御者の手を借りながらステップを降りた途端、まるで待ってましたとばかりに、周囲から不躾な視線が向けられた。嘲笑や侮蔑や、決して快いとはいえないそれらは、一様に鋭い針のようで。潜めた声でこそこそと、扇の裏に隠した鮮やかな唇が何事かを囁いているけれど、無論それも陰口の類だろうことは想像に難くない。
入口へと続く階段の前に立ち、レティシアは深く吸い込んだ息を、細くゆっくりと吐き出す。恐怖や焦りといったものはないけれど、緊張していないかといえば、それは嘘になる。なるべく目立たず、静かに――と思っていても、クロエが言っていた通り、周りが必ずしもそうさせてくれるとは限らない。他人の気持ちや考えを操ることなどできないのだから。無遠慮に突き刺してくる好奇の目は、だから我慢しなければならない。たとえそれらが、どんなに辛辣なものであっても。
表玄関から入るのは、いったいいつぶりのことだろう。そう思いながら、レティシアはドレスの裾を僅かに持ち上げ、一歩一歩丁寧に、悠然とした足取りで階段を登ってゆく。なるべく背筋は凛と伸ばすことを意識して、張り詰めた気持ちがうっかり表へ出てしまわないよう努めながら。いつも以上に、頭のてっぺんから足先、爪の先端に至るまで、しっかりと意識を行き届かせて。
怯むことはない。臆することはない。今日の主役はアルバートとミリーであって、“元婚約者”とはいえ、自分はただの脇役に過ぎないのだから。他の参加者たちと同じ様に、彼等の新たな門出を素直に祝福すれば良いだけだ。そうすればきっと、何事もなく閉幕を迎えることが出来るだろう。――そう、信じたい。
階段を登りきると贅の尽くされた豪奢な扉と、広々としたエントランスに出迎えられた。艷やかな大理石の上に敷き詰められた真紅の絨毯、初代国王の胸像、柱の一本一本を彩る精緻なレリーフ。幾人かの顔見知りの近衛兵と擦れ違ったが、案の定というべきか、誰もレティシアを一瞥しようとすらしなかった。けれど、却ってその方が気楽でいられる、と、レティシアは詰めかけた人々の合間を縫って進みながら思う。へんに気を遣われるよりかは、よほどましだ。
開きっぱなしにされた重厚な木製の扉を潜って大広間へ足を踏み入れると、そこには既に、多くの参列者たちが集っていた。政を担う重役たち、騎士団長や近衛隊長、枢機卿、様々な爵位の夫妻や子息子女。知らない顔もあるが、殆どが見覚えのあるそれだった。言葉を交わしたこともあれば、お茶や食事を共にしたこともあるような人々。けれど誰ひとりとして、レティシアに挨拶をする者はいなかった。遠巻きにちらちらと様子を伺われていることからして、恐らく気付いてはいるのだろうけれど。結局のところ彼等の反応は、外の階段で出くわした人々のそれと大差なかった。
婚約を破棄された出戻り女になど、誰も声をかけたくはないだろう。“婚約者”という立場がなくなった以上、無理して親交を深めておくだけの価値は、もう微塵もないのだから。故に彼等の態度は、至極当然のことといえばそれまでだった。
もうそろそろ入場だろうか。天井を埋め尽くすフレスコ画をぼんやりと見つめながら、レティシアは嘗て追われていたスケジュールを思い出す。大広間も、そこを華やかに飾り立てる絵画やシャンデリアや金の装飾も、はたまた美しく磨き上げられた大理石の床や、アーチ型の大きな窓に至るまで、何もかもがとても懐かしいと思うのに、しかし不思議なほど感慨はなかった。以前であればこの時間はこういうことをしていた、常に誰か傍にいて、そして入場は必ずふたりないし複数人だった、という、些末な記憶のひとつひとつすら、少しも。
小さなボリュームで流れていたピアノの音色が溶けるように消え、それを合図に、大広間に響き渡っていたざわめきが、水を打ったように静まり返る。レティシアはゆっくりと瞬き、それから対岸の壁に設けられた大階段へと目を向けた。惜しみなく金のあしらわれた、一層派手やかなその階段は王族専用で、象嵌で造られた王家の紋章が輝く重厚な扉の奥には、王城の深部へと繋がる通路が続いていることを知っている。そこを通れるのは王族かそれに連なる者、或いはごく限られた関係者だけだ。
