頭を下げる。
そう。私の勤務先は百年以上の歴史を持つ老舗時計メーカー、飛刻時計電子株式会社。ちなみに所属部署は歴史編纂室。
歴史編纂なんて言っても、会社の沿革をまとめているだけではない。
「根津彰子と申します……」
四十代の依頼人は、物言いたげにまじまじと私を見た。
「何か?」
「あ、いえ。随分お若い方だなと、思いまして……」
不安が滲み出た表情をされてしまう。が、こんなことは慣れっこだ。
「名刺の右上のキラキラしたマーク、ご覧いただけますか?」
「はぁ」
「そちら、弊社の修理・メンテナンス職の技術レベルを表すマークなのですが」
時計の文字盤のマークが箔で押されている。
「金色?」
「いえ。プラチナです。私、最上級レベルのプラチナマイスター認定を受けています。ですので、どうか安心してお父様の時計をお見せいただければと思います」
彼女の顔に少しの安堵が宿ったのを感じる。
「こちらはほんの一部なんですけど……」
根津さんは座卓の上に時計のコレクションケースを置いた。
ふたの部分にガラス窓がついたケースは木製で、中が十二に仕切られている。深い茶色のビロード貼りになったその一つ一つに、ひと目でヴィンテージだとわかる腕時計が収められていた。
「すごい。うちの昔のモデルばかり」
「父は腕時計の蒐集家で、国内ではとくに飛刻の時計が好きでした」
「それは光栄です。どれも傷がほとんど無くて、大切にされていたことがよくわかります」
箱を開けると、どの時計も手入れが行き届いているのが見てとれる。
「あれ? こちらだけ随分……」
よく見ると、一つだけ他の時計よりも使用感の出ているものがある。
「今回の依頼の品はそちらの腕時計です。父が一番気に入っていたもので、毎日身につけていました」
「デゼルの、一九六〇年代のモデルですね」
根津さんはこくりと頷いた。
『デゼルシリーズ』は飛刻の腕時計の中でも長い歴史を持つシリーズだ。六〇年代のものは滅多に市場に出回らず、プレミア価格で取引されている。
「せっかく父が遺してくれたものですから、私もできれば使いたいと思ったのですが……どうしても動かなくて」
大きすぎない文字盤が年齢や性別を問わず使いやすいのもこのシリーズの特長の一つだ。
「触ってもよろしいですか?」
依頼人の許可を得て、手袋をつけて時計を手に取る。
持った瞬間、思わず「ほぅ……」と、恍惚のため息を漏らしてしまった。それと同時にジトリとした視線を感じ、ハッと我に返る。
「すみません。あまりお目にかからないモデルなもので」
えへへ、と誤魔化すように笑う。
この時計の腕につけるには重すぎない、けれど年代と歴史を感じさせるその重厚感は時計マニアの心を甘く刺激する。
気を取り直して、まずは念のために竜頭という文字盤の横のネジを回す。今回のような手巻き式の時計の場合、持ち主が自動巻きと勘違いしている可能性があるからだ。
「あー……」
これは残念ながら勘違いなどではなく、はっきりと壊れてしまっている。
「中を見せていただいても?」
カバンから修理に使う道具のセットを取り出し、時計の裏ぶたを外して中を見た。
正午。
「すぐに答えが出せなくて申し訳ありません。会社にも確認して、またご連絡いたします」
「こちらこそ、急にお願いをしてしまって。よろしくお願いします」
頭を下げて依頼人の家を出る。
根津さんの家は港から十五分ほどのところにあった。
歩きながら通り過ぎる川からも潮の香りがして、カモメなんかも飛んでいる。
そんな橋の上でスマホを取り出した。
『はい』
「あ、古閑です。今お時間大丈夫ですか?」
電話の相手は鳩ヶ谷さん。
『どうだった? 例のコレクターの遺品の件』
「それなんですけど……」
悩ましい問題を抱えてしまった。
「依頼人のお父様の遺品で修理希望のものは、D3-6811で」
『おー、また随分古い型だな』
事前の聞き取りでは、〝古そうなデゼル〟というところまでしかわかっていなかった。
「久々に触りましたけど、いい時計ですよねえ」
『古閑。ヨダレ、垂れてるぞ』
電話口だというのに、思わず口元を拭った。
「お父様が毎日しっかり使ってくださっていたみたいで、中の部品がいくつかダメになってました。デゼルの六〇年代パーツってすぐに出せます?」
『工場に確認だな。六〇と七〇の初頭は揃ってない可能性が高い』
「ですよねえ」
思わずため息が出る。
はっきり言って、私にかかればあれくらいの修理は簡単だ。問題は修理に使用する部品が簡単には揃わないこと。当時の部品は特殊な形のものが多く、後の年代のものとの互換性がないのだ。
『金と時間はかかるけど、パーツの別注って手もあるんじゃないのか?』
「それがですね……」
この案件は急を要する。
