ありのままの君が好き

 あれから楓は家を出て、一人暮らしを始めた。

 実家や学校からほど近く、家賃もお手頃な六畳一間のアパート。
 築年数は古く、少しレトロな雰囲気も楓は気に入っていた。

 当面の生活費は亜澄が出してくれるみたいだが、ずっと頼るわけにはいかない。
 少しでも足しになればと、楓はアルバイトをすることにした。

 アルバイト先は、アパートの近所にある小さな本屋だった。
 こじんまりとした店だが、本の品揃えが楓の好みに合っていて、お気に入りの店だった。

 店主はこの店を一人で切り盛りしている、初老の男性。
 楓は時々店主と話をするうちに、すっかり顔なじみになっていた。
 そんな楓に、店主がアルバイトをしないかと声をかけてくれた。

 楓にとっては、この上なく嬉しい申し出だった。

 
 学校から帰った楓がポストを覗くと、亜澄からの手紙を見つけた。

 すぐにそれに目を通す。
 手紙には、亜澄や美奈の近況がつらつらと書かれている。

 そして最後に、楓の体調を気遣う言葉が一言添えられていた。

 文面を読んでいると、クスッと笑いが漏れてしまった。
 だって、とてもたどたどしいから。

 きっと美奈に言われて書いたのだろう。
 美奈の指示を受け、文句を言いながら文をしたためる亜澄の姿が目に浮かぶ。

 亜澄は父親との離婚が無事に成立し、今は美奈と二人で暮らしている。

 あれから亜澄も変わった。
 穏やかさが、最近少しずつ垣間見えるようになった。

 きっと離婚したことで、少しずつ心の平穏を取り戻しているのだろう。

 まだまだ大変なことはあると思う。
 それでも、美奈と二人で幸せに暮らしていってほしい。

 そして、いつかきっと亜澄と本当の意味で和解できる日がくると信じて――。

 楓自身、初めての一人暮らしやアルバイトはとても大変だったが、充実した毎日を送っている。

 こんなにも幸せでいいのだろうかと思うほど幸せだ。
 たまに、この幸せをいつか失ってしまうのでは、と思い不安になるときもある……。

 でも、そんなときは彼に会うと、そんな思いも消えていく。

 私の運命を変えてくれた人……そして――



 楓は通学路を歩いていた。

 たぶんもうすぐ、あの姿を見つけられる。
 そう思うと、自然と足が速まった。

 毎日会っているのに、すぐにまた会いたくなる。

 いつも彼を探してる。

 楓の瞳がその背中を捉えた。
 逸る胸を抑え、そっと近づいていき、思いっきり叩く。

「いてっ! ……何すんだよ!」

 怒りながら振り返った要は、楓の姿を確認するとにんまりと微笑んだ。

「ごめん、要」

 楓がこれでもかと可愛く、ごめんのポーズをする。

「可愛くねえよ、こいつ」

 要が仕返しとばかりに楓の首に手を回し、自分に引き寄せた。

「いたたっ、ごめんって」

 二人はしばしの間、攻防を繰り返した。

 まるで恋人同士のじゃれ合いのようで、楓はなんだかくすぐったい気持ちになる。

「もう三ヶ月かあ」

 要が懐かしむように空を見上げ、つぶやく。

 あの海岸で、楓が亜澄に想いを伝えてから三ヶ月が経っていた。

 楓の人生で、とても大切な日。
 自分の人生を大きく変えた日だった。

 でも、きっと一人ではここまで来られなかった。

 楓は要に視線を送る。
 その視線に気づいた要は、応えるように目を細めた。

 心臓の音が大きくなり、楓は要から目を逸らす。

「で、どうなの? 母親は」
「うん……美奈と二人でうまくやってるよ」
「そっか、楓は?」
「私も大丈夫。毎日充実してて、楽しいの」

 こんな風に思えたのも、きっと要がいてくれたから。

 言わなければいけないことがある。
 これからも一緒にいたいから、失いたくないから。

 ずっと伝えたかった。
 でも、伝えられなかった想い。

「……私、要がいると強くなれるの。要が傍にいると安心する」

 楓は高鳴る鼓動を抑え、なけなしの勇気を振り絞って叫ぶ。

「私っ、要の傍にいたい! ずっと、ずっと!
 これからも……一緒にいてくれる?」

 楓にとっては、これが精一杯の告白。
 崖から飛び降りるような思いで告げた。

 楓は怖くて要の顔が見られなかった。

 真っ赤な顔をして下を向いている楓に、要が声をかける。

「……楓」

 呼ばれても、楓は要の方を見ない。

 胸が苦しくなるほど鼓動が速くて、どんな顔をして要を見ればいいのかわからない。
 楓は地面ばかり見つめていた。

「楓――好きだよ」

 楓がゆっくりと顔を上げ、要へ視線を向ける。

「い、今……なんと?」

「ぶっ……おっまえ、なんつー顔してんだ」

 要はケラケラと笑う。

「す、好きって、聞こえたような」
「うん、言った」
「嘘!」
「なんでだよ! 前にも言ったろ? 俺はおまえが好、き、な、の!」

 要が楓のおでこを人差し指で小突いた。

 確かに、以前要から告白された。
 あのときはいっぱいいっぱいで、おぼろげにしか記憶がない。

「なんで? どこが?」
「うーん、まあ結構前から気になってて。
 知れば知るほど楓のことが頭から離れなくなって、目で追うようになってた。これって好きってことだろ?」

 楓はしばらく考えてみたが、それでも要が自分を好きになった理由はよくわからなかった。

「でないと、あんなに必死にならないだろ?
 好きでもない女のこと、四六時中考えてられないっての。
 で、おまえは俺のこと好きか?」

 ぐいっと要が楓に迫ってくる。

 楓はもじもじしながら、小さな声で答える。

「うん……好き」

 要は嬉しそうに楓を抱きしめた。
 戸惑い慌てる楓を、要は軽々と抱き上げてしまう。

 こ、これは、お姫様抱っこ!

 楓の顔は真っ赤に染まり、要の腕の中で硬直する。

「ちょっ……おろして」

 腕の中から抜け出そうともぞもぞ動くが、要は面白そうに楓を見つめている。

 要の顔が近づく。
 鼻がくっつきそうなくらいの距離になり、楓は身動き一つできなくなった。

 さらに追い打ちをかけるように、要が耳元で囁く。

「楓、笑って」

 突然のリクエストに、楓は戸惑いながらも恥ずかしそうに微笑んだ。

 その笑顔はとても不器用で儚く、綺麗な宝石のようで――。


 この笑顔を見たかった。
 これが君の笑顔だったんだね。

 とうとう手に入れた、俺の宝物。

 
 要の目に涙が光る。

 大切な宝物を慈しむように楓を抱き、要は静かに宣誓する。

 
 これから、どんなときも君の笑顔を守る。
 そして、それを見守る権利が欲しい。

 病める時も健やかなる時も……楓を愛することを誓います。

 ありのままの君が好きだよ。