嘗ては“アルバートの婚約者”としてそこを通り、あの扉からこの大広間に通っていたのだけれど。扉の両脇に控えた近衛兵が恭しい所作で取手を掴むのを眺めながら、レティシアは何度目になるか分からない苦笑をこぼす。それはもう二度とあることのない、頭の中にだけ取り残された――なんの役にも立たない――記憶に過ぎない。
入場を告げる宰相の高らかな声とともに扉が大きく開かれ、正装をしたアルバートがゆっくりと姿を現した。傍らには、寄り添うようにしてミリーが立っている。
そんな彼女の華奢な身体を包むドレスを見て、レティシアは呆気に取られ、僅かに目を見開いた。それは“国庫入り”として返還したドレスの中でも、式典用にと誂えた上等なもので、華美なドレスを好まないレティシアが唯一持っていた、宝石類を惜しげもなく縫い付けた目も眩むような輝かしい一着だった。それだけでなく、彼女の両耳や胸元、豊かな淡い紫色の髪を彩るアクセサリーの数々まで、何もかもが、レティシアが別れを告げたものたちだった。
「今日という日を迎えられたことを、心から嬉しく思う。彼女――ミリーとの出会いは、私にとって、まさに主神の導きとしか思えぬものだった。主神は私たちふたりこそが、真の夫婦だと認めたのだ。そんな私たちの未来を阻む邪魔者は、もういない」
周囲が、こそこそとざわつく。ちらちらと向けられる好奇の目が、身体中に突き刺さる。アルバートは、その邪魔者が“誰”であるとは、敢えて口にはしなかったけれど。それでも、事情を知っている人間は容易に察するだろう。その為の、意図的な一文。それを入れないという選択をとることは、出来ただろうに。するつもりが端からなかったのだろうことは、考えるまでもない。何せ今日は、“そういう場”なのだから。
「漸くこの良き日に、我が最愛の人・ミリーとの婚約を、皆に披露できることを何よりの喜びとする。我々の幸福の為に、どうか今宵は、存分に楽しんでいってほしい」
片手に持った盃を掲げ、アルバートは慈しみの滲んだ眼差しでミリーを一瞥する。それに彼女もまた微笑みを返し、夫婦の証である同じ盃をたおやかな仕草で掲げた。
「主神の祝福を、そしてふたりの門出を祝して――乾杯」
アルバートの挨拶が終わるや否や、あちこちでグラスのぶつかり合う澄んだ音が響き渡る。けれどレティシアの周りにはそうしようとする者は誰ひとりとしておらず、それどころか彼女の手元にはまだグラスは握られていなかった。近くにいた何人かの給仕に声をかけてみたけれど、聞こえていないのか、それともわざとなのか、誰も足を止めず、素通りしてゆくばかり。どうせ飲む気も食べる気もなかったのだから、と、諦めた頃には、再び広間をやわらかな音色が包みこんでいた。
さて、これからどうしたものか――。この後は軽い談笑タイムがあり、そしてアルバートとその正式な婚約者であるミリーのファーストダンスが始まる。それから参列者同士でめいめいダンスを楽しむわけだが、しかし、こんな状況で、ただの腫れ物でしかないレティシアに声をかけてくる紳士などひとりもいないだろう。
ならば、ふたりのファーストダンスを見るだけ見て、こっそり大広間を抜け出すのでも良いかもしれない。そう思いながら、テーブルの上に飾られた花々を見るともなく眺めていた――その時だった。
「レティシア様!」
不意に遠くから、思わずびくりと肩を震わせそうになるほどの大声で名を呼ばれ、レティシアはたじろいだ。けれどその声が、顔を見ずとも誰であるのかに気付いた瞬間、一気に血の気が引いた。
嗚呼――と思う。嗚呼、クロエの言っていた通りだ、と。
壊れたブリキの玩具のような動きで、ぎこちなく振り向いたレティシアの視界に、アルバートを引き連れて駆けてくるミリーの姿が否応なく映り込む。不機嫌を隠そうともせずに顔を歪めているアルバートと、反対に、爛々と目を輝かせ無邪気な笑みを浮かべるミリー。けれどその愛らしい顔に浮かぶ笑みが、全く以て無邪気などではないことを、レティシアは知っている。美しい花には棘がある、とは確かに言いえて妙だ。