「娘さん、来月ドイツに転勤されるそうなんです」
『ドイツ?』
「はい。それで、海外でも正しい時間を刻むお守りが欲しいって、お父様の遺品を触ったら動かなかったらしくて。急ぎで修理を希望されたそうです」
期限は約三週間。工場に部品を発注して試作とテスト、それから修理するにはギリギリの微妙なラインで、間に合わない可能性も高い。
『とりあえず工場に当たってみるわ』
四十代の鳩ヶ谷さんは、私なんかより余程社内での顔が広い。
「お願いします。絶対に娘さんにも飛刻の時間を繋いで欲しいので」
飛刻時計電子歴史編纂室は鳩ヶ谷奏室長と私、二人だけの部署だ。
五年に一度まとめられる社史の編纂をするのも我々の仕事だけれど、メインの役目はそれだけではない。
全国各地に存在する時計の蒐集家や愛好家を尋ねて、個人と時計の歴史を取材すること。
街の時計店では難しい内容の時計の修理を承って、修理し、記録すること。
そして蘇らせた時計で、未来の時を刻み繋いでいくこと。
とは言ったものの……。
三十分ほどして『通常でも発送込みで二週間強は欲しいところだけど、鴇田工場長が入院したらしくてさ。長野工場も今てんやわんやらしい』と、鳩ヶ谷さんから絶望的な知らせが届いてしまった。
「どうしたものか……」
つぶやいたところで、お腹がぐぅと鳴いて空腹を知らせる。
私としたことがお昼をすっかり忘れていた。
難題にぶつかった時ほど栄養補給が大事だ。
「ここはやっぱりまぐろ?」
清水港はまぐろの水揚げ量が日本一なのだと、雑談の中で根津さんが教えてくれた。そして港の近くにはまぐろ料理を食べられる食堂がたくさんあるということも。
そのまま歩いて港方面に向かう。その道中の脳内は時計とまぐろが交互に出てきて忙しい。
根津さんにはお父さんの別の時計を使ってもらうべきだろうか?
他の時計だって、我が社の誇る立派な腕時計だ。
「……いやいや、そういうことじゃないでしょ」
頭を抱えつつ、まぐろ丼の写真付きの看板が目に入った食堂ののれんをくぐる。
「いらっしゃい」
店に入ると、カウンター席に通される。
壁にはメニューが貼られ、店内の雰囲気は居酒屋のようだ。
「まぐろ丼……海鮮丼もいいなあ。あ、黒はんぺん。へえ、フライがあるんだ」
メニューブックを見ながらつい、声に出す。
「お客さん、何処から来たの?」
カウンター越しに店の大将に声をかけられた。けれど、どうしてよそ者とわかったのか不思議で咄嗟にきょとんとしてしまった。
「それねえ、静岡の人には〝はんぺん〟なんだよ。黒はんぺんじゃなくて、それがはんぺん」
なるほど。たしかにメニューには【はんぺんフライ】と書かれている。
「あ、だからわかっちゃったのかぁ。東京です」
ここでは白いものじゃなくて、このグレーのものがはんぺんのスタンダードなのだ。
私が「やられた」と笑うと、大将も笑ってくれた。
「私清水に来るのは初めてなんですけど、大将のおすすめは何ですか?」
こういうのは、地元の人に聞いてしまうのが一番だ。
「ランチだったらまぐろ三昧丼だね。まぐろが三種類乗ってるよ。一品メニューだったらはんぺんフライもいいけど、俺のおすすめは断然かき揚げだな」
「え、かき揚げ? 天ぷらってことですか?」
それなら東京でも食べられるし、かき揚げは私の天ぷらメニューランキングの中であまり上位にいないかも。
「清水のかき揚げは桜えびなんだよ。由比の港で採れた桜えび。ちょうど今が旬だ」
「桜えび」
大将の説明によると、由比というのは同じ清水区にある清水港のお隣の港で、そこの名物が桜えびなのだそうだ。
ご当地グルメ、それも〝旬〟と言われたら食べてみたい。
「うーん、まぐろ丼も食べたいし、かき揚げも、それにはんぺんフライも食べたい」
平均的な女子よりは大食いかもしれないけれど、丼物に揚げ物二種類というのはなかなかのボリュームだ。
真剣に悩んでいたら、また大将に笑われる。
「せっかくの外からのお客さんだ、特別メニューを作ってあげるよ」
大将は豪快な笑いとともに「東京に帰ったら宣伝してくれよ」と付け足した。
運ばれてきたのは、ハーフサイズのまぐろ三昧丼に、はんぺんフライ二枚と桜エビのかき揚げが一つ、それに小鉢と汁物がついたスペシャル定食。
お腹はもう、準備万端。
「いただきます!」
まぐろ丼には、マグロの味がギュッと凝縮されたような本マグロ、あっさりと食べやすいメバチマグロ、それから柔らかくとろけるトロびんちょうという三種のまぐろがたっぷり乗っていた。
「まぐろってこんなに味が違うんだ」
色も赤から淡いピンクと種類によって全く違う。
今までは〝中トロ〟か〝赤身〟か、くらいしか気にしていなかった。これからはもっとまぐろを味わって食べるようにしようと誓いを立てる。
