森谷柚葉のひとり牡蠣

 もうじきイベント終了時間の午後五時。スタッフに連絡すると、特に問題はないと返信があったから、タクシーの行き先を伊勢神宮に変更した。急に思いついてしまったからしょうがない。

 今年はまだ参拝してないことに気づいたのだ。毎年この時期に伊勢に来るから、恒例行事になっている。本当は初詣に来るべきだが、なんせ人が多すぎてあの時期は避けたい。今年も元気で過ごせたから御利益があったのかも。

 それに今はどう口説けば、白露山をコンクールに出してもらえるかが問題だ。話してみると川瀬は思ったよりとっつきにくくなかった。もう少し、頑張れば信じてもらえるのだろうか。

 タクシーを降りて、吸い込まれるように内宮の鳥居をくぐると、空気の温度が少し変わった気がした。ヒンヤリとした風が頬を撫でて、終わったばかりの紅葉の枯れ葉がカサカサと舞っている。巨大な木は根っこが盛り上がっていて、樹齢百年は超えていそう。

 柚葉は特別信心深いわけではない。ただ、ここに来ると、仕事のことを考える回路が一度切れるのが好きだったりする。少しは運気が上がるだろうかと、参道の玉砂利を踏みながら、五十鈴川の水面を見下ろす。多国籍な観光客の話し声が、川の音に薄れて混ざっていく。日本なのに日本じゃないみたい。
 柚葉は誰とも歩調を合わせず、自分のペースで進んだ。

 参拝後は、おかげ横丁を歩く。いつ来てもノスタルジックなこの街は、タイムスリップした気分になる。モダンな建物が増えているけれど、この古い町並みがずっと残ってて欲しいと柚葉は願うのだった。

 いつもの定番ルートの、赤福本店の暖簾が目に入った。冬季限定の赤福ぜんざいがあることは、周知の事実だ。みんなこの為に来ているのだから。行列に並んで注文し、空いた席を探して、店先の縁台に座る。札を台に置いて待つ事数分。トレーに乗せられた赤福ぜんざいと塩昆布、ほうじ茶のセットが運ばれてきた。

 早速、陶器の椀に手をつける。焼いた餅の香ばしさと、こし餡の甘さが、冷えた指先にじんわり染みた。塩昆布をかじり、またぜんざいに戻る。

「あんこは冬に食べるのが一番」

 誰に言うでもなく、心の中でそう結論づける。これは柚葉にとって、ちょっとした年中行事だった。毎年食べられるのを密かに楽しみにしている。完食後はほうじ茶を口に含み、甘ったるい後味を和らげていく。

 トレーを返却しようと立ち上がると、和装の女性店員が「置いといてくださいね」と柔らかく微笑んでくれて、かなり癒された。

 おかげ横丁のショップをチェックしつつ、イベント会場のバックヤードへ。もう会場はクローズしているけれど裏側では、明日の準備が行われている。スタッフの申し送りと、在庫チェックを行うが、問題は見つからなくて安心する。

 明日、柚葉は午前中は別件の仕事があり、午後は半休になっている。六日ぶりの休日だ。明日はここはスタッフに任せよう。

 作業を終えると、送迎車が来るまでまだ三十分ほど余裕があったから、どこかで時間を潰そうと、おかげ横丁の路地を少し歩いてみる。そこに、伊勢角屋麦酒の看板が飛び込んできた。日本酒やワインだけでなくビールも扱う身としては、素通りできない。

 カウンターで頼んだのは、三種類の飲み比べセット。少量ずつなので、テイスティングにはちょうどいい。定番のペールエール、伊勢産ゆずを使ったヒメホワイト、そしてヴァイツェン。
同じビールでも、ホップ、ゆず、酵母で香りがどう変わるのか。酒好きとしては、三つ並べられると試したくなる。

 小ぶりのプラカップを順番に口へ運ぶ。琥珀色のペールエールは柑橘系のホップが爽やかでコクが程よくある。ヒメホワイトはゆずの香りが軽やかで、なんだか伊勢っぽい。

 最後のヴァイツェンは、柚葉が一番好きなビールだ。ドイツで飲まれているこのタイプは、バナナのようにフルーティーで、クローブを思わせるスパイシーな香りが魅力だ。一口飲むだけで、小麦のまろやかさと酵母由来の甘い香りが広がっていく。

「うん、三つとも全然違う……でも、全部好き」と心の中で呟く。

 仕事ならここで手帳を開くところだけれど、今日はメモを取らない。ただ、美味しいと思いながら飲む一杯も、たまには悪くない。

 ほとんど飲み終えたところで、スマートフォンが震えて、まもなく送迎車が到着するという知らせだった。

 本日の宿は、志摩アンダルシア・ヴィレッジのヴィラ・マルベーリャだ。ここは今回から担当になった取引先である。自社のワインや日本酒を採用してもらっているが、実際には行ったことがないので楽しみだ。