ある程度予期していたこととはいえ――。じわりと僅かに目を見開かせながら、レティシアは呆然とする。ある程度予期していたこととはいえ、でもまさか本当にそんなことを言ってくるとは。
いざその言葉を突きつけられると、あの愛らしいぷっくりとした唇から本当にそれが紡がれたのかと、つい疑ってしまいたくなる。現実に起こったことなのか、と。鼓膜に突き刺さる薔薇の棘のような何かは本物なのか、と、心の何処かでは信じられなくて。
信じられないというより――。真っ直ぐに向けられる青い瞳を凝視し、レティシアは思わずこくりと唾を呑む。信じられないというより、多分受け入れられないのだ。そういう展開になってしまったことを、どうしても。ある意味でそれは、自己防衛のようなものだったのかもしれない。本能による、それ以上踏み込んではいけない、理解してはいけないという、警鐘。
とはいえ、彼女の行動を非難出来る立場にないことくらい、レティシア自身も分かっていた。アルバートの婚約者であった頃から、イヴァンとは親しい間柄だったのだ。王太子であるアルバート以上に。もちろん、互いに弁えを持った上での付き合いだったけれど。婚約者がいるという立場を、彼はきちんと優先し、万が一にもそこに傷がつかないよう配慮してくれていた。ダンスの時も、十八歳の誕生日の時も、いつだって。
彼と良き友人で居続けられたのは、ただそれだけが全てではない、とレティシアは思う。何故ならアルバートの無関心もまた、ふたりの関係を保つ要素のひとつでもあったからだ。彼は婚約者であったレティシアに、少しの興味もなければ、距離を縮め、心を通わそうとする意思もまるでなかった。たとえミリーが現れなくとも、アルバートのその関心の無さは変わらなかったであろうし、いつかは愛人を作りもしたかもしれない。
けれども、ミリーは違う。彼女はアルバートに、心から愛されている。いっそ心酔していると言っても過言ではないほど。彼女を誰よりも大事にしているし、他の女性など目に入らないほど一途に、深く心を寄せてもいる。
そんな彼が、ミリーとイヴァンの関係を良く思うはずがないだろう。たとえ彼女にとってイヴァンは、“良き友人”、或いは王国の未来を見据えた“良き隣人”でしかなかったのだとしても。それでもアルバートは、ミリーの傍付きに、護衛以外の男性を全て排除するほど独占欲が強いのだ。その上相手は、遥か格上の――衆目の中でその差を見せつけられもした――人間だ。ふたりの接近を、間違いなく許すはずがない。
しかし、
「畏れながら、それは私よりも、アルバート殿下にご相談なさった方がよろしいかと」
レティシアにはそう答える他になかった。相談をしたところで――そしてそれが愛するミリーの頼みであろうと――、アルバートが受け入れるはずがないと分かっていても。婚約者である彼を通さずに、勝手にミリーとイヴァンの仲を取り持てば、その報いを受けるのは他ならぬレティシアだ。これ以上アルバートとの間で問題事を起こすのは御免だった。家の為にも、父の為にも、そして何より自分自身の為にも。
けれど、そんなレティシアの考えを察しているのかいないのか。ミリーはふっと目を細めると、僅かに腰を曲げ、下から覗き込むようにしてレティシアを見上げた。唇に、ぞくりとするほど不敵な笑みを浮かべて。
「レティシア様ったら、もしかしてわくしとイヴァン殿下が仲良くなるのが嫌なのですか?」
「それは……」
思いもよらぬ発言につい言い淀んでしまい、レティシアはしまった、と内心苦虫を噛み潰す。案の定ミリーの瞳に、獲物を捕らえた時の狩人のような、妖しい光がきらりと迸る。
「レティシア様が心配なさるのも無理はありませんわ。そのつもりはもちろんないのですけれど……またわたくしのせいで、アルバート様の時のように、レティシア様から心が離れられては、お辛いですものね」