「あ、ソースもいいけど、ちょっと醤油でいってみてよ」
はんぺんフライにウスターソースをかけようとした私を大将が制止する。
「フライに醤油?」
つい眉を下げて疑いのまなざしを向けてしまった。
「口に合わなかったらソースにしてもらっていいからさ」
大将に言われ、はんぺんフライの端っこに恐る恐る醤油を垂らす。
そして、恐る恐る口に運ぶ。
揚げたてのフライは、噛んだ瞬間、衣がザクッザクッと小気味良い音を立てた。
「あっつッ!」
「ははは。揚げたてだからな。火傷に気をつけて」
そんな注意は今更遅いんですけど……。でも、
「醤油、合う! 美味しい!」
はんぺんはイワシの練り物だからか、やさしい魚の風味に醤油のサラリとした塩みと甘みがほどよく絡む。
試しにソースも付けてみる。これはこれで定番的な美味しさがあるけれど、はんぺんの旨みを感じられるのは醤油のような気がする。
それにしても、ぷりっと程よい弾力があって噛むたびに旨みが溢れる。
「海老フライやとんかつはソースなんだけど、はんぺんだけは醤油なんだよなあ」
大将の言葉に納得して、はんぺんフライを頬張りながらうんうんと頷いた。
お次は大将おすすめの桜えびのかき揚げ天ぷら。
桜というには鮮やかすぎるくらいの紅色の小さな海老が、衣の下でカラリと花開いている。玉ねぎと三つ葉を合わせてあると大将が教えてくれた。
「塩でも天つゆでも、お好みで」
最初の一口は、ほんの少しだけ塩をまぶした。いざ。
フライとはまた違うけれど、こちらもサクリと良い音を立てた。
「……わあ」
「美味いだろ?」
私が目を見開いたのに気づいた大将が、満足げに笑いかけてきた。
「はい。東京でよくある小海老のかき揚げとは全然別もの」
もちろん小海老のかき揚げだって美味しいけれど……。
「海老の香ばしい風味がすごいです。すごい、美味しい」
我ながら語彙が貧相だ。
だけどとにかく〝すごい〟し〝美味しい〟のだ。小さなえびはいわば殻つきの丸ごとだから、他のかき揚げでは感じられない香ばしさが口いっぱいに広がる。それに三つ葉がすっきりとして良いアクセントになっている。
「俺はさあ、桜えびのこの、小さなえびが集まって作り出す旨みの集合体みたいな味が大好きなんだよな。こーんなに小さいのにさ、合わさったら風味がすごい」
またしても納得だ。うんう……ん?
「集合体……合わさる?」
大将の口にしたワードが耳に引っかかってくるくる回る。
「合わさる――それっありかも……!」
私が突然大きな声を出したから、大将は少し驚いていた。
だけど閃いてしまった。というか、気づくのが遅いくらいだ。
がっつくようにスペシャル定食をたいらげて「ごちそうさまでした! また来ます! 宣伝もしますね!」と言って店を出た。
「あ、根津さんのお宅でしょうか。私、先ほどお邪魔した飛刻時計電子の古閑です」
居てもたってもいられずに、すぐさま依頼人に連絡する。
午後三時。
私はふたたび根津さんの家の居間にいる。
「他の時計を分解して、部品をとる……ですか?」
「はい。今から部品を手配すると、どうしても彰子さんの渡欧に間に合いません。ですが――」
彰子さんのお父さん、彰宏さんのコレクションケースを手のひらで示す。
「お父様のコレクションには同年代の同じパーツを使った時計が美品のまま残されています。こちらを使えば、このD3-6811は動かすことができます」
彰子さんは、コレクションを見渡すように視線を動かした。
正直なところ、この提案はコレクターには喜ばしくないものだ。
「ただし、これだけの美品で今も使用可能な時計から部品を取るので、おそらくコレクションの価値は著しく下がると思います」
たった一本の、ダメージのある腕時計のために、他の美品の時計を犠牲にするのだから。
「それでもよろしければ――」
「はい。ぜひお願いします」
彰子さんは、私が言い終わらないうちにイエスの返答をくれた。
「父は『腕時計は腕に付けてこそ意味があるんだ』とよく言っていました」
「え……」
このコレクションからはそんな風には思えない。使用を避けたような綺麗さのものばかりだ。
「だけどこのD3-6811でしたっけ、こればかりを使っていました」
彼女は依頼品を大切そうに手に取った。
「これ、祖父が父の大学の入学祝いに贈ったものだそうです。大学生の父も、会社員の父も、母と出会って結婚して父親になった時のことも全部知っている時計だから、なかなか他に付け替えられないんだって言っていたんです」
彰子さんの目尻に光るものが見えた。私も喉の奥のあたりがほんのり熱くなる。
「だけど飛刻さんの時計はかっこいいし、応援したいからって蒐集するようになってしまって」
彼女は思い出すように「ふふ」と微笑んだ。
