ありのままの君が好き

 翌日、楓は学校へ現れなかった。

 要は心配で仕方なかったが、事情もわからないので、しばらく様子を見ることにした。
 また勝手に動いて、楓を困らせることはしたくない。

 三日目、我慢の限界を迎えた要の足は、楓の家へと向かっていた。

 チャイムを鳴らすと、しばらくして亜澄が顔を出した。

「っ! あなたっ」

 あからさまに嫌そうな顔をされた要は、平然と返す。

「楓さんがずっと休んでるんで心配で……います?」

 要が家の中を覗き込もうとすると、それを塞ぐように亜澄が要の前に立った。

「さあ……知らないわ。あの子が勝手に休んでるんじゃない?
 まあ、いたとしても会わせないけどね」

 一方的に言い放つと、亜澄はドアを強く閉めた。

「あはは……だいぶ嫌われてんのね」

 どうしたものかと要が思案していると、

「あの……」

 後ろから声がして、要は振り返る。
 そこには美奈が立っていた。

 美奈は何か言いたげに、まっすぐこちらを見つめている。

 要はすごく嫌な予感がした。

 美奈の口が開く。

「――お姉ちゃんを助けて」

 * * *

 要は呆然と立ち尽くし、その場所を見つめていた。

 視線の先には、古びた物置小屋のような建物があった。
 どう見ても今は使われておらず、崩れそうなほど古びている。

 壁の木材には隙間ができ、所々腐っていた。
 屋根も、風が吹けば飛んでいってしまいそうな板が覆っているだけだ。
 小屋の周りには手入れされていない草が伸び放題で、行く手を阻んでいる。

 周りには住宅もほとんどなく、その建物だけが小さな空き地の真ん中にぽつんと存在していた。

 まるで、この物置小屋だけが時間から取り残されているように見えた。

 本当に、こんな所にいるっていうのか?

