婚約破棄された出戻り令嬢の、しあわせな結婚について

 思いもよらず、ぽつりとこぼれてしまった問いに、レティシアは自分で自分に驚いた。言うつもりなどまるでなかったのに。訊いたところで何になるというわけでもないというのに。そんなこと嫌というほど分かっているのに――。

 答えを聞きたくなくて誤魔化そうとするけれど、いい言葉がひとつも浮かばない。こんな時に役立たずだ、と、己の頭を罵りたくなる。

「まあ、急かされてはいるな。そろそろ身を固めろ、って」

 そんな動揺になど、無論、彼が気付く由もない。「そう」と短く返すだけで、今のレティシアには精一杯だった。赤い薔薇に向けた視線を、とても逸らせそうにない。イヴァンを見つめることも、歓声に彩られた行列を眺めることも。

 ――政略結婚だろうが、相手を蔑ろにして良い理由にはならねえよ。

 そうきっぱりと言い放つような男だ。彼と結婚をする令嬢はきっと、とても大事にされるのだろう。愛される結婚の方が幸せ、と考えているのだから。あの新郎新婦のように、仲睦まじく笑い合うような、幸福に満ちた夫婦になるに違いない。いずれ産まれてくる子どもと共に――。

 もし、いつか彼とまた会うことができたとしたら。その時にはもう、彼の隣には見知らぬ誰かが立っていることだろう。イヴァンの端正な容貌や、明るい性格を考えれば、妻になりたいと望む者は多いはずだ。帝国内だけでなく、周辺諸国にも、たくさん。

 いずれ彼のことを、忘れられる時が来るのだろうか。忘れられなくとも、大切な思い出のひとつとして、胸の奥にしまえる時が。彼の結婚を笑顔で喜べるくらい。彼の妻に羨望を抱かずに済むくらい――。

「もう酔ったのか?」
「まさか。薔薇があまりにも綺麗だから、つい見惚れてしまっていただけよ」

 そっと顔をあげ、でも、まだイヴァンの顔を見ることはできず、レティシアは人垣の方を眺め遣る。胸の奥が、じくじくと焦がれるように痛んでたまらない。しかしその疼きは、薔薇酒を呷っても、甘酸っぱい果物を摘んでも、少しも鎮まりそうにはなくて。

 だからただ、華々しい行列をぼんやりと見ていると、不意に人集りが割れ、その細い隙間から、誰かが慌ただしく抜け出てきた。その人影は人目も憚らずに、駆け足でずんずんと近付いてくる。杖をついた老嬢を避け、遊び回る子どもたちを避け、日傘を差した令嬢たちを避け、どっしりと荷物を積んだ馬車を避け。やがてふたりのもとまで辿り着いた人影は、どんっ、と勢いよく両手をテーブルに叩きつけると、刃の如く尖った目でイヴァンを睨め付けた。

「やっと、見つけ、ました、よっ!」

 息も切れ切れに叫ばれたそれは、周囲で交わされる言葉とは全く違う、ゼハディア帝国の母語だった。赤褐色のやわらかな髪の毛が、まるで機嫌の悪い猫のように、怒りで逆立っているように見えるのは気の所為だろうか。

「貴方って人は、本当にっ……!」
「まあ落ち着け、ケレム。お前も一杯どうだ? 甘い酒は好物だっただろ」
「飲みません! どう考えても飲むわけにはいかないでしょう! 貴方とは違うんですから!」

 明らかに憤慨しているケレムを、けたけたと笑いながら平然と躱せるのは、主人であるイヴァンくらいなものだろう。去年も似たような光景を見たな、と思いながら、その懐かしさに、レティシアはふっと目を細めて笑う。

 そんな彼女に気付いたケレムが、慌てたように姿勢を正して、軽く会釈をする。場所が場所なだけに、あまり恭しくするわけにはいかないと、彼なりの判断だったのだろう。いつもであれば、まるで手本通りの律儀さで、深々と頭を下げるような真面目な男だ。イヴァンに対して砕けているのは、あくまでふたりが“幼馴染”という間柄故である。

「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「いいえ、大丈夫よ。……お久しぶりね、デミル卿。相変わらず大変なようだけれど、お元気そうで何よりだわ」

