あの日があったから

*

 「ねえ、早く行こ」
 チャイムが鳴った瞬間、私以外の三人が綺麗な三角形を作って歩き出す。
 私はその少し後ろを、おまけのように走って追いかける。
 本当は分かっていた。私はもう、あの輪の中に入れていない。
 それでも必死にしがみついていたのは、一人になるのが何より怖かったからだ。
 一人でいる私を見て、クラスの誰かに「あの子ひとりぼっちでかわいそう」と思われること。その哀れみの視線に耐えるくらいなら、惨めに無理やりついていく方が、ずっとマシだと思っていた。

 「さっきのやばくなかったー?」

 「それな、ユキ先生思い出した」

 「うわ、ユキ先生なつ! 元気かなー」

 男女問わず人気がある、明るく元気な性格の美琴(みこと)。
 真面目で責任感のある、あかり。
 クールで大人っぽい奈子(なこ)。
 そして私、杏美(あみ)。私たちはいつも四人組で行動している。

 今年の春、高校二年生の始業式に三人が声を掛けてくれて、グループに入れてもらった。
 三人は中学校が一緒だったらしい。

 「懐かしいなー、中学校に戻りたい」

 「分かる」

 「今も楽しいけど、なんかねー」

 その言葉を聞いて、胸が急にぎゅうっと苦しくなる。
 私のことを言われたんじゃない、って頭では分かっている。
 被害妄想だとしても、そんな気がしてしまった。

*

 「今日の体育は持久走です。四人組を作って、実践する人、タイムを測る人に別れて行ってください」

 「杏美ー、一緒に組も」

 「あ、うん」

 私の名前を美琴が呼んでくれた。四人組を作るときはこのグループに入れるから、一人にならなくて済む。

 「最初どうする? 誰がやる?」

 「ウチ走りたい」

 「あかりは走るの本当好きだね」

 「今日はそんな気分なんだもーん」

 三人の話が盛り上がって、なかなか話が進まない。早く役を決めなければいけないのに。
 時間だけが過ぎ、輪に入れない私は唇をかんだ。

 「……あの、私は何でもいいから、三人で決めてほしいな。あかりは走りたいんだよね」

 「え、いいの、杏美? じゃあ美琴一緒に走ろー」

 「えー、あたし? まぁいいけどさ。奈子もなんなら走っちゃう?」

 「いや、それだとタイム杏美だけで大変でしょ」

 心配そうに私を見た奈子。だけど私は分かっている。本当は奈子も、二人と一緒に走りたいんだということを。
 私一人でタイムを測るなんて大変なことだけど、これは空気を読まなければいけないと悟った。

 「大丈夫だよ、私は気にしないで。三人で走ってきて」

 「本当に? 大丈夫?」

 「うん、バッチリ。任せといて」

 そうやって、いつもの作り笑いを浮かべる。
 本音を押し殺す方が、誰の負担にもならないと思っていた。

 準備体操をして、私はタイムを計るためみんなとは離れた場所に移動した。
 ……嫌だな、一人でいるの。
 違うグループの子たちはほとんど二人ずつで移動しているから、きっとタイムを測るのも二人なんだろう。
 私だけ一人だ。ひとりぼっちなんだ。そう思っていると、後ろから砂利を引き摺る足音が聞こえてきた。

 「あっ! 杏美、やっほー」

 「……沙希(さき)」

 幼馴染の篠塚(しのづか)沙希に声を掛けられた。
 小学校から一緒の沙希はいつも明るく笑っていて、悩みなんて一つもなさそうに見える。
 私とは、月と太陽くらい離れていると思う。

 「杏美、何で一人でいるの? 美琴ちゃんたちは?」

 「美琴たちは走ることになった。私はタイム測る係」

 「それは見たら分かるけど、どうして一人でやろうとしてるの? 二人組でやればいいじゃん」

 「……沙希には、関係ないでしょ。違うクラスなんだし」

 放っておいてほしい。
 そう思って突き放したつもりだったのに、沙希はさらに言葉を投げかけてきた。

 「杏美、それでいいの?」

 「……いいに決まってるじゃん。こうしていれば、我慢していれば、しんどいけどひとりぼっちでかわいそうって思われなくて済む。そんなふうに周りから惨めに思われるの、怖いもん……!!」

