幸せを願う嘘をひとつ

煌河(こうが)くんは、私とは正反対の世界に住んでいる人だった。
いつも教室の中心で声を上げて笑い、女子の視線を集めている。
誰に対しても裏表がなくて、困っている人がいればそれがクラスの誰であろうと、普通に手を差し伸べることができる。

そんな彼の持つ明るさは、目立たない私を余計にぼやけさせるだけ。
ただのクラスメイト。
席替えでたまたま前後になっただけの、名前を知っている程度の関係。

私たちの距離が少しずつおかしくなり始めたのは、雨が降り続いていた日の放課後だった。

その日私は図書委員の居残りで、誰もいないカウンターで1人データをパソコンに入力していた。
窓の外では、雨音が屋根を叩いて音が鳴っている。

「まだ残ってたんだ」
突然声がして顔を上げると、そこには濡れた髪をタオルで拭いている煌河くんが立っていた。
部活が雨で休みになったらしい。
手には汚れた本が握られている。

「あ、うん。データ入力が残ってて。煌河くんは本の返却?」
「そう。これ、1週間遅れちゃってさ。ごめん迷惑かけた?」
「ううん全然大丈夫だよ。預かる」

彼から本を受け取る瞬間、指が一瞬触れ合った。
彼の体温が暖かくて私は慌てて視線を落とした。
鼓動が速くなり始める。

「李奈ちゃんっていつも周りをよく見てるよね。みんなが面倒くさがってやらない仕事も文句1つ言わずにやってる。俺、そういうのちゃんと見てるから」
煌河くんはカウンターに肘をついて、私の顔を覗き込んで言った。

その瞳には下心がなかった。
だからこそその言葉は私の胸を貫いた。
誰も気付いてくれない私の存在を彼は見つけてくれたのだ。

彼が私を李奈ちゃんと名前で呼び、私に声を向けてくれるたび、胸に芽生えたほんの小さな期待を必死に押し殺さなければならなかった。
これはただの彼の優しさだ。
誰にでも公平な、彼のただの親切だ。

それからの私たちは、教室でも時折目が合うようになった。

授業中、先生が黒板に向かっている隙に彼が振り返って手を振ってくれたり。
廊下ですれ違う瞬間に、他の人には聞こえないくらいの声で「お疲れ」と呟いてくれたり。

そんな、2人だけの秘密が重なっていくたびに世界は鮮やかになっていくような気がしていた。
これはきっと、ただの勘違いじゃない。
私たち、もしかしたら両片思いなのだと。

身の程知らずな自惚れが、いつしか私の心の中で確信に変わりつつあった。

そして放課後。
教室は、夕日の光でまるで時間が止まったかのように美しかった。
部活動の掛け声がガラス越しに響いている。

机の上の荷物をバッグに詰めていると、背後から足音が近づいてきた。
「李奈ちゃん」
振り返ると煌河くんが立っていた。

いつものような笑顔はなくて、どこか緊張したよう。
よく見ると彼の耳が、ただ夕日のせいではなく赤く染まっているのが分かった。

「これ、後で読んで。……絶対、1人で読んでね」
彼の大きな手が目の前に差し出された。
その手のひらの上に載っていたのは、丁寧に折られた一通の手紙だった。

手紙を受け取るために私の手が近づくと、彼の指が震えているのが伝わってきた。
あのいつも自信に満ち溢れている煌河くんが、私の前でこんなにも震えている。
私の胸は期待で破裂しそうになった。

手紙に何が書かれているのか、そんなのわざわざ開かなくたって想像がついてしまう。
「じゃあ、また明日。気を付けて帰れよ」
煌河くんは頭を掻きながら、早歩きで教室を飛び出していった。

彼の足音がバタバタと響く。
私はその小さな手紙を両手でそっと包み込んだ。

手紙の表面には、『李奈へ』と書かれていた。
今すぐここでこの紙を開いて、彼をこの目で確かめたい。
でもあまりにも贅沢すぎるこの出来事を、こんな教室で消費してしまうのがもったいない。
家に帰って、部屋の鍵を閉めて、机の前に座って、1文字ずつじっくり読みたい。

私は手紙をスカートのポケットにしまった。
布地越しに、紙の角が太ももに触れる。
その感触があれば、何よりも幸せな女の子になれたような気がした。
自分の人生で一番輝いている瞬間が今なんだと、信じて疑わなかった。
――校門を出るその瞬間までは。

「李奈……っ。お願い、助けて……!」
校門の脇にある桜の木の下。
私の名前を呼ぶ声がした。

驚いて視線を向けると、そこには私の大親友である優奈《ゆな》が立っていた。
優奈の大きな瞳からは、涙が次から次へと溢れ出てきて、制服の袖を濡らしている。

優奈は私の姿を見つけるなり走ってきて、私の制服をものすごい力で掴んできた。
私の背中に得体の知れない汗が落ちていくのが分かった。