「東海林さん。ちょっといいかな」
デスクワーク中だったまどかは、そんな中年の男性部長の声で「はい」と自席を立つ。
街路樹の木々が色鮮やかに染まり、連日のようにクリスマス商戦やお正月のおせちのDMがメールや郵送で届く秋の半ば。まどかのデスクにもクリスマスや正月に向けた数百にも及ぶ商品のリストが山積みとなっていた。
「急で申し訳ないんだけど、来週行われる仙台の展示会の担当をお願いできる? 一泊二日で」
「……仙台の展示会ですか?」
仙台の単語を聞いた瞬間に、ほんの少しだけ息を止めて黒目を大きく見開いてしまう。
すぐさま頭を振っていつもの顔に戻ったものの、そんなまどかの様子に一切気付くこともなく、部長はパソコンの画面を見つめたまま話し続ける。
「そっ、東北地方の各小売店や食品の卸売業者向けに行われる展示会。今年の会場は仙台なの。仙台港の近くだから天気の良い日は潮風が吹いて気持ち良い場所だよ」
今年の春に転職した関東の食品会社は、小規模ながらも非常に福利厚生に手堅く社員仲もほどほどに良い働きやすい職場であった。
新卒で入社した教育関係の教材を取り扱う大手会社では、連日のように客や上司に罵詈雑言を浴びせられて、メールでの謝罪は日常茶飯事。昼や夜どころか休日や就業時間も関係なく電話口でも頭を下げて、神経が磨り減る日々だった。
それがこの会社に転職した途端に環境はガラリと変わって、ほぼストレスフリーで定時退社の毎日。
こじんまりとした会社だけあって給料は前より少なくなったが、それでも心身に余裕ができたことで自分の時間を持てるようになったのは大きかった。
「うちの会社って福島にも支店があるでしょ? 今回の展示会に応援を出して欲しいって頼まれていたんだけど行ける人がいなくてね。私はこの日に取引先との会議があるし。忙しいとこ悪いけど、東海林さんが行ってくれないかな?」
「福島の支店は、額賀さんが担当のはずでしたが……」
「実はここだけの話なんだけど、額賀さんのお子さんがインフルエンザに罹ったそうでね。看病のために来週まで休みたいってメールが届いたところだったの」
入社時に研修も請け負ってくれた先輩社員である額賀は、まどかと同年代でありながらも五歳の息子を持つシングルマザーだった。
今日は「子が発熱したと保育所からお迎えの連絡があった」と言って午後から早退したが、どうやらインフルエンザだったらしい。
「詳しくは額賀さんが仕事の引き継ぎメールを送ってくれるからそれを確認して。支店の担当は針生くんだから。五月に会議で本社に来た時にここにも立ち寄っているけど、その時に会っているかな?」
「なんとなく顔くらいは覚えていますが……」
その頃のまどかはまだまだ仕事を覚えるのに必死で外部の人間のことは薄っすらとしか覚えていないが、確かにゴールデンウィーク明けの五月の半ばぐらいに福島支店の人たちが部長に会いに来ていた気がする。
特に担当の針生という社員は「新卒で配属されたのがここの部署だったから」と言って、部長を始めとして昔から働いている他の社員とも仲睦まじい様子で話していたのだった。
今年入社したまどかを始めとして、一昨年入社したという額賀なども完全に蚊帳の外で話についていけなかった。
「針生くんは元々東北の人なんだけど、三年前に福島支店への転勤をきっかけに実家のある仙台に戻ったんだよね。結婚を機に実家を出てからは福島に住んでいるんだけど、今回の展示会が行われる仙台には詳しいはずだから心配しなくても大丈夫だよ。私からも東海林さんのことは頼んでおくから」
「ありがとうございます」
部長に一礼して自席に戻ったまどかだったが、仕事の続きをしようとパソコンのキーボードに手を伸ばしたところで、ふと止まってしまう。
(仙台か……)
福島支店が応援を頼んだという展示会については、ある程度額田から話は聞いて内容は知っている。ただ例年通りなら福島の展示ホールを貸し切って行われるはずのものだ。
それが何故よりにもよって、今年は仙台で行われるのか。
まどかの脳裏には、かつて幼少期を過ごした仙台での思い出が次々と蘇ってくる。