 思わず、心の奥底から言葉が出てきた。
 『そのままでいいのってことだよ』
 ……このままでいい。そう思い込むしかなかった。こんな気持ち経験したことのない沙希に口出されたくないよ。

 「そっか。……私も、人のこと言えないけどね」

 「え?」

 「またね、杏美」

 沙希はそう言ってすぐに走り去っていってしまった。一瞬だけお腹のあたりを抑えていたのが、少しだけ気になった。
 結局、一人でタイムを測っている私に気づいて、人数の都合で五人組を作っていたうちの一人が手伝ってくれた。
 その子は晴香(はるか)ちゃん。クラスでは目立っているわけではないものの、優しくて思いやりのある子だ。

 「晴香ちゃん手伝ってくれてありがとう。すごく助かった」

 「いえいえ、杏美ちゃん一人で大変じゃないかなって思ってさ。また何かあったら言ってね!」

 「うん、本当にありがとう」

 そう言って晴香ちゃんは五人組のグループに戻っていった。
 五人という奇数の人数なのに、誰一人仲間はずれになっていない。みんなが周りを見ていて、みんなが知っている話題を話していて。
 ……いいな、羨ましい。あんなふうに自然体でいられるグループがあることが。

 「あーみっ、お待たせ」

 「タイムありがとねー」

 「え、あ、ううん」

 でも、私の居場所は、ここ。ここしかない。
 高校二年生になって二ヶ月、今更グループを変えることなんてできない。
 別にいじめられているわけではないのだから、と自分に言い聞かせた。

*

 今日も一日、やっと学校が終わった。ホッと一息ついて、部活に入っていない私は帰宅の準備を始める。

 「あ、そうだそうだ、これ配り忘れてた。ちょっと一旦みんなストップしてくれー。おい、まだ廊下出るなよー」

 担任がそう言って、全員に一枚のプリントを配った。
 『宿泊学習のお知らせ』と書かれてある。

 「夏休みが終わったらすぐ宿泊学習がある。それはお知らせのプリントだから、親御さんに渡しておくこと。あとバスの座席は二人一組だから、各自決めておいてな」

 二人一組、か。
 思わず拳をぎゅっと握りしめ、その部分のプリントにしわがつく。

 「ねぇねぇ、どうする?」

 「楽しみすぎるー!」

 そんな声が教室中から聞こえてきた。
 美琴たちはきっと、悩んでいるだろうな。誰が私と組むのか……。
 私は別に誰でもいいしどうでもいい。そう思っていると、美琴が私の方に近づいてきた。

 「私さ、杏美と組みたい!」

 「えっ」

 なんで、美琴、私と組みたいだなんて……。
 驚いた。だけど、同時に胸があたたかくなるのを感じる。
 ……そっか、私嬉しいんだ。初めて必要とされた感じがして。

 「うん、組もう」

 「本当ー!? ありがとう杏美」

 「でも何で私と組みたいって言ってくれたの?」

 「え、何でって……杏美ともっと仲良くなりたいからだよー」

 美琴の返答を聞いて、私はこのグループにいていいんだと思った。やっと、ひとりぼっちじゃなくなる……!
 今までずっと暗かった心に、光が差したような気がした。
 けれど、それも一瞬だった。

 「ねぇねぇ」

 「んー、何、美琴?」

 「やっぱり、私奈子と組みたい」

 一瞬で、血の気が引いた。

 「私はいいよ別に。どうしたの急に」

 「んー、なんか、なんとなく」

 ヘラヘラした顔で、美琴はそう答えた。

 何がおもしろいの?
 何がそんなにおかしいの?
 何で笑っていられるの?

 「じゃあ杏美、ウチと組もー」

 「……うん」

 「大丈夫、どうかした?」

 「いや、美琴、何で急に変えたのかなって」

 思わず、あかりにそんなことを言ってしまった。
 さすがに私がかわいそうだと感じたのか、あかりは懸命に首を振る。

 「あ、いや、杏美が嫌いとかそういうんじゃないと思うよ! 急に美琴の気分が変わっただけだよ、気にしなくていいよー」

 あかり、私がこんな思いしてるだろうなって想像もつかないの?
 奈子も、何でそんな急に受け入れてるの?
 美琴……私の期待を返して。

 「ねぇ美琴、さっき杏美と組むって言ってたじゃーん。杏美傷ついてるよー」

 「あ、ごめん! つい奈子と話してたらさ、やっぱ一緒がいいなって思っちゃって」

 それは、悪気なんて一つもない笑顔だった。
 そのとき頭のなかの何かがプツンと切れた気がした。
 突然、息が苦しくなる。息を吸っても吸っても、吸えた感覚がしない。

 どうしてこんなに苦しいんだろう。たった一つのことなのに。
 そう思った瞬間、気づいた。今まで何度も積み重なってきた“我慢”が、全部心に溜まっていたのだと。
 ここにいたら、壊れる。そう確信した。