「なのでこの大切な一本の中で他の時計のパーツが動き出すことは、父も喜ぶと思います。私も、父の想いをたくさん身につけられるようで嬉しいです」
コレクションの時計が集合体になって、彼女の時を刻む。
「それに、はなから売る気はありませんから。金額的な価値なんてあってないようなものです」
「素敵ですね、お父様も、彰子さんも。このD3-6811は幸せ者です」
こんな人たちに使ってもらえて。
「それでは、修理を始めさせていただきます」
修理の同意書にサインを貰い、いよいよ私の出番だ。
座卓の上に敷いた布に腕時計を置き「よろしくお願いします」と手を合わせる。これが私なりの時計への挨拶の儀式。
こうすると、時計が声を聞かせてくれる気がする。
「わあ! 動いてますね!」
彰子さんが腕時計を耳に当て、チッチッという音を嬉しそうに確かめている。
午後四時になる前に、時計の修理は完了した。
「こんなにあっという間に直るなんて。すごいんですね、古閑さん」
私は首を横に振る。
「修理の内容自体はシンプルでしたから」
思った通り他の時計の部品は綺麗に残されていたから、それさえ手に入れば作業は慣れたものだった。
「新しい土地でも、お父様と一緒に彰子さんの時を重ねていってくださいね」
「はい」
彼女は左腕に巻いた時計を掲げて、にこりと笑った。
仕事が終わってしまえば、東京に帰るのみだ。
案件の無事の完了と直帰のメールを鳩ヶ谷さんに送る。
【お疲れさま。さすが最年少プラチナマイスター】と、本気なのか揶揄っているのかわからない返信が届く。
午後五時二十分。
新幹線の座席は右側の窓側。といっても帰りの座席はあまり意味を持たない。
今日の報告書を書いている間に日が暮れてしまうから、景色を楽しんでなどいられない。
「送信、と」
だけど帰りの新幹線の楽しみは景色ではないのだ。
メールを送り終えたら退勤のボタンを押して、パソコンをオフにする。
「へえ、水もコメも酵母も静岡産」
そして目の前のカップ酒の情報を調べる。花が舞うラベルの日本酒は、静岡県浜松市の酒蔵のものらしい。
「ふふ」
依頼を無事に完了できた日は気分がいい。るんるんとした気分のまま、アルミのふたを開けた。
日本酒の甘みのある米と酵母の香りがふわりと鼻をかすめる。
つまみはシンプルにミックスナッツ。
出張帰りの新幹線では、案件のことを思い出しながら地酒で一杯やるのが私の出張のお決まりのパターン。
行きのコーヒーがオンのスイッチなら、こちらはオフのスイッチ。
「乾杯」
小声でエア乾杯をした相手は、腕に付けた時計。この時計が私のお守りだったりする。
今回も、ありがとうございました。
お陰でうまくいきました。
「だけどあの時計たち、ちょっともったいないよなぁ」
お酒に口をつけたところで、部品を取り出した時計のことを思い返す。
帰ったら鳩ヶ谷さんにパーツの手配を依頼して、いつかまた根津さんに会えたら交換を申し出ようかな。
……なんて、私ってつくづく時計オタクだ。
「そういうことじゃないでしょう」
依頼人は曇りない笑顔を向けてくれたのだから、それが一番だ。
「今回もおつかれさまでした」
今度は暗い窓に映った自分と乾杯した。
次はどんな時計と思い出(それからグルメ)に出会えるだろう。
「なんだよ古閑、まだ悩んでんの?」
時刻は正午をとっくに回って昼休み。会社のデスクでパソコン画面とにらめっこしていると、お昼を食べて戻ってきた上司の鳩ヶ谷さんが声をかけてきた。声色が若干引き気味なのは気のせいだろうか。
「だって新幹線の席って大事じゃないですか」
「隣があいてたらラッキーって程度で、それ以外は別にどこでも変わらないだろ。平日は結構空いてるし。あ、三人がけの真ん中は嫌だけどな」
彼の発言に思わずハァとため息を漏らす。
「そういうことじゃないんですよねえ。静岡行きの東海道新幹線は」
鳩ヶ谷さんは全然ピンと来ていないという表情だ。
「右側に座れば富士山、左側に座れば海。どっちを見ながら駅弁を食べるのがベストか、悩みどころですよ」
「いや、東京から静岡で駅弁食うか? 一時間くらいだろ」
思わず眉間に力が入る。
「だって出張ですよ?」
「〝出張においては駅弁がとっても大事なんですよ。あそこの駅で買うならあれがおすすめで、あれは何時に行かないと売り切れちゃうんですよねえ〟だろ? 耳タコ」
私の口調を真似た鳩ヶ谷さんに考えていたことを言い当てられて、眉間のしわは行き場を失った。
「ちょっと久々だし、やっぱり王道の富士山側にしよ」
そんなこんなで私、古閑紡希の次の出張のプランが決定した。
ちなみにさきほどの鳩ヶ谷さんの発言には一つだけ間違いがある。
出張において大事なのは駅弁だけではない。朝昼晩、すべての食事が大事なのだ。
