「はぁ……今年もダメかな……」
大きなため息が漏れてしまう。今回のオファーも断られたら、別の酒蔵を探すしかない。
しかし、森谷柚葉には勝算がある。白露酒造の「白露山」は間違いなく金賞を狙える酒なのだ。そこだけは、疑う余地はない。
フルーティーな甘みと、日本酒らしくない癖の無さ。まるでボジョレーのような軽さと、すっきりとした喉越し。これほど完成度の高い日本酒には、滅多にお目にかかれない。
今朝は、京都駅から午前六時ちょうどの始発急行に乗り込んだ。直通の特急では九時の設営開始に間に合わないからだ。伊勢出張は一年ぶりで、恒例となっている日本酒イベントのために、二泊三日滞在する。
途中の大和八木駅で特急に乗り換えて一時間、伊勢市駅には八時二十四分に着く。急いで向かえば、九時の設営開始には余裕で間に合うはずだ。
ガタゴトと小気味よい音を立てて走る通勤電車のロングシートに深く腰掛け、膝の上で開いた手帳を見つめる。不意に車内チャイムが鳴ると、伊勢到着を告げるアナウンスが流れ始めた。
ふと窓の外を見ると、電車は宮川の鉄橋を渡っていて、朝陽を浴びた川面が、きらきらと輝いている。
――この先の鳥羽には生牡蠣がある。蒸し牡蠣も焼き牡蠣も好きだけれど、生牡蠣はこの時期にしか食べられない……ダメダメ、今回はイベントがメインだ。日本酒イベントを、今年も成功させないと。
柚葉は手帳をパチンと閉じ、荷物を鞄に収めて下車する準備を整えた。
さあ、仕事頑張るぞ。
伊勢市駅に着くと、柚葉はキャリーケースを引いてホームへ降りた。朝の空気は海が近いせいか、潮風を感じて京都より少し寒いかもしれない。
駅前のターミナルに止まっていたタクシーに滑り込み、おかげ横丁近くのイベント会場へ向かった。
会場には、すでに搬入を終えた酒蔵やスタッフが集まっていた。まだ開場前だというのに、あちこちで慌ただしく人が行き来している。
柚葉も自社のブースへ向かい、段ボールの開封を手伝い始める。
試飲用のグラスをトレーに並べ、パンフレットを補充し、酒の銘柄と価格をそれぞれ確認していく。現地スタッフと手分けして作業を進めていると、あっという間に十一時、開場時間だ。
オープンすると、お客様が少しずつ増えてきた。平日の金曜にしては、まずまずの入場者数だ。
「森谷さん、この銀峰峡シリーズはどうしましょう?」
「それは目玉なので、前列にお願いします。あと、次のお客さんが来る前に試飲用のグラスを補充しておきましょう」
午前中は、思っていた以上に忙しかった。初日だから毎年こんな感じだけれど、去年と同じスタッフだから、一時間もすれば身体が思い出してくれたようだ。
平日なので、すぐに客足が落ち着いたため、スタッフには順番に休憩へ行ってもらう事にした。時間差で二人ずつ行ってもらって、一時を回った頃、最後のスタッフが戻ってきた。
「森谷さん、戻りました! 休憩、行ってくださいね」
「はい。じゃあ、行ってきます。なにかあれば連絡ください」
「お疲れ様でした」とスタッフに見送られながら、会場を後にする。
予定していた酒蔵への訪問時間まで、まだ少し余裕がある。平日だし一人なら店が混んでいても入れるはずだ。それに、ランチタイムのピークも過ぎているし。
柚葉はスマートフォンを開き、地図アプリにリストアップしておいた店へ向かった。
会場近くの小さな食堂で、予想通り空いている。店内に入ると「好きなお席にどうぞ」と女性店員が声をかけてくれて、席に着くとすぐにお冷を持ってきてくれたから、注文もスムーズだった。ここまで、シミュレーション通り。
ランチは、釜揚げしらす丼にしようと決めていた。
目の前に置かれたどんぶりは、ふっくらとしたしらすの上に、センターの卵黄とその周りに刻んだ紫蘇、いりごまが散りばめられている。わさび醤油をかけて、細長い木のスプーンで掬いあげ、まずはそのまま一口。
「美味しい……」
小さな声が漏れてしまった。しらすの塩気に、卵黄のまろやかさと紫蘇の香りが重なる。
添えられた赤だしには、あおさと豆腐と葱が浮かんでいた。飲んでみると、あおさの風味が濃くて磯の香りが鼻に抜けていく。