 誰のせいで、とは敢えて口にしなかったけれど、当の本人にはしっかりと伝わったようで、イヴァンはひょいと片眉を跳ね上げた。

「心外だな。そんなに迷惑をかけてるつもりはないぞ」

 どうやら、少しは迷惑をかけているつもりはあるらしい。

「ひとりで勝手な行動はしないようにと、あれだけ口酸っぱく言っていたのに、私が厩へ行っている間にこっそり宿を抜け出した人が、いったい何をぬけぬけと……」

 眉根を寄せ、呆れをたっぷりと詰め込んだ溜息を盛大に吐き出すケレムであるが、もちろんこの一連の遣り取りが、彼等ふたりにとっての“お決まりの日常”であることは分かっている。何だかんだ言いつつも、ケレムはイヴァンに甘いのだ。手のかかる子ほどなんとやら、というものなのだろう。

「ところで」

 そこでひとつ間を置くと、ケレムは不意に表情を引き締め、辺りへと素早く視線を巡らせた。瞬きする間もない、ほんの僅かな――そして、そうと悟られない――仕草は、流石は大陸最強を誇る帝国騎士団の一員と言うべきか。どんなにイヴァンと軽口を交わしていても、彼は此処へ来てから一度も、周囲への警戒を怠ってはいない。

「連絡はどうされますか」

 短な問いと共に、ケレムの涼やかな緑色の瞳が、木杯を持ち上げるイヴァンへと向けられる。その凛々しい表情は、幼馴染としてではなく、ひとりの従者としてのそれだった。

 イヴァンはすぐに言葉を返すことはせず、気怠げに頬杖をついたまま、薔薇酒をひとくち呷る。思案に耽る真剣な面持ちは、しかしすぐにふわりと解け、彼はオリーブをひとつ指先に摘むと、徐に背もたれへと寄りかかった。

「連絡はしなくて良い」
「ですが……さすがに挨拶をしないのは失礼なのでは」

 挨拶――。そこで漸く、レティシアはふたりの会話を理解する。連絡の否かというのは、“ゼハディア帝国の皇太子が来訪している”という報せを王城へ――正確に言うならば、国王の耳へ――入れるかどうかというものだろう。本来であれば、事前に使者を送って通達をするのが常だ。

 けれど、今回はあくまで“偶然近くを通りかかったから立ち寄っただけ”であり、国交を目的とした公式の来訪でないからか、どうやら所定の手続きはしなかったらしい。

 でも――。グラスを持ち上げ、とろりとした赤い液体を見つめながら、レティシアは思う。でも、そうなら一体どうやって、彼等は此処まで来たのだろう、と。検問所で引っかかっていれば、すぐさま王城へ報せが届けられたはずだ。大帝国の――エルミラード王国よりも遥かに強大な力を持つ国の――皇太子が来ているとなれば、もてなさないわけにはいかないのだから。これからも“良き隣国”として、付き合いを続けてゆく為に。

 まあ、今更それを考えたところで、もうどうしようもないことなのだけれど。

「此処へ来るのは、一年ぶりでしょう? 折角ですもの、顔を見せに伺ってみたらどうかしら。聖女様も、今は王城にいるのだし」

 苦笑をこぼしながらケレムに助け舟を出すと、イヴァンはあからさまに顔を顰め、咀嚼していたオリーブを、くっきりと隆起した喉仏を上下させて飲み込んだ。

「一年ぶりに来たからこそ、面倒事は御免だ。それに、そもそも――」

 そこではたと、イヴァンは言葉をとめた。まるで何かに気付いたかのように。どう見ても不自然なその途切れは、しかし店員を呼び止めた彼自身の声によって、有耶無耶に掻き消される。一体何だったのだろう、と、ケレムへそっと視線を向けてみるけれど、彼はやれやれと肩を竦めるだけで、言葉の続きを追おうとはしなかった。

「兎に角、この話はもう終いだ」

 ケレム用の椅子とカトラリー一式、それから薔薇酒を――なみなみに注いでくれという注文つきで――頼むと、イヴァンは木杯を手に取り、中身を一気に呷った。

「後々どうなっても知りませんからね……」

 運ばれてきた椅子に腰掛けつつ溜息をこぼすケレムに、イヴァンはくつくつと喉を鳴らして笑う。その顔にはもう、“皇太子”としての硬さはなく、つい先程までの陽気なそれに変わっていた。

「ご機嫌取りに来たわけじゃねえんだ。どうでもいい」