婚約破棄された出戻り令嬢の、しあわせな結婚について

 そういえばイヴァンとダンスを踊ったことはなかった、と、上目に向けられる眼差しを受け止めながら、レティシアは思う。夜会で一緒になることはこれまで幾度もあったけれど、アルバートがいる手前か、彼がダンスに誘ってくることは一度もなかった。

 いつも違う女性の手をとり、どんな曲でも相手を上手にエスコートしながら優雅に踊る。そんな彼の、逞しい腕に抱かれる女性たちを遠巻きに眺める度、羨ましい、と、嫉妬のような憧憬のような感情を抱いてしまうことは、なかったわけではない。けれど、婚約者が居る身として、ダンスに興じる彼の姿をいつまでも目で追うわけにはいかなかった。そうすればするだけ、余計な胸の痛みに苛まれることになるから。

 でも、今は――。唇の触れた手の甲に意識を寄せながら、レティシアは静かに微笑む。でも今は、もう何も関係がない。婚約者の存在も、“未来の王太子妃”という肩書も、ありはしないのだから。

 脳裏に浮かびそうになる父の顔を無理矢理追い払い、レティシアは恭しく握られた手に、そっと力をこめる。そうして、ゆっくりとひとつ瞬き、イヴァンの穏やかな金色の瞳を真っ直ぐに見つめながら唇を開いた。

「ええ、喜んで」

 そう告げると、イヴァンはいつものように――レティシアのよく知る――屈託のない、晴れ晴れとした気持ちの良い笑顔を湛えて、レティシアの身体をやさしくも力強く抱き寄せた。

 唇をきつく噛み締めたミリーの顔が、ほんの一瞬、視界の端を掠める。アルバートの胸に縋り付いていながら、けれど彼女の視線はずっとイヴァンへ向けられているような気がして、レティシアは胸の内でひそりと溜息をつく。その目は屈辱に歪んでいるというより、妬心に燃え滾るそれだった。状況をひっくり返されたことを妬んでいるのだろうか、それとも――。

「ダンスを踊るのは初めてだな」

 指揮者が慌ててタクトを振り、王国中から選りすぐりの奏者だけを集めた宮廷楽団が、その律動に合わせて各々の楽器に命を吹き込む。艷やかなハープのグリッサンドと、クラリネットやユーフォニウムのやわらかな音色から始まる、宮廷舞踏会では必ず最初に演奏されるいつもの楽曲ではなく、チェロとフルートの独奏から幕を開ける、“皇帝”の名を冠するに相応しい華やかなワルツ。恐らくは指揮者の独断だろうその選曲に、イヴァンの眉が僅かに上がり、レティシアはふっと吐息のような笑いをこぼした。

「そうね。貴方はいつも、他の女性と踊っていたもの」
「君だってそうだろ」

 アルバートと大して体格の差があるわけではないはずだけれど。どうしてこんなにも、彼の腕には安心感があるのだろう。そのぬくもりに、不思議なほど、強張っていた四肢から力が抜けてゆく。身体ごと全て委ねてしまいそうになるような、ふわふわとした、心地良く甘やかな感覚。真綿のようなのに、けれど芯の強い頼もしさもあって。

 今までこの腕に抱かれた女性たちもきっと、同じような心地に浸ったのかもしれないと思うと、心臓の裏側がちくりと痛んだ。過去なんて、今更どうにもできないと分かっていても。それでも、脳裏にちらつく幾つかの顔――この瞬間も大広間の何処かに居るだろう何人かの令嬢たち――が、まるで針のように醜い感情を刺激してやまなかった。

「そういえば」

 フルートとヴァイオリンの軽やかな音色が、大広間中に弾む。四方八方から、様々な思惑や嫉妬を孕んだ視線が向けられるけれど、敢えて気付かぬふりをして、掌から伝わるぬくもりに、或いは逞しい腕の重みに、うっとりと酔い痴れる。心が蕩けそうだ、と思った。心だけでなく、思考も身体も何もかも全てが、とろりと形を崩してしまいそうだ、と。

「それ、漸くつけてくれたんだな」

 そう言いながら、イヴァンの視線がちらりと胸元に落ちる。“それ”が何を指しているのかなど考えるまでもなく、レティシアはくすりと小さく笑って、同じ様に胸元を――そこに飾られた黄色の宝石を見下ろした。

 十八歳の誕生日。晴れて成人――一人前の淑女――の仲間入りを果たすその大事な記念の年に、イヴァンが祝いの品として贈ってくれたのが、この宝石だった。ゼハディア帝国でのみ採れるそれは希少故に高価で、更に皇族へ献上されるほどの一級品ともなれば、目眩がしそうになるほどの額になる。そんな貴石を、彼は惜しげもなく贈ってくれた。大きな原石ごと。敢えてアクセサリーに加工しなかったのは、婚約者がいることを考慮しての、イヴァンなりの気遣いだったのだろうと思う。

 その意を汲んで――もちろんアルバートや周りの目にも配慮して――、ネックレスに誂えてもらった後も、舞踏会や晩餐会でそれを身に着けることはしなかった。太陽のような美しさをしていながら、仕立ててからずっと陽の光を浴びることなく、ジュエリーボックスの中で静かに眠っていた宝物。