「これは当たり」
柚葉は心の中で呟き、もう一口、今度は卵黄を崩してご飯と一緒に頬張った。京都でもしらすは食べるけれど、ちりめん山椒が多い。釜揚げしらすはやはり、海沿いの街で食べる方が格別に美味しい。
一人で食べていても、誰も気にしない。むしろ、そういう客の方が多いくらいだった。
お腹を満たすと、柚葉はタクシーを拾い、事前にアポを入れておいた酒蔵へ向かった。
ここは、伊勢市内の国道から一本入った通りにあり、竹林に囲まれている。
明治創業の白露酒造は、今年、五代目に代替わりした。去年の四代目には「日本だけでええんですわ」とあっさり断られたけれど、柚葉は、白露山は海外で勝負できる酒だと信じている。
今年も気合を入れて……ダメ元で頑張るぞ。
白壁の軒先に下がる杉玉は、今年のものにしては色が濃いような気がする。仕込みが早かったのかもしれない。
「ごめんください」引き戸を開けると、麹の匂いがツーンと鼻の奥まで届いた。フランスのシャトーで嗅いだ匂いとは違う、もっとしっとりしていて、生きている匂いだ。
柚葉の務めている会社は、日本酒や国産ワイン、国産スピリッツを海外に売り込む一方、輸入も手がけている。こうして設営の合間を縫って単独で酒蔵を回るのは、半ば柚葉自身の意地でもある。もっと多くの酒造にコンクールに出てもらって、海外に日本の酒を届けたいと考えている。
奥から出てきたのは、三十前後の男で、藍色の作務衣の袖を捲り上げた腕に、白い跡みたいなのが付いている。酒粕かなにかの原料だろうか。
差し出された名刺には、五代目 川瀬蓮生と刷られていた。
「今年から跡を継いでます」
それだけ言って、川瀬は柚葉を試飲室に通した。
窓は南向きで竹林が絵みたいに綺麗に見えて、格子越しの光が、木の座卓に竹の影を沢山落としている。
「南川物産の森谷柚葉です。よろしくお願いいたします」
柚葉も名刺を渡して、その周りを囲む椅子の一つに座った。
「早速ですが、川瀬さんに見ていただきたいものがあります」
柚葉は、フランスの日本酒コンクールの資料を座卓に広げた。
「フランスのワインコンペにSAKE部門があって、以前、東海地方の銀峰峡も受賞してるんです。白露山もフルーティーで飲みやすいので、日本酒に慣れてない人にも刺さると思うんです。出品、考えてもらえませんでしょうか?」
川瀬は資料に目を落としたまま、しばらく黙っていた。それから、静かに首を振る。
「うちの酒は、海外向けやないです」
やはり、ダメか……先代と同じ答えだ。
沈黙が続いている。柚葉はこれ以上押しても意味がないと判断して、資料を鞄に仕舞う。しつこくお願いしても、二度と会ってもらえなくなるだけだ。
不意に座卓の隅に置かれた茶碗に目をやる。縁が少し欠けた古い茶碗だ。これは去年もあったような気がする。
「この水、どこから引かれているんですか?」
柚葉がひらめいたように、会話を再開すると、川瀬は一瞬、意外そうな顔をした。営業なら、ここで頭を下げて帰るのが普通だからだ。
「裏の山からです。祖父の代から、変えてないんです」
「明治時代からですか……」
「はい。その前からやと思います。白露山、いう名前も、この水に合う酒を造ろうとして、祖父がつけはったんです」
そこから川瀬は、原料の米や麹、この土地でしか出せない味のことを、ぽつぽつと話し始めた。柚葉はただ相槌を打って聞いて、たまに質問する。ゆっくりとした時間が流れていく。
その後、伊勢茶を二杯頂いて、白露酒造を後にした。
配車アプリで呼んだタクシーに乗り込むと、出張前の同僚とのやり取りが、ふと頭をよぎった。
「柚葉さん、休みの日ぃ、美術館とか行ってそうやん」
そう言われたけど、苦手な相手だと上手く返せなくて、少し考えてから「この間、会社の近くのファラフェル屋のテイクアウトが美味しかった」とだけ答えた覚えがある。支離滅裂すぎて、同僚は微妙な顔をしていた。柚葉も、川瀬にとって、その同僚のように苦手な相手だとは思われたくない。
窓の外は、竹林を抜けて伊勢の街並みが流れていく。柚葉は鞄の中のスマートフォンを取り出し、鳥羽の牡蠣小屋の予約確認メールに返信した。
大きなため息が漏れてしまう。今回のオファーも断られたら、別の酒蔵を探すしかない。
しかし、森谷柚葉には勝算がある。白露酒造の「白露山」は間違いなく金賞を狙える酒なのだ。そこだけは、疑う余地はない。
フルーティーな甘みと、日本酒らしくない癖の無さ。まるでボジョレーのような軽さと、すっきりとした喉越し。これほど完成度の高い日本酒には、滅多にお目にかかれない。
今朝は、京都駅から午前六時ちょうどの始発急行に乗り込んだ。直通の特急では九時の設営開始に間に合わないからだ。伊勢出張は一年ぶりで、恒例となっている日本酒イベントのために、二泊三日滞在する。
途中の大和八木駅で特急に乗り換えて一時間、伊勢市駅には八時二十四分に着く。急いで向かえば、九時の設営開始には余裕で間に合うはずだ。
ガタゴトと小気味よい音を立てて走る通勤電車のロングシートに深く腰掛け、膝の上で開いた手帳を見つめる。不意に車内チャイムが鳴ると、伊勢到着を告げるアナウンスが流れ始めた。
ふと窓の外を見ると、電車は宮川の鉄橋を渡っていて、朝陽を浴びた川面が、きらきらと輝いている。
――この先の鳥羽には生牡蠣がある。蒸し牡蠣も焼き牡蠣も好きだけれど、生牡蠣はこの時期にしか食べられない……ダメダメ、今回はイベントがメインだ。日本酒イベントを、今年も成功させないと。
柚葉は手帳をパチンと閉じ、荷物を鞄に収めて下車する準備を整えた。
さあ、仕事頑張るぞ。
伊勢市駅に着くと、柚葉はキャリーケースを引いてホームへ降りた。朝の空気は海が近いせいか、潮風を感じて京都より少し寒いかもしれない。
駅前のターミナルに止まっていたタクシーに滑り込み、おかげ横丁近くのイベント会場へ向かった。
会場には、すでに搬入を終えた酒蔵やスタッフが集まっていた。まだ開場前だというのに、あちこちで慌ただしく人が行き来している。
柚葉も自社のブースへ向かい、段ボールの開封を手伝い始める。
試飲用のグラスをトレーに並べ、パンフレットを補充し、酒の銘柄と価格をそれぞれ確認していく。現地スタッフと手分けして作業を進めていると、あっという間に十一時、開場時間だ。
オープンすると、お客様が少しずつ増えてきた。平日の金曜にしては、まずまずの入場者数だ。
「森谷さん、この銀峰峡シリーズはどうしましょう?」
「それは目玉なので、前列にお願いします。あと、次のお客さんが来る前に試飲用のグラスを補充しておきましょう」
午前中は、思っていた以上に忙しかった。初日だから毎年こんな感じだけれど、去年と同じスタッフだから、一時間もすれば身体が思い出してくれたようだ。
平日なので、すぐに客足が落ち着いたため、スタッフには順番に休憩へ行ってもらう事にした。時間差で二人ずつ行ってもらって、一時を回った頃、最後のスタッフが戻ってきた。
「森谷さん、戻りました! 休憩、行ってくださいね」
「はい。じゃあ、行ってきます。なにかあれば連絡ください」
「お疲れ様でした」とスタッフに見送られながら、会場を後にする。
予定していた酒蔵への訪問時間まで、まだ少し余裕がある。平日だし一人なら店が混んでいても入れるはずだ。それに、ランチタイムのピークも過ぎているし。
柚葉はスマートフォンを開き、地図アプリにリストアップしておいた店へ向かった。
会場近くの小さな食堂で、予想通り空いている。店内に入ると「好きなお席にどうぞ」と女性店員が声をかけてくれて、席に着くとすぐにお冷を持ってきてくれたから、注文もスムーズだった。ここまで、シミュレーション通り。
ランチは、釜揚げしらす丼にしようと決めていた。
目の前に置かれたどんぶりは、ふっくらとしたしらすの上に、センターの卵黄とその周りに刻んだ紫蘇、いりごまが散りばめられている。わさび醤油をかけて、細長い木のスプーンで掬いあげ、まずはそのまま一口。
「美味しい……」
小さな声が漏れてしまった。しらすの塩気に、卵黄のまろやかさと紫蘇の香りが重なる。
添えられた赤だしには、あおさと豆腐と葱が浮かんでいた。飲んでみると、あおさの風味が濃くて磯の香りが鼻に抜けていく。
「これは当たり」
柚葉は心の中で呟き、もう一口、今度は卵黄を崩してご飯と一緒に頬張った。京都でもしらすは食べるけれど、ちりめん山椒が多い。釜揚げしらすはやはり、海沿いの街で食べる方が格別に美味しい。
一人で食べていても、誰も気にしない。むしろ、そういう客の方が多いくらいだった。
お腹を満たすと、柚葉はタクシーを拾い、事前にアポを入れておいた酒蔵へ向かった。
ここは、伊勢市内の国道から一本入った通りにあり、竹林に囲まれている。
明治創業の白露酒造は、今年、五代目に代替わりした。去年の四代目には「日本だけでええんですわ」とあっさり断られたけれど、柚葉は、白露山は海外で勝負できる酒だと信じている。
今年も気合を入れて……ダメ元で頑張るぞ。
白壁の軒先に下がる杉玉は、今年のものにしては色が濃いような気がする。仕込みが早かったのかもしれない。
「ごめんください」引き戸を開けると、麹の匂いがツーンと鼻の奥まで届いた。フランスのシャトーで嗅いだ匂いとは違う、もっとしっとりしていて、生きている匂いだ。
柚葉の務めている会社は、日本酒や国産ワイン、国産スピリッツを海外に売り込む一方、輸入も手がけている。こうして設営の合間を縫って単独で酒蔵を回るのは、半ば柚葉自身の意地でもある。もっと多くの酒造にコンクールに出てもらって、海外に日本の酒を届けたいと考えている。
奥から出てきたのは、三十前後の男で、藍色の作務衣の袖を捲り上げた腕に、白い跡みたいなのが付いている。酒粕かなにかの原料だろうか。
差し出された名刺には、五代目 川瀬蓮生と刷られていた。
「今年から跡を継いでます」
それだけ言って、川瀬は柚葉を試飲室に通した。
窓は南向きで竹林が絵みたいに綺麗に見えて、格子越しの光が、木の座卓に竹の影を沢山落としている。
「南川物産の森谷柚葉です。よろしくお願いいたします」
柚葉も名刺を渡して、その周りを囲む椅子の一つに座った。
「早速ですが、川瀬さんに見ていただきたいものがあります」
柚葉は、フランスの日本酒コンクールの資料を座卓に広げた。
「フランスのワインコンペにSAKE部門があって、以前、東海地方の銀峰峡も受賞してるんです。白露山もフルーティーで飲みやすいので、日本酒に慣れてない人にも刺さると思うんです。出品、考えてもらえませんでしょうか?」
川瀬は資料に目を落としたまま、しばらく黙っていた。それから、静かに首を振る。
「うちの酒は、海外向けやないです」
やはり、ダメか……先代と同じ答えだ。
沈黙が続いている。柚葉はこれ以上押しても意味がないと判断して、資料を鞄に仕舞う。しつこくお願いしても、二度と会ってもらえなくなるだけだ。
不意に座卓の隅に置かれた茶碗に目をやる。縁が少し欠けた古い茶碗だ。これは去年もあったような気がする。
「この水、どこから引かれているんですか?」
柚葉がひらめいたように、会話を再開すると、川瀬は一瞬、意外そうな顔をした。営業なら、ここで頭を下げて帰るのが普通だからだ。
「裏の山からです。祖父の代から、変えてないんです」
「明治時代からですか……」
「はい。その前からやと思います。白露山、いう名前も、この水に合う酒を造ろうとして、祖父がつけはったんです」
そこから川瀬は、原料の米や麹、この土地でしか出せない味のことを、ぽつぽつと話し始めた。柚葉はただ相槌を打って聞いて、たまに質問する。ゆっくりとした時間が流れていく。
その後、伊勢茶を二杯頂いて、白露酒造を後にした。
配車アプリで呼んだタクシーに乗り込むと、出張前の同僚とのやり取りが、ふと頭をよぎった。
「柚葉さん、休みの日ぃ、美術館とか行ってそうやん」
そう言われたけど、苦手な相手だと上手く返せなくて、少し考えてから「この間、会社の近くのファラフェル屋のテイクアウトが美味しかった」とだけ答えた覚えがある。支離滅裂すぎて、同僚は微妙な顔をしていた。柚葉も、川瀬にとって、その同僚のように苦手な相手だとは思われたくない。
窓の外は、竹林を抜けて伊勢の街並みが流れていく。柚葉は鞄の中のスマートフォンを取り出し、鳥羽の牡蠣小屋の予約確認メールに返信した。