 「……帰るね」

 「うん、また明日ー」

 一言だけ残して、私は逃げるかのように走り去った。
 ーーそして翌日から、学校に行くことを拒むようになった。
 理由は分からない。きっかけは確かに美琴たちのことがあったからだけど、どうして行きたくない、怖いと思っているのかはよく分からないのだ。

*

 学校を休むようになってから一週間が経つ。
 母は最初は無理やりにでも私を学校へ連れて行こうとしていたけれど、次第に朝声をかけるだけになった。

 「杏美、今日も学校行かない?」

 「うん」

 「あのね、お母さん心配なの。少しでもいいから、お母さんに思ってること話せない?」

 話したら、どうなるか。お母さんはきっと学校側へ報告し、美琴たちは注意されるかもしれない。
 そうしたらまた学校へ行ったとき、今度はいじめられるかもしれない。そんなの無理。

 「……話せないのね、分かった。じゃあさ、今日心療内科に行ってみない?」

 「心療、内科?」

 「そう。一応予約取っておいたんだ。無理にとは言わないけど、カウンセリングと言って悩みや話を聞いてもらえるらしいの。沙希ちゃんも通ってるところみたい」

 え、沙希、心療内科に通っていたの……?
 全然知らなかった。といっても中学ではほとんど関わりがなかったから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど。
 スマホで「カウンセリング」と検索する。心の専門家が話を聞き、気持ちを整理する時間。そんな説明を読んで、知らない人になら話せるかもしれない、と初めて思えた。
 お母さんのように身近な人だったら話しづらいけれど、知らない人なら少しは打ち明けられるのかな。
 そう思い、私は心療内科へ行くことにした。

*

 いざ心療内科へ足を運ぶと、静かで落ち着いた空間に、なんだか緊張してきてしまった。
 同じくらいの年の子や若い年齢の方が多くて驚く。精神疾患を抱えている人たちだけが通うものだと思っていたから。まさかこんなに人がいるなんて。

 「こんにちは。こちらのシートに必要事項を記入してお待ちください」

 渡された紙に、私は名前や生年月日などを記入していく。
 そしてふと視界に入った文章を見て、手を止めた。そこには「学生の方は、いつから不登校になりましたか」と書かれていた。
 ……そっか。私もう、不登校の分類なんだ。
 悔しいし、恥ずかしい。不登校という響きが、胸にグサグサと刺さり、心がえぐられた気がした。
 待合室で待っていると私の名前が呼ばれたため、診察室に入る。

 「こんにちは、失礼します」

 「こんにちは。広瀬(ひろせ)杏美さんと、お母様ですね。はじめまして、私は落合 優佳(おちあい ゆうか)と申します。よろしくお願いします」

 「……お願い、します」

 その人はおそらく三十代くらいのお姉さんで、とても優しい雰囲気だった。

 「杏美さんは今、高校二年生、十七歳ですね。いつから学校に行っていないのでしょうか」

 「一週間前くらいから、急に行かなくなってしまって」

 「一週間前、分かりました。それまでずっと頑張ってたんですね。本当にお疲れ様です」

 そんな優しい言葉を掛けてくれるとは思わなくて、涙をぐっとこらえた。

 「ではお母様は一度待合室でお待ちいただけますでしょうか?」

 「はい、分かりました。じゃああっちにいるからね、杏美」

 お母さんの言葉に、静かに頷いた。

 「改めまして杏美さん、よろしくお願いします。ここでは、話せることだけで大丈夫です。無理に話したくないことまで話す必要はありませんからね」

 「はい」

 「では、何を悩んでいるのか、少しずつ話せることだけでいいので聞かせてもらってもいいですか?」

 怖い。人と話して、またこの前みたいに突然地獄に突き落とされるような、裏切られることになったら。
 ……だけど、この人なら信用できる気がする。
 不思議なことにそう思い、ゆっくり深呼吸をし、話し始めた。