 でも、もうそうする必要はないのだ。婚約者のいない独り身の今なら、幾らでも身に着けていられる。一番のお気に入りとして。――たとえどんなに離れていても、彼の存在を感じられるものとして。

「てっきり忘れられてんのかと思った」
「まさか。貴方から贈られたものを、忘れたりなんかしないわ」
「へえ」

 口ではそう言いつつも、何故つけることが出来なかったのかくらい、もちろん彼も分かっているだろう。そこに思い至らないのなら、そもそも原石で贈ってくることなどしないはずだ。

「初め見た時、凄く驚いたわ。まさか箱の中から原石が出てくるなんて、思わなかったんだもの」
「ケレムに呆れられたな。そのまま送るんですか、って」
「渋い顔をしている彼が想像できるわ」

 どちらからともな視線を絡ませ、くすくすと笑い合う。

「本当は、君に一番似合うアクセサリーに仕立て上げたかったんだがな」
「……その想いだけで十分よ。ありがとう」

 そっと笑みを深めると、腰に回された腕に身体を強く引き寄せられた。程よく薫る香の匂いが、ふわりと鼻先を擽る。ぴとりと触れた胸板から伝わる逞しさと熱に、思わず心臓が跳ね上がり、レティシアは小さく息を呑んだ。とくん、とくんと速まる鼓動が、うるさく耳の奥に響く。あまりにも近すぎる――今までに経験したことのない――距離のせいで、頭の芯が甘い痺れに呑まれてゆくような気がする。

 まずいな、と思った。このままではイヴァンに知られてしまいそうだ、と。心臓の音も、胸のざわつきも、何もかも。ふと気を緩めれば、すぐにでも顔が真っ赤になってしまいそうで。違う意味での緊張が、さざ波のように身体の奥から静かに広がってゆく。

 それだけは避けたくて、レティシアは必死に平静を繕いながら、ステップを踏む足に神経を集中させる。けれど悲しいかな、そうすればするほど、却って彼の香りやぬくもりを、存在そのものを、否応なく意識させられるばかりで。

「少し近くないかしら」
「そうか? こんなもんだろ」
「貴方の国ではこれが普通なの?」
「ゼハディアの踊りはもっと密着するな」

 そう、と返そうとした唇から、しかし吐息だけがこぼれる。溜息のような、或いは、切なさの吐露のような。もっと――と想像しそうになる頭を、無理矢理現実に引き戻すけれど、一度擡げたものは、そう簡単に消えてはくれなくて。

 急いで何か言わなければ、と思うのに、うまく言葉が出てこなくて、焦りばかりが込み上げてくる。気付かれたくない。気付かれてしまったら――。

「まあ、したことはないがな」

 けろりとした口調でそう言い、イヴァンはくつくつと喉を鳴らして笑った。そんな彼を、レティシアは躊躇いがちに見上げる。戯けたように綻んだ、太陽のように美しい金の瞳。どこか楽しげな輝きを滲ませたその目に、レティシアはつい見惚れてしまう。

 どうしてこの人は、こんなにも――。深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら、レティシアは胸の内で苦笑をこぼす。どうしてこの人は、こんなにも私の心を、いとも容易く捕らえてしまうのだろう。だから離れたくても、離れられなくなってしまう。何度も、何度も。いつだって。

「もう終盤か」

 心做しか寂しさを含んだような声音に、レティシアは奥歯をきつく噛み締める。やめて、と言いたかった。そんな声で言わないで、と。まるで貴方も同じ気持ちでいるような錯覚を抱いてしまうから、とも。

 夢のような時間にも、いつかは必ず終わりがくるものだ。寧ろ、だからこそ“夢のような時間”なのかもしれない。魔法なんてないのだから、時間は永遠ではない。どんなに望んでも。どんなに焦がれても。

「貴方と踊りたい人がたくさんいるみたいよ」

 少しでも気を紛らわせようと、レティシアは辺りを取り囲む群衆へ視線を移す。曲の最後を彩るトランペットの音色が一際高らかに鳴り響き、幾つもの楽器の旋律が、まるで大きな波のようにひとつに溶け合い、華やかに終奏へと向かってゆく。

「ダンスはあまり好きではない」
「今踊っているのに?」
「それは――」

 ティンパニの一打と共に、大広間を満たしていた音がぴたりとやんだ。遂に訪れてしまった終わりに、レティシアは内心物悲しさと名残惜しさを抱きながら、けれどそれをおくびに出すことなく、努めて普通を装いながら、握っていたイヴァンの手を静かに離す。――が、何故か既の所で、その手を強く握り締められた。まるでそうすることを許さない、とでも言うかのように。

 突然のことに驚いて、どきりと心臓を高鳴らせながらイヴァンへ目を向けると、そこには、ひどく真剣な、それでいて穏やかなぬくもりに満ちたやさしい瞳があった。曲の終わりとともに一度は離された腕が、再び腰に回される。どうして、というレティシアの疑問ごと、すっぽりと包み込むように。

「相手が君だからだ。君となら、何度でも踊りたいと思う。時間が許す限り、いつまでも」