右頬に手を添え、心底憂うような顔をしていながら、その実全く悪びれた色のない口調に、レティシアは身体のそこここから得体の知れない、気持ちの悪い何かが込み上げてくるのを感じて、微かに顔を顰めた。馬鹿にされている、というのは、否応にもひしひしと伝わってくる。心配しているふうを装いながら、心の中では見下しているのが、ありありと。隠すつもりがないのだろう、と、レティシアは胸の内で重々しい溜息を吐き出しながら思う。ただもしもの時を考え、そういうふうに装っているだけで、レティシアには気付かれようと構わない――寧ろ気付かれたいと、彼女は思っているに違いない。
一体何をしたというのだろう。そもそも、婚約を破棄する以前から、彼女とは特に交流らしい交流を持ったことはなかった。儀式の時に顔を合わせるくらいで、お茶の席を共にしたこともなければ、個人的な会話をしたこともない。それなのにどうして、ミリーはこんなにも敵対心を剥き出しにしてくるのだろうか。アルバートに想いを寄せているから、というのなら、まだ分かるのだけれど。そうであれば確かに、愛し合ってもいないくせに“婚約者”という立場にあるレティシアを邪魔に思うのも無理はない。
けれど、それなら何故、イヴァンまで――。
「あら?」
ひとり思考を巡らせていると、ふと何かに気付いたように、ミリーの視線がレティシアの双眸を離れた。それはするすると肌を滑るように下へ落ちてゆき、開けた胸元で輝くネックレス――正しく言うならば、その真中に嵌め込まれた黄色の宝石――へと辿り着く。その瞬間、彼女は片手で口元を覆い、悲しそうに、或いは心配そうに――けれどその奥に、悪意に満ちた煌めきを確かに滲ませて、弾かれたようにレティシアの目へと視線を戻した。
「レティシア様ったら、いけませんわ。まだお戻しになられていないものがあったのですね。しかもそれは、ゼハディア帝国でのみ採れる貴石……。このままでは“泥棒”になってしまいます。わたくし、レティシア様がそんなことになるのは、心が痛くて嫌ですわ」
そう言いながら、彼女はレティシアの胸元へ向かって、躊躇いなく手を伸ばす。まるで血に濡れたような、真っ赤な爪先。丁寧に手入れをされているはずのそれが、けれどまるで魔女の指のように見え、寒気が背筋を走り抜ける。ぞわりと身体が粟立ち、レティシアは思わず息を呑む。
どうして――。頭の中で何度も何度も問いを繰り返すけれど、答えはひとつも見つからない。アルバートはもう、私の婚約者ではない。貴女の婚約者で、そして彼は貴女のことを心から愛していて。一体何が物足りないというのだろう。アルバートが傍にいれば、それで十分なはずだろうに。なのに、どうしてまた――。
ぱんっ、と乾いた音が聞こえ、レティシアは忽ち我に返った。呆然としたまま忙しなく目を瞬かせ、視界に映るひとつひとつにぼんやりと意識を向ける。大きく見開かれた二重の目、その中心で揺らぐ蒼穹のような瞳、半開きになった艷やかな唇、風にゆるく靡くラベンダー色の長い髪の毛。
ネックレスへと伸ばされるミリーの手を無意識に――しかも勢い良く、加減もせずに――払い除けてしまったのだ、と漸く頭が理解するのと、ミリーのふっくらとした唇の端が、愉悦を孕んで微かに持ち上がり――更には何処かから唐突に足音が聞こえてきたのは、殆ど同時だった。
「きゃっ……!」
悲鳴を上げて、ミリーがどさりと床の上に倒れ込む。そのなんとも演技じみた仕草に、レティシアは唖然とする。そうする以外に、どうしようもなかった。いくら衝動のまま払い除けたとはいえ、華奢な彼女が態勢を崩すほどの力はなかったはずだ。
けれど、足音が近くでぴたりと止んだ瞬間、レティシアは彼女の狙いを嫌でも理解することとなる。
「――レティシア?」