 「友達が、いるんです。今年の始業式に話しかけてくれて仲良くなった友達で。いつも四人組で行動してるんですけど、三人は中学が一緒だったから私だけ、その……輪に入れないことが多くて。仕方ないかなって思ってたんです。周りからひとりぼっちでかわいそうだと思われるよりはマシだって」

 震える声で言葉にすると、今までの出来事が頭に浮かんでくる。
 今思えば、私、ずっと我慢してたんだ。

 「でもこの前少し、辛くなったことがあって。一度は一緒にやろうと言われたことをやっぱり別の子がいいと言われて……。そのとき息も苦しくなって、またあんなふうに裏切られたらと思うと怖くて、学校にも行けなくなってしまって」

 膝に乗せている拳をぎゅっと握りしめた。その上に、一粒の涙がこぼれ落ちる。

 「もう大丈夫ですよ、杏美さん。話してくれてありがとう。とても……頑張っていたんだね。一人で、ずっと」

 「っ……!」

 涙が溢れて止まらなかった。ただ、落合先生の優しい言葉だけが心に響く。
 『頑張っていた』
 その一言だけで、張りつめていたものが崩れた。
 不登校になった自分が恥ずかしい、情けないとすら思っていた。
 だから、こんなふうに誰かに手を差し伸べてもらえるなんて思ってもいなかった。

 「私、周りの目が怖くて……ひとりぼっちにならないようにみんなに合わせて、ずっとっ……耐えてきたんです。こんなことになるなら、最初から周りの目なんて気にせず、一人でいればよかったんですか……? 私は、間違って、いたんですか」

 先生はすぐに答えず、優しく尋ねた。

 「杏美さん。たとえばもし、大切なお友達が今の杏美さんとまったく同じことで苦しんでいたら、『あなたは間違ってる』って言う?」

 「……言わないです」

 「だよね。けれど自分にだけは、そんなに厳しくしてしまうんだね。周りの目が怖かった杏美さんは、今まで精一杯頑張ってきた。怖いと思っていたことから自分を守っていたんだよ。それは“間違い”だったと思う?」

 私は、一生懸命首を横に振った。

 「……でも、今までみたいに戻れる気がしません。また学校に行ってもきっと、耐えられない」

 「そうだよね。学校に無理やり行ってほしいなんて親御さんも私も思っていないから、安心してね。好きなこととかやりたいことをして、自由に過ごそう。とりあえず、また二週間後に来てね。待ってます」

 私は頷いて、その場をあとにする。
 心療内科を出る頃には、少しだけ、心が軽くなっていたような気がした。

*

 だけど、やはり朝になると制服を見るだけで胸が苦しくなった。玄関まで行っても、どうしても靴を履けない。

 「今日も休もうか」

 お母さんのその一言に、小さく頷くことしかできなかった。
 少し楽になれたからといって、すぐに元の私へ戻れるわけじゃない。それでも先生が言ってくれた「間違いじゃない」という言葉は、不思議と心の中に残り続けていた。

 今日から軽く散歩をすることにしたけれど、久しぶりに外に出たからか少し疲れた。
 不思議だ、前までは朝から夕方まで学校に行くのが当たり前だったのに。学校に行かなくなって、体力も落ちてしまったんだろうな。
 けれどずっと学校を休むわけにもいかないし、どうしたらいいんだろう。そう悩んでいたとき、インターホンが鳴った。

 「はーい。あ、沙希ちゃん?」

 「こんにちは、お久しぶりです! プリントを届けに来ました」

 「いつもありがとうね。杏美、沙希ちゃんが来てくれたよ。今日もお母さんが出る?」

 沙希は私が学校に行けなくなってから、家にまでわざわざプリントやノートを届けに来てくれている。
 なんとなく会いたくなくて、お母さんにいつも出ていてもらっていた。
 でも今日は。