「静岡かぁ」
静岡グルメを想像したら、お腹が小さく鳴いた。
◇
出張当日。腕の時計によれば現在朝八時。黒のパンツスーツに身を包んだ私@東京駅グランスタ。
五月も連休を過ぎた平日とはいえ、東京駅は私みたいな出張のサラリーマンに通勤客も多いから朝からわいわいと混雑している。
「限定のサンドイッチパックひとつ」
ずっと気になっていた朝ごはんを調達する。
サンドイッチ専門店のグランスタ東京限定サンドイッチパック。
定番のたまごサンドやハムトマト、それにエビカツと、キウイやイチゴがごろっと入ったフルーツサンドまでセットになっていて、見ているだけで顔がニヤける。
ホームで買ったホットコーヒーのカップを手にして新幹線に乗り込む。もちろん予約済みの右側の窓側席。隣の座席はあいているらしい。
鳩ヶ谷さんの言う通り、たしかに東京・静岡間は一時間程度と短く、別に駅弁なんて食べなくったってすぐに着いてしまう。だけど……。
「そういうことじゃないんだよなあ」
ズボラを自認している一人暮らしの二十九歳。自炊もしないわけではないけれど、さすがにお弁当までは作れない。
そんな私にとってはお弁当自体が特別で、ましてや流れる車窓の景色を見ながら食べる駅弁は現実から少し離れたところに連れて行ってくれる超特別な存在だ。
左側の離れた窓からちらちら覗く海を横目に見ながら、まずはハムトマト。トマトが甘酸っぱくて、よくあるハムサンドとはちょっと違う。ほどよくソースの味がするエビカツを食べて、大好きなたまごサンド。厚焼きたまごタイプのサンドイッチもよく見かけるけれど、私はたまごフィリングの方が圧倒的に好き。特にこのお店のたまごサンドはフィリングもパンもふわふわで、頬張った瞬間に幸せで口元が無重力になる。
窓の外に富士山が現れる頃には最後のフルーツサンド。
ケーキのスポンジともまた違った優しい弾力のあるパン生地。朝食でも重たくない、あっさりとした生クリーム。そこにフルーツのほどよい酸味が加わって……。
「この高揚感、富士山にも負けてない」
雄大な裾野の広がった富士山を見ながらこれを食べられるなんて。今日の席選びは大正解だった。
「さて、と」
甘いひとときに区切りを付けるようにコーヒーを口にする。
このひと口が、私を仕事モードにしてくれるスイッチみたいなものだ。
ノートパソコンを取り出して、今回の依頼人の資料に改めて目を通す。
【蒐集家】
【父】
【遺品】
資料には気になるワードが並んでいる。中でも【蒐集家】の文字列に心躍ったタイミングで、『まもなく静岡』のアナウンス。
静岡駅からまた少しだけ電車に乗って、午前十時半、私がたどり着いたのは港町である静岡市清水区のとあるお宅。
「ご依頼いただきありがとうございます。今回担当させていただく飛刻時計電子の古閑紡希と申します」
依頼人の家の居間で名刺を差し出し、ぺこりと頭を下げる。
そう。私の勤務先は百年以上の歴史を持つ老舗時計メーカー、飛刻時計電子株式会社。ちなみに所属部署は歴史編纂室。
歴史編纂なんて言っても、会社の沿革をまとめているだけではない。
「根津彰子と申します……」
四十代の依頼人は、物言いたげにまじまじと私を見た。
「何か?」
「あ、いえ。随分お若い方だなと、思いまして……」
不安が滲み出た表情をされてしまう。が、こんなことは慣れっこだ。
「名刺の右上のキラキラしたマーク、ご覧いただけますか?」
「はぁ」
「そちら、弊社の修理・メンテナンス職の技術レベルを表すマークなのですが」
時計の文字盤のマークが箔で押されている。
「金色?」
「いえ。プラチナです。私、最上級レベルのプラチナマイスター認定を受けています。ですので、どうか安心してお父様の時計をお見せいただければと思います」
彼女の顔に少しの安堵が宿ったのを感じる。
「こちらはほんの一部なんですけど……」
根津さんは座卓の上に時計のコレクションケースを置いた。
ふたの部分にガラス窓がついたケースは木製で、中が十二に仕切られている。深い茶色のビロード貼りになったその一つ一つに、ひと目でヴィンテージだとわかる腕時計が収められていた。
「すごい。うちの昔のモデルばかり」
「父は腕時計の蒐集家で、国内ではとくに飛刻の時計が好きでした」
「それは光栄です。どれも傷がほとんど無くて、大切にされていたことがよくわかります」
箱を開けると、どの時計も手入れが行き届いているのが見てとれる。
「あれ? こちらだけ随分……」
よく見ると、一つだけ他の時計よりも使用感の出ているものがある。
「今回の依頼の品はそちらの腕時計です。父が一番気に入っていたもので、毎日身につけていました」
「デゼルの、一九六〇年代のモデルですね」
