曰く、人は考える葦である。
だから、常に考える。
だって、頭を使わないと、脳細胞は一分で数億個死んでいくって。
そんなの、怖すぎる。
だから考え続ける。
人とは何なのか。私とは、誰なのか。
命とは、本当に大切なのか。
――命とは、誰の持ち物なのか。
「また難しそうな本、読んでる」
クラスメイトの間宮茉奈が、菜摘が読んでいる本を覗き込んだ。
高校二年になってから同じクラスになった茉奈とは、結構親しくしている。
いつも自分の席で一人、本を読んでいる菜摘に声を掛けてくるのは茉奈くらいだ。
「難しくないよ。今日はニーチェ。このまえ、倫理の授業で習ったから気になっただけ」
「難しいよ」
茉奈が笑いながら、菜摘の前の席に座った。
「でも、あんまり好みじゃないから、やっぱり太宰を読もうかな」
「また太宰治? そろそろ読破しそうじゃない?」
「読破なら、中学の時にもうしてる」
太宰治は中学時代に全作品を読みつくした。
中学の時は胸をときめかせて読んでいた。
高校生になった今は、眉を顰めながら読んでいる。
(ただの自分勝手なおじさんにしか思えなくなってきた)
それでも菜摘のバイブルには違いない。共感であり、反感であり、依存だ。
「読破済だったか。意外でもないけど。菜摘って、文学少女って感じだよね。いろんな本、読むし」
「そうかな。もっと読む人はいると思うけど」
特別、本が好きという自覚はない。
ただ、探しているだけだ。
菜摘の疑問に答えられる人は周囲の大人にはいない。
だから、時代を超えた偉人に答えを求めている、それだけだ。
「この前、読んでいたのって、何だっけ? オバケの本」
「水木しげるの妖怪大図鑑?」
「そう、それ。そういうのも好きなんだね」
「好きって言うか。妖怪って、死んだり死ななかったりするから」
どうしてなんだろうと思った。
良くよく読んでみたら、妖怪は自然現象を具現化したり人格化した存在だと気が付いた。
(だから、死なないのか)
普遍的にそこにあり続けるモノたち。そういうものが姿を得て、思考を持ち、人のように動くと妖怪になる。
昔の人は想像力が豊かだ。
水木しげるが尊敬して、参考にしていたという鳥山石燕も読んでみた。
江戸時代の人々が考えることも今と似ていて面白かった。
形が違うだけで、今のラノベみたいだなと思った。
(でも、欲しい答えはなかった)
面白かったけど、不完全燃焼というのか。
残念、とまでは言わないけど。
また答えはなかったなと、ちょっとがっかりした。
「倫理ならさ、社会科室に行って先生にオススメ、聞いてみたら?」
「もう聞いた。アリストテレスとか、ソクラテスとか、勧められた」
その辺りは、もう読んだ。
そんな風に、授業で名前が出てくる偉人じゃなくて、マイナーなのを期待したのに。
もしかしたら菜摘が欲しい答えは、倫理学者の定義にはないのかもしれない。
「菜摘は行動が早いよね。そうだ、今日の帰りさ、ケーキ食べて帰らない?」
「どうして、急に?」
高校生とは言っても菜摘が通っている高校は田舎に合って、店らしい店もない。
カフェとなると一軒しかないのだが、駅から反対側にある上、ちょっと遠い。
「バイト代、入ったんだ。どう?」
菜摘は首を傾げた。
今月はお小遣いに余裕もあるし、行けないわけじゃない。
(本当は家に帰ってカントを読みたいけど)
菜摘は、断るのが苦手だ。
正確には、一瞬でも気まずい空気になるのが辛い。
「……いいよ」
心の内とは裏腹の言葉が、口から出る。
茉奈のことが嫌いなわけじゃない。話すのも嫌じゃない。
一言で言うなら、怠い。
そういう、ちょっとの怠さを我慢すれば、それはそれで楽しい時間だ。
「やった。じゃ、また放課後!」
「うん、また」
自分の席に戻った茉奈に手を振って、菜摘はまた本に目を落とした。
最初に疑問を持ったのは、七歳の時だった。
人は産まれてきたら生きないといけない。
――どうしてだろう。
自分の命は自分の持ち物なのに、好きに使っちゃいけないのは、どうして?
好きに死んじゃいけないのは、どうして?
好きに生きちゃいけないのは、どうして?
幼いの頃は、漠然とした疑問だった。
周囲の大人に聞いてみた。
「なっちゃんが死んだら、悲しいでしょう。他の人も同じだよ」
「自分から死ぬなんて、人の道に反した行いなんだよ」
「そういうことを聞いちゃダメ」
最終的に、疑問を口に出すことを禁止された。
――どうしてだろう。
人は産まれればいずれ死ぬのに、死を隠そうとするのは、どうしてだろう。
死を悪いモノのように言うのは、どうしてだろう。
高校生になった今は、社会がそういう風にできているから、と理解できるようになった。
世の中は、生きることこそ美しく、死ぬことは終わりや負けを意味する。
ただし、天寿を全うした場合は御目出度いらしい。
命は誰の持ち物か。
自分のために生きるのか。
人のために生きるのか。
どうして自殺や安楽死が否定されるのか。
大人に近づくにつれ、純粋な疑問は口に出せなくなった。
禁止されたこと以上に、禁忌なのだと悟ったから。
理解はできる。
だけど、納得はできなかった。
「菜摘、中間テスト、どうだったの?」
夕飯時、母親が菜摘に問い掛けた。
「十六位だった」
「あら、一年生の最期の期末より、ちょっと落ちたのね」
「ごめんなさい」
口に運ぼうとしていた箸を降ろす。
「悪くない順位よ。責めてないわ。次はもっとよい順位だといいわね」
「うん、頑張る」
「別に頑張らなくていいのよ。無理に勉強しろなんて、お母さん、言う気ないもの」
「……うん」
「ただね、そのほうが菜摘のためだろうなと思うだけよ」
「わかった」
母親は菜摘に勉強しろとは言わない。
ただ、成績が悪いと極端に不機嫌になる。
今だって、期末より順位が下がったせいで、不機嫌さが声に出ている。
箸を持つ手が震えそうになる。
(お父さん、早く帰って来ないかな)
長期出張で家を開けがちな父は、あと半年は海外から戻らない。
(帰ってきても、また喧嘩するかな)
母はヒステリックな人だから、気に入らないことがあるとすぐに父と喧嘩になる。
機嫌がいい時は仲良し夫婦だけど、どこで母のスイッチが入るか、わからない。
喧嘩が始まると、菜摘は布団に潜って小さくなっている。
そういう時、自分の心臓の音がやけに耳に付く。
遠くに父と母の罵声を聞きながら、自分の鼓動を聞いている。
菜摘は急いで食事を終えると、席を立った。
「ごちそうさま。洗い物、するね」
「今日は良いわよ。お母さんがやるから」
「じゃぁ、お風呂洗って、沸かしておくよ」
「ありがとう。本当に菜摘は素直で良い子ね」
母に微笑みかけて、菜摘は風呂に向かった。
(本当は早く部屋に戻って本を読みたいけれど)
自分から手伝いを申し出ないと、母の機嫌が悪くなる。
気が利かないと怒られる。
これも、自分時間を確保するための前払いだ。
そう思って風呂を洗い始めた。
一駅だけ電車に乗って、住宅街の道を二十分ほど歩く。
いつもの通学路だ。
菜摘は、景色を眺めながらぼんやりと歩いていた。
「七瀬、おはよう」
遠くで声がした気がしたけど、耳に入らなかった。
「七瀬、おーい、七瀬菜摘」
真横で名前を呼ばれて、振り返る。
一年生の時、同じクラスだった七海和哉が菜摘を覗き込んでいた。
「おはよう」
「おはよ、何か、考え事してた?」
「ううん、ぼーっとしてた」
特に何も考えていなかった。
ただ、今日は天気がいいなぁ、程度だ。
「珍しいね。七瀬って、常に何か考えてそうなのに」
「昔は、そうだったけど。最近は疲れるからしない」