母と手を繋いで散歩した新緑の定禅寺通り、父に肩車されて色鮮やかな吹き流しの中を潜り抜けた仙台七夕まつり、鳩を追いかけて逆に追い回された竹駒神社の情景。あの頃はどこに行っても笑顔と幸福に満たされていた。
そしてそれらの楽しい思い出を打ち消すように思い出されるのは、小学校の校庭に体育座りをしているまどかの上に落ちてくる季節外れの春雪であった。
どんよりとした薄暗い灰色の冬空の先ではいくつもの煙が立ち昇り、そこかしこから聞こえる子供たちの啜り泣く声。
外壁がひび割れた校舎の上を飛んでいくヘリコプターのプロペラ音に耳をつん裂かれそうになって両手で押さえていると、目の前を険しい顔をした大人たちが切羽詰まった様子で通り過ぎていく。
募る不安と心細さ、そして家族の恋しさ。それらを押し殺して膝を強く抱きしめた幼い自分。
忘れたくても忘れられない十数年前に仙台で経験したありとあらゆる思い出がまどかの心に押し寄せては、目の奥がじーんと熱くなったのだった。
(なるべく見ないようにしてきたのに……)
はぁ、とため息を吐いたところで、ちょうど電話対応を終えたばかりの隣席の女性社員に「大丈夫?」とそっと声を掛けられたのだった。
「さっき部長に呼ばれていたけど、何か嫌なことを言われたの?」
「いいえ、大丈夫です。急に出張に行くことになったからびっくりしただけで」
「それならいいんだけど……あまり無理しないでね。いつでも相談に乗るから」
「ありがとうございます」
入社時から何かとまどかを気遣ってくれる心優しい女性社員に答えたものの、胸の奥では予感めいた何かが小さく鳴り続けていた。
出張が嫌なわけではない。初めての場所で初対面の人との仕事だって普通にできる。
資料を出して、翌朝の仕事を終えて、新幹線に乗って帰ってくるだけ。
たったそれだけなのに、どうしてこんなにも落ち着かないのか。
(これもそろそろ向き合えってことなのかな。いつまでも過去から逃げてばかりいないで、生まれ育った故郷に目を向けるようにって)
◆◆◆
デスクワーク中だったまどかは、そんな中年の男性部長の声で「はい」と自席を立つ。
街路樹の木々が色鮮やかに染まり、連日のようにクリスマス商戦やお正月のおせちのDMがメールや郵送で届く秋の半ば。まどかのデスクにもクリスマスや正月に向けた数百にも及ぶ商品のリストが山積みとなっていた。
「急で申し訳ないんだけど、来週行われる仙台の展示会の担当をお願いできる? 一泊二日で」
「……仙台の展示会ですか?」
仙台の単語を聞いた瞬間に、ほんの少しだけ息を止めて黒目を大きく見開いてしまう。
すぐさま頭を振っていつもの顔に戻ったものの、そんなまどかの様子に一切気付くこともなく、部長はパソコンの画面を見つめたまま話し続ける。
「そっ、東北地方の各小売店や食品の卸売業者向けに行われる展示会。今年の会場は仙台なの。仙台港の近くだから天気の良い日は潮風が吹いて気持ち良い場所だよ」
今年の春に転職した関東の食品会社は、小規模ながらも非常に福利厚生に手堅く社員仲もほどほどに良い働きやすい職場であった。
新卒で入社した教育関係の教材を取り扱う大手会社では、連日のように客や上司に罵詈雑言を浴びせられて、メールでの謝罪は日常茶飯事。昼や夜どころか休日や就業時間も関係なく電話口でも頭を下げて、神経が磨り減る日々だった。
それがこの会社に転職した途端に環境はガラリと変わって、ほぼストレスフリーで定時退社の毎日。
こじんまりとした会社だけあって給料は前より少なくなったが、それでも心身に余裕ができたことで自分の時間を持てるようになったのは大きかった。
「うちの会社って福島にも支店があるでしょ? 今回の展示会に応援を出して欲しいって頼まれていたんだけど行ける人がいなくてね。私はこの日に取引先との会議があるし。忙しいとこ悪いけど、東海林さんが行ってくれないかな?」
「福島の支店は、額賀さんが担当のはずでしたが……」
「実はここだけの話なんだけど、額賀さんのお子さんがインフルエンザに罹ったそうでね。看病のために来週まで休みたいってメールが届いたところだったの」
入社時に研修も請け負ってくれた先輩社員である額賀は、まどかと同年代でありながらも五歳の息子を持つシングルマザーだった。
今日は「子が発熱したと保育所からお迎えの連絡があった」と言って午後から早退したが、どうやらインフルエンザだったらしい。
「詳しくは額賀さんが仕事の引き継ぎメールを送ってくれるからそれを確認して。支店の担当は針生くんだから。五月に会議で本社に来た時にここにも立ち寄っているけど、その時に会っているかな?」
「なんとなく顔くらいは覚えていますが……」
その頃のまどかはまだまだ仕事を覚えるのに必死で外部の人間のことは薄っすらとしか覚えていないが、確かにゴールデンウィーク明けの五月の半ばぐらいに福島支店の人たちが部長に会いに来ていた気がする。
特に担当の針生という社員は「新卒で配属されたのがここの部署だったから」と言って、部長を始めとして昔から働いている他の社員とも仲睦まじい様子で話していたのだった。
今年入社したまどかを始めとして、一昨年入社したという額賀なども完全に蚊帳の外で話についていけなかった。
「針生くんは元々東北の人なんだけど、三年前に福島支店への転勤をきっかけに実家のある仙台に戻ったんだよね。結婚を機に実家を出てからは福島に住んでいるんだけど、今回の展示会が行われる仙台には詳しいはずだから心配しなくても大丈夫だよ。私からも東海林さんのことは頼んでおくから」
「ありがとうございます」
部長に一礼して自席に戻ったまどかだったが、仕事の続きをしようとパソコンのキーボードに手を伸ばしたところで、ふと止まってしまう。
(仙台か……)
福島支店が応援を頼んだという展示会については、ある程度額田から話は聞いて内容は知っている。ただ例年通りなら福島の展示ホールを貸し切って行われるはずのものだ。
それが何故よりにもよって、今年は仙台で行われるのか。
まどかの脳裏には、かつて幼少期を過ごした仙台での思い出が次々と蘇ってくる。
母と手を繋いで散歩した新緑の定禅寺通り、父に肩車されて色鮮やかな吹き流しの中を潜り抜けた仙台七夕まつり、鳩を追いかけて逆に追い回された竹駒神社の情景。あの頃はどこに行っても笑顔と幸福に満たされていた。
そしてそれらの楽しい思い出を打ち消すように思い出されるのは、小学校の校庭に体育座りをしているまどかの上に落ちてくる季節外れの春雪であった。
どんよりとした薄暗い灰色の冬空の先ではいくつもの煙が立ち昇り、そこかしこから聞こえる子供たちの啜り泣く声。
外壁がひび割れた校舎の上を飛んでいくヘリコプターのプロペラ音に耳をつん裂かれそうになって両手で押さえていると、目の前を険しい顔をした大人たちが切羽詰まった様子で通り過ぎていく。
募る不安と心細さ、そして家族の恋しさ。それらを押し殺して膝を強く抱きしめた幼い自分。
忘れたくても忘れられない十数年前に仙台で経験したありとあらゆる思い出がまどかの心に押し寄せては、目の奥がじーんと熱くなったのだった。
(なるべく見ないようにしてきたのに……)
はぁ、とため息を吐いたところで、ちょうど電話対応を終えたばかりの隣席の女性社員に「大丈夫?」とそっと声を掛けられたのだった。
「さっき部長に呼ばれていたけど、何か嫌なことを言われたの?」
「いいえ、大丈夫です。急に出張に行くことになったからびっくりしただけで」
「それならいいんだけど……あまり無理しないでね。いつでも相談に乗るから」
「ありがとうございます」
入社時から何かとまどかを気遣ってくれる心優しい女性社員に答えたものの、胸の奥では予感めいた何かが小さく鳴り続けていた。
出張が嫌なわけではない。初めての場所で初対面の人との仕事だって普通にできる。
資料を出して、翌朝の仕事を終えて、新幹線に乗って帰ってくるだけ。
たったそれだけなのに、どうしてこんなにも落ち着かないのか。
(これもそろそろ向き合えってことなのかな。いつまでも過去から逃げてばかりいないで、生まれ育った故郷に目を向けるようにって)
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