 「ううん、私が行く」

 「杏美……無理しないでね」

 「うん、わかってる」

 恐る恐るドアを開けると、いつもと変わらない、笑顔で沙希が立っていた。

 「杏美、久しぶり。元気?」

 「……うん。いつも出られなくてごめん」

 「いいよ。ごめんじゃなくて、ありがとう、でしょ!」

 「ありがとう」

 「それでよし! じゃあ届けたし、私もう帰るね。あんまり人と話してると、疲れるでしょ?」

 帰ろうとする沙希に、私は急いで「待って!」と叫ぶ。
 沙希は一瞬驚いた表情を見せた。

 「どうしたの?」

 「あの、聞きたいことがあって。沙希、心療内科に通ってたの? どうして……?」

 「あぁ。私最近、体調悪くなりやすくてさ。ちょっと不安なことがあると、お腹痛くなったりして。みんなに迷惑をかけたくなかったから、誰にも相談できなくて。ずっと我慢してたらちょっとずつ悪化してきちゃって、カウンセリングしてもらうことにしたんだ」

 「……そう、なんだ」

 まさか、沙希にも悩み事があったなんて。その瞬間ハッと気がつく。
 もしかして体育のときにお腹を抑えていたのは、痛かったから……?
 そのとき私は、『経験したことのない沙希に口出されたくない』なんて考えてしまった。沙希にだって、私と似たような状況にいたのに。
 そんな私の申し訳なさに気づいたのか、沙希はニコッと笑った。

 「杏美の悩んでることに気づけなくてごめんね」

 「私こそ、沙希に嫌なこと言っちゃったと思う。それに体調のこと気づけなかったし……ごめん」

 「……あのさ、私決めたんだ。自分で道を選ぶって」

 「えっ?」

 そう言って沙希は、持っていた鞄の中から一枚のチラシを取り出してきた。

 「あおば学園。通信制高校なんだけど、私、ここに編入することにした」

 「通信制……!? なんで」

 「やっぱり体調悪くなりやすいと、毎日朝から夕方まで学校行くのはきついなって思ってきて。通信制だと無理なく通えるし」

 驚いた。沙希が通信制高校に編入するなんて。

 「なんでチラシを渡してきたの?」

 「行かないかなと思って。杏美も」

 「……ここに?」

 「うん、少し考えてみて」

 通信制高校に、私が……?
 想像がつかない。今の学校ではなく、別の学校に通っている私なんて。
 けれど沙希の言葉を聞いて、私はすぐに「行きたい」と思った。その瞬間、ふと立ち止まる。
 私は、本当にここに行きたいんだろうか。
 ……沙希が行くからじゃない。誰かに誘ってもらえたからというわけでもない。

 「……私、ここに行ってみたい」

*

 二週間が経ち、再び落合先生のもとを訪れた。

 「失礼します」

 「杏美さん、こんにちは。お久しぶり」

 「こんにちは」

 「元気そうで良かった」

 落合先生は相変わらず、優しく笑いかけてくれた。
 私は今日、自分の中で決めたとあることを先生に話しに来た。
 賛成してくれるのか、反対されるのか分からなくて、少し怖いけど……。

 「あの、一つお話したいことがあって」

 「何でも聞きますよ」

 「……私、通信制高校に編入することにしました」

 落合先生は何も言わず、ゆっくり頷きながら静かに話を聞いてくれた。

 「友達があおば学園という通信制高校に編入するらしくて。やっぱり私はもう、あの学校に戻ることは考えられなかったんです。またあの苦痛を味わったら、自分がどうなるか分からなくて怖い……。それなら通信制高校に編入して、好きなことを見つけたいなと思ったんです」

 「そっか。ご両親はなんて?」

 「杏美が決めたことなら応援する、って」

 「そうなんだ、それならもう何も迷うことはないね。杏美さん、自分で自分の未来を決めることができて本当にすごいよ。とてもかっこいい」

 落合先生……。
 やっぱり先生に出会えて良かった。沙希があおば学園を紹介してくれて、家族の協力があったからこその決断だけど、先生に出会えなかったらこんなに前向きになれなかったと思う。

 「そうだ、学校のことは大丈夫? お友達のこととか……」

 「はい。親は友達にされたことを先生に報告したほうがいいって言ってくれたんですけど、そこまで大事にしたくないし、何かされたら怖いので。もう会わないまま、あおば学園に行こうと思います」