あまりにも聞き覚えのありすぎる声が鼓膜に触れた刹那、レティシアは足元に広がる奈落に引き摺り込まれるような気がした。真っ暗な、どこまでも黒々とした、底のない深い絶望。それに呑まれながら、レティシアはああ――と自嘲する。だから悲鳴を上げ、床に倒れ、わざわざ“か弱い聖女”を装ったのか、と。理解すればするほど、己の運のなさと迂闊さに、レティシアは胸の内でただ項垂れるしかなかった。
「イヴァン殿下っ……!」
ミリーが性急に立ち上がり、まるで化物から逃げるような切羽詰まった様子で、イヴァンのもとへと駆け寄る。レティシアは成す術もなく、それをひとり眺めているしかなかった。
「助けて下さい、イヴァン殿下……! レティシア様が、わたくしに暴力を……!」
イヴァンの腕に腕を絡め、まるで縋り付くようにべったりと身を寄せるミリーに、レティシアは呆れを通り越して、場違いにも感心してしまう。よくもまあ、そんなにもころころと表情や態度を変えられるものだ、と。青い瞳に薄っすらと涙を滲ませている様なんて、さながら舞台女優のようだ、とも。
そういえば彼女は、教会に来る前――聖女になる前――は何処で何をしていたのだろう。思えば、詳しい話を耳にしたことは一度もない。
「レティシアが、君に?」
「ええ、そうですわ……。ですからわたくし、怖くて怖くてっ……!」
ミリーを見下ろすイヴァンの訝しげな視線にも負けず、彼女はイヴァンの腕を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。そんなミリーを振り払おうとしないのは、果たして彼のやさしさからだろうか。それとも――。
「本当なのか?」
金色の瞳に見据えられ、レティシアは言いようのない胸のざわつきを堪えるように、唇を噛み締めた。彼の目には、いつものあたたかさも朗らかさもなければ、怒りも冷たさもない。何もないのだ。感情というものが、まるで感じられない。淡々とした、無機質な視線。
だからこそ、身体が震えそうになる。今まで向けられたことのない眼差しが、恐怖や焦燥を掻き立てるせいで。どうして良いのか分からなくて、唇が開けない。何を言えば良いのだろう。どう言い訳をすれば良いのだろう。――弁明したところで、彼はそれを受け入れてくれるだろうか。
考えれば考えるほど、嫌に鮮明なアルバートの顔が脳裏を過ぎり、レティシアの首をきつく締め上げる。息苦しい、と思った。苦しくて苦しくてたまらない、と。
「ミリー様が、私のネックレスに触れようとなさったので……思わずその手を、振り払ってしまったのです」
他にどうしようもなく、結局レティシアはか細い声で、訥々と語った。信じてもらえようが、もらえまいが。黙っている方が、却って怪しさを助長させてしまうだろうから、と。しかし、絞り出した声があまりにも揺らぎ、弱々しいせいで、説得力は雀の涙ほど乏しかった。これではミリーの言っていることの方が正しい、と、自ら証明しているように聞こえてしまう。
「酷い……酷いですわ、レティシア様! それではまるで、わたくしが泥棒みたいではありませんか!」
人を“泥棒”呼ばわりしたのは貴女の方でしょう、と飛び出しかけた言葉を、レティシアは既の所で呑み込む。余計なことを言えば言うほど、窮地へ追い詰められるのは彼女ではなく、自分の方だ。どうせミリーは、イヴァンに泣きついた後も、同じ様にアルバートにも声高に訴えるのだろうから。それが分かっているからこそ、レティシアは口を噤むしかなかった。それが正しい選択かは、あやしいところだけれど。
どうしてこんなことになってしまったのだろう――。慰めのように頬を撫でる夜風の、ひんやりとした心地を感じながら、レティシアはそっと、僅かに目を伏せる。ほんの数刻前までは、あんなにも心ときめくひとときを過ごしていたというのに。イヴァンの手をとり、彼に腰を抱かれて。初めてふたりでするダンスを楽しみながら、彼のぬくもりにうっとりと心を溶かしていたというのに。