「もしかしたら来てくださらないかもしれないと思っていたので、こうしてお会いできてとても嬉しいですわ!」
さながら聖女の如く、慈愛に満ちたような美しい微笑みを湛えるミリーに、周囲で見守る貴族たちのかんばせが明らかに緩む。だからこそ、レティシアに向けられる視線はより一層厳しさを増す。何故あの女がいるの、場違いも甚だしい、身の程を弁えられないのだろうか――。
「お会いできて光栄ですわ、ミリー様、アルバート殿下。この度は誠におめでとうございます。おふたりの門出を、心よりの祝福いたしますわ」
ミリーの背後に立つアルバートの眉間に、深い皺が寄る。
「何を言っておる」
そう言って、アルバートは苛立たしげに鼻で笑った。小馬鹿にするような視線が、レティシアの双眸を射抜く。
「ミリーに何かしようものなら、ただでは済まないぞ」
「ア、アルバート殿下っ。わたくしがお誘いしたのです。そんなふうに仰らないで下さい」
アルバートの身体に凭れ掛かるようにして、ミリーが彼のかんばせを見上げる。そんな彼女の姿はきっと、周囲の人間の目には、嘗ての婚約者に慈悲をくれてやる心優しい聖女そのものに映るのだろう。けれどあの時――浮気現場を目撃した時、彼女がひっそりと口角を持ち上げて嗤っていたことを、レティシアは見逃していない。
「ご安心下さい、アルバート殿下。私はミリー様のお誘いを受け、そのお優しい心に応えるべく足を運んだだけでございます。失礼になるようなことは致しませんわ」
「はっ、どうだかな。お前のような人形に感情はないのだろうから、幾らでも平気でやりそうなものだが」
「私が感情のない人間でしたら、そもそもミリー様に“何かをする”という考えすら浮かびません。そう思い至る為の“感情”がないのですから」
にこりと微笑むと、アルバートは嫌悪を露わにぐにゃりと顔を顰めた。色白の肌が仄かに赤らんでいるように見えるのは、果たして気の所為だろうか。彼はそこまで短気だったという覚えはないのだけれど。それとも、最近は陽気なイヴァンと過ごすことが多くて、すっかり忘れてしまっているだけなのだろうか。
「お前のような可愛げのない女と別れることが出来て、俺は清々している。少しはミリーを見習ったらどうだ? そのままでは貰い手がいないぞ」
「あら、失礼ですわ、アルバート殿下。レティシア様であればきっと、すぐに良いお相手が見つかりますわよ」
「ああ、そうだな。とんでもなく年の離れた老爺とでも結婚するだろうさ、こいつは」
せせら嗤うアルバートの顔と、その傍らで静かに――周囲にはそうと分からぬよう――嘲笑を滲ませるミリーの顔を交互に見遣り、レティシアは胸の内でそっと溜息をこぼす。何もする気はない、と言っているのに。どうしてそう次から次へと、心無い棘のある言葉を投げつけなければ気がすまないのだろう。
イヴァンなら――。ふと、あの太陽のような笑顔が脳裏に浮かび、レティシアは視線をそのままに、胸元で輝く金色の宝石へと意識を向ける。彼は此処にはいない。いないけれど、でも、“此処”にいてくれている――。
「アルバート殿下っ!」
と、その時だった。入口の方からアルバートを呼ぶ大きな声が聞こえ、レティシアはそっと肩越しに振り返る。そこには大慌てで人垣を掻き分ける近衛兵の姿があり、その顔は、体調でも悪いのではないかと思うほど青白く染まっていた。
「どうした」
「そ、それがっ……!」
息も切れ切れにアルバートのもとに辿り着いた近衛兵は、それでも礼儀正しく膝をつき、律儀に頭を垂れる。けれどその身体は、走ってきたせいとはまるで違う何かによって、微かに震えていた。
「じ、実は、そのっ……」
「さっさと報告しろ。いったい何があった」
アルバートに促され、報告の為に近衛兵が顔を上げた――刹那。再び入口の方が、どっと沸き返った。弾けたどよめきが波紋のように広がり、大広間の隅々にまで伝播してゆく。レティシアもまたその波に揺られつつ、沸き立つ渦中へと視線を向ける。――そして、目を見開いた。これ以上はもう無理だと思うほど大きく、まん丸に。有り得ないものを見てしまった驚きで、どくり、と心臓までもが強く跳ね上がる。
「どう、して……」
