ありのままの君が好き

 いつもの空、いつもの道、いつもの風景。
 なのに、不思議とすべてが優しく見える。

 楓は深呼吸しながら、ゆっくりと辺りを見回した。

 色のない世界に、色があったことを思い出した。
 世界はこんなにも、鮮やかで温かい。
 ほんの少し余裕が生まれると、こんなにも世界が違って見える。

 今まで知らなかった。

 すべては彼のおかげ。
 藤原要。
 彼がいるから――

 楓は前を向く。
 決意していた。亜澄と向き合うこと。

 きっと何かが変わる……。
 心の片隅に、そんな小さな期待が芽生えていた。

 楓は握った拳に力を込めると、一歩踏み出した。

 
 玄関の扉の前で、楓は自分に言い聞かせる。

 大丈夫、きっとうまくいく。何かが変わる。
 それに、私には味方がいる。

 だから、頑張ろう。

 楓は思い切って玄関の扉を開けた。

「……ただいま」

 誰からも返事はない。
 静まりかえる家は、とても不気味で、いつも寒気を覚える。

 亜澄はいないのかと、辺りを見回す。

 キッチンの入口から中を覗こうとした、そのとき、

「どいて」

 後ろから背中を強く押された楓は、前のめりに倒れそうになった。

 亜澄は楓のことなど見向きもせず、冷蔵庫を開け、水をグビグビと飲む。
 すごく不機嫌そうな顔をしている。

「何!」

 亜澄が楓に怒鳴った。
 いつものことだが、今日は特にイライラしているようだ。

 楓の身体が強張り、小さく震え出す。

「……何なのよ、さっきから私を変な目で見て。気持ち悪い。
 言いたいことがあるなら言いなっ」

 亜澄の冷たい瞳に見つめられ、体中の血の気が引いていく。

 嫌だ、逃げたい……。
 いや、駄目だ。逃げちゃ駄目。

「母さん……私、私っ……」

 いざ言おうとすると言葉に詰まる。想いが声にならない。
 どう表現すればいい? どう言えば伝わる?

 楓が黙ってしまうと、亜澄はため息をついて楓に詰め寄ってくる。

「あんたさあ、何なの? 私は疲れてるのよ。
 私の貴重な時間を割いてあげてるのに、さっきからその態度! 何様?」

 亜澄の声が荒くなるほど、楓の恐怖も膨らんでいく。

「……っごめんなさい、でも、私、母さんに伝えたいことがあって」
「だから何って聞いてあげてるでしょ!」

 亜澄の血走った目には、憎悪しか浮かんでいなかった。
 楓は怖くて逃げ出したかった。

 体は小さく震え、心臓がバクバクと音を立てる。

 体が言うことを聞かない。
 石になってしまったかのように動かない。

(逃げたい、助けて、嫌嫌、もう嫌っ!)

 もうすべてを投げ出してしまいたい。
 そんな弱い自分が顔を出す。

 そのとき、要の顔が脳裏をよぎった。

 ……駄目、ここで逃げては駄目だ。
 逃げたら今までと変わらない。

 楓は張り裂けそうな胸を押さえ、血が滲むほど強く拳を握りしめた。

「私、母さんに――愛されたい」

 必死に絞り出した声は、とてもか細かった。

 亜澄は意外そうな顔をしたあと、不気味な笑い声をあげる。

「ふふふっ、何言ってんの? 愛してるわよ。いつも可愛がってるじゃない。
 あなたは美奈と違って手がかかるから、母さん大変なのよ。それでもきちんと楓のこと相手してるでしょ?」

 さも当然だと言わんばかりに、亜澄は自慢げに語る。

「違う。母さんは私を愛してなんかいない。
 すぐ怒鳴るし、殴るじゃない。私の気持ちなんて全然考えてくれてない!
 私を大切に思ったことなんてないでしょう? 美奈ちゃん、美奈ちゃんってそればっかり。
 私のことなんて、都合のいい道具としか見てない!」

 楓は今までの思いをすべてぶちまける。

 亜澄は目を見開き、言葉を失った。

「なんて子なの! 母さんにそんな口――」

 しかし、すぐに歪んだ笑みを浮かべる。

「ふーん、そう……そうよ。あんたなんて愛してない! これでいい?」

 楓の心臓は、ナイフで抉られたような痛みに襲われた。

 言ってほしくなかった。
 それは楓にとって、死の宣告のようなもの。

 この痛みはどうすれば伝わる?

「あんたが悪いのよ。そっちから言い出したんだから、私が楓を愛してないって。
 そりゃそうよね、実際愛してないんだもの。愛しいと、思えないの……」

 亜澄は楓のことを一瞥もせず、言い放った。

「っなんで? ……なんでそんなに私のことが嫌いなの?」
「そんなのわからないわよ! ただ……あんた見てるとイライラするの」

 亜澄は苛立ったように爪を噛む。
 亜澄の癖だった。見たくない現実から目を逸らすときに、いつもこうする。

 そんなに私のこと、見たくない?
 なかったことにしたいの?

 楓は涙を流し、亜澄に尋ねる。

「母さん……私は母さんが大好きだよ。
 母さんは私が嫌い? ……いらないの?」

 楓は心の中で必死に祈った。

 どうか、どうか、あの言葉だけは言わないで。

「嫌いよ、いらないわ」

 冷たく低い声が、楓の心を貫く。

 すべて終わった気がした。
 今まで必死に築いて守ってきたものが、音を立てて崩れ落ちていくようだった。

「母さん、いやっ、私必要だよね? いてもいいよね? ――母さん!」

 楓は泣きながら亜澄の足にしがみついた。
 亜澄はそんな楓を、虫けらを見るように見下ろす。

「うざい。今日は疲れてるって言ったでしょ? ほんと、空気の読めない子」

 しがみつかれている足とは逆の足で、楓を蹴り飛ばす。

 楓は痛みに耐えながら、必死で亜澄にしがみ続けた。

「もう! なんなの!」

 亜澄は楓を何度も蹴る。
 その強さは、だんだん増していく。

 楓は次第にしがみついていられなくなり、腕の力が抜けていく。
 亜澄はその瞬間を見逃さなかった。

 今までで一番強い蹴りを、楓に浴びせる。

 鈍い音がして、楓はとうとう床に倒れ込んだ。

 低く呻きながら、ゆっくりと起き上がろうとする楓。
 亜澄は容赦なく、さらに蹴りを入れた。

「ふんっ、ちゃんといつも通りしときなさいよ。
 それと……二度と変なこと言わないで。
 今度私をイラつかせたら、こんなもんじゃ済まさないわよ」

 亜澄は楓を置いて、さっさとその場をあとにする。
 残された楓は蹴られた痛みで、しばらく起き上がれずにいた。

 体は痛かった……でもそれ以上に、亜澄から言われた言葉が楓の頭を支配し、すべてを奪っていく。

 感情や思考がなくなった人形のように、楓はただ虚空を見つめ続けていた。