 こんな場所に楓がいるなんて、できれば信じたくなかった。
 それでも、要は歩みを進める。

 入口は一つだけ。
 引き戸になっていて、引いてみると建付けが悪く、うまく開かない。

 ガタガタと大きな音を立て、扉を開ける。

 中は暗く、窓が一つもない。
 空気も淀んでいて、息をするのも躊躇われるほどだ。

 床は埃と砂で汚れ、掃除されている様子もなかった。

 要は持っていたスマホをライト代わりに、辺りを照らす。
 すると、部屋の奥の隅に、毛布にくるまって横たわる人影が見えた。

 ゆっくりと近づいて顔を確認すると、痣がいくつもある楓が眠っていた。

 痣を見た瞬間、要は何があったのかを悟った。

 衝動的に楓を抱きしめる。

「ごめん……ごめんなっ」

 もっと早く気づいていたら、傍にいたら。
 俺が守れたのに……。

 悔しくてたまらなかった。

 要の瞳から涙が零れ落ちる。

「……ん……っ」

 楓がゆっくりと目を開けた。

「井上? 大丈夫か?」

 要は心配そうに楓を支えながら覗き込む。

 楓の体は痛々しく、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。

「藤原くん? ……どうして?」
「おまえ学校来ないから心配でさ……ここは妹に教えてもらった」

 ここは楓の隠れ家だった。
 亜澄にいじめられてどこにも行き場がないとき、いつもここに逃げ込んでいた。

 誰も使っていない、忘れられた小屋。

 勝手に使うのは悪いことだとわかっていた。
 それでも、この建物がどこか自分と似ている気がして、楓はここを選んだ。

 誰からも必要とされず、世界の片隅でひっそりと佇むその姿は、自分と重なって見えた。

 美奈は、知っていたんだ……。

 驚きと共に、ほんのりと嬉しさが込み上げる。
 美奈が自分のことを気に留めてくれていた。

 見てくれている人がいる。その事実に心が救われた。

 要の腕に力が込められる。

「ごめんな……」
「ふ、藤原くんっ」

 突然のことに驚き、楓は目を泳がせる。

「ごめん……ごめん、俺、おまえのこと、守れなくて」

 要の声は震えていた。

「な、何言ってんの? 藤原くんには関係ないでしょ」

 楓は要を押し返し、拒絶するように視線を外した。

「帰って……もう私と関わらないで。
 ……もう放っておいて、お願い」

 必死に絞り出した声は、自分でもわかるほど震えていた。

 要は苦しそうな顔で楓を見つめている。

「それで、いいのか?」
「え?」

 要の真剣な眼差しと、楓の揺れる瞳が交差する。

「おまえは一生そうやって生きていくのか?
 何もかもあきらめ、絶望して。
 ……本当は助けてほしいくせに、誰にも助けを求めようとしない」

 要の言葉が、視線が、痛い。
 それでも、その想いは楓の心の奥まで入り込んでくる。

 今まで受け取ったことのない感情に戸惑い、どうしていいのかわからなくて苦しかった。

 やめて、私の中をかき乱さないで!

「俺は嫌だ……。俺はおまえがそんな風に生きていくのは嫌なんだっ」

 要は声を詰まらせながら、顔を歪める。

 なんで、あなたがそんな顔をするの?

「関係ないでしょ。何なの……どうして、そんなに私に構うの?」

 ここまで自分に関心を寄せ、関わろうとする人は初めてだった。
 その言動の意味がわからず、楓はただ戸惑う。
 
 要は照れくさそうに笑った。

「おまえが心配だから……それじゃあ理由にならない?」
「わかんない、わかんないよ。もう……わかんない」

 楓は小さく頭を振る。
 疲れていて、もう何も考えたくなかった。

「俺がいる」

 お互いの視線がぶつかる。
 要の瞳は、すごく綺麗で澄んでいた。

「俺がいるよ、井上の傍に。
 俺はおまえの味方だ。絶対裏切らない。信じてくれ」

 楓は要の腕の中に、すっぽりと包まれる。

 とても温かくて、安心する――。

 こんな風に誰かに抱きしめてもらったこと、あっただろうか。
 遠い昔の記憶を辿ろうとするが、思い出せなかった。

「……今まで本当によく頑張ったな。
 生きていてくれて、ありがとう。俺に出逢ってくれて、ありがとう。
 もう一人で頑張るな。これからは俺がついてる。
 弱くたっていいんだ、強くなくたっていい。おまえはおまえのままで――」
「なっ……んでっ……っ」

 楓の頬を涙が伝っていく。

 押し殺していた感情と一緒に、涙が次々と溢れ出した。

 なんで、いつも欲しい言葉をくれるんだろう。
 傍にいてほしいときに、いてくれるんだろう。

 どうして、こんなに温かいんだろう。

 要は楓の涙を、宝物に触れるようにそっと拭ってくれた。

「なんで……そんなことっ」

 泣きじゃくる楓は、なんとか要の体を押し返そうとする。
 しかし、要はさらにきつく楓を抱きしめた。

「井上のことが好きだからだよ! わかれよっ」

 楓が驚いて要を見つめると、要の顔は赤く染まっていた。

「え? ……そんな、だって、好きになる理由なんてないし。
 そんな素振りなかった!」

 予想もしなかった言葉に頭は混乱し、楓はあたふたするしかなかった。

 要は短くため息をついた。

「あのなあ……気づいたら好きになってた。そういうもんだろ。
 それに、そんなすぐにアピールできねえよ。好きなら、なおさら」

 少し恥ずかしそうに下を向く要が可愛く見えてしまい、楓自身も驚いた。
 不思議と心がふわふわしている。

「……返事はどうでもいいからさ。
 とにかく俺がついてるから、もう一人で抱え込むなよ」

 要の告白に、世界がひっくり返るかと思うほど驚いた。
 しかしそれ以上に、安堵からか涙が溢れてくる。

 すべてを受け入れ、受け止めてくれる存在。
 その存在が、こんなにも大きいなんて……。

 暗闇の中に、温かな光が差し込んだような気がした。

 楓は要の胸に顔を埋めると、今まで溜めてきた感情を吐露(とろ)するかのように泣いた。

 大きな声で、腹の底から泣いた。

 
 しばらくして、楓は泣き疲れたのか、要の膝に頭を預けたまま、すやすやと寝息を立てていた。
 その顔は、母親の胸で安心して眠っている赤ん坊のように安らかだった。

 要はそんな楓を優しく見つめながら、静かに目を細める。

「……俺が、必ず守る」

 その瞳には、強い意志が滲んでいた。