「――イヴァン殿下は、そのような方ではございません」
けれど、そう告げた声は、ひどく落ち着いていた。落ち着いた、それでも自分のものではないかのような、低く硬い、明確な拒絶を孕んだ刺々しい声。
父に向かってそんな声を向けることは、今までに一度たりともなかった。アルバートとの婚約が決まり、一日の殆どを部屋に閉じ込められ、眠っている以外の時間は全て勉学――お妃教育――に費やされていた、あの代わり映えのしない、全てが白黒の世界に見えた日々でさえ。口答えをしたことも、睨みつけたことも、一度としてなかった。
それなのに――。胸の内で小さく自嘲をこぼしながら、レティシアは喉から勢いよく迫り上がってくる言葉を止めることなく、勝手に動く唇に全てを任せ、そのままひとつの残らず紡ぎ出す。軽蔑と、心の奥底から沸き立つ怒りまでもを、そこにしっかりと込めて。
「私のことを貶すのは構いません。ですが、イヴァン殿下を単なる道具のように仰るのは、あまりに無礼です。殿下はとても誠実で、誰よりも真っ直ぐなお方です。常に民のことを想われ、その責務に真摯に向き合っておられます。そんな殿下を、まるで女性ひとりに籠絡されるような、軽薄な人間であるかのように仰るのは、看過出来ません」
言葉は淀みなく、するすると滑り出てきた。次から次へと。そうする度に、眼前に立つレイモンドの顔が、どんどんと気色ばんでゆくのが分かる。それでも、レティシアにやめるつもりはなかった。口を閉ざし、或いは謝罪を述べるつもりも、全く。間違っていることを言っているつもりは、微塵もないのだから。
でも、そうすることによって何が起こるのかも、レティシアには分かっていた。
「その生意気な口の利き方は何だっ!」
レイモンドがそう叫んだ瞬間、視界が一瞬だけ明滅した。頬に激しい痛みが襲った――と頭が理解し、身体が感じたのはそのすぐ後で、現実との僅かな乖離をぼんやりと認識しながら、レティシアは衝撃のまま冷たい床に倒れ込む。耳の奥で、きんと甲高い音が鳴っている。レイモンドがまだ何かを呻いているのだろうかと思ったけれど、それが自分の耳鳴りだと気付くまでに、少しだけ時間が要った。
身体を起こす気力もなく、レティシアは半ば呆然とその場に伏したまま、僅かに乱れた呼吸を繰り返す。辛うじて起こしていた顔からもふいに力が抜け、熱を帯びた頬が、ひんやりとした床に触れる。マチルダに打たれた時と同じ様に、また赤く腫れてしまうだろうか。頭の片隅でそう思うものの、そんなことはもう、正直どうでも良かった。頬の痛みなんかよりももっと、胸の奥深い場所でじくじくと疼いているものの方がよほど耐え難く、それがどうしようもなく苦しくて苦しくてたまらなかったから。
それにもう、イヴァンに会うこともないのだ。どんなに赤くなろうと腫れようと、だからどうだって構わない――。
「お前をここまで育ててやったのは、この俺だぞっ! そうだというのに、恩を仇で返すような真似をしおって! 許されると思っているのかっ!」
まるで頭を鷲掴みにするかのように髪の毛を握られ、そのまま無理矢理上体を引き起こされる。刹那、頭皮に鋭い痛みが走り、レティシアは思わず顔を顰めそうになるものの、奥歯を強く噛み締めることでどうにか堪えた。表情を少しでも変えれば、再び頬を打たれるであろうことは、想像するまでもなかったから。
腰を屈めたレイモンドの、憤怒でひどく歪んだ顔が鼻先に迫る。色白の肌が、赤黒く染まっている。頬も額も耳も、何もかも。目は血走り、憎悪を孕んだ視線でレティシアを睨め付ける彼は、父親というより、まるで悪魔にでも取り憑かれた獣のようだった。
唾を撒き散らしながら、レイモンドはまだ何かを喚いている。そんなだからアルバートに捨てられたのだ。もっと忠実な駒として働け。お前の価値はそれだけしかないのだから。所詮はあの女の娘に過ぎぬのか――。箍の外れた口から、怒りに突き出された言葉たちが、絶え間なく溢れ出している。それらを、しかしレティシアは、まるで他人事のように聞いていた。聞いているというより、聞き流している、と言った方が正しいのかもしれない。分厚い水の膜に隔たれた罵声は輪郭が分からないほどくぐもり、棘の生えた言葉はどれもこれもぼんやりとしている。
「俺がどれだけお前の為に金を費やしたと思っているんだっ!」