頭を使わないと脳細胞が一分間で数億個、死んでいく。
中学の理科で先生がそう話していた。
それを知った時は恐怖だった。
常に何か考えていなくてはと思ったけれど。
人間の細胞は、脳細胞に限らず体細胞も死ぬのだそうだ。死なないと新しい細胞が生まれない。それが人間の体のサイクルらしい。
(それが、生きるということ)
高校の生物の授業でそう教わって、気持ちが楽になった。
それから、無理に頭を使おうとは思わなくなった。
だけど、一度ついた癖はそう抜けるものでもなく。
いまだに妄想癖は消えない。
「マジでそうだったんだ。期待を裏切らないなぁ、七瀬って」
「期待?」
菜摘は首を傾げた。
和哉が、ぐっと唇を引き結んだ。
「どうしたの?」
和哉が、ごくりと息を飲む仕草をする。
何となく耳が赤く見えなくもない。
「ど、どうもしないけど。えっと、何の話だっけ。最近は、どんな本、読んでんの?」
「そんな話だったっけ?」
「いいから、教えろって」
和哉は一年生の時、後ろの席だった。
明るくて、良く笑う。
やけに話しかけてくる人だった。
だから、菜摘の読書好きもよく知っている。
菜摘の数少ない友達の一人だ。
「最近は倫理学系の本を読んでいるけど。そろそろ新しい分野を開拓したい」
倫理学は、人はどう生きるべきかが書いてある。
生きる前提の理論だ。
菜摘が知りたいのは、その手前の理論だ。
「だったらさ、神話とか、どうよ」
「神話? 日本神話? もう読んだよ」
「じゃぁ、ケルト神話とか北欧神話とか」
「知っているけど、ちゃんと読んだこと、ないかも」
日本神話では、死は穢れだ。
わかりやすく禁忌性を示している。
(臭いものに蓋、的な)
それも一つの答えだ。
菜摘が欲しい答えに、今までの中で一番、近かった。
(どうして穢れで禁忌なのか、それを知りたい)
他の神話を読めば、答えがわかるかもしれない。
菜摘は、和哉を振り返った。
「うん、読んでみる。どっちが面白い?」
「どっちも面白いけど、北欧神話のほうが馴染みやすいよ、きっと」
そう言いながら、和哉がリュックから二冊の本を取り出した。
「実は俺もハマってさ。どっちも貸すよ」
「いいの? 七海はもう読み終わったの?」
「うん、読んだ」
「そっか。じゃぁ、借りる。ありがとう」
ちょっとワクワクしてきた。
菜摘は微笑んで和哉にお礼を言った。
「う、うん……返すの、ゆっくりでいいからな。またオススメできたら、教えるし」
「オススメ、知りたい。また教えて」
「おぅ」
ちょっと照れくさそうに、和哉が頬を掻いた。
菜摘は待ちきれない気持ちで、手にした本の表紙を撫でた。
今日の帰りは、母方の祖母の家に寄った。
祖母の家は通学路の途中にある。
「あらぁ、なっちゃん。いらっしゃい」
祖母がいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「仏壇に、手を合わせるね」
「うん、ありがとう」
お線香に火をつけて、おりんを鳴らす。
祖父は菜摘が幼稚園の頃に亡くなった。
それから祖母はずっと一人暮らしだ。
一緒に暮らしているのは、年老いた柴犬のコロだけだった。
「コロ、元気ないね」
もう二十歳になるコロは、最近では寝ていることが多い。
幼い頃は、よく一緒に散歩に行って遊んでいた。
「最近はお散歩もあんまり行かないの。病気とかは、ないんだけどね」
祖母が息を吐いた。
「老衰ね。おばあちゃんと同じよ」
そう話す祖母の顔は、悲しそうだった。
「コロ……」
菜摘はコロの頭を撫でた。
「くぅ……」
鼻を鳴らすような、か弱い鳴き声が聞こえた。
「なっちゃん、お菓子どうぞ」
「ありがとう、おばあちゃん」
祖母はいつも菜摘が好きなお菓子を準備して待っていて待っていてくれる。
「そういえば、なっちゃんは今も本を読む?」
「うん、色々読むよ」
「おじいちゃんの書庫の片付けをしていたらね、本がたくさん出てきたのよ。好きな本を持っていくといいわ」
「どうして、片付けを始めたの?」
祖母が困ったように眉を下げた。
「おばあちゃんも、もういい歳だもの。いつ、何があってもいいようにね。終活っていうのかしらね」
ドキッと、胸が冷えた。
(おばあちゃんは、自分が死ぬことを考えているんだ)
人間には平等に死が訪れる。
誰でもいつかは死ぬ。
死にたくないと思っても、抗えない。
(それは、仕方がない。永遠はないから。だけど)
コロも祖母もいなくなってほしくない。
菜摘がそう思うのは我儘なのだろうか。
(自分の命だけど、手放さなきゃならない時が来るんだ)
いらないと捨てることを禁忌とする命なのに。
手放したくなくても手放さないといけない時が来る。
とても理不尽に思えた。
菜摘は祖父の書斎に入った。
大学教授をしていた祖父の部屋には、昔から本がたくさんあった。
「日本文学の先生だっけ」
幼稚園生の時は、死というものがわからなかった。
ただ、もう二度と会えないのだということだけがわかった。
可愛がってくれた祖父に会えないのが悲しくて、菜摘は泣いた。
大きくなって、祖父は死ぬには早いと言われる歳だったと知った。
だから、たくさんの人に惜しまれた。
「おじいちゃんも、もっと生きたかったろうな」
死は、人を選ばない。
ある日突然、理不尽に襲い掛かる。
そうかと思えば、じわりじわりと、足音を顰めて寄ってくる。
コロや祖母の背後に迫るように。
そう考えたら、怖くなった。
「芥川龍之介と、志賀直哉にしよう」
二冊の本を手にして、菜摘は祖父の書斎を出た。
菜摘は自室で北欧神話を読んでいた。
登場する神々が皆、個性的だ。
映画を見ているみたいで、面白い。
「死は、怖いものじゃないのか」
北欧神話には、冥界の神ヘルがいる。
死ぬとその世界に移り住む。
「日本神話にも、亡者の国があった。根の国、だっけ」
菜摘は日本の神話の本を捲った。
根の国の神はスサノオと、その娘であるスゼリだ。
「でも、捉え方が違うんだ」
我が子を産んで死んだ伊弉冉は黄泉に行く。
悲しんで会いに行った伊弉諾とは、結局会えない。
「日本のほうが、死を怖いって捉えている気がする」
死は、恐ろしい。
菜摘も漠然とそう思う。
死は、苦しくて痛くて、怖いものだ。
「それは私が日本人だから?」
けれど、北欧神話でも冥界は異端な世界だ。
おどろおどろしい雰囲気がある。
「どこの国の人も、やっぱり怖いのかな」
怖いから、自分から死んではダメ。
それは少し違う気がする。
菜摘は本を閉じで背伸びした。
「知れば知るほど、わからなくなる」
どの本も皆、生きることや生者が中心、あるいは前提に書かれている。
生きている人間が書いているのだから、当然なのだろうけど。
「一個しかないから、失くしちゃいけないのかな」
いずれ失うと決まっているから。
自然と失うその瞬間まで、大事に持っていないといけないのだろうか。
それは少しだけ理解できる。だけど。
「自分の命なのに、どうして好きにしちゃいけないの?」
疑問が、一周回って戻ってきた。
菜摘は眉間を抑えて目を閉じた。
(誰かに相談できたら、違うのにな)
こんな話は、誰にもしたことがない。
話した途端に自殺志願者と勘違いされて心配される。
そんなのは容易に想像がつく。
(別に、死にたいわけじゃない。私は、知りたいだけだ)
命は誰の持ち物で、自由にする権利は誰にあるのか。
他者では決してない。
それはわかる。
ならば、自分しかいない。
(でも仮に、生きるのがとても辛い人がいて、死んだ方が楽になれるとしたら?)