ぽつりとまろび出た小さな囁きが届いたのだろうか。――いや、届いたはずがない。けれどまるで導かれるように、どちらからともなく、澄んだ金色の瞳と視線が重なった。
入口へと続く階段の前に立ち、レティシアは深く吸い込んだ息を、細くゆっくりと吐き出す。恐怖や焦りといったものはないけれど、緊張していないかといえば、それは嘘になる。なるべく目立たず、静かに――と思っていても、クロエが言っていた通り、周りが必ずしもそうさせてくれるとは限らない。他人の気持ちや考えを操ることなどできないのだから。無遠慮に突き刺してくる好奇の目は、だから我慢しなければならない。たとえそれらが、どんなに辛辣なものであっても。
表玄関から入るのは、いったいいつぶりのことだろう。そう思いながら、レティシアはドレスの裾を僅かに持ち上げ、一歩一歩丁寧に、悠然とした足取りで階段を登ってゆく。なるべく背筋は凛と伸ばすことを意識して、張り詰めた気持ちがうっかり表へ出てしまわないよう努めながら。いつも以上に、頭のてっぺんから足先、爪の先端に至るまで、しっかりと意識を行き届かせて。
怯むことはない。臆することはない。今日の主役はアルバートとミリーであって、“元婚約者”とはいえ、自分はただの脇役に過ぎないのだから。他の参加者たちと同じ様に、彼等の新たな門出を素直に祝福すれば良いだけだ。そうすればきっと、何事もなく閉幕を迎えることが出来るだろう。――そう、信じたい。
階段を登りきると贅の尽くされた豪奢な扉と、広々としたエントランスに出迎えられた。艷やかな大理石の上に敷き詰められた真紅の絨毯、初代国王の胸像、柱の一本一本を彩る精緻なレリーフ。幾人かの顔見知りの近衛兵と擦れ違ったが、案の定というべきか、誰もレティシアを一瞥しようとすらしなかった。けれど、却ってその方が気楽でいられる、と、レティシアは詰めかけた人々の合間を縫って進みながら思う。へんに気を遣われるよりかは、よほどましだ。
開きっぱなしにされた重厚な木製の扉を潜って大広間へ足を踏み入れると、そこには既に、多くの参列者たちが集っていた。政を担う重役たち、騎士団長や近衛隊長、枢機卿、様々な爵位の夫妻や子息子女。知らない顔もあるが、殆どが見覚えのあるそれだった。言葉を交わしたこともあれば、お茶や食事を共にしたこともあるような人々。けれど誰ひとりとして、レティシアに挨拶をする者はいなかった。遠巻きにちらちらと様子を伺われていることからして、恐らく気付いてはいるのだろうけれど。結局のところ彼等の反応は、外の階段で出くわした人々のそれと大差なかった。
婚約を破棄された出戻り女になど、誰も声をかけたくはないだろう。“婚約者”という立場がなくなった以上、無理して親交を深めておくだけの価値は、もう微塵もないのだから。故に彼等の態度は、至極当然のことといえばそれまでだった。
もうそろそろ入場だろうか。天井を埋め尽くすフレスコ画をぼんやりと見つめながら、レティシアは嘗て追われていたスケジュールを思い出す。大広間も、そこを華やかに飾り立てる絵画やシャンデリアや金の装飾も、はたまた美しく磨き上げられた大理石の床や、アーチ型の大きな窓に至るまで、何もかもがとても懐かしいと思うのに、しかし不思議なほど感慨はなかった。以前であればこの時間はこういうことをしていた、常に誰か傍にいて、そして入場は必ずふたりないし複数人だった、という、些末な記憶のひとつひとつすら、少しも。
小さなボリュームで流れていたピアノの音色が溶けるように消え、それを合図に、大広間に響き渡っていたざわめきが、水を打ったように静まり返る。レティシアはゆっくりと瞬き、それから対岸の壁に設けられた大階段へと目を向けた。惜しみなく金のあしらわれた、一層派手やかなその階段は王族専用で、象嵌で造られた王家の紋章が輝く重厚な扉の奥には、王城の深部へと繋がる通路が続いていることを知っている。そこを通れるのは王族かそれに連なる者、或いはごく限られた関係者だけだ。