 「そっか、杏美さんが決めた道なら応援する。もし辛いこと、苦しいことがあったらまたいつでも相談してくださいね。待ってます」

 「はい。先生、あの日『間違いじゃない』って教えてくれて、ありがとうございました。先生のおかげで前を向けました」

 お礼を言うと、先生は静かに首を横に振った。

 「私は少しアドバイスをしただけで、気づいて選んだのは杏美さん自身だよ。自分に自信を持ってね」

 「……はい!」

 外に出てふと足元を見ると、雨上がりのアスファルトが光っていた。
 まるで私のスタートを見届けてくれているようで、気分がとても良かった。

*

 不登校になってから、もうすぐ二ヶ月が経つ。けれど私は今、新たなスタートを切ろうとしている。

 「だ、大丈夫かな、本当に。怖いよ」

 「大丈夫だって。あおば学園って少人数制だから私も杏美もクラス一緒だし」

 「それはそうだけど……」

 沙希と一緒に、あおば学園の教室の前に立っている。新しい制服に新しい学校なんて、とても緊張してしまう。

 「はじめまして、沙希ちゃんに杏美ちゃん。担任の早川(はやかわ)です。よろしくね」

 「よろしくお願いします」

 早川先生は、優しくて穏やかな女性の先生だった。
 それにしても自分が“杏美ちゃん”と呼ばれたことに驚いている。この高校って、先生とこんなに距離が近いんだ……!
 相談しやすそうでいいなと思った。

 「みなさん、今日は編入生を紹介します。篠塚沙希ちゃんと、広瀬杏美ちゃんです」

 「はじめまして、篠塚沙希です。よろしくお願いします!」

 「えっと、広瀬杏美です。よろしくお願いします」

 クラスは三十人程度の人数だ。その全員が私たちに注目していて、視線が怖い……。
 俯いてしまった瞬間、拍手が広がった。

 「よろしくね、沙希ちゃん、杏美ちゃん!」

 「仲良くしよー!」

 クラスの人たちみんなが笑顔で、私たちを迎え入れてくれた。
 ……こんなに、明るい雰囲気なんだ。
 通信制高校って、もっと大人しいイメージがあったけど。男子も女子も仲良くて、いい雰囲気だなと思う。

 「杏美ちゃーん! ここの席だよ」

 「あ、えっと……ありがとうございます」

 「私は未来(みき)。で、隣の席のこの子が」

 「葉月(はづき)です。よろしくね」

 私は二人にぺこっと軽く頭を下げた。

 「あ、急に話しかけてごめん! もしかして人と話すの苦手だった……?」

 「え、あ、違います! ちょっと緊張してて」

 「ほんとに? 良かった。私も最初は緊張しててトイレで泣いてたんだー」

 「未来、別人みたいに大人しかったもんね」

 未来ちゃんの笑顔を見て、思わず笑ってしまった。さっきまでの緊張が、少しだけほどけた。
 けれど編入初日で友達ができるなんて、嬉しいな。そう思った瞬間、美琴たちとの出来事を思い出した。頭がぐわん、と揺れる。
 ……ダメダメ、もう忘れよう。美琴たちには「体調不良のため転校する」と一言だけ連絡し、それ以来連絡を取っていない。嘘を吐いてしまったのは申し訳ないけど、本当のことを言うのは怖かった。

 「大丈夫、杏美ちゃん?」

 「なんかすごく苦しそうな顔してたよ」

 「え……ご、ごめんね」

 気づかれてしまうなんて思わなくて、動揺してしまう。そんな私の手を、二人は優しく握ってくれた。

 「私もさ、中学でいろいろあって、この高校に決めたんだー。でも今はすっごく楽しいから、杏美ちゃんも安心して慣れて欲しいな」

 「私も中学のとき人間関係で悩んでたの。今は不安も多いと思うけど、少しずつ楽しんでいこう」

 「未来ちゃん、葉月ちゃん……」

 こんなふうに、私に優しくしてくれる人が近くにいるなんて。それだけでもう幸せだ。
 思わず溢れてきそうな涙を引っ込める。きっと泣いたら、二人はもっと心配するだろうから。

 「ありがとう、優しくしてくれて」

 「困ったときは助け合いだよ!」

 「そうだよ。何かあったら頼ってね。今日から友達なんだから」

 「……うん!」

 授業のときや休み時間でも、誰も私を置いていくなんてことはしない。みんな輪に入れてくれるし、話もちゃんと聞いてくれる。
 この高校で、上手くやっていけるといいな。

*

 「杏美ちゃん、沙希ちゃん! いつも葉月と一緒にお昼食べてるんだけど、みんなで食べよ」

 未来ちゃんが当たり前みたいに机をくっつけた。その「当たり前」が、私にとって何よりもうれしいことだった。
 それに週一回だけ通うコースだから、「また来週ね」とその一言をみんな必ず口にする。それがこの学校の好きなところ。
 学校に慣れてきたある日。