或る国では、末期癌の患者が自分で希望して安楽死を選べるのだそうだ。
助かる見込みのない命の期限を自分で決める。
テレビでドキュメンタリーを観た時は、とても怖いと思った。
同時に、菜摘の欲しかった答えに一番近い気がした。
(簡単に決めて良いとは思わない。だけど、そうあるべきだとも、思う)
矛盾する考えは、共存できるのか対立するのか。
それすらも、よくわからない。
段々、頭が痛くなってきた。
「今日はもう、寝よう」
ベッドに入って、電気を消す。
布団の温もりに包まれて、菜摘は眠りに就いた。
慌ただしい足音がして、目が覚めた。
きっと母だ。
今日は土曜日で休みのはずなのに、朝からバタバタと煩い。
スリッパのパタパタした音が部屋に近付いた。
「菜摘、起きてる?」
「今、起きた」
菜摘は眠い目を擦って起き上がった。
時計は六時半を指していた。
「これから、おばあちゃんの家に行くんだけど、菜摘も来る?」
「今から、どうして?」
「コロが亡くなったらしいの」
「え……」
菜摘は絶句した。
ついこの前、会ったばかりだ。
(でもあの時、かなり弱ってた。おばあちゃんも老衰って言ってた)
だからって、こんなに早く死んでしまうなんて。
菜摘の手が震えた。
「怖かったら、お留守番していて。お母さんだけで行ってくるから」
「お母さんは行くの?」
「おばあちゃんだけじゃ、火葬場に連れて行けないでしょ。お母さんが車を出さないと」
「火葬場」
やけにリアルな言葉だ。
怖さが増した。
「どうする?」
菜摘は強く手を握った。
「一緒に行く」
今行かなかったら、もうコロに会えない。
菜摘は立ち上がって着替えをした。
「準備できたら、リビングに降りてきなさい」
「わかった」
母が部屋を出て行った。
一人きりになった部屋は、やけに広くて物悲しく感じた。
(いつもの自分の部屋なのに)
コロがいないんだと思うだけで、部屋の中が寒々しかった。
車に乗って二十分くらいで、祖母の家に付く。
部屋に入ると、コロが小さな箱の中に寝かされていた。
枕をして、布団をかけて、お腹の辺りにはコロが好きだったおやつが置いてある。
庭で摘んだのであろう花が一緒に添えられていた。
「夜中にもう、息が止まってね。眠るみたいに、すぅとね。きっと苦しくはなかったと思うよ」
祖母が涙を拭きながら教えてくれた。
祖母の目は腫れていた。
きっと、いっぱい泣いたんだと思う。
菜摘の目にも涙が込み上げて、ジワリと滲んだ。
「コロ……」
物心がついた時には、一緒に遊んでいた。
まるで兄弟みたいだった。
(ずっと一緒だと思ってた)
この前、祖母に弱っていると話を聞いた時でさえ、こんな未来は予測しなかった。
それくらい、いるのが当然だった。
菜摘は、コロの頭に触れた。
ひやりとした感触に、指先が震えた。
(こんなに、冷たくなるの?)
肌も心なしか弾力を失っている。
生きていた時のような温もりも、柔らかさもない。
(これが、死ぬということ)
ここにコロはいるのに。
何故だか、空っぽに感じた。
(コロはもう、ここにはいないんだ)
何となく、そう思った。
それでも、目の前のコロはコロで、撫でずにはいられない。
撫でれば撫でるほど、涙が止まらない。
「なっちゃん……」
祖母がハンカチで涙を拭いてくれた。
「葬儀場の予約ね。今日じゃないと、他の日は埋まっているんですって。亡くなってすぐで可哀想だけれど。九時の火葬になるの」
「そんなに、早く」
「早いほうがいいんじゃない? 保冷剤で冷やすのも大変だもの。暑くなってきているから」
五月の連休を過ぎたばかりだが、陽気は夏のようだ。
母の言うことは間違っていない。
そう思うのに。
母の言葉が冷たく聞こえた。
「慣れ親しんだ家を離れるの、辛いだろうけど。そうしましょう」
祖母が涙を拭いた。
「お母さんに迷惑かけるようなこと、コロはきっと望まないわ」
母の言葉に、祖母が苦笑した。
(おばあちゃんは迷惑なんて思わない)
誰よりもコロを可愛がっていたんだから。
一秒だって長く、一緒にいたいはずなのに。
(だけど、辛いのかな)
菜摘は、横たわるコロを見詰めた。
生きていた、元気なコロを知っているからこそ、この姿のコロを見ているのは、辛いのかもしれない。
「お母さん、ご飯まだでしょう。何か作るわ」
「悪いねぇ」
母が立ち上がった。
「菜摘、手伝って」
「わかった」
菜摘は一緒に台所に入った。
「私たちがいると、おばあちゃんも気を遣うから。二人きりにしてあげましょう」
母が、こっそりと菜摘に耳打ちした。
「うん、そうだね」
母は死んだコロより祖母に気を遣っている。
それも当然だと思う。
(私も、もう少し、コロとお別れしたかったな)
気持ちを胸に仕舞って、菜摘は朝食を作り始めた。
週が開けて、また月曜日になった。
「菜摘、どうしたの?」
「え?」
茉奈が菜摘を覗き込んだ。
「本が全然進んでないように見えるけど」
「あぁ、うん」
和哉に借りたケルト神話を読み始めたのに、全然進まない。
「おばあちゃんちの犬がね、死んじゃって」
言葉にするとより現実感があって辛い。
「小さい時から一緒だったから、悲しいなと思って」
「そうだったんだ。辛いね」
茉奈がシュンと肩を落とした。
「何歳だったの?」
「二十歳くらい」
「長生きだったんだね」
「うん……そうだね」
犬として長寿だった。
でも、だからって悲しくないわけじゃない。
「一人で逝っちゃったの?」
「おばあちゃんが、ずっと一緒にいたよ。失くなってからだけど、私とお母さんも会いに行った」
「そっか。じゃぁ、きっと悲しくなかったよ」
茉奈の言葉に、菜摘は驚いた。
「そう……かな?」
「そうだよ。お迎えが来る直前まで、大好きなおばあちゃんがいて。菜摘たちもちゃんと会いに行って。一人じゃなかったじゃない。きっと、嬉しかったよ」
「……そっか」
コロが悲しかったとか、嬉しかったとか、思いもしなかった。
ただ、自分ばかりが悲しくて、思い出を辿っていた。
茉奈みたいに考えなかった。
(コロの気持ち……)
亡くなったコロの気持ちは、永遠にわからない。
本当はどう思っていたかなんて、わからないけど。
茉奈の言葉で、菜摘の胸は少し楽になった。
「だから、落ち込まないで、菜摘!」
茉奈が菜摘の手を握った。
「うん、ありがとう」
茉奈は菜摘を慰めようと、懸命に話してくれている。
だから菜摘は、できる限り笑った。
「こういう時は、気晴らしだよ!」
「気晴らし?」
「隣の駅前にね、新しいカフェができたの。行かない?」
茉奈のお誘いだ。
きっと自分が行きたいだけなんだろうな、と一瞬、頭を過った。
それでも、茉奈は菜摘を慰めてくれている。
(今月、お小遣いがそろそろキツキツなんだけど)
茉奈の目が期待を込めて菜摘の返事を待っている。
「行って、みようかな」
「行こう、行こう! また放課後ね」
茉奈が手を振って自分の席に戻っていった。
(……安いメニュー、あると良いな)
お小遣いが気になって、コロのことが頭の隅に追いやられた。
空虚な気持ちだけが、菜摘の胸に燻ぶっていた。
六月になって、雨の日が増えた。
放課後、菜摘は誰もいない教室で窓の外を眺めていた。
「な、七瀬!」
名前を呼ばれて、菜摘は振り返った。
七海和也が、教室に入ってきた。
「七海、部活は?」
和哉は剣道部だから、雨でも部活は休みにならないはずだ。
「顧問がいなくて、今日は休み」
「そうなんだ」
和哉が菜摘の隣に並んだ。
「話って……」
「そういえばさ! 貸した本、読んだ?」
「うん。北欧神話は読んだ。今、ケルト神話読んでる」
「そっか。いつもよりペース遅くね?」
和哉が意外そうな顔をした。
「返すの、遅くなって、ごめん」
「それは良いけどさ。何かあったのかと思って」
菜摘は、和哉から視線を外した。
「おばあちゃんちの犬が死んじゃって。本を読む気分じゃなくなっちゃって」
和哉が一瞬、息を飲んだ。
「前に話していた、兄弟みたいな犬だよな。それは……辛かったな」
「うん……」
わずかな距離を開ける二人の間に、沈黙が降りる。
静かな雨音が、窓の外に響いた。
「本は、いつでもいいから。ていうか、あの本、七瀬にやる」
「もらうのは、申し訳ないよ。だったら、買うよ」
「俺が、あげたいんだよ。いいだろ」
「何で?」
和哉の善意の意味が解らなくて、菜摘は首を傾げた。
「何で私に本を、あげたいの?」
和哉が唇を噛んで、菜摘を見詰めた。
引き結んでいた唇を開く。
「七瀬に、元気になってほしいから」
「元気ないと、詰まらない?」
「そうじゃない!」
和哉が前のめりになった。
「七瀬のことが、好きだから」
「好き……?」
それは、友達として、という意味だろうか。
わからなくて、菜摘は混乱した。
目の前の和哉は、普段と違ってとても緊張している。
顔が強張っているし、強く拳を握り締めて、何かを決意しているみたいだ。
「好きって、何?」
「付き合ってほしいって意味だよ」
和哉の声が、わずかに震えた。
(付き合うって、恋人?)