根津さんはこくりと頷いた。
『デゼルシリーズ』は飛刻の腕時計の中でも長い歴史を持つシリーズだ。六〇年代のものは滅多に市場に出回らず、プレミア価格で取引されている。
「せっかく父が遺してくれたものですから、私もできれば使いたいと思ったのですが……どうしても動かなくて」
大きすぎない文字盤が年齢や性別を問わず使いやすいのもこのシリーズの特長の一つだ。
「触ってもよろしいですか?」
依頼人の許可を得て、手袋をつけて時計を手に取る。
持った瞬間、思わず「ほぅ……」と、恍惚のため息を漏らしてしまった。それと同時にジトリとした視線を感じ、ハッと我に返る。
「すみません。あまりお目にかからないモデルなもので」
えへへ、と誤魔化すように笑う。
この時計の腕につけるには重すぎない、けれど年代と歴史を感じさせるその重厚感は時計マニアの心を甘く刺激する。
気を取り直して、まずは念のために竜頭という文字盤の横のネジを回す。今回のような手巻き式の時計の場合、持ち主が自動巻きと勘違いしている可能性があるからだ。
「あー……」
これは残念ながら勘違いなどではなく、はっきりと壊れてしまっている。
「中を見せていただいても?」
カバンから修理に使う道具のセットを取り出し、時計の裏ぶたを外して中を見た。
正午。
「すぐに答えが出せなくて申し訳ありません。会社にも確認して、またご連絡いたします」
「こちらこそ、急にお願いをしてしまって。よろしくお願いします」
頭を下げて依頼人の家を出る。
根津さんの家は港から十五分ほどのところにあった。
歩きながら通り過ぎる川からも潮の香りがして、カモメなんかも飛んでいる。
そんな橋の上でスマホを取り出した。
『はい』
「あ、古閑です。今お時間大丈夫ですか?」
電話の相手は鳩ヶ谷さん。
『どうだった? 例のコレクターの遺品の件』
「それなんですけど……」
悩ましい問題を抱えてしまった。
「依頼人のお父様の遺品で修理希望のものは、D3-6811で」
『おー、また随分古い型だな』
事前の聞き取りでは、〝古そうなデゼル〟というところまでしかわかっていなかった。
「久々に触りましたけど、いい時計ですよねえ」
『古閑。ヨダレ、垂れてるぞ』
電話口だというのに、思わず口元を拭った。
「お父様が毎日しっかり使ってくださっていたみたいで、中の部品がいくつかダメになってました。デゼルの六〇年代パーツってすぐに出せます?」
『工場に確認だな。六〇と七〇の初頭は揃ってない可能性が高い』
「ですよねえ」
思わずため息が出る。
はっきり言って、私にかかればあれくらいの修理は簡単だ。問題は修理に使用する部品が簡単には揃わないこと。当時の部品は特殊な形のものが多く、後の年代のものとの互換性がないのだ。
『金と時間はかかるけど、パーツの別注って手もあるんじゃないのか?』
「それがですね……」
この案件は急を要する。
「娘さん、来月ドイツに転勤されるそうなんです」
『ドイツ?』
「はい。それで、海外でも正しい時間を刻むお守りが欲しいって、お父様の遺品を触ったら動かなかったらしくて。急ぎで修理を希望されたそうです」
期限は約三週間。工場に部品を発注して試作とテスト、それから修理するにはギリギリの微妙なラインで、間に合わない可能性も高い。
『とりあえず工場に当たってみるわ』
四十代の鳩ヶ谷さんは、私なんかより余程社内での顔が広い。
「お願いします。絶対に娘さんにも飛刻の時間を繋いで欲しいので」
飛刻時計電子歴史編纂室は鳩ヶ谷奏室長と私、二人だけの部署だ。
五年に一度まとめられる社史の編纂をするのも我々の仕事だけれど、メインの役目はそれだけではない。
全国各地に存在する時計の蒐集家や愛好家を尋ねて、個人と時計の歴史を取材すること。
街の時計店では難しい内容の時計の修理を承って、修理し、記録すること。
そして蘇らせた時計で、未来の時を刻み繋いでいくこと。
とは言ったものの……。
三十分ほどして『通常でも発送込みで二週間強は欲しいところだけど、鴇田工場長が入院したらしくてさ。長野工場も今てんやわんやらしい』と、鳩ヶ谷さんから絶望的な知らせが届いてしまった。
「どうしたものか……」
つぶやいたところで、お腹がぐぅと鳴いて空腹を知らせる。
私としたことがお昼をすっかり忘れていた。
難題にぶつかった時ほど栄養補給が大事だ。
「ここはやっぱりまぐろ?」
清水港はまぐろの水揚げ量が日本一なのだと、雑談の中で根津さんが教えてくれた。そして港の近くにはまぐろ料理を食べられる食堂がたくさんあるということも。
そのまま歩いて港方面に向かう。その道中の脳内は時計とまぐろが交互に出てきて忙しい。
根津さんにはお父さんの別の時計を使ってもらうべきだろうか?