 「え、沙希ちゃん、このアイドル好きなの!?」

 「私も未来も好きなんだよね」

 「そうなの!? 初めてこのアイドル推してる人に会えたかも、すごく嬉しい!」

 沙希が推しているアイドルグループを未来ちゃんも葉月ちゃんも好きだったらしく、三人はものすごい盛り上がりを見せている。
 ……あ、私、この感覚知ってる。四人組のなかで自分だけ輪に入れないこと。あのときと同じだ。
 話に入りたいけど、私はこのアイドルのことを全く詳しくない。

 「その曲いいよね、毎日聴いてる」

 「分かる!」

 「かっこいいよね」

 前までの私だったら、我慢していればグループにい続けられると思っていた。でも、今の私はそうは思えない。
 相手が空気を読んでくれればいいのにってずっと思っていたけど、そうじゃないと気づいた。自分から行動しなければ、何も変わらないことに。
 勇気を出して、口を開く。

 「あのっ、私にもそのアイドルのこと、教えてくれないかな」

 「え、杏美ちゃん」

 ……怖い。やっぱり我慢しているべきだったのかな。
 けれどそんな不安とは裏腹に、未来ちゃんが突然私に頭を下げてきた。

 「えっ、未来ちゃん!?」

 「まじごめん、杏美ちゃん! 杏美ちゃんが話に入れてないの全然気づかなかった。傷つけちゃったよね」

 「あまりにもこのアイドル好きなの珍しくてつい盛り上がっちゃった。ごめん、杏美ちゃん」

 「私も。ごめんね、杏美」

 「みんな……ごめん、謝ってほしいわけじゃないの。あのね、前の私なら何も言えなかった。でも今日は、自分から『教えて』って言えたから。それがすごく嬉しい」

 そう言うと、みんなはホッとしたようで、すぐに笑顔を取り戻した。

 「じゃあ、最初に聴くならこの曲!」

 「MVも見せたい!」

 「杏美は誰が気になる? 私はね、この子が推し!」

 「あははっ、布教タイムだね。んー、私は……」

 四人で顔を寄せて一台のスマホをのぞき込む。誰かに合わせるためじゃなく、「知らないから教えて」と言えた私が、ちゃんと輪の中にいる。
 それが、なんだか嬉しかった。

*

 月日が流れ、今日はあおば学園の卒業式。
 式が終わり、「卒業おめでとう」の声と笑い声が校庭いっぱいに広がっていた。
 未来ちゃんや葉月ちゃん、沙希と並んで写真を撮り終えると、みんなは嬉しそうにスマホの画面を見つめる。

 「いい写真撮れたね!」

 「絶対一生の思い出だよ」

 そんなみんなの笑顔を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなった。
 昔の私は、誰かに誘われるのを待つことしかできなかった。置いていかれないように、三人の少し後ろを必死で追いかけていた。
 あの日の私は、「ひとり」が怖かった。
 だから、自分を押し殺して笑っていた。
 でも、本当に苦しかったのは、ひとりでいることじゃない。自分の気持ちを見失ってしまうことだった。
 私はゆっくり息を吸って、みんなを見渡した。

 「このあと、卒業プリみんなで撮りに行かない?」

 三人が同時に笑った。

 「行く行く!」

 「制服最後だもんね!」

 「杏美、ナイス提案!」

 私たちは校門へ向かって走り出す。
 誰かの後ろじゃない。
 誰かを置いていくなんてことは絶対ない。

 「ね、プリ撮ったあとはカフェ行かない?」

 「いいね!」

 「みんなが行きたい場所、行こうよ!」

 「そうだね、夜まで楽しんじゃおー!」

 みんな肩を並べて笑い合える、この場所が私の居場所だった。
 逃げたんじゃない。あの日、十七歳の私は、自分を守るために未来を選んだ。

 正解なんて一つしかないと思っていた。
 でも、今なら胸を張って言える。
 私の正解は、私が選んでいい。