そう気付いた途端に、ぶわっと顔に熱が昇った。
「そんな、急に」
「俺はずっと好きだったし、アピールしてきたつもりだけど」
「そう……なの?」
「うん」
頷かれても、と思う。
そんなアピール、全然気が付かなかった。
和哉のことは、仲のいい友達としか思っていなかったのに。
今日に心臓がドキドキして、顔も耳も熱い。
「七瀬が気付いてなかったのも知っていたし、悲しいことがあったばかりだと思うから。返事はすぐじゃなくていいよ。ゆっくり考えてほしい」
自分の気持ちを考える。
菜摘が一番、不得手なことだ。
(七海は私と付き合いたくて告白してくれたんだ)
いつもの菜摘なら、イエスと答える。
相手の顔色を窺って、欲しそうな答えを言う。
そうすることで無駄な諍いを避けられるし、お互いのためだと思うから。
(だけど、今はそれ、正解じゃない気がする)
安易にイエスを言っていいと思えない。
和哉は勇気を出して告白してくれた。
流された返事では、行けない気がする。
(でも、断ったら友達ではいられないのかな)
和哉は、素直な気持ちを一番、言える相手だ。
失いたくない。
(そうだ、聞いてみよう。それで決めよう)
菜摘は俯いたまま口を開いた。
「あの……あのね」
声が上擦った。
いつもみたいに、話せない。
「うん」
和哉が静かに返事した。
さっきより落ち着いた態度だ。
その態度に、菜摘も少しだけ落ち着きを取り戻した。
「私が本を読む理由は、単に読書が好きなわけじゃなくて、答えを、探していて」
「答え?」
「うん……命は自分のものなのに、どうして好きにしちゃいけないんだと思う?」
「え?」
和哉が面食らった顔をしている。
「最初から生きなきゃダメ、死んじゃダメって、何で決まっているんだと思う? どうして、他人に命の価値を押し付けられるんだと思う?」
和哉の眉間に皺が寄り始めた。
菜摘は、マズいと思った。
「私、死にたいわけじゃないんだよ。答えが欲しいだけなの。だから、本をたくさん読んで、答えを探しているの」
和哉の緊張が緩んだ。
「そうだったんだ。ただの読書好きにしては、必死だなとは思ってたけど」
そんな風に思われているとは、知らなかった。
「読んだ本の数を増やしたいだけかと思ってた」
和哉が、ははっと笑った。
その笑顔に、ほっとした。
「難しいこと考えているんだな、七瀬は」
「難しくないよ。子供のころから、不思議に思うだけ」
七歳の頃は、もっと漠然としていた。
言語化できるようになったのは、高校生になった頃だ。
「んー……俺には正直、よくわかんないけどさ」
和哉が考える顔をした。
本気で悩んでくれているみたいだ。
「あの、訳わかんなかったら、別に答えなくても」
「そういうの考えて生きているのって、きっと人間だけなんだろうな」
「え?」
菜摘は顔を上げた。
「だってさ、犬とか猫とか、虫とか。生まれたら本能的に生きるんじゃないの? 自分から死のうとか考えないと思う」
確かに、そうかもしれない。
わざわざ恐怖を伴う死に向かう必要がない。
だったらきっと、必死に生きる。
「命の価値ってさ、色んな人が色々言うんだろうけど。決めるのは自分でいいんじゃないの?」
「自分で……決めて、いいの?」
「決めればいいと思う。俺だったら、人に決められるの、嫌だな」
「そう、なんだ」
和哉の話は、思っても見なかった内容だった。
ずっと外側に答えを求めてきたのに。
答えは自分の内側にあるのかもしれない。
「万人に共通の答えって、ないのかな」
恐る恐る聞いた。
それは菜摘がこれまで本を読んできて、何となく辿り着きそうだった答えの一つだ。
「どうなんだろうなぁ。なさそうな気もするけど。やっぱり探さないと、わからないよな」
「答えがないから、色んな人が色んな事を言うのかな」
「そうかも。絶対の正解ってないのかもな」
和哉が楽しそうに笑う。
「こんな話、楽しくないよね?」
「なんで? 俺は七瀬と話すの、楽しいよ」
「暗い話題だよ」
「別に暗くないだろ。俺も興味ある」
「興味あるの?」
「うん。これからは、その答えを探すために読書しようかな。七瀬みたいに」
視界が、開けた気がした。
答えがわかった訳じゃないのに、すっきりした気分だ。
「私……これからも七海とこんな風に話したり、一緒に本読んだりしたい」
和哉が目を見開いた。
「えっと、それって、オッケイってこと?」
菜摘は俯きがちに頷いた。
顔が熱くて、上げられない。
「本当は、恋愛の好きか、わからないけど。一緒にいたいのは、本当だから。それで良かったら、なんだけど」
こんな曖昧な返事をしたのは、初めてだ。
初めて、自分の気持ちらしい気持ちを他人に話した。
バクバクと、心臓の音が耳元で鳴る。
(言っちゃった。きっと七海はこんな返事を期待してないのに)
相手が嫌がる言葉を口にするのは、とても怖い。
「いいよ。一緒にいながら俺のこと、ゆっくり好きになってよ」
「いい、の?」
菜摘は、呆気にとられた。
欲しい答えを言わなかったのに、和哉は嬉しそうだ。
それが意外だった。
「その代わり、付き合っている間に七瀬が俺のこと、恋愛的に好きになってくれるのを期待するよ」
和哉が手を差し出した。
「今日から、とりあえず恋人、なろうよ」
「うん。よ、よろしく」
菜摘はドキドキしながら、指先でそっと和哉の手を握った。
戸惑いはしたけど、和哉の手を握ることに迷いはなかった。
(七海と、もっと話してみたい)
内側に溜め込んでいた疑問を、初めて吐き出した。
和哉は馬鹿にすることなく、菜摘の疑問に真摯に答えてくれた。
握った大きな手の温もりは菜摘の知らない温かさで。
ドキドキするのに安心できる。
(自分の気持ち、素直に打ち明けても、七海は嫌がらない)
ちゃんと聞いて、受け止めてくれる。
自分の気持ちを話してもいいのだと思える。
こんな安心感は、生まれて初めてだった。
「あ、雨、止んだな」
和哉が窓の外を眺めた。
空が晴れて、葉っぱに残った雨粒をキラキラと照らしていた。
「一緒に、帰ろう」
「うん」
和哉が菜摘の手を握り直す。
その手を握り返して、大きな温もりを確かめた。
菜摘は自分の部屋で本を読んでいた。
祖父の書斎から新たに本をもらった。
コロがいなくなって祖母は一人になったので、ちょくちょく様子を見に寄っている。
その度に、祖父の書斎の本をもらって来ていた。
今日は森鴎外短編集を読んでいた。
その中の「高瀬舟」という話を読み終えて、本を閉じた。
「……こんなの、答えなんか出ないよ」
病気の兄が苦しまずに済むようにと兄が望んだとおりに殺し、咎人になった弟。
大事な兄を殺すのはどんな気持ちだったかと考えると、ゾッとする。
しかもその行為は優しさの発露だ。
何て恐ろしい話だろうと思った。
「やっぱり、答えはないのかな」
命は自分のものだと、菜摘は思う。
周囲を悲しませるような結末は、嫌だとも思う。
けれど、そこに強制が入るのは、違う気がする。
「人の答えを知って、自分の答えを見付けるのかな」
答えなんか、一生かかっても見付けられない気がする。
だけど、納得のいく答えに近いものは見付かるかもしれない。
(今は、一緒に考えてくれる人がいるから)
一人では見つけられない答えも、二人なら探せるかもしれない。
そう思うだけで、胸の曇りは晴れていく。
菜摘はもう一度、本を開いて次の話を読み始めた。
曰く、人は考える葦である。
だから、常に考える。
考え続ける。
人とは何なのか。私とは、誰なのか。
命とは、本当に大切なのか。
私は今、私の持ち物である命を大切にしたいと思っている。
