森谷柚葉のひとり牡蠣

 初めて鳥羽の生牡蠣を口にした時、パリで食べたブランド牡蠣の事を思い出した。
 大学四年の冬、単位をすべて取り終えたあと、唯一の友人である彩葉(いろは)と卒業旅行でパリへ行ったことがある。柚葉、彩葉と名前の響きも似ているし、サブカル好きな空気感も波長が合って、大学時代で一番気の置けない存在だった。食べ物目当ての柚葉と、ファッション目当ての彩葉。お互いの「好き」に付き合う約束で決行した旅だった。

  朝は彩葉の希望で蚤の市やマルシェを巡り、ランチは柚葉セレクトのカフェでオニオングラタンスープを飲んだり、マレ地区のファラフェルや、パン屋で購入したものを公園で食べたりした。午後は二人とも好きな現代美術館を巡り、バスティーユの雑貨屋も覗いた。

 そして夜は、柚葉の一番の目的だったオイスターバーへ入った。エカイエと呼ばれる職人が仕立ててくれた一粒、ギラルドーにレモンだけを絞って口に運んだ時の衝撃は、今でも覚えている。 モン・サン・ミシェルまで足を延ばして、名物のオムレツや牡蠣も食べた。それでも、あのパリの一皿には敵わなかった――あの感動した牡蠣と、鳥羽の海沿いで食べるこの一粒が、はっきりと重なったのだ。

 生牡蠣に当たったことは、一度もない。胃腸が強いわけではないけど、物心つく前から、広島にルーツがある父に、だいだいの果汁と酢に三日間漬け込んだ酢牡蠣を食べさせられていたからだ。広島の牡蠣はコクが強い分、酢に漬けないと苦みが残る。日本の生牡蠣は苦いものだと、長らく思い込んでいたのは、この記憶のせいだった。

 あとになって知ったのだが、鳥羽の牡蠣は紫外線で殺菌した海水に、数日間浸けて浄化させてから出荷するらしい。生食用の雑味を抜く工程は、フランスのやり方とよく似ている。伊勢志摩の山から流れ込む水の質がいいことも関係しているという。理屈で説明されると納得するけれど、柚葉の舌は、理屈より先に似ていると気づいた。父の英才教育のおかげだ、感謝しないと。

 牡蠣に一番合うのは、本当はシャブリだと思っている。パリで覚えた組み合わせだ。辛口の白ワインは外せない。けれど外でストレートの白ワインを飲むと、酔いが回りすぎるから、今日も炭酸水で割って我慢している。

 パリのカフェで食べた牛肉のタルタルとブルゴーニュの赤も悪くなかったけれど、あの牡蠣とシャブリの組み合わせには敵わなかった。

 最近は大人になったのか、冬になると時々、あの父の酢牡蠣が無性に食べたくなる。いつか父を鳥羽に連れてきてやりたい、と柚葉は思っている。

 食べ放題の蒸し牡蠣がカウンターに運ばれてくると、テーブルの代表者が急いで取りに行く。柚葉も後に続く。列に並び、自分の番が来ると五個トレーに入れて、ついでに、自分の席の番号札のついた焼き牡蠣が盛られたトレーも取って席に着く。食べ放題はリーズナブルだけど、自分で取りに行く必要があるので一人だと大変忙しい。
 アヒージョセットもテーブルに届いて、注文した品は全部揃った。

 ここからは牡蠣を開けていく。左手にナイロン手袋をはめて、その上から軍手も装着。アツアツだから火傷防止もかねてしっかりと。蒸し牡蠣の殻の隙間にナイフを差し込みガバっと開け、貝柱も剥がすと、ジューシーな牡蠣とスープが溢れそうになる。そこにレモンを絞り、口に運ぶ。箸で食べてもいいけれど、殻を口につけてスープを飲むことも出来る。そして、空いた殻は指定のバケツに捨てていく。

 焼き牡蠣は水分量が少ないため、殻から外して時間が経ってしまってカサカサになったら、アヒージョに投入しておく。オイルで温めると乾燥した牡蠣が復活する。アヒージョのオイルが無くなれば、持ち込んだバジルソースやポン酢、レモンなどで味変する。

 蒸し牡蠣目当てで来ているから、蒸し上がれば毎回取りにいってしまう。他の人たちもそうなのかも。牡蠣の旨味を逃がさないこの調理法が最高だから。

「毎年来てくれはりますよね」

 空いたお皿を下げに来た女性店員が、覚えていたらしく声をかけてくれた。このお店には三年連続来ているし、一人だから印象に残っているのかも。

「はい。牡蠣が好きなんです」

 店員は「ありがとうございます」と微笑んで、それ以上は詮索することなく、厨房へ戻っていった。

 牡蠣の殻をナイフでガシガシ開けていると、なんだか視線を感じて顔を上げてみる。すると、少し離れた席に、知った顔があった。でも他人の空似かもしれない。

 近づくにつれて、顔がはっきりしてくる――あれは紛れもなく……川瀬だ。

「……森谷さん」

 川瀬は明らかに驚いていたが、柚葉も同じだ。それ以上に、彼が私服姿なのが少し新鮮に映った。作務衣姿の厳しそうな職人の顔ではなく、普通に今風の人だ。柔らかい表情をしているし、思ったよりファッションセンスも普通だ。生成りのインナーにボタンレスのチャコールのカーディガンを合わせている。

「川瀬さん、こんにちは……」

 突然の事でどう説明すればいいのか分からなくなる。柚葉は仕事以外で男性と話すことが苦手なのだ。
 すると、川瀬の方から、取引先の集まりで、たまたまここで食事していたのだと教えてくれた。
 言葉が本当にでてこない。それに、昨日の今日でちょっと気まずいし……。