その彼は今、違う女に腕を抱かれ、ただじっとレティシアを見つめている。感情のない瞳で、ただ静かに。その眼差しが、怖い。全てが崩れてしまいそうで。なかったことになってしまいそうで。
アルバートにどんな目を向けられようと、気にしたことはなかったというのに。でもそれは、彼もまた同じであることを知っていたからだ。心の通わぬ婚約者同士。どうでもいい存在、と、アルバートがそう思っていたことを、ひしひしと感じてきていたから。だから何を思われようと、どんな目で見られようと、感情を乱されることはなかった。ミリーと口付けを交わしていた、あの瞬間を目の当たりにしてもなお――。
けれど、イヴァンは違う。何もかも。彼の穏やかな眼差しを、そこに滲むやさしさを知っているからこそ、淡々とした眼差しで見据えられることに、耐えられない。苦しい、悲しい、辛い――きりもなく感情が溢れ出しては、何がなんだか分からなくなるほどぐちゃぐちゃに混ざり合って、身体の内側を傷だらけにしながら暴れ回る。
彼もまた、アルバートのようになるのだろうか――。むくりと擡げた諦めが、渾然一体となった感情たちを呑み込んで、どんどんと膨れ上がってゆく。イヴァンもアルバートのように、ミリーのもとへ行ってしまうのだろうか。友人へ対する、軽蔑と嘲笑を引き連れて。
「――何が、いけないのでしょう」
気付けば、声が漏れていた。ひどく冷えた、突き放すような乾ききった声。まるで他の誰かが勝手に口を動かしているようだ、と不思議な感覚に囚われながら、けれどそれに抗うことなく、レティシアは続ける。ふっと、小さな微笑みを浮かべて。いつの間にか、強張っていた身体から力が抜けていた。落胆とも諦念ともつかないその軽さが、ひどく淋しい、と思った。
「大切な物を護ろうとして、何がいけないのでしょうか」
いざその言葉を突きつけられると、あの愛らしいぷっくりとした唇から本当にそれが紡がれたのかと、つい疑ってしまいたくなる。現実に起こったことなのか、と。鼓膜に突き刺さる薔薇の棘のような何かは本物なのか、と、心の何処かでは信じられなくて。
信じられないというより――。真っ直ぐに向けられる青い瞳を凝視し、レティシアは思わずこくりと唾を呑む。信じられないというより、多分受け入れられないのだ。そういう展開になってしまったことを、どうしても。ある意味でそれは、自己防衛のようなものだったのかもしれない。本能による、それ以上踏み込んではいけない、理解してはいけないという、警鐘。
とはいえ、彼女の行動を非難出来る立場にないことくらい、レティシア自身も分かっていた。アルバートの婚約者であった頃から、イヴァンとは親しい間柄だったのだ。王太子であるアルバート以上に。もちろん、互いに弁えを持った上での付き合いだったけれど。婚約者がいるという立場を、彼はきちんと優先し、万が一にもそこに傷がつかないよう配慮してくれていた。ダンスの時も、十八歳の誕生日の時も、いつだって。
彼と良き友人で居続けられたのは、ただそれだけが全てではない、とレティシアは思う。何故ならアルバートの無関心もまた、ふたりの関係を保つ要素のひとつでもあったからだ。彼は婚約者であったレティシアに、少しの興味もなければ、距離を縮め、心を通わそうとする意思もまるでなかった。たとえミリーが現れなくとも、アルバートのその関心の無さは変わらなかったであろうし、いつかは愛人を作りもしたかもしれない。
けれども、ミリーは違う。彼女はアルバートに、心から愛されている。いっそ心酔していると言っても過言ではないほど。彼女を誰よりも大事にしているし、他の女性など目に入らないほど一途に、深く心を寄せてもいる。