それが途中経過の、私の答えだ。
だから、常に考える。
だって、頭を使わないと、脳細胞は一分で数億個死んでいくって。
そんなの、怖すぎる。
だから考え続ける。
人とは何なのか。私とは、誰なのか。
命とは、本当に大切なのか。
――命とは、誰の持ち物なのか。
「また難しそうな本、読んでる」
クラスメイトの間宮茉奈が、菜摘が読んでいる本を覗き込んだ。
高校二年になってから同じクラスになった茉奈とは、結構親しくしている。
いつも自分の席で一人、本を読んでいる菜摘に声を掛けてくるのは茉奈くらいだ。
「難しくないよ。今日はニーチェ。このまえ、倫理の授業で習ったから気になっただけ」
「難しいよ」
茉奈が笑いながら、菜摘の前の席に座った。
「でも、あんまり好みじゃないから、やっぱり太宰を読もうかな」
「また太宰治? そろそろ読破しそうじゃない?」
「読破なら、中学の時にもうしてる」
太宰治は中学時代に全作品を読みつくした。
中学の時は胸をときめかせて読んでいた。
高校生になった今は、眉を顰めながら読んでいる。
(ただの自分勝手なおじさんにしか思えなくなってきた)
それでも菜摘のバイブルには違いない。共感であり、反感であり、依存だ。
「読破済だったか。意外でもないけど。菜摘って、文学少女って感じだよね。いろんな本、読むし」
「そうかな。もっと読む人はいると思うけど」
特別、本が好きという自覚はない。
ただ、探しているだけだ。
菜摘の疑問に答えられる人は周囲の大人にはいない。
だから、時代を超えた偉人に答えを求めている、それだけだ。
「この前、読んでいたのって、何だっけ? オバケの本」
「水木しげるの妖怪大図鑑?」
「そう、それ。そういうのも好きなんだね」
「好きって言うか。妖怪って、死んだり死ななかったりするから」
どうしてなんだろうと思った。
良くよく読んでみたら、妖怪は自然現象を具現化したり人格化した存在だと気が付いた。
(だから、死なないのか)
普遍的にそこにあり続けるモノたち。そういうものが姿を得て、思考を持ち、人のように動くと妖怪になる。
昔の人は想像力が豊かだ。
水木しげるが尊敬して、参考にしていたという鳥山石燕も読んでみた。
江戸時代の人々が考えることも今と似ていて面白かった。
形が違うだけで、今のラノベみたいだなと思った。
(でも、欲しい答えはなかった)
面白かったけど、不完全燃焼というのか。
残念、とまでは言わないけど。
また答えはなかったなと、ちょっとがっかりした。
「倫理ならさ、社会科室に行って先生にオススメ、聞いてみたら?」
「もう聞いた。アリストテレスとか、ソクラテスとか、勧められた」
その辺りは、もう読んだ。
そんな風に、授業で名前が出てくる偉人じゃなくて、マイナーなのを期待したのに。
もしかしたら菜摘が欲しい答えは、倫理学者の定義にはないのかもしれない。
「菜摘は行動が早いよね。そうだ、今日の帰りさ、ケーキ食べて帰らない?」
「どうして、急に?」
高校生とは言っても菜摘が通っている高校は田舎に合って、店らしい店もない。
カフェとなると一軒しかないのだが、駅から反対側にある上、ちょっと遠い。
「バイト代、入ったんだ。どう?」
菜摘は首を傾げた。
今月はお小遣いに余裕もあるし、行けないわけじゃない。
(本当は家に帰ってカントを読みたいけど)
菜摘は、断るのが苦手だ。
正確には、一瞬でも気まずい空気になるのが辛い。
「……いいよ」
心の内とは裏腹の言葉が、口から出る。
茉奈のことが嫌いなわけじゃない。話すのも嫌じゃない。
一言で言うなら、怠い。
そういう、ちょっとの怠さを我慢すれば、それはそれで楽しい時間だ。
「やった。じゃ、また放課後!」
「うん、また」
自分の席に戻った茉奈に手を振って、菜摘はまた本に目を落とした。
最初に疑問を持ったのは、七歳の時だった。
人は産まれてきたら生きないといけない。
――どうしてだろう。
自分の命は自分の持ち物なのに、好きに使っちゃいけないのは、どうして?
好きに死んじゃいけないのは、どうして?
好きに生きちゃいけないのは、どうして?
幼いの頃は、漠然とした疑問だった。
周囲の大人に聞いてみた。
「なっちゃんが死んだら、悲しいでしょう。他の人も同じだよ」
「自分から死ぬなんて、人の道に反した行いなんだよ」
「そういうことを聞いちゃダメ」
最終的に、疑問を口に出すことを禁止された。
――どうしてだろう。
人は産まれればいずれ死ぬのに、死を隠そうとするのは、どうしてだろう。
死を悪いモノのように言うのは、どうしてだろう。
高校生になった今は、社会がそういう風にできているから、と理解できるようになった。
世の中は、生きることこそ美しく、死ぬことは終わりや負けを意味する。
ただし、天寿を全うした場合は御目出度いらしい。
命は誰の持ち物か。
自分のために生きるのか。
人のために生きるのか。
どうして自殺や安楽死が否定されるのか。
大人に近づくにつれ、純粋な疑問は口に出せなくなった。
禁止されたこと以上に、禁忌なのだと悟ったから。
理解はできる。
だけど、納得はできなかった。
「菜摘、中間テスト、どうだったの?」
夕飯時、母親が菜摘に問い掛けた。
「十六位だった」
「あら、一年生の最期の期末より、ちょっと落ちたのね」
「ごめんなさい」
口に運ぼうとしていた箸を降ろす。
「悪くない順位よ。責めてないわ。次はもっとよい順位だといいわね」
「うん、頑張る」
「別に頑張らなくていいのよ。無理に勉強しろなんて、お母さん、言う気ないもの」
「……うん」
「ただね、そのほうが菜摘のためだろうなと思うだけよ」
「わかった」
母親は菜摘に勉強しろとは言わない。
ただ、成績が悪いと極端に不機嫌になる。
今だって、期末より順位が下がったせいで、不機嫌さが声に出ている。
箸を持つ手が震えそうになる。
(お父さん、早く帰って来ないかな)
長期出張で家を開けがちな父は、あと半年は海外から戻らない。
(帰ってきても、また喧嘩するかな)
母はヒステリックな人だから、気に入らないことがあるとすぐに父と喧嘩になる。
機嫌がいい時は仲良し夫婦だけど、どこで母のスイッチが入るか、わからない。
喧嘩が始まると、菜摘は布団に潜って小さくなっている。
そういう時、自分の心臓の音がやけに耳に付く。
遠くに父と母の罵声を聞きながら、自分の鼓動を聞いている。
菜摘は急いで食事を終えると、席を立った。
「ごちそうさま。洗い物、するね」
「今日は良いわよ。お母さんがやるから」
「じゃぁ、お風呂洗って、沸かしておくよ」
「ありがとう。本当に菜摘は素直で良い子ね」
母に微笑みかけて、菜摘は風呂に向かった。
(本当は早く部屋に戻って本を読みたいけれど)
自分から手伝いを申し出ないと、母の機嫌が悪くなる。
気が利かないと怒られる。
これも、自分時間を確保するための前払いだ。
そう思って風呂を洗い始めた。
一駅だけ電車に乗って、住宅街の道を二十分ほど歩く。
いつもの通学路だ。
菜摘は、景色を眺めながらぼんやりと歩いていた。
「七瀬、おはよう」
遠くで声がした気がしたけど、耳に入らなかった。
「七瀬、おーい、七瀬菜摘」
真横で名前を呼ばれて、振り返る。
一年生の時、同じクラスだった七海和哉が菜摘を覗き込んでいた。
「おはよう」
「おはよ、何か、考え事してた?」
「ううん、ぼーっとしてた」
特に何も考えていなかった。
ただ、今日は天気がいいなぁ、程度だ。
「珍しいね。七瀬って、常に何か考えてそうなのに」