他の時計だって、我が社の誇る立派な腕時計だ。
「……いやいや、そういうことじゃないでしょ」
頭を抱えつつ、まぐろ丼の写真付きの看板が目に入った食堂ののれんをくぐる。
「いらっしゃい」
店に入ると、カウンター席に通される。
壁にはメニューが貼られ、店内の雰囲気は居酒屋のようだ。
「まぐろ丼……海鮮丼もいいなあ。あ、黒はんぺん。へえ、フライがあるんだ」
メニューブックを見ながらつい、声に出す。
「お客さん、何処から来たの?」
カウンター越しに店の大将に声をかけられた。けれど、どうしてよそ者とわかったのか不思議で咄嗟にきょとんとしてしまった。
「それねえ、静岡の人には〝はんぺん〟なんだよ。黒はんぺんじゃなくて、それがはんぺん」
なるほど。たしかにメニューには【はんぺんフライ】と書かれている。
「あ、だからわかっちゃったのかぁ。東京です」
ここでは白いものじゃなくて、このグレーのものがはんぺんのスタンダードなのだ。
私が「やられた」と笑うと、大将も笑ってくれた。
「私清水に来るのは初めてなんですけど、大将のおすすめは何ですか?」
こういうのは、地元の人に聞いてしまうのが一番だ。
「ランチだったらまぐろ三昧丼だね。まぐろが三種類乗ってるよ。一品メニューだったらはんぺんフライもいいけど、俺のおすすめは断然かき揚げだな」
「え、かき揚げ? 天ぷらってことですか?」
それなら東京でも食べられるし、かき揚げは私の天ぷらメニューランキングの中であまり上位にいないかも。
「清水のかき揚げは桜えびなんだよ。由比の港で採れた桜えび。ちょうど今が旬だ」
「桜えび」
大将の説明によると、由比というのは同じ清水区にある清水港のお隣の港で、そこの名物が桜えびなのだそうだ。
ご当地グルメ、それも〝旬〟と言われたら食べてみたい。
「うーん、まぐろ丼も食べたいし、かき揚げも、それにはんぺんフライも食べたい」
平均的な女子よりは大食いかもしれないけれど、丼物に揚げ物二種類というのはなかなかのボリュームだ。
真剣に悩んでいたら、また大将に笑われる。
「せっかくの外からのお客さんだ、特別メニューを作ってあげるよ」
大将は豪快な笑いとともに「東京に帰ったら宣伝してくれよ」と付け足した。
運ばれてきたのは、ハーフサイズのまぐろ三昧丼に、はんぺんフライ二枚と桜エビのかき揚げが一つ、それに小鉢と汁物がついたスペシャル定食。
お腹はもう、準備万端。
「いただきます!」
まぐろ丼には、マグロの味がギュッと凝縮されたような本マグロ、あっさりと食べやすいメバチマグロ、それから柔らかくとろけるトロびんちょうという三種のまぐろがたっぷり乗っていた。
「まぐろってこんなに味が違うんだ」
色も赤から淡いピンクと種類によって全く違う。
今までは〝中トロ〟か〝赤身〟か、くらいしか気にしていなかった。これからはもっとまぐろを味わって食べるようにしようと誓いを立てる。
「あ、ソースもいいけど、ちょっと醤油でいってみてよ」
はんぺんフライにウスターソースをかけようとした私を大将が制止する。
「フライに醤油?」
つい眉を下げて疑いのまなざしを向けてしまった。
「口に合わなかったらソースにしてもらっていいからさ」
大将に言われ、はんぺんフライの端っこに恐る恐る醤油を垂らす。
そして、恐る恐る口に運ぶ。
揚げたてのフライは、噛んだ瞬間、衣がザクッザクッと小気味良い音を立てた。
「あっつッ!」
「ははは。揚げたてだからな。火傷に気をつけて」
そんな注意は今更遅いんですけど……。でも、
「醤油、合う! 美味しい!」
はんぺんはイワシの練り物だからか、やさしい魚の風味に醤油のサラリとした塩みと甘みがほどよく絡む。
試しにソースも付けてみる。これはこれで定番的な美味しさがあるけれど、はんぺんの旨みを感じられるのは醤油のような気がする。
それにしても、ぷりっと程よい弾力があって噛むたびに旨みが溢れる。
「海老フライやとんかつはソースなんだけど、はんぺんだけは醤油なんだよなあ」
大将の言葉に納得して、はんぺんフライを頬張りながらうんうんと頷いた。
お次は大将おすすめの桜えびのかき揚げ天ぷら。
桜というには鮮やかすぎるくらいの紅色の小さな海老が、衣の下でカラリと花開いている。玉ねぎと三つ葉を合わせてあると大将が教えてくれた。
「塩でも天つゆでも、お好みで」
最初の一口は、ほんの少しだけ塩をまぶした。いざ。
フライとはまた違うけれど、こちらもサクリと良い音を立てた。
「……わあ」
「美味いだろ?」
私が目を見開いたのに気づいた大将が、満足げに笑いかけてきた。
「はい。東京でよくある小海老のかき揚げとは全然別もの」
もちろん小海老のかき揚げだって美味しいけれど……。
「海老の香ばしい風味がすごいです。すごい、美味しい」
我ながら語彙が貧相だ。
だけどとにかく〝すごい〟し〝美味しい〟のだ。小さなえびはいわば殻つきの丸ごとだから、他のかき揚げでは感じられない香ばしさが口いっぱいに広がる。それに三つ葉がすっきりとして良いアクセントになっている。
「俺はさあ、桜えびのこの、小さなえびが集まって作り出す旨みの集合体みたいな味が大好きなんだよな。こーんなに小さいのにさ、合わさったら風味がすごい」
またしても納得だ。うんう……ん?