そんな彼が、ミリーとイヴァンの関係を良く思うはずがないだろう。たとえ彼女にとってイヴァンは、“良き友人”、或いは王国の未来を見据えた“良き隣人”でしかなかったのだとしても。それでもアルバートは、ミリーの傍付きに、護衛以外の男性を全て排除するほど独占欲が強いのだ。その上相手は、遥か格上の――衆目の中でその差を見せつけられもした――人間だ。ふたりの接近を、間違いなく許すはずがない。
しかし、
「畏れながら、それは私よりも、アルバート殿下にご相談なさった方がよろしいかと」
レティシアにはそう答える他になかった。相談をしたところで――そしてそれが愛するミリーの頼みであろうと――、アルバートが受け入れるはずがないと分かっていても。婚約者である彼を通さずに、勝手にミリーとイヴァンの仲を取り持てば、その報いを受けるのは他ならぬレティシアだ。これ以上アルバートとの間で問題事を起こすのは御免だった。家の為にも、父の為にも、そして何より自分自身の為にも。
けれど、そんなレティシアの考えを察しているのかいないのか。ミリーはふっと目を細めると、僅かに腰を曲げ、下から覗き込むようにしてレティシアを見上げた。唇に、ぞくりとするほど不敵な笑みを浮かべて。
「レティシア様ったら、もしかしてわくしとイヴァン殿下が仲良くなるのが嫌なのですか?」
「それは……」
思いもよらぬ発言につい言い淀んでしまい、レティシアはしまった、と内心苦虫を噛み潰す。案の定ミリーの瞳に、獲物を捕らえた時の狩人のような、妖しい光がきらりと迸る。
「レティシア様が心配なさるのも無理はありませんわ。そのつもりはもちろんないのですけれど……またわたくしのせいで、アルバート様の時のように、レティシア様から心が離れられては、お辛いですものね」
右頬に手を添え、心底憂うような顔をしていながら、その実全く悪びれた色のない口調に、レティシアは身体のそこここから得体の知れない、気持ちの悪い何かが込み上げてくるのを感じて、微かに顔を顰めた。馬鹿にされている、というのは、否応にもひしひしと伝わってくる。心配しているふうを装いながら、心の中では見下しているのが、ありありと。隠すつもりがないのだろう、と、レティシアは胸の内で重々しい溜息を吐き出しながら思う。ただもしもの時を考え、そういうふうに装っているだけで、レティシアには気付かれようと構わない――寧ろ気付かれたいと、彼女は思っているに違いない。
一体何をしたというのだろう。そもそも、婚約を破棄する以前から、彼女とは特に交流らしい交流を持ったことはなかった。儀式の時に顔を合わせるくらいで、お茶の席を共にしたこともなければ、個人的な会話をしたこともない。それなのにどうして、ミリーはこんなにも敵対心を剥き出しにしてくるのだろうか。アルバートに想いを寄せているから、というのなら、まだ分かるのだけれど。そうであれば確かに、愛し合ってもいないくせに“婚約者”という立場にあるレティシアを邪魔に思うのも無理はない。
けれど、それなら何故、イヴァンまで――。
「あら?」
ひとり思考を巡らせていると、ふと何かに気付いたように、ミリーの視線がレティシアの双眸を離れた。それはするすると肌を滑るように下へ落ちてゆき、開けた胸元で輝くネックレス――正しく言うならば、その真中に嵌め込まれた黄色の宝石――へと辿り着く。その瞬間、彼女は片手で口元を覆い、悲しそうに、或いは心配そうに――けれどその奥に、悪意に満ちた煌めきを確かに滲ませて、弾かれたようにレティシアの目へと視線を戻した。
「レティシア様ったら、いけませんわ。まだお戻しになられていないものがあったのですね。しかもそれは、ゼハディア帝国でのみ採れる貴石……。このままでは“泥棒”になってしまいます。わたくし、レティシア様がそんなことになるのは、心が痛くて嫌ですわ」
