楓の家族は、父と母と妹の四人家族。
父は医者、母は専業主婦、妹は進学校の私立中学に通っている。
父は家族に関心がなかった。
楓が物心ついた頃から、可愛がられた記憶はない。
思い出すのは、いつも冷たい目で見下ろされていたことばかりだった。
父には愛人がいるらしく、家にいないことが多かった。
母もその存在を知っているようだったが、父に捨てられることを恐れ、何も言わず耐えていた。
父が家族を愛しているようには、到底思えなかった。
朝早くに出て行き、夜遅くに帰ってくる。家族とは滅多に顔を合わせないし、合わせたとしてもろくに話もしない。
休みの日でさえ、家族をどこかへ連れていくことはなく、自分のためにしか時間を使わない。
助けが欲しいときも、助けてくれたことはなかった。
きっと、助けを求めていることに気づいてさえいなかったのだろう。
妹の美奈は誰からも愛されていた。
頭が良く、容姿端麗、要領もよく、友達も多い。
大人たちからも信頼されていた。
そんな美奈が、父と母から可愛がられるのは、ごく自然なことのように思えた。
「お姉ちゃんも、もっと賢く生きた方がいいよ」
昔、楓は美奈にそう言われたことがある。
楓にはないものをたくさん持っている。それが楓の妹、美奈だった。
母の亜澄は、とても繊細で傷つきやすく、脆い人だった。
いつも自分を守ることに必死で、余裕がない。
父に愛されるため、美奈に好かれるため、いつも二人に尽くしている。
まるでそのことで、自分の存在を確かめているかのように。
ただ、楓にだけは違っていた。
亜澄は楓の前だと、いつもイライラしていた。
ストレスが溜まるたび、それを楓にぶつける日々。
亜澄から向けられるのは、嫌悪ばかりだった。
これが、楓の家庭の当たり前だった。
この家族しか知らない。この家しか帰る場所はない。
たとえそれが、地獄のような日々だったとしても――。
楓は一人、家路を歩いていた。
だんだん家が近づくにつれ、胃がしくしくと傷み出す。
帰りたくない。しかし、行く当てもない。
どこへ行けばいいのかわからない。行きたいところもない。
重い足を懸命に前へと運びながら、楓は歩いていく。
玄関の前に立つと、深呼吸をして気を落ち着かせる。
恐る恐る扉に手をかけた。
いつも、この瞬間が大嫌いだ。
どうか、どうか、無事に家に入れますように……。
怖くて手が震え、心拍数が上がった。
音を立てないように、そっと扉を開ける。
そこには、仁王立ちした亜澄の姿があった。
心臓が跳ね上がり、血の気が一気に引いていく。
しまった――そう思ったときには、もう手遅れだった。
地獄が始まる――
扉がゆっくりと閉まっていった。
「った、ただ……いま」
楓は逃げ出したい思いを必死に抑え、震えながら蚊の鳴くような声を絞り出す。
「いつも早く帰れって、言ってるよね」
イライラしているときの声だと、楓はすぐに察知した。
「っ、ごめんなさい」
亜澄に目を向けた途端、パンッと大きな音が響いた。
次の瞬間、頬に鋭い痛みが走る。
無機質な亜澄の冷たい目が、楓を見下ろしていた。
「ごめんごめんって! あんたはそれしか言えないの!」
亜澄が大きく手を振りかぶり、楓は衝撃に備えた。
「母さん? どうしたの?」
ちょうど美奈が二階から降りてきた。
亜澄は慌てて美奈の元へと駆け寄っていく。
「ごめんね、うるさかった?」
先ほどとは打って変わって、亜澄は美奈に媚びるような猫なで声を出す。
「ううん、別に……お姉ちゃん、大丈夫?」
玄関で座り込み、俯いている楓の様子が気になったのか、美奈が視線を向ける。
その視線を遮るように、亜澄が美奈の前に立った。
「大丈夫よ、お姉ちゃんちょっと具合悪いみたいね。
さ、美奈ちゃん、美味しいお菓子があるから食べましょう」
亜澄は美奈を促し、リビングへ連れて行こうとする。
そのとき、亜澄は楓の方へ顔を向け、声を出さずに口だけを動かした。
そして不敵な笑みを浮かべると、美奈とともにその場から姿を消した。
楓には、亜澄が何を言ったのかわかっていた。
「……はい」
楓は力なく立ち上がった。
学校から帰ってくると、料理、洗濯、掃除、すべての家事を楓がこなす。
それを終えたら、亜澄と美奈の残り物のご飯を食べ、残り湯でお風呂に入り、あとは眠りにつくだけ。
その繰り返し。
父は夜中に帰ってくるか、朝帰り。
楓たちのことなど興味もない。
家事を誰がしているかなど、気づいてさえいないだろう。
亜澄はいつもそんな父を待ち、帰りが遅いといつまでも家の中を徘徊していた。
もう楓は、誰かに期待することをやめていた。
誰も助けてくれない。誰も必要としてくれない。
だったらどうすればいい?
