その日から、つばめが美術室に入り浸る事はなくなった。
以前のように、つばめはヨウジと共に行動をして、放課後はほぼ毎日彼と一緒に自主練に打ち込む日々。
むしろ、レイジのところに入り浸るのを経て以前よりも二人は絆を深めたようなふしまであった。
その証拠に、お互いを見る目線が以前より優しいものになっていることを本人たちは気づいてない。
レイジは相変わらず授業以外は美術準備室にこもりきりの日々が続き、毎日遅くまで制作してたが、最近はもっぱら
「ダメ‥!こんなんじゃ‥」
と焦るようにひとりごとを言っているのが、ニーナ達の方にