ナビもセットしたけれど、前回タクシーで行ったからなんとなく道は覚えている。十分走ると伊勢の街並みから、急に竹林に囲まれていく。
実は、川瀬から連絡が来た昨夜から、緊張が続いている。良い話だといいけど。
到着して、白露酒造の駐車場に車を停めて、足早に入り口へと進む。
酒蔵の引き戸は、初めて来た時と同じ音を立てて開いた。麹の匂いも変わらない。店番の年配の方に奥へ行くように言われて、直接試飲室に向かうと、川瀬がそこで待っていた。
前回よりも少し遅めになったからか、日差しの角度が違っていて、格子越しの光が、竹の影の輪郭を座卓にくっきりと落としている。
柚葉は、二日前と同じ椅子を選んで腰を下ろすと、欠けた茶碗が、今日も同じ場所に置かれた。
「ご連絡ありがとうございます」
「いえ、伊勢茶どうぞ」
「はい。あの、新商品の日本酒、とても美味しかったです。フルーティーで……」
「そうですか。それは良かったです」
そこから、しばらくはどちらも口を開かなかった。その間に「いただきます」と声をかけて、伊勢茶をいただく。今日もとても美味しい。
その数秒後、先に話し出したのは川瀬だった。
「この間の、鳥羽での話なんですけど」
柚葉は欠けた茶碗を置き、川瀬の方を向いて、黙って続きを待つ。
「海外のお客さんに、うちの酒が刺さらへんかったこと、ずっと引きずってて……。一回スルーされただけやのに、それが全部やと思い込んで……」
川瀬は自身の茶碗を、意味もなく少しだけ動かす。
「森谷さんが、一人で牡蠣食べてるとこ見て。誰かに見せるためでも、評価されるためでもなく、ただ好きやから、来てはるんやなって伝わってきて。それで、自分は酒のこと、いつからそんな風に見れんくなったんやろって思って……」
柚葉は、否定も肯定もしない。ただ、川瀬が全てを話しきるまでは……と思い見守る。
「一回スルーされたくらいで、諦めてる場合ちゃうなって、思い直したんです」
それは、決意というより、ようやく元の場所に戻れたという感じに見えた。
そして、思いつめた表情で川瀬が続ける。
「フランスのコンクールの出品用の資料、もう一度いただけますか?」
「はい! もちろんです!」
柚葉は鞄から、あの日仕舞った資料を取り出し、座卓の上に広げる。差し込む夕陽が、今度は資料を茜色に染めた。
「結果は、分かりません。届かないかもしれない。それでも、大丈夫ですか……?」
柚葉は川瀬がもしダメだったら、また自信を無くしてしまわないか、心配で仕方なかった。不安気な顔をしていたのかもしれない。しかし、それを裏切るように、川瀬はニカッと笑って口を開いた。
「覚悟決めました。挑戦してみたいです」
川瀬の満面の笑みを初めて見れた気がする。柚葉は嬉しくなって、一緒に笑った。
それから、コンクールについて話したり、雑談したりで、辺りは暗くなり始めていた。
気づけば一時間以上が過ぎている。家族経営ということもあり、親や兄弟、親戚の承諾を得なければならないそうで、この日はここで切り上げる運びとなった。
電車の時間もあるからと、柚葉が席を立つと、駐車場まで川瀬が見送ってくれた。
車に乗り込もうとした時、川瀬が思い出したように口を開く。
「森谷さんって、またこっちに来るんですか」
「はい。牡蠣の季節になったら」
川瀬は不思議そうに「酒目当てじゃなくて?」と返した。
「もちろん、酒もです。仕事があればいつでも」
柚葉は微笑み、視線を合わせる。二人のわだかまりは溶けたようだ。
不意に、川瀬が何か言いかけてたけれど、止めて……結局それ以上は笑ってごまかされる。