嘗ては“アルバートの婚約者”としてそこを通り、あの扉からこの大広間に通っていたのだけれど。扉の両脇に控えた近衛兵が恭しい所作で取手を掴むのを眺めながら、レティシアは何度目になるか分からない苦笑をこぼす。それはもう二度とあることのない、頭の中にだけ取り残された――なんの役にも立たない――記憶に過ぎない。
入場を告げる宰相の高らかな声とともに扉が大きく開かれ、正装をしたアルバートがゆっくりと姿を現した。傍らには、寄り添うようにしてミリーが立っている。
そんな彼女の華奢な身体を包むドレスを見て、レティシアは呆気に取られ、僅かに目を見開いた。それは“国庫入り”として返還したドレスの中でも、式典用にと誂えた上等なもので、華美なドレスを好まないレティシアが唯一持っていた、宝石類を惜しげもなく縫い付けた目も眩むような輝かしい一着だった。それだけでなく、彼女の両耳や胸元、豊かな淡い紫色の髪を彩るアクセサリーの数々まで、何もかもが、レティシアが別れを告げたものたちだった。
「今日という日を迎えられたことを、心から嬉しく思う。彼女――ミリーとの出会いは、私にとって、まさに主神の導きとしか思えぬものだった。主神は私たちふたりこそが、真の夫婦だと認めたのだ。そんな私たちの未来を阻む邪魔者は、もういない」
周囲が、こそこそとざわつく。ちらちらと向けられる好奇の目が、身体中に突き刺さる。アルバートは、その邪魔者が“誰”であるとは、敢えて口にはしなかったけれど。それでも、事情を知っている人間は容易に察するだろう。その為の、意図的な一文。それを入れないという選択をとることは、出来ただろうに。するつもりが端からなかったのだろうことは、考えるまでもない。何せ今日は、“そういう場”なのだから。
「漸くこの良き日に、我が最愛の人・ミリーとの婚約を、皆に披露できることを何よりの喜びとする。我々の幸福の為に、どうか今宵は、存分に楽しんでいってほしい」
片手に持った盃を掲げ、アルバートは慈しみの滲んだ眼差しでミリーを一瞥する。それに彼女もまた微笑みを返し、夫婦の証である同じ盃をたおやかな仕草で掲げた。
「主神の祝福を、そしてふたりの門出を祝して――乾杯」
アルバートの挨拶が終わるや否や、あちこちでグラスのぶつかり合う澄んだ音が響き渡る。けれどレティシアの周りにはそうしようとする者は誰ひとりとしておらず、それどころか彼女の手元にはまだグラスは握られていなかった。近くにいた何人かの給仕に声をかけてみたけれど、聞こえていないのか、それともわざとなのか、誰も足を止めず、素通りしてゆくばかり。どうせ飲む気も食べる気もなかったのだから、と、諦めた頃には、再び広間をやわらかな音色が包みこんでいた。
さて、これからどうしたものか――。この後は軽い談笑タイムがあり、そしてアルバートとその正式な婚約者であるミリーのファーストダンスが始まる。それから参列者同士でめいめいダンスを楽しむわけだが、しかし、こんな状況で、ただの腫れ物でしかないレティシアに声をかけてくる紳士などひとりもいないだろう。
ならば、ふたりのファーストダンスを見るだけ見て、こっそり大広間を抜け出すのでも良いかもしれない。そう思いながら、テーブルの上に飾られた花々を見るともなく眺めていた――その時だった。
「レティシア様!」
不意に遠くから、思わずびくりと肩を震わせそうになるほどの大声で名を呼ばれ、レティシアはたじろいだ。けれどその声が、顔を見ずとも誰であるのかに気付いた瞬間、一気に血の気が引いた。
嗚呼――と思う。嗚呼、クロエの言っていた通りだ、と。
壊れたブリキの玩具のような動きで、ぎこちなく振り向いたレティシアの視界に、アルバートを引き連れて駆けてくるミリーの姿が否応なく映り込む。不機嫌を隠そうともせずに顔を歪めているアルバートと、反対に、爛々と目を輝かせ無邪気な笑みを浮かべるミリー。けれどその愛らしい顔に浮かぶ笑みが、全く以て無邪気などではないことを、レティシアは知っている。美しい花には棘がある、とは確かに言いえて妙だ。
「もしかしたら来てくださらないかもしれないと思っていたので、こうしてお会いできてとても嬉しいですわ!」