「昔は、そうだったけど。最近は疲れるからしない」
頭を使わないと脳細胞が一分間で数億個、死んでいく。
中学の理科で先生がそう話していた。
それを知った時は恐怖だった。
常に何か考えていなくてはと思ったけれど。
人間の細胞は、脳細胞に限らず体細胞も死ぬのだそうだ。死なないと新しい細胞が生まれない。それが人間の体のサイクルらしい。
(それが、生きるということ)
高校の生物の授業でそう教わって、気持ちが楽になった。
それから、無理に頭を使おうとは思わなくなった。
だけど、一度ついた癖はそう抜けるものでもなく。
いまだに妄想癖は消えない。
「マジでそうだったんだ。期待を裏切らないなぁ、七瀬って」
「期待?」
菜摘は首を傾げた。
和哉が、ぐっと唇を引き結んだ。
「どうしたの?」
和哉が、ごくりと息を飲む仕草をする。
何となく耳が赤く見えなくもない。
「ど、どうもしないけど。えっと、何の話だっけ。最近は、どんな本、読んでんの?」
「そんな話だったっけ?」
「いいから、教えろって」
和哉は一年生の時、後ろの席だった。
明るくて、良く笑う。
やけに話しかけてくる人だった。
だから、菜摘の読書好きもよく知っている。
菜摘の数少ない友達の一人だ。
「最近は倫理学系の本を読んでいるけど。そろそろ新しい分野を開拓したい」
倫理学は、人はどう生きるべきかが書いてある。
生きる前提の理論だ。
菜摘が知りたいのは、その手前の理論だ。
「だったらさ、神話とか、どうよ」
「神話? 日本神話? もう読んだよ」
「じゃぁ、ケルト神話とか北欧神話とか」
「知っているけど、ちゃんと読んだこと、ないかも」
日本神話では、死は穢れだ。
わかりやすく禁忌性を示している。
(臭いものに蓋、的な)
それも一つの答えだ。
菜摘が欲しい答えに、今までの中で一番、近かった。
(どうして穢れで禁忌なのか、それを知りたい)
他の神話を読めば、答えがわかるかもしれない。
菜摘は、和哉を振り返った。
「うん、読んでみる。どっちが面白い?」
「どっちも面白いけど、北欧神話のほうが馴染みやすいよ、きっと」
そう言いながら、和哉がリュックから二冊の本を取り出した。
「実は俺もハマってさ。どっちも貸すよ」
「いいの? 七海はもう読み終わったの?」
「うん、読んだ」
「そっか。じゃぁ、借りる。ありがとう」
ちょっとワクワクしてきた。
菜摘は微笑んで和哉にお礼を言った。
「う、うん……返すの、ゆっくりでいいからな。またオススメできたら、教えるし」
「オススメ、知りたい。また教えて」
「おぅ」
ちょっと照れくさそうに、和哉が頬を掻いた。
菜摘は待ちきれない気持ちで、手にした本の表紙を撫でた。
今日の帰りは、母方の祖母の家に寄った。
祖母の家は通学路の途中にある。
「あらぁ、なっちゃん。いらっしゃい」
祖母がいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「仏壇に、手を合わせるね」
「うん、ありがとう」
お線香に火をつけて、おりんを鳴らす。
祖父は菜摘が幼稚園の頃に亡くなった。
それから祖母はずっと一人暮らしだ。
一緒に暮らしているのは、年老いた柴犬のコロだけだった。
「コロ、元気ないね」
もう二十歳になるコロは、最近では寝ていることが多い。
幼い頃は、よく一緒に散歩に行って遊んでいた。
「最近はお散歩もあんまり行かないの。病気とかは、ないんだけどね」
祖母が息を吐いた。
「老衰ね。おばあちゃんと同じよ」
そう話す祖母の顔は、悲しそうだった。
「コロ……」
菜摘はコロの頭を撫でた。
「くぅ……」
鼻を鳴らすような、か弱い鳴き声が聞こえた。
「なっちゃん、お菓子どうぞ」
「ありがとう、おばあちゃん」
祖母はいつも菜摘が好きなお菓子を準備して待っていて待っていてくれる。
「そういえば、なっちゃんは今も本を読む?」
「うん、色々読むよ」
「おじいちゃんの書庫の片付けをしていたらね、本がたくさん出てきたのよ。好きな本を持っていくといいわ」
「どうして、片付けを始めたの?」
祖母が困ったように眉を下げた。
「おばあちゃんも、もういい歳だもの。いつ、何があってもいいようにね。終活っていうのかしらね」
ドキッと、胸が冷えた。
(おばあちゃんは、自分が死ぬことを考えているんだ)
人間には平等に死が訪れる。
誰でもいつかは死ぬ。
死にたくないと思っても、抗えない。
(それは、仕方がない。永遠はないから。だけど)
コロも祖母もいなくなってほしくない。
菜摘がそう思うのは我儘なのだろうか。
(自分の命だけど、手放さなきゃならない時が来るんだ)
いらないと捨てることを禁忌とする命なのに。
手放したくなくても手放さないといけない時が来る。
とても理不尽に思えた。
菜摘は祖父の書斎に入った。
大学教授をしていた祖父の部屋には、昔から本がたくさんあった。
「日本文学の先生だっけ」
幼稚園生の時は、死というものがわからなかった。
ただ、もう二度と会えないのだということだけがわかった。
可愛がってくれた祖父に会えないのが悲しくて、菜摘は泣いた。
大きくなって、祖父は死ぬには早いと言われる歳だったと知った。
だから、たくさんの人に惜しまれた。
「おじいちゃんも、もっと生きたかったろうな」
死は、人を選ばない。
ある日突然、理不尽に襲い掛かる。
そうかと思えば、じわりじわりと、足音を顰めて寄ってくる。
コロや祖母の背後に迫るように。
そう考えたら、怖くなった。
「芥川龍之介と、志賀直哉にしよう」
二冊の本を手にして、菜摘は祖父の書斎を出た。
菜摘は自室で北欧神話を読んでいた。
登場する神々が皆、個性的だ。
映画を見ているみたいで、面白い。
「死は、怖いものじゃないのか」
北欧神話には、冥界の神ヘルがいる。
死ぬとその世界に移り住む。
「日本神話にも、亡者の国があった。根の国、だっけ」
菜摘は日本の神話の本を捲った。
根の国の神はスサノオと、その娘であるスゼリだ。
「でも、捉え方が違うんだ」
我が子を産んで死んだ伊弉冉は黄泉に行く。
悲しんで会いに行った伊弉諾とは、結局会えない。
「日本のほうが、死を怖いって捉えている気がする」
死は、恐ろしい。
菜摘も漠然とそう思う。
死は、苦しくて痛くて、怖いものだ。
「それは私が日本人だから?」
けれど、北欧神話でも冥界は異端な世界だ。
おどろおどろしい雰囲気がある。
「どこの国の人も、やっぱり怖いのかな」
怖いから、自分から死んではダメ。
それは少し違う気がする。
菜摘は本を閉じで背伸びした。
「知れば知るほど、わからなくなる」
どの本も皆、生きることや生者が中心、あるいは前提に書かれている。
生きている人間が書いているのだから、当然なのだろうけど。
「一個しかないから、失くしちゃいけないのかな」
いずれ失うと決まっているから。
自然と失うその瞬間まで、大事に持っていないといけないのだろうか。
それは少しだけ理解できる。だけど。
「自分の命なのに、どうして好きにしちゃいけないの?」
疑問が、一周回って戻ってきた。
菜摘は眉間を抑えて目を閉じた。
(誰かに相談できたら、違うのにな)
こんな話は、誰にもしたことがない。
話した途端に自殺志願者と勘違いされて心配される。
そんなのは容易に想像がつく。
(別に、死にたいわけじゃない。私は、知りたいだけだ)
命は誰の持ち物で、自由にする権利は誰にあるのか。
他者では決してない。
それはわかる。
ならば、自分しかいない。
(でも仮に、生きるのがとても辛い人がいて、死んだ方が楽になれるとしたら?)