だって、期待しても裏切られる。
傷つくのはもう嫌だ……もう疲れた。
誰かに必要とされることだけが、自分の存在価値だった。
必要とされなくなったら、存在価値がなくなる……本気でそう思っていた。
父は医者、母は専業主婦、妹は進学校の私立中学に通っている。
父は家族に関心がなかった。
楓が物心ついた頃から、可愛がられた記憶はない。
思い出すのは、いつも冷たい目で見下ろされていたことばかりだった。
父には愛人がいるらしく、家にいないことが多かった。
母もその存在を知っているようだったが、父に捨てられることを恐れ、何も言わず耐えていた。
父が家族を愛しているようには、到底思えなかった。
朝早くに出て行き、夜遅くに帰ってくる。家族とは滅多に顔を合わせないし、合わせたとしてもろくに話もしない。
休みの日でさえ、家族をどこかへ連れていくことはなく、自分のためにしか時間を使わない。
助けが欲しいときも、助けてくれたことはなかった。
きっと、助けを求めていることに気づいてさえいなかったのだろう。
妹の美奈は誰からも愛されていた。
頭が良く、容姿端麗、要領もよく、友達も多い。
大人たちからも信頼されていた。
そんな美奈が、父と母から可愛がられるのは、ごく自然なことのように思えた。
「お姉ちゃんも、もっと賢く生きた方がいいよ」
昔、楓は美奈にそう言われたことがある。
楓にはないものをたくさん持っている。それが楓の妹、美奈だった。
母の亜澄は、とても繊細で傷つきやすく、脆い人だった。
いつも自分を守ることに必死で、余裕がない。
父に愛されるため、美奈に好かれるため、いつも二人に尽くしている。
まるでそのことで、自分の存在を確かめているかのように。
ただ、楓にだけは違っていた。
亜澄は楓の前だと、いつもイライラしていた。
ストレスが溜まるたび、それを楓にぶつける日々。
亜澄から向けられるのは、嫌悪ばかりだった。
これが、楓の家庭の当たり前だった。
この家族しか知らない。この家しか帰る場所はない。
たとえそれが、地獄のような日々だったとしても――。
楓は一人、家路を歩いていた。
だんだん家が近づくにつれ、胃がしくしくと傷み出す。
帰りたくない。しかし、行く当てもない。
どこへ行けばいいのかわからない。行きたいところもない。
重い足を懸命に前へと運びながら、楓は歩いていく。
玄関の前に立つと、深呼吸をして気を落ち着かせる。
恐る恐る扉に手をかけた。
いつも、この瞬間が大嫌いだ。
どうか、どうか、無事に家に入れますように……。
怖くて手が震え、心拍数が上がった。
音を立てないように、そっと扉を開ける。
そこには、仁王立ちした亜澄の姿があった。
心臓が跳ね上がり、血の気が一気に引いていく。
しまった――そう思ったときには、もう手遅れだった。
地獄が始まる――
扉がゆっくりと閉まっていった。
「った、ただ……いま」
楓は逃げ出したい思いを必死に抑え、震えながら蚊の鳴くような声を絞り出す。
「いつも早く帰れって、言ってるよね」
イライラしているときの声だと、楓はすぐに察知した。
「っ、ごめんなさい」
亜澄に目を向けた途端、パンッと大きな音が響いた。
次の瞬間、頬に鋭い痛みが走る。
無機質な亜澄の冷たい目が、楓を見下ろしていた。
「ごめんごめんって! あんたはそれしか言えないの!」
亜澄が大きく手を振りかぶり、楓は衝撃に備えた。
「母さん? どうしたの?」
ちょうど美奈が二階から降りてきた。
亜澄は慌てて美奈の元へと駆け寄っていく。
「ごめんね、うるさかった?」
先ほどとは打って変わって、亜澄は美奈に媚びるような猫なで声を出す。
「ううん、別に……お姉ちゃん、大丈夫?」
玄関で座り込み、俯いている楓の様子が気になったのか、美奈が視線を向ける。
その視線を遮るように、亜澄が美奈の前に立った。
「大丈夫よ、お姉ちゃんちょっと具合悪いみたいね。
さ、美奈ちゃん、美味しいお菓子があるから食べましょう」
亜澄は美奈を促し、リビングへ連れて行こうとする。
そのとき、亜澄は楓の方へ顔を向け、声を出さずに口だけを動かした。
そして不敵な笑みを浮かべると、美奈とともにその場から姿を消した。
楓には、亜澄が何を言ったのかわかっていた。
「……はい」
楓は力なく立ち上がった。
学校から帰ってくると、料理、洗濯、掃除、すべての家事を楓がこなす。
それを終えたら、亜澄と美奈の残り物のご飯を食べ、残り湯でお風呂に入り、あとは眠りにつくだけ。
その繰り返し。
父は夜中に帰ってくるか、朝帰り。
楓たちのことなど興味もない。
家事を誰がしているかなど、気づいてさえいないだろう。
亜澄はいつもそんな父を待ち、帰りが遅いといつまでも家の中を徘徊していた。
もう楓は、誰かに期待することをやめていた。
誰も助けてくれない。誰も必要としてくれない。
だったらどうすればいい?
だって、期待しても裏切られる。
傷つくのはもう嫌だ……もう疲れた。
誰かに必要とされることだけが、自分の存在価値だった。
必要とされなくなったら、存在価値がなくなる……本気でそう思っていた。