そう言いながら、彼女はレティシアの胸元へ向かって、躊躇いなく手を伸ばす。まるで血に濡れたような、真っ赤な爪先。丁寧に手入れをされているはずのそれが、けれどまるで魔女の指のように見え、寒気が背筋を走り抜ける。ぞわりと身体が粟立ち、レティシアは思わず息を呑む。
どうして――。頭の中で何度も何度も問いを繰り返すけれど、答えはひとつも見つからない。アルバートはもう、私の婚約者ではない。貴女の婚約者で、そして彼は貴女のことを心から愛していて。一体何が物足りないというのだろう。アルバートが傍にいれば、それで十分なはずだろうに。なのに、どうしてまた――。
ぱんっ、と乾いた音が聞こえ、レティシアは忽ち我に返った。呆然としたまま忙しなく目を瞬かせ、視界に映るひとつひとつにぼんやりと意識を向ける。大きく見開かれた二重の目、その中心で揺らぐ蒼穹のような瞳、半開きになった艷やかな唇、風にゆるく靡くラベンダー色の長い髪の毛。
ネックレスへと伸ばされるミリーの手を無意識に――しかも勢い良く、加減もせずに――払い除けてしまったのだ、と漸く頭が理解するのと、ミリーのふっくらとした唇の端が、愉悦を孕んで微かに持ち上がり――更には何処かから唐突に足音が聞こえてきたのは、殆ど同時だった。
「きゃっ……!」
悲鳴を上げて、ミリーがどさりと床の上に倒れ込む。そのなんとも演技じみた仕草に、レティシアは唖然とする。そうする以外に、どうしようもなかった。いくら衝動のまま払い除けたとはいえ、華奢な彼女が態勢を崩すほどの力はなかったはずだ。
けれど、足音が近くでぴたりと止んだ瞬間、レティシアは彼女の狙いを嫌でも理解することとなる。
「――レティシア?」
あまりにも聞き覚えのありすぎる声が鼓膜に触れた刹那、レティシアは足元に広がる奈落に引き摺り込まれるような気がした。真っ暗な、どこまでも黒々とした、底のない深い絶望。それに呑まれながら、レティシアはああ――と自嘲する。だから悲鳴を上げ、床に倒れ、わざわざ“か弱い聖女”を装ったのか、と。理解すればするほど、己の運のなさと迂闊さに、レティシアは胸の内でただ項垂れるしかなかった。
「イヴァン殿下っ……!」
ミリーが性急に立ち上がり、まるで化物から逃げるような切羽詰まった様子で、イヴァンのもとへと駆け寄る。レティシアは成す術もなく、それをひとり眺めているしかなかった。
「助けて下さい、イヴァン殿下……! レティシア様が、わたくしに暴力を……!」
イヴァンの腕に腕を絡め、まるで縋り付くようにべったりと身を寄せるミリーに、レティシアは呆れを通り越して、場違いにも感心してしまう。よくもまあ、そんなにもころころと表情や態度を変えられるものだ、と。青い瞳に薄っすらと涙を滲ませている様なんて、さながら舞台女優のようだ、とも。
そういえば彼女は、教会に来る前――聖女になる前――は何処で何をしていたのだろう。思えば、詳しい話を耳にしたことは一度もない。
「レティシアが、君に?」
「ええ、そうですわ……。ですからわたくし、怖くて怖くてっ……!」
ミリーを見下ろすイヴァンの訝しげな視線にも負けず、彼女はイヴァンの腕を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。そんなミリーを振り払おうとしないのは、果たして彼のやさしさからだろうか。それとも――。
「本当なのか?」
金色の瞳に見据えられ、レティシアは言いようのない胸のざわつきを堪えるように、唇を噛み締めた。彼の目には、いつものあたたかさも朗らかさもなければ、怒りも冷たさもない。何もないのだ。感情というものが、まるで感じられない。淡々とした、無機質な視線。
だからこそ、身体が震えそうになる。今まで向けられたことのない眼差しが、恐怖や焦燥を掻き立てるせいで。どうして良いのか分からなくて、唇が開けない。何を言えば良いのだろう。どう言い訳をすれば良いのだろう。――弁明したところで、彼はそれを受け入れてくれるだろうか。
考えれば考えるほど、嫌に鮮明なアルバートの顔が脳裏を過ぎり、レティシアの首をきつく締め上げる。息苦しい、と思った。苦しくて苦しくてたまらない、と。
「ミリー様が、私のネックレスに触れようとなさったので……思わずその手を、振り払ってしまったのです」
他にどうしようもなく、結局レティシアはか細い声で、訥々と語った。信じてもらえようが、もらえまいが。黙っている方が、却って怪しさを助長させてしまうだろうから、と。しかし、絞り出した声があまりにも揺らぎ、弱々しいせいで、説得力は雀の涙ほど乏しかった。これではミリーの言っていることの方が正しい、と、自ら証明しているように聞こえてしまう。
「酷い……酷いですわ、レティシア様! それではまるで、わたくしが泥棒みたいではありませんか!」
人を“泥棒”呼ばわりしたのは貴女の方でしょう、と飛び出しかけた言葉を、レティシアは既の所で呑み込む。余計なことを言えば言うほど、窮地へ追い詰められるのは彼女ではなく、自分の方だ。どうせミリーは、イヴァンに泣きついた後も、同じ様にアルバートにも声高に訴えるのだろうから。それが分かっているからこそ、レティシアは口を噤むしかなかった。それが正しい選択かは、あやしいところだけれど。
どうしてこんなことになってしまったのだろう――。慰めのように頬を撫でる夜風の、ひんやりとした心地を感じながら、レティシアはそっと、僅かに目を伏せる。ほんの数刻前までは、あんなにも心ときめくひとときを過ごしていたというのに。イヴァンの手をとり、彼に腰を抱かれて。初めてふたりでするダンスを楽しみながら、彼のぬくもりにうっとりと心を溶かしていたというのに。
その彼は今、違う女に腕を抱かれ、ただじっとレティシアを見つめている。感情のない瞳で、ただ静かに。その眼差しが、怖い。全てが崩れてしまいそうで。なかったことになってしまいそうで。
アルバートにどんな目を向けられようと、気にしたことはなかったというのに。でもそれは、彼もまた同じであることを知っていたからだ。心の通わぬ婚約者同士。どうでもいい存在、と、アルバートがそう思っていたことを、ひしひしと感じてきていたから。だから何を思われようと、どんな目で見られようと、感情を乱されることはなかった。ミリーと口付けを交わしていた、あの瞬間を目の当たりにしてもなお――。
けれど、イヴァンは違う。何もかも。彼の穏やかな眼差しを、そこに滲むやさしさを知っているからこそ、淡々とした眼差しで見据えられることに、耐えられない。苦しい、悲しい、辛い――きりもなく感情が溢れ出しては、何がなんだか分からなくなるほどぐちゃぐちゃに混ざり合って、身体の内側を傷だらけにしながら暴れ回る。
彼もまた、アルバートのようになるのだろうか――。むくりと擡げた諦めが、渾然一体となった感情たちを呑み込んで、どんどんと膨れ上がってゆく。イヴァンもアルバートのように、ミリーのもとへ行ってしまうのだろうか。友人へ対する、軽蔑と嘲笑を引き連れて。
「――何が、いけないのでしょう」
気付けば、声が漏れていた。ひどく冷えた、突き放すような乾ききった声。まるで他の誰かが勝手に口を動かしているようだ、と不思議な感覚に囚われながら、けれどそれに抗うことなく、レティシアは続ける。ふっと、小さな微笑みを浮かべて。いつの間にか、強張っていた身体から力が抜けていた。落胆とも諦念ともつかないその軽さが、ひどく淋しい、と思った。
「大切な物を護ろうとして、何がいけないのでしょうか」