或る国では、末期癌の患者が自分で希望して安楽死を選べるのだそうだ。
助かる見込みのない命の期限を自分で決める。
テレビでドキュメンタリーを観た時は、とても怖いと思った。
同時に、菜摘の欲しかった答えに一番近い気がした。
(簡単に決めて良いとは思わない。だけど、そうあるべきだとも、思う)
矛盾する考えは、共存できるのか対立するのか。
それすらも、よくわからない。
段々、頭が痛くなってきた。
「今日はもう、寝よう」
ベッドに入って、電気を消す。
布団の温もりに包まれて、菜摘は眠りに就いた。
慌ただしい足音がして、目が覚めた。
きっと母だ。
今日は土曜日で休みのはずなのに、朝からバタバタと煩い。
スリッパのパタパタした音が部屋に近付いた。
「菜摘、起きてる?」
「今、起きた」
菜摘は眠い目を擦って起き上がった。
時計は六時半を指していた。
「これから、おばあちゃんの家に行くんだけど、菜摘も来る?」
「今から、どうして?」
「コロが亡くなったらしいの」
「え……」
菜摘は絶句した。
ついこの前、会ったばかりだ。
(でもあの時、かなり弱ってた。おばあちゃんも老衰って言ってた)
だからって、こんなに早く死んでしまうなんて。
菜摘の手が震えた。
「怖かったら、お留守番していて。お母さんだけで行ってくるから」
「お母さんは行くの?」
「おばあちゃんだけじゃ、火葬場に連れて行けないでしょ。お母さんが車を出さないと」
「火葬場」
やけにリアルな言葉だ。
怖さが増した。
「どうする?」
菜摘は強く手を握った。
「一緒に行く」
今行かなかったら、もうコロに会えない。
菜摘は立ち上がって着替えをした。
「準備できたら、リビングに降りてきなさい」
「わかった」
母が部屋を出て行った。
一人きりになった部屋は、やけに広くて物悲しく感じた。
(いつもの自分の部屋なのに)
コロがいないんだと思うだけで、部屋の中が寒々しかった。
車に乗って二十分くらいで、祖母の家に付く。
部屋に入ると、コロが小さな箱の中に寝かされていた。
枕をして、布団をかけて、お腹の辺りにはコロが好きだったおやつが置いてある。
庭で摘んだのであろう花が一緒に添えられていた。
「夜中にもう、息が止まってね。眠るみたいに、すぅとね。きっと苦しくはなかったと思うよ」
祖母が涙を拭きながら教えてくれた。
祖母の目は腫れていた。
きっと、いっぱい泣いたんだと思う。
菜摘の目にも涙が込み上げて、ジワリと滲んだ。
「コロ……」
物心がついた時には、一緒に遊んでいた。
まるで兄弟みたいだった。
(ずっと一緒だと思ってた)
この前、祖母に弱っていると話を聞いた時でさえ、こんな未来は予測しなかった。
それくらい、いるのが当然だった。
菜摘は、コロの頭に触れた。
ひやりとした感触に、指先が震えた。
(こんなに、冷たくなるの?)
肌も心なしか弾力を失っている。
生きていた時のような温もりも、柔らかさもない。
(これが、死ぬということ)
ここにコロはいるのに。
何故だか、空っぽに感じた。
(コロはもう、ここにはいないんだ)
何となく、そう思った。
それでも、目の前のコロはコロで、撫でずにはいられない。
撫でれば撫でるほど、涙が止まらない。
「なっちゃん……」
祖母がハンカチで涙を拭いてくれた。
「葬儀場の予約ね。今日じゃないと、他の日は埋まっているんですって。亡くなってすぐで可哀想だけれど。九時の火葬になるの」
「そんなに、早く」
「早いほうがいいんじゃない? 保冷剤で冷やすのも大変だもの。暑くなってきているから」
五月の連休を過ぎたばかりだが、陽気は夏のようだ。
母の言うことは間違っていない。
そう思うのに。
母の言葉が冷たく聞こえた。
「慣れ親しんだ家を離れるの、辛いだろうけど。そうしましょう」
祖母が涙を拭いた。
「お母さんに迷惑かけるようなこと、コロはきっと望まないわ」
母の言葉に、祖母が苦笑した。
(おばあちゃんは迷惑なんて思わない)
誰よりもコロを可愛がっていたんだから。
一秒だって長く、一緒にいたいはずなのに。
(だけど、辛いのかな)
菜摘は、横たわるコロを見詰めた。
生きていた、元気なコロを知っているからこそ、この姿のコロを見ているのは、辛いのかもしれない。
「お母さん、ご飯まだでしょう。何か作るわ」
「悪いねぇ」
母が立ち上がった。
「菜摘、手伝って」
「わかった」
菜摘は一緒に台所に入った。
「私たちがいると、おばあちゃんも気を遣うから。二人きりにしてあげましょう」
母が、こっそりと菜摘に耳打ちした。
「うん、そうだね」
母は死んだコロより祖母に気を遣っている。
それも当然だと思う。
(私も、もう少し、コロとお別れしたかったな)
気持ちを胸に仕舞って、菜摘は朝食を作り始めた。
週が開けて、また月曜日になった。
「菜摘、どうしたの?」
「え?」
茉奈が菜摘を覗き込んだ。
「本が全然進んでないように見えるけど」
「あぁ、うん」
和哉に借りたケルト神話を読み始めたのに、全然進まない。
「おばあちゃんちの犬がね、死んじゃって」
言葉にするとより現実感があって辛い。
「小さい時から一緒だったから、悲しいなと思って」
「そうだったんだ。辛いね」
茉奈がシュンと肩を落とした。
「何歳だったの?」
「二十歳くらい」
「長生きだったんだね」
「うん……そうだね」
犬として長寿だった。
でも、だからって悲しくないわけじゃない。
「一人で逝っちゃったの?」
「おばあちゃんが、ずっと一緒にいたよ。失くなってからだけど、私とお母さんも会いに行った」
「そっか。じゃぁ、きっと悲しくなかったよ」
茉奈の言葉に、菜摘は驚いた。
「そう……かな?」
「そうだよ。お迎えが来る直前まで、大好きなおばあちゃんがいて。菜摘たちもちゃんと会いに行って。一人じゃなかったじゃない。きっと、嬉しかったよ」
「……そっか」
コロが悲しかったとか、嬉しかったとか、思いもしなかった。
ただ、自分ばかりが悲しくて、思い出を辿っていた。
茉奈みたいに考えなかった。
(コロの気持ち……)
亡くなったコロの気持ちは、永遠にわからない。
本当はどう思っていたかなんて、わからないけど。
茉奈の言葉で、菜摘の胸は少し楽になった。
「だから、落ち込まないで、菜摘!」
茉奈が菜摘の手を握った。
「うん、ありがとう」
茉奈は菜摘を慰めようと、懸命に話してくれている。
だから菜摘は、できる限り笑った。
「こういう時は、気晴らしだよ!」
「気晴らし?」
「隣の駅前にね、新しいカフェができたの。行かない?」
茉奈のお誘いだ。
きっと自分が行きたいだけなんだろうな、と一瞬、頭を過った。
それでも、茉奈は菜摘を慰めてくれている。
(今月、お小遣いがそろそろキツキツなんだけど)
茉奈の目が期待を込めて菜摘の返事を待っている。
「行って、みようかな」
「行こう、行こう! また放課後ね」
茉奈が手を振って自分の席に戻っていった。
(……安いメニュー、あると良いな)
お小遣いが気になって、コロのことが頭の隅に追いやられた。
空虚な気持ちだけが、菜摘の胸に燻ぶっていた。
六月になって、雨の日が増えた。
放課後、菜摘は誰もいない教室で窓の外を眺めていた。
「な、七瀬!」
名前を呼ばれて、菜摘は振り返った。
七海和也が、教室に入ってきた。
「七海、部活は?」
和哉は剣道部だから、雨でも部活は休みにならないはずだ。
「顧問がいなくて、今日は休み」
「そうなんだ」
和哉が菜摘の隣に並んだ。
「話って……」
「そういえばさ! 貸した本、読んだ?」
「うん。北欧神話は読んだ。今、ケルト神話読んでる」
「そっか。いつもよりペース遅くね?」
和哉が意外そうな顔をした。
「返すの、遅くなって、ごめん」
「それは良いけどさ。何かあったのかと思って」
菜摘は、和哉から視線を外した。
「おばあちゃんちの犬が死んじゃって。本を読む気分じゃなくなっちゃって」
和哉が一瞬、息を飲んだ。
「前に話していた、兄弟みたいな犬だよな。それは……辛かったな」
「うん……」
わずかな距離を開ける二人の間に、沈黙が降りる。
静かな雨音が、窓の外に響いた。
「本は、いつでもいいから。ていうか、あの本、七瀬にやる」
「もらうのは、申し訳ないよ。だったら、買うよ」
「俺が、あげたいんだよ。いいだろ」
「何で?」
和哉の善意の意味が解らなくて、菜摘は首を傾げた。
「何で私に本を、あげたいの?」
和哉が唇を噛んで、菜摘を見詰めた。
引き結んでいた唇を開く。
「七瀬に、元気になってほしいから」
「元気ないと、詰まらない?」
「そうじゃない!」
和哉が前のめりになった。
「七瀬のことが、好きだから」
「好き……?」
それは、友達として、という意味だろうか。
わからなくて、菜摘は混乱した。
目の前の和哉は、普段と違ってとても緊張している。
顔が強張っているし、強く拳を握り締めて、何かを決意しているみたいだ。
「好きって、何?」
「付き合ってほしいって意味だよ」
和哉の声が、わずかに震えた。
(付き合うって、恋人?)
