恋するだけでは、終われない / 恋したことなら、忘れない


 ……三年一組・三藤(みふじ)月子(つきこ)

 やや緊張したのか、海原(うなはら)くんは。
 わたしの『個人ファイル』を手に取ると。
 表紙の名前を……読みあげた。



「……はい」
「えっ?」
 思わず返事をしたわたしに、彼がたいそう驚いて。

「だって、わざわざ呼んだじゃないの」
「た、確かに……」
 それからふたりで、顔を見あわせる。


 ……おかげでわたしは、落ちついた。


「海原くん、中を見ないの?」
「でもこれ、成績表ですよ?」
「それがなにか?」
「ええっ……」


 実は彼には、不思議な才能がある。
 いや、それはむしろ特技などではなく。
 どちらかといえば。
 わたしへの『影響力』とでも、呼ぶべきものだけれど。

 とにかく海原くんが戸惑うと。
 わたしはなぜか……『うれしく』なる。



 その証拠に、向かいあって座るのが。
 ややわずらわしくなってきたわたしは。

 ひとこと断ってからスッと立ちあがると。
 自分の座布団を、彼の隣にそっと並べてみる。


 ……互いの角房(すみふさ)が、ぎりぎりあたりそうなこの距離感。


 バスで並んで座るより、いまのほうが『実際は』離れているはずなのに。
 不思議なことに……彼をより身近に感じてしまう。



 ……心の距離が、近いのね。



「そろそろ、ひらいてもらえないかしら?」
 真面目な瞳は、それでもわたしに『本当か』と聞いていて。
 わたしが静かに、首を縦に一度だけおろすと。

「は、拝見します」
 海原くんがファイルに一礼して。
 ようやく中身を……見てくれた。



「あぁ……」
 彼の目が追うのは、わたしの模擬試験の結果と。
 それに続く『志望校』の判定結果で。

「これが『理由』だったんですね」
 あら……珍しく()えたほうの海原くんがいるようね。


「せっかくだから、一度見ておきたかったの」
「なるほど」

 修学旅行の二日目に。
 美也(みや)ちゃんと『一緒に』大学にいった意味はここにある。


藤峰(ふじみね)先生と高尾(たかお)先生、あと都木(とき)先輩とも……学部は違うんですね」
「その情報、いま必要なのかしら?」
「えっ?」
「この状況で、口にすることなの?」

 少し慌てる彼に、冗談よとつげてから。
「実はね、海原くん」
 わたしは美也ちゃんと同じ大学を目指すと決めたのは、ずいぶん前で。

 美也ちゃんは以前から知っていたのに。
 海原くんにはなかなか、話せなかったと。

「事前に『相談』しなくて、ごめんなさい」
 彼がどう反応するか気にしながらも。
 ここは一気に……口にする。



 と、そこで。
 海原くんの動きがピタリととまって。
 やや荒めにファイルが閉じられて。
 彼の顔が少し……こわばった。


 ……もしかして、怒っているの?


 微妙な緊張感をともなう沈黙が少し続いて。
 わたしの不安が、増していく。


「あの……海原くん?」
「し、知りません」
「えっ?」
「ぼ、僕は一切。見ていません」

 慌てたわたしが、彼と目をあわせると。
 なぜか視線まで……そらされた。




 ……そのあとただよったのは、『不穏な空気』。


 でもそのおかげで……『悩み』は消えた。




「い、一瞬だったので。決して『推移』は見ていません」
 それは試験の成績の話しではなく。

 ついうっかり、わたしがはさんでしまっていた。
 いわば女子高生の『トップ・シークレット』。
 わたしの『身体測定』の……記録である。


「し、身長だけは見えたかも知れませんが……」
「もういいから、『すべて』忘れて」

 次の項目はもちろん『体重』なのだが。
 その口ぶりはおそらく……。


「そんなものまではさんでしまうほど、わたしの悩みは深かったのよね」
「た、大変よくわかりました」
「本当に? 最近の海原くんは少し信頼ならないのだけれど?」
「そ、そんな……」



 わたしの冷たい目線のおかげか。
 それからしばらく、海原くんはたくさんの『いいわけ』というか。
 やたらと『饒舌(じょうぜつ)』な感じで話しをしてくれて。

「一度……お茶を()れてきます」
 わたしがそうつげ、席をはずして台所に向かうと。
 まるで狙っていたかのように。
 タイミングよく、母親がやってきて。

「あら、ずいぶんとうれしそうね?」
 その顔を『隠すため』に避難したのに……わざわざ聞いてくる。


「それで海原君は、なんですって?」
「い、いつもどおり『鈍いまま』です」
「本当に? とてもそうは見えませんけれど?」


 ……それはその、しかたがない。


 わたしが彼を非難していたとき。
「だ、大学といえば!」
 不器用に話しをそらそうとした海原くんが。

「思ったほど、『遠くなかった』です!」
 無意識のうちにそんなことをいってから。
 そのあともう少し……『興味をひくこと』を口にした。



「あら。彼になんと、いわれたの?」
「さぁ? まずは合格するのが、先ですから」
「もう。ヒントくらい話してくれないの?」
「合格したら変化があると……ただ予感がしただけです」

 わたしは母に。
 それ以上は『まだ』話さないと目で知らせると。

「じゃぁ、合格するしかなくなったわね!」
 もう……。
 母親がそこまで、喜んでどうするつもりなのかしら……。


「海原くんを『待たせている』ので、戻ります」
「はいはい」
「あと若鮎を……ありがとう」

 きちんと『同じ方向』に並べられた和菓子をお盆にのせて。
 わたしはゆるんだ顔をひきしめてから、歩きだす。



 縁側でたたずむ、その背中に。
 伝えたい気持ちはただひとつ。


「……どうかしましたか、先輩?」
「別に、なにもないわよ」



 ただ伝えるのは……いまではない。



「本当ですか?」
「そうよ、海原くん」




 あとはそれが……『いつ』になるのか、だけなのだ。