なにを馬鹿なことを言っているのだろう、と、今や真っ赤に――まるで茹でた蛸のようだ――染まったレイモンドの、忿怒に支配された形相を間近に眺めながら、レティシアは胸の内で静かに嘲笑する。“娘の為”などと言っているけれど。実際は、己の私腹を肥やす為に過ぎなかったことくらい、分かっている。考えるまでもない。そもそも彼は、それを隠しもしていなかったのだから。恐らくは今は亡き母でさえ、娘がどんな末路を辿るのか悟っていたかもしれない。
ずっとずっと、父の為の人形だった。彼の目的を果たす為の、ただの便利な駒。だから引き取られ、今まで育てられてきた。完璧な人形であるように。口答えのしない、忠実な、家にとって父にとって有益な富をもたらしてくれる駒であり続けるように。
――君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。
鷲掴みされていた髪の毛を乱暴に放たれ、ごとりと勢いよく床へ倒れ込みながら、レティシアはふと、昨夜見たイヴァンの真っ直ぐな双眸を思い出す。眩いほど鮮やかに蘇るそれは、まるで救いのようだった。壊れそうになる心をやさしく包み込んでくれる真綿のような。或いは、あの金色と同じ太陽のような。
――誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を。
父の為に生きてきた。家の為に生きてきた。幼い頃からそう教え込まれ、それが当たり前だと思い込んでいた。けれど実際は違うのだと、そう教えてくれたのは、イヴァンだった。もし彼に出会わなければ。彼と友情を育まなければ。彼に淡い恋心を抱かなければ。今も、そしてこれから先も、誰かの用意した鳥籠の中で生き続けていたのだろうと思う。一見完璧に見える、けれども欲望と虚栄と欺瞞に穢れた箱庭を、唯一の安寧の場所だと信じて。
馬鹿なのは、レイモンドやマチルダではなく、自分の方だったのだ――。ゆらりと身体を起こしながら、レティシアは小さく自嘲をこぼす。いつまでもいつまでも操り人形のままで。そうあることが正しいのだと疑いもせずに。自分の為ではなく、誰かの為に生きることこそが役目なのだと、そう己に言い聞かせて。
本当に馬鹿だったな、と、思う。思えば思うほど、全てが嫌になってくる。このままレイモンドの言いなりで居続けることも。アルバートやミリーに見下されることも。宮廷に跋扈する貴族たちに、“捨てられた令嬢”として軽蔑と嘲笑を向けられることも。そして――こんな国で生き続けてゆくことも。
何もかもかなぐり捨ててしまいたかった。これまで築き上げてきた、“完璧な侯爵令嬢”という姿も、“完璧な婚約者”という姿も、“完璧な娘”という姿も。全て打ち砕いて、ばらばらに――木っ端微塵になるまで――壊してしまいたかった。
――君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を。
壊してしまいたい、ではない――。顔にかかる乱れた髪の毛を片手で払い退け、レティシアはゆっくりとひとつ瞬く。レイモンドはまだ、けたたましく何事かを喚き散らかしているけれど。その声は、しかし彼女の耳には少しも届いていなかった。壊してしまいたい、ではない。――今すぐ壊すべきなのだ、と。そう決意したレティシアの耳には、もう。
「……私は十分、お父様の為に頑張りましたわ」
ぽつりと、か細い声でそう呟くと、レティシアは父のかんばせを真っ直ぐに見つめ、そうして微笑んだ。怒りでも哀しみでも苦しみでもなく、諦念と、それから純粋な開放感と共に。
「ですがもう、私はお父様の望む“人形”で居続けることは、出来ません」
かっと目を見開いたレイモンドが拳を振り下ろすより先に、レティシアはなりふり構わずドレスの裾を翻し、その場から駆け出した。頬も、倒れた時に打ったのだろう膝も、痛むけれど。しかし身体は、不思議なほど軽かった。まるで羽でも生えているのではないかと思うほど。でも、少しでも気を緩めれば、足元から崩折れてしまいそうで、レティシアは唇を強く噛み締める。背中に罵声がぶつかり、続けざまに名前を吐き捨てられるのが聞こえたが、足を止めることはしない。このまま遠くへ――邸の外でも王都の外でもなく、もっとずっと遠いところへ行ってしまいたかった。何処までも、何処までも。――もし叶うなら、愛しいあの人がいるところへ。
しかし、開け放しにされたままの扉を超えようとした、その瞬間。レティシアの行く手を阻むように、すっと、眼前に黒い影が立ちはだかった。驚きに目を瞠らせ、レティシアは慌てて足を緩める。けれど間に合うはずもなく、彼女はそのまま大きな影にぶつかった。ぼすん――と、まるで抱き留められるようにして。