さながら聖女の如く、慈愛に満ちたような美しい微笑みを湛えるミリーに、周囲で見守る貴族たちのかんばせが明らかに緩む。だからこそ、レティシアに向けられる視線はより一層厳しさを増す。何故あの女がいるの、場違いも甚だしい、身の程を弁えられないのだろうか――。
「お会いできて光栄ですわ、ミリー様、アルバート殿下。この度は誠におめでとうございます。おふたりの門出を、心よりの祝福いたしますわ」
ミリーの背後に立つアルバートの眉間に、深い皺が寄る。
「何を言っておる」
そう言って、アルバートは苛立たしげに鼻で笑った。小馬鹿にするような視線が、レティシアの双眸を射抜く。
「ミリーに何かしようものなら、ただでは済まないぞ」
「ア、アルバート殿下っ。わたくしがお誘いしたのです。そんなふうに仰らないで下さい」
アルバートの身体に凭れ掛かるようにして、ミリーが彼のかんばせを見上げる。そんな彼女の姿はきっと、周囲の人間の目には、嘗ての婚約者に慈悲をくれてやる心優しい聖女そのものに映るのだろう。けれどあの時――浮気現場を目撃した時、彼女がひっそりと口角を持ち上げて嗤っていたことを、レティシアは見逃していない。
「ご安心下さい、アルバート殿下。私はミリー様のお誘いを受け、そのお優しい心に応えるべく足を運んだだけでございます。失礼になるようなことは致しませんわ」
「はっ、どうだかな。お前のような人形に感情はないのだろうから、幾らでも平気でやりそうなものだが」
「私が感情のない人間でしたら、そもそもミリー様に“何かをする”という考えすら浮かびません。そう思い至る為の“感情”がないのですから」
にこりと微笑むと、アルバートは嫌悪を露わにぐにゃりと顔を顰めた。色白の肌が仄かに赤らんでいるように見えるのは、果たして気の所為だろうか。彼はそこまで短気だったという覚えはないのだけれど。それとも、最近は陽気なイヴァンと過ごすことが多くて、すっかり忘れてしまっているだけなのだろうか。
「お前のような可愛げのない女と別れることが出来て、俺は清々している。少しはミリーを見習ったらどうだ? そのままでは貰い手がいないぞ」
「あら、失礼ですわ、アルバート殿下。レティシア様であればきっと、すぐに良いお相手が見つかりますわよ」
「ああ、そうだな。とんでもなく年の離れた老爺とでも結婚するだろうさ、こいつは」
せせら嗤うアルバートの顔と、その傍らで静かに――周囲にはそうと分からぬよう――嘲笑を滲ませるミリーの顔を交互に見遣り、レティシアは胸の内でそっと溜息をこぼす。何もする気はない、と言っているのに。どうしてそう次から次へと、心無い棘のある言葉を投げつけなければ気がすまないのだろう。
イヴァンなら――。ふと、あの太陽のような笑顔が脳裏に浮かび、レティシアは視線をそのままに、胸元で輝く金色の宝石へと意識を向ける。彼は此処にはいない。いないけれど、でも、“此処”にいてくれている――。
「アルバート殿下っ!」
と、その時だった。入口の方からアルバートを呼ぶ大きな声が聞こえ、レティシアはそっと肩越しに振り返る。そこには大慌てで人垣を掻き分ける近衛兵の姿があり、その顔は、体調でも悪いのではないかと思うほど青白く染まっていた。
「どうした」
「そ、それがっ……!」
息も切れ切れにアルバートのもとに辿り着いた近衛兵は、それでも礼儀正しく膝をつき、律儀に頭を垂れる。けれどその身体は、走ってきたせいとはまるで違う何かによって、微かに震えていた。
「じ、実は、そのっ……」
「さっさと報告しろ。いったい何があった」
アルバートに促され、報告の為に近衛兵が顔を上げた――刹那。再び入口の方が、どっと沸き返った。弾けたどよめきが波紋のように広がり、大広間の隅々にまで伝播してゆく。レティシアもまたその波に揺られつつ、沸き立つ渦中へと視線を向ける。――そして、目を見開いた。これ以上はもう無理だと思うほど大きく、まん丸に。有り得ないものを見てしまった驚きで、どくり、と心臓までもが強く跳ね上がる。
「どう、して……」
ぽつりとまろび出た小さな囁きが届いたのだろうか。――いや、届いたはずがない。けれどまるで導かれるように、どちらからともなく、澄んだ金色の瞳と視線が重なった。