柚葉は車に乗り込み、窓を開けて「良いお返事、待ってます」と軽く頭を下げた。川瀬も同じくらいの角度で頭を下げ、「はい。前向きに検討します」と言って、手を振ってくれる。
窓を閉め、アクセルを踏み込んで走り出した。車は竹林を越えて、来た道を戻っていく。柚葉はかなり嬉しかった。白露山が世界に届けられるかもしれないから。
伊勢駅前店舗にレンタカーを滑り込ませ、返却手続きを済ませる。
店舗を出て、赤い車に一度だけ振り返ってから、キャリーケースを引き直した。
そこで、上司に一言だけ報告を送っておく。
《白露酒造、出品前向きです》既読はすぐについた。
伊勢駅構内に辿り着くと、電車の時間までにまだ余裕があったから、お土産でも買おうと駅の売店で物色する。
そこで、自分用と職場用に紅白の赤福を籠に入れる。売り切れてなくて良かった。ついでに、太閤出世餅を一箱と、柿の葉寿司の折もまとめて会計を済ませた。
太閤出世餅は、近鉄の車内でお茶菓子にでもしよう。柿の葉寿司は、晩御飯にする予定だ。
京都の家の冷蔵庫にはなにもないし、ちょうどいい。
カフェでコーヒーをテイクアウトして、近鉄の特急に乗り込み、座席に落ち着いた。二時間の列車の旅がまた始まる。
発車のベルが鳴り、電車がゆっくり動き出しても、柚葉はしばらく何もせずに、ただ、窓の外の伊勢の風景が流れていくのを眺めていた。
今回も盛りだくさんの出張だったな……。
一番の目的、白露酒造のコンクール出品への希望が見えたのは大きな収穫だ。
五分ほど経過した頃に、紙箱から太閤出世餅を一つ取り出す。焼き目のついた餅は、まだ少し温かかった。口に入れると、粒あんの甘さが、旅の終わりにちょうどよくて、心に染みる。
来年の十二月も、きっと鳥羽の牡蠣小屋に――。
また、来よう。
柚葉は、小さくなる伊勢の夜景を目で追っていた。
群青色の空に浮かぶ、ぽつぽつと遠ざかっていく灯火が綺麗で……。
その時、テーブルに置いておいたスマートフォンが震えた。
―FIN.―
実は、川瀬から連絡が来た昨夜から、緊張が続いている。良い話だといいけど。
到着して、白露酒造の駐車場に車を停めて、足早に入り口へと進む。
酒蔵の引き戸は、初めて来た時と同じ音を立てて開いた。麹の匂いも変わらない。店番の年配の方に奥へ行くように言われて、直接試飲室に向かうと、川瀬がそこで待っていた。
前回よりも少し遅めになったからか、日差しの角度が違っていて、格子越しの光が、竹の影の輪郭を座卓にくっきりと落としている。
柚葉は、二日前と同じ椅子を選んで腰を下ろすと、欠けた茶碗が、今日も同じ場所に置かれた。
「ご連絡ありがとうございます」
「いえ、伊勢茶どうぞ」
「はい。あの、新商品の日本酒、とても美味しかったです。フルーティーで……」
「そうですか。それは良かったです」
そこから、しばらくはどちらも口を開かなかった。その間に「いただきます」と声をかけて、伊勢茶をいただく。今日もとても美味しい。
その数秒後、先に話し出したのは川瀬だった。
「この間の、鳥羽での話なんですけど」
柚葉は欠けた茶碗を置き、川瀬の方を向いて、黙って続きを待つ。
「海外のお客さんに、うちの酒が刺さらへんかったこと、ずっと引きずってて……。一回スルーされただけやのに、それが全部やと思い込んで……」
川瀬は自身の茶碗を、意味もなく少しだけ動かす。
「森谷さんが、一人で牡蠣食べてるとこ見て。誰かに見せるためでも、評価されるためでもなく、ただ好きやから、来てはるんやなって伝わってきて。それで、自分は酒のこと、いつからそんな風に見れんくなったんやろって思って……」
柚葉は、否定も肯定もしない。ただ、川瀬が全てを話しきるまでは……と思い見守る。
「一回スルーされたくらいで、諦めてる場合ちゃうなって、思い直したんです」