そう気付いた途端に、ぶわっと顔に熱が昇った。
「そんな、急に」
「俺はずっと好きだったし、アピールしてきたつもりだけど」
「そう……なの?」
「うん」
頷かれても、と思う。
そんなアピール、全然気が付かなかった。
和哉のことは、仲のいい友達としか思っていなかったのに。
今日に心臓がドキドキして、顔も耳も熱い。
「七瀬が気付いてなかったのも知っていたし、悲しいことがあったばかりだと思うから。返事はすぐじゃなくていいよ。ゆっくり考えてほしい」
自分の気持ちを考える。
菜摘が一番、不得手なことだ。
(七海は私と付き合いたくて告白してくれたんだ)
いつもの菜摘なら、イエスと答える。
相手の顔色を窺って、欲しそうな答えを言う。
そうすることで無駄な諍いを避けられるし、お互いのためだと思うから。
(だけど、今はそれ、正解じゃない気がする)
安易にイエスを言っていいと思えない。
和哉は勇気を出して告白してくれた。
流された返事では、行けない気がする。
(でも、断ったら友達ではいられないのかな)
和哉は、素直な気持ちを一番、言える相手だ。
失いたくない。
(そうだ、聞いてみよう。それで決めよう)
菜摘は俯いたまま口を開いた。
「あの……あのね」
声が上擦った。
いつもみたいに、話せない。
「うん」
和哉が静かに返事した。
さっきより落ち着いた態度だ。
その態度に、菜摘も少しだけ落ち着きを取り戻した。
「私が本を読む理由は、単に読書が好きなわけじゃなくて、答えを、探していて」
「答え?」
「うん……命は自分のものなのに、どうして好きにしちゃいけないんだと思う?」
「え?」
和哉が面食らった顔をしている。
「最初から生きなきゃダメ、死んじゃダメって、何で決まっているんだと思う? どうして、他人に命の価値を押し付けられるんだと思う?」
和哉の眉間に皺が寄り始めた。
菜摘は、マズいと思った。
「私、死にたいわけじゃないんだよ。答えが欲しいだけなの。だから、本をたくさん読んで、答えを探しているの」
和哉の緊張が緩んだ。
「そうだったんだ。ただの読書好きにしては、必死だなとは思ってたけど」
そんな風に思われているとは、知らなかった。
「読んだ本の数を増やしたいだけかと思ってた」
和哉が、ははっと笑った。
その笑顔に、ほっとした。
「難しいこと考えているんだな、七瀬は」
「難しくないよ。子供のころから、不思議に思うだけ」
七歳の頃は、もっと漠然としていた。
言語化できるようになったのは、高校生になった頃だ。
「んー……俺には正直、よくわかんないけどさ」
和哉が考える顔をした。
本気で悩んでくれているみたいだ。
「あの、訳わかんなかったら、別に答えなくても」
「そういうの考えて生きているのって、きっと人間だけなんだろうな」
「え?」
菜摘は顔を上げた。
「だってさ、犬とか猫とか、虫とか。生まれたら本能的に生きるんじゃないの? 自分から死のうとか考えないと思う」
確かに、そうかもしれない。
わざわざ恐怖を伴う死に向かう必要がない。
だったらきっと、必死に生きる。
「命の価値ってさ、色んな人が色々言うんだろうけど。決めるのは自分でいいんじゃないの?」
「自分で……決めて、いいの?」
「決めればいいと思う。俺だったら、人に決められるの、嫌だな」
「そう、なんだ」
和哉の話は、思っても見なかった内容だった。
ずっと外側に答えを求めてきたのに。
答えは自分の内側にあるのかもしれない。
「万人に共通の答えって、ないのかな」
恐る恐る聞いた。
それは菜摘がこれまで本を読んできて、何となく辿り着きそうだった答えの一つだ。
「どうなんだろうなぁ。なさそうな気もするけど。やっぱり探さないと、わからないよな」
「答えがないから、色んな人が色んな事を言うのかな」
「そうかも。絶対の正解ってないのかもな」
和哉が楽しそうに笑う。
「こんな話、楽しくないよね?」
「なんで? 俺は七瀬と話すの、楽しいよ」
「暗い話題だよ」
「別に暗くないだろ。俺も興味ある」
「興味あるの?」
「うん。これからは、その答えを探すために読書しようかな。七瀬みたいに」
視界が、開けた気がした。
答えがわかった訳じゃないのに、すっきりした気分だ。
「私……これからも七海とこんな風に話したり、一緒に本読んだりしたい」
和哉が目を見開いた。
「えっと、それって、オッケイってこと?」
菜摘は俯きがちに頷いた。
顔が熱くて、上げられない。
「本当は、恋愛の好きか、わからないけど。一緒にいたいのは、本当だから。それで良かったら、なんだけど」
こんな曖昧な返事をしたのは、初めてだ。
初めて、自分の気持ちらしい気持ちを他人に話した。
バクバクと、心臓の音が耳元で鳴る。
(言っちゃった。きっと七海はこんな返事を期待してないのに)
相手が嫌がる言葉を口にするのは、とても怖い。
「いいよ。一緒にいながら俺のこと、ゆっくり好きになってよ」
「いい、の?」
菜摘は、呆気にとられた。
欲しい答えを言わなかったのに、和哉は嬉しそうだ。
それが意外だった。
「その代わり、付き合っている間に七瀬が俺のこと、恋愛的に好きになってくれるのを期待するよ」
和哉が手を差し出した。
「今日から、とりあえず恋人、なろうよ」
「うん。よ、よろしく」
菜摘はドキドキしながら、指先でそっと和哉の手を握った。
戸惑いはしたけど、和哉の手を握ることに迷いはなかった。
(七海と、もっと話してみたい)
内側に溜め込んでいた疑問を、初めて吐き出した。
和哉は馬鹿にすることなく、菜摘の疑問に真摯に答えてくれた。
握った大きな手の温もりは菜摘の知らない温かさで。
ドキドキするのに安心できる。
(自分の気持ち、素直に打ち明けても、七海は嫌がらない)
ちゃんと聞いて、受け止めてくれる。
自分の気持ちを話してもいいのだと思える。
こんな安心感は、生まれて初めてだった。
「あ、雨、止んだな」
和哉が窓の外を眺めた。
空が晴れて、葉っぱに残った雨粒をキラキラと照らしていた。
「一緒に、帰ろう」
「うん」
和哉が菜摘の手を握り直す。
その手を握り返して、大きな温もりを確かめた。
菜摘は自分の部屋で本を読んでいた。
祖父の書斎から新たに本をもらった。
コロがいなくなって祖母は一人になったので、ちょくちょく様子を見に寄っている。
その度に、祖父の書斎の本をもらって来ていた。
今日は森鴎外短編集を読んでいた。
その中の「高瀬舟」という話を読み終えて、本を閉じた。
「……こんなの、答えなんか出ないよ」
病気の兄が苦しまずに済むようにと兄が望んだとおりに殺し、咎人になった弟。
大事な兄を殺すのはどんな気持ちだったかと考えると、ゾッとする。
しかもその行為は優しさの発露だ。
何て恐ろしい話だろうと思った。
「やっぱり、答えはないのかな」
命は自分のものだと、菜摘は思う。
周囲を悲しませるような結末は、嫌だとも思う。
けれど、そこに強制が入るのは、違う気がする。
「人の答えを知って、自分の答えを見付けるのかな」
答えなんか、一生かかっても見付けられない気がする。
だけど、納得のいく答えに近いものは見付かるかもしれない。
(今は、一緒に考えてくれる人がいるから)
一人では見つけられない答えも、二人なら探せるかもしれない。
そう思うだけで、胸の曇りは晴れていく。
菜摘はもう一度、本を開いて次の話を読み始めた。
曰く、人は考える葦である。
だから、常に考える。
考え続ける。
人とは何なのか。私とは、誰なのか。
命とは、本当に大切なのか。
私は今、私の持ち物である命を大切にしたいと思っている。
それが途中経過の、私の答えだ。