「集合体……合わさる?」
大将の口にしたワードが耳に引っかかってくるくる回る。
「合わさる――それっありかも……!」
私が突然大きな声を出したから、大将は少し驚いていた。
だけど閃いてしまった。というか、気づくのが遅いくらいだ。
がっつくようにスペシャル定食をたいらげて「ごちそうさまでした! また来ます! 宣伝もしますね!」と言って店を出た。
「あ、根津さんのお宅でしょうか。私、先ほどお邪魔した飛刻時計電子の古閑です」
居てもたってもいられずに、すぐさま依頼人に連絡する。
午後三時。
私はふたたび根津さんの家の居間にいる。
「他の時計を分解して、部品をとる……ですか?」
「はい。今から部品を手配すると、どうしても彰子さんの渡欧に間に合いません。ですが――」
彰子さんのお父さん、彰宏さんのコレクションケースを手のひらで示す。
「お父様のコレクションには同年代の同じパーツを使った時計が美品のまま残されています。こちらを使えば、このD3-6811は動かすことができます」
彰子さんは、コレクションを見渡すように視線を動かした。
正直なところ、この提案はコレクターには喜ばしくないものだ。
「ただし、これだけの美品で今も使用可能な時計から部品を取るので、おそらくコレクションの価値は著しく下がると思います」
たった一本の、ダメージのある腕時計のために、他の美品の時計を犠牲にするのだから。
「それでもよろしければ――」
「はい。ぜひお願いします」
彰子さんは、私が言い終わらないうちにイエスの返答をくれた。
「父は『腕時計は腕に付けてこそ意味があるんだ』とよく言っていました」
「え……」
このコレクションからはそんな風には思えない。使用を避けたような綺麗さのものばかりだ。
「だけどこのD3-6811でしたっけ、こればかりを使っていました」
彼女は依頼品を大切そうに手に取った。
「これ、祖父が父の大学の入学祝いに贈ったものだそうです。大学生の父も、会社員の父も、母と出会って結婚して父親になった時のことも全部知っている時計だから、なかなか他に付け替えられないんだって言っていたんです」
彰子さんの目尻に光るものが見えた。私も喉の奥のあたりがほんのり熱くなる。
「だけど飛刻さんの時計はかっこいいし、応援したいからって蒐集するようになってしまって」
彼女は思い出すように「ふふ」と微笑んだ。
「なのでこの大切な一本の中で他の時計のパーツが動き出すことは、父も喜ぶと思います。私も、父の想いをたくさん身につけられるようで嬉しいです」
コレクションの時計が集合体になって、彼女の時を刻む。
「それに、はなから売る気はありませんから。金額的な価値なんてあってないようなものです」
「素敵ですね、お父様も、彰子さんも。このD3-6811は幸せ者です」
こんな人たちに使ってもらえて。
「それでは、修理を始めさせていただきます」
修理の同意書にサインを貰い、いよいよ私の出番だ。
座卓の上に敷いた布に腕時計を置き「よろしくお願いします」と手を合わせる。これが私なりの時計への挨拶の儀式。
こうすると、時計が声を聞かせてくれる気がする。
「わあ! 動いてますね!」
彰子さんが腕時計を耳に当て、チッチッという音を嬉しそうに確かめている。
午後四時になる前に、時計の修理は完了した。
「こんなにあっという間に直るなんて。すごいんですね、古閑さん」
私は首を横に振る。
「修理の内容自体はシンプルでしたから」
思った通り他の時計の部品は綺麗に残されていたから、それさえ手に入れば作業は慣れたものだった。
「新しい土地でも、お父様と一緒に彰子さんの時を重ねていってくださいね」
「はい」
彼女は左腕に巻いた時計を掲げて、にこりと笑った。
仕事が終わってしまえば、東京に帰るのみだ。
案件の無事の完了と直帰のメールを鳩ヶ谷さんに送る。
【お疲れさま。さすが最年少プラチナマイスター】と、本気なのか揶揄っているのかわからない返信が届く。
午後五時二十分。
新幹線の座席は右側の窓側。といっても帰りの座席はあまり意味を持たない。
今日の報告書を書いている間に日が暮れてしまうから、景色を楽しんでなどいられない。
「送信、と」
だけど帰りの新幹線の楽しみは景色ではないのだ。
メールを送り終えたら退勤のボタンを押して、パソコンをオフにする。
「へえ、水もコメも酵母も静岡産」
そして目の前のカップ酒の情報を調べる。花が舞うラベルの日本酒は、静岡県浜松市の酒蔵のものらしい。
「ふふ」
依頼を無事に完了できた日は気分がいい。るんるんとした気分のまま、アルミのふたを開けた。
日本酒の甘みのある米と酵母の香りがふわりと鼻をかすめる。
つまみはシンプルにミックスナッツ。
出張帰りの新幹線では、案件のことを思い出しながら地酒で一杯やるのが私の出張のお決まりのパターン。
行きのコーヒーがオンのスイッチなら、こちらはオフのスイッチ。
「乾杯」
小声でエア乾杯をした相手は、腕に付けた時計。この時計が私のお守りだったりする。
今回も、ありがとうございました。
お陰でうまくいきました。
「だけどあの時計たち、ちょっともったいないよなぁ」
お酒に口をつけたところで、部品を取り出した時計のことを思い返す。
帰ったら鳩ヶ谷さんにパーツの手配を依頼して、いつかまた根津さんに会えたら交換を申し出ようかな。
……なんて、私ってつくづく時計オタクだ。
「そういうことじゃないでしょう」
依頼人は曇りない笑顔を向けてくれたのだから、それが一番だ。
「今回もおつかれさまでした」
今度は暗い窓に映った自分と乾杯した。
次はどんな時計と思い出(それからグルメ)に出会えるだろう。