けれど、そう告げた声は、ひどく落ち着いていた。落ち着いた、それでも自分のものではないかのような、低く硬い、明確な拒絶を孕んだ刺々しい声。
父に向かってそんな声を向けることは、今までに一度たりともなかった。アルバートとの婚約が決まり、一日の殆どを部屋に閉じ込められ、眠っている以外の時間は全て勉学――お妃教育――に費やされていた、あの代わり映えのしない、全てが白黒の世界に見えた日々でさえ。口答えをしたことも、睨みつけたことも、一度としてなかった。
それなのに――。胸の内で小さく自嘲をこぼしながら、レティシアは喉から勢いよく迫り上がってくる言葉を止めることなく、勝手に動く唇に全てを任せ、そのままひとつの残らず紡ぎ出す。軽蔑と、心の奥底から沸き立つ怒りまでもを、そこにしっかりと込めて。
「私のことを貶すのは構いません。ですが、イヴァン殿下を単なる道具のように仰るのは、あまりに無礼です。殿下はとても誠実で、誰よりも真っ直ぐなお方です。常に民のことを想われ、その責務に真摯に向き合っておられます。そんな殿下を、まるで女性ひとりに籠絡されるような、軽薄な人間であるかのように仰るのは、看過出来ません」
言葉は淀みなく、するすると滑り出てきた。次から次へと。そうする度に、眼前に立つレイモンドの顔が、どんどんと気色ばんでゆくのが分かる。それでも、レティシアにやめるつもりはなかった。口を閉ざし、或いは謝罪を述べるつもりも、全く。間違っていることを言っているつもりは、微塵もないのだから。
でも、そうすることによって何が起こるのかも、レティシアには分かっていた。
「その生意気な口の利き方は何だっ!」
レイモンドがそう叫んだ瞬間、視界が一瞬だけ明滅した。頬に激しい痛みが襲った――と頭が理解し、身体が感じたのはそのすぐ後で、現実との僅かな乖離をぼんやりと認識しながら、レティシアは衝撃のまま冷たい床に倒れ込む。耳の奥で、きんと甲高い音が鳴っている。レイモンドがまだ何かを呻いているのだろうかと思ったけれど、それが自分の耳鳴りだと気付くまでに、少しだけ時間が要った。
身体を起こす気力もなく、レティシアは半ば呆然とその場に伏したまま、僅かに乱れた呼吸を繰り返す。辛うじて起こしていた顔からもふいに力が抜け、熱を帯びた頬が、ひんやりとした床に触れる。マチルダに打たれた時と同じ様に、また赤く腫れてしまうだろうか。頭の片隅でそう思うものの、そんなことはもう、正直どうでも良かった。頬の痛みなんかよりももっと、胸の奥深い場所でじくじくと疼いているものの方がよほど耐え難く、それがどうしようもなく苦しくて苦しくてたまらなかったから。
それにもう、イヴァンに会うこともないのだ。どんなに赤くなろうと腫れようと、だからどうだって構わない――。
「お前をここまで育ててやったのは、この俺だぞっ! そうだというのに、恩を仇で返すような真似をしおって! 許されると思っているのかっ!」
まるで頭を鷲掴みにするかのように髪の毛を握られ、そのまま無理矢理上体を引き起こされる。刹那、頭皮に鋭い痛みが走り、レティシアは思わず顔を顰めそうになるものの、奥歯を強く噛み締めることでどうにか堪えた。表情を少しでも変えれば、再び頬を打たれるであろうことは、想像するまでもなかったから。
腰を屈めたレイモンドの、憤怒でひどく歪んだ顔が鼻先に迫る。色白の肌が、赤黒く染まっている。頬も額も耳も、何もかも。目は血走り、憎悪を孕んだ視線でレティシアを睨め付ける彼は、父親というより、まるで悪魔にでも取り憑かれた獣のようだった。
唾を撒き散らしながら、レイモンドはまだ何かを喚いている。そんなだからアルバートに捨てられたのだ。もっと忠実な駒として働け。お前の価値はそれだけしかないのだから。所詮はあの女の娘に過ぎぬのか――。箍の外れた口から、怒りに突き出された言葉たちが、絶え間なく溢れ出している。それらを、しかしレティシアは、まるで他人事のように聞いていた。聞いているというより、聞き流している、と言った方が正しいのかもしれない。分厚い水の膜に隔たれた罵声は輪郭が分からないほどくぐもり、棘の生えた言葉はどれもこれもぼんやりとしている。
「俺がどれだけお前の為に金を費やしたと思っているんだっ!」