それは、決意というより、ようやく元の場所に戻れたという感じに見えた。
そして、思いつめた表情で川瀬が続ける。
「フランスのコンクールの出品用の資料、もう一度いただけますか?」
「はい! もちろんです!」
柚葉は鞄から、あの日仕舞った資料を取り出し、座卓の上に広げる。差し込む夕陽が、今度は資料を茜色に染めた。
「結果は、分かりません。届かないかもしれない。それでも、大丈夫ですか……?」
柚葉は川瀬がもしダメだったら、また自信を無くしてしまわないか、心配で仕方なかった。不安気な顔をしていたのかもしれない。しかし、それを裏切るように、川瀬はニカッと笑って口を開いた。
「覚悟決めました。挑戦してみたいです」
川瀬の満面の笑みを初めて見れた気がする。柚葉は嬉しくなって、一緒に笑った。
それから、コンクールについて話したり、雑談したりで、辺りは暗くなり始めていた。
気づけば一時間以上が過ぎている。家族経営ということもあり、親や兄弟、親戚の承諾を得なければならないそうで、この日はここで切り上げる運びとなった。
電車の時間もあるからと、柚葉が席を立つと、駐車場まで川瀬が見送ってくれた。
車に乗り込もうとした時、川瀬が思い出したように口を開く。
「森谷さんって、またこっちに来るんですか」
「はい。牡蠣の季節になったら」
川瀬は不思議そうに「酒目当てじゃなくて?」と返した。
「もちろん、酒もです。仕事があればいつでも」
柚葉は微笑み、視線を合わせる。二人のわだかまりは溶けたようだ。
不意に、川瀬が何か言いかけてたけれど、止めて……結局それ以上は笑ってごまかされる。
柚葉は車に乗り込み、窓を開けて「良いお返事、待ってます」と軽く頭を下げた。川瀬も同じくらいの角度で頭を下げ、「はい。前向きに検討します」と言って、手を振ってくれる。
窓を閉め、アクセルを踏み込んで走り出した。車は竹林を越えて、来た道を戻っていく。柚葉はかなり嬉しかった。白露山が世界に届けられるかもしれないから。
伊勢駅前店舗にレンタカーを滑り込ませ、返却手続きを済ませる。
店舗を出て、赤い車に一度だけ振り返ってから、キャリーケースを引き直した。
そこで、上司に一言だけ報告を送っておく。
《白露酒造、出品前向きです》既読はすぐについた。
伊勢駅構内に辿り着くと、電車の時間までにまだ余裕があったから、お土産でも買おうと駅の売店で物色する。
そこで、自分用と職場用に紅白の赤福を籠に入れる。売り切れてなくて良かった。ついでに、太閤出世餅を一箱と、柿の葉寿司の折もまとめて会計を済ませた。
太閤出世餅は、近鉄の車内でお茶菓子にでもしよう。柿の葉寿司は、晩御飯にする予定だ。
京都の家の冷蔵庫にはなにもないし、ちょうどいい。
カフェでコーヒーをテイクアウトして、近鉄の特急に乗り込み、座席に落ち着いた。二時間の列車の旅がまた始まる。
発車のベルが鳴り、電車がゆっくり動き出しても、柚葉はしばらく何もせずに、ただ、窓の外の伊勢の風景が流れていくのを眺めていた。
今回も盛りだくさんの出張だったな……。
一番の目的、白露酒造のコンクール出品への希望が見えたのは大きな収穫だ。
五分ほど経過した頃に、紙箱から太閤出世餅を一つ取り出す。焼き目のついた餅は、まだ少し温かかった。口に入れると、粒あんの甘さが、旅の終わりにちょうどよくて、心に染みる。
来年の十二月も、きっと鳥羽の牡蠣小屋に――。
また、来よう。
柚葉は、小さくなる伊勢の夜景を目で追っていた。
群青色の空に浮かぶ、ぽつぽつと遠ざかっていく灯火が綺麗で……。
その時、テーブルに置いておいたスマートフォンが震えた。
―FIN.―