なにを馬鹿なことを言っているのだろう、と、今や真っ赤に――まるで茹でた蛸のようだ――染まったレイモンドの、忿怒に支配された形相を間近に眺めながら、レティシアは胸の内で静かに嘲笑する。“娘の為”などと言っているけれど。実際は、己の私腹を肥やす為に過ぎなかったことくらい、分かっている。考えるまでもない。そもそも彼は、それを隠しもしていなかったのだから。恐らくは今は亡き母でさえ、娘がどんな末路を辿るのか悟っていたかもしれない。
ずっとずっと、父の為の人形だった。彼の目的を果たす為の、ただの便利な駒。だから引き取られ、今まで育てられてきた。完璧な人形であるように。口答えのしない、忠実な、家にとって父にとって有益な富をもたらしてくれる駒であり続けるように。
――君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。
鷲掴みされていた髪の毛を乱暴に放たれ、ごとりと勢いよく床へ倒れ込みながら、レティシアはふと、昨夜見たイヴァンの真っ直ぐな双眸を思い出す。眩いほど鮮やかに蘇るそれは、まるで救いのようだった。壊れそうになる心をやさしく包み込んでくれる真綿のような。或いは、あの金色と同じ太陽のような。
――誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を。
父の為に生きてきた。家の為に生きてきた。幼い頃からそう教え込まれ、それが当たり前だと思い込んでいた。けれど実際は違うのだと、そう教えてくれたのは、イヴァンだった。もし彼に出会わなければ。彼と友情を育まなければ。彼に淡い恋心を抱かなければ。今も、そしてこれから先も、誰かの用意した鳥籠の中で生き続けていたのだろうと思う。一見完璧に見える、けれども欲望と虚栄と欺瞞に穢れた箱庭を、唯一の安寧の場所だと信じて。
馬鹿なのは、レイモンドやマチルダではなく、自分の方だったのだ――。ゆらりと身体を起こしながら、レティシアは小さく自嘲をこぼす。いつまでもいつまでも操り人形のままで。そうあることが正しいのだと疑いもせずに。自分の為ではなく、誰かの為に生きることこそが役目なのだと、そう己に言い聞かせて。
本当に馬鹿だったな、と、思う。思えば思うほど、全てが嫌になってくる。このままレイモンドの言いなりで居続けることも。アルバートやミリーに見下されることも。宮廷に跋扈する貴族たちに、“捨てられた令嬢”として軽蔑と嘲笑を向けられることも。そして――こんな国で生き続けてゆくことも。
何もかもかなぐり捨ててしまいたかった。これまで築き上げてきた、“完璧な侯爵令嬢”という姿も、“完璧な婚約者”という姿も、“完璧な娘”という姿も。全て打ち砕いて、ばらばらに――木っ端微塵になるまで――壊してしまいたかった。
――君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を。
壊してしまいたい、ではない――。顔にかかる乱れた髪の毛を片手で払い退け、レティシアはゆっくりとひとつ瞬く。レイモンドはまだ、けたたましく何事かを喚き散らかしているけれど。その声は、しかし彼女の耳には少しも届いていなかった。壊してしまいたい、ではない。――今すぐ壊すべきなのだ、と。そう決意したレティシアの耳には、もう。
「……私は十分、お父様の為に頑張りましたわ」
ぽつりと、か細い声でそう呟くと、レティシアは父のかんばせを真っ直ぐに見つめ、そうして微笑んだ。怒りでも哀しみでも苦しみでもなく、諦念と、それから純粋な開放感と共に。
「ですがもう、私はお父様の望む“人形”で居続けることは、出来ません」
かっと目を見開いたレイモンドが拳を振り下ろすより先に、レティシアはなりふり構わずドレスの裾を翻し、その場から駆け出した。頬も、倒れた時に打ったのだろう膝も、痛むけれど。しかし身体は、不思議なほど軽かった。まるで羽でも生えているのではないかと思うほど。でも、少しでも気を緩めれば、足元から崩折れてしまいそうで、レティシアは唇を強く噛み締める。背中に罵声がぶつかり、続けざまに名前を吐き捨てられるのが聞こえたが、足を止めることはしない。このまま遠くへ――邸の外でも王都の外でもなく、もっとずっと遠いところへ行ってしまいたかった。何処までも、何処までも。――もし叶うなら、愛しいあの人がいるところへ。
しかし、開け放しにされたままの扉を超えようとした、その瞬間。レティシアの行く手を阻むように、すっと、眼前に黒い影が立ちはだかった。驚きに目を瞠らせ、レティシアは慌てて足を緩める。けれど間に合うはずもなく、彼女はそのまま大きな影にぶつかった。ぼすん――と、まるで抱き留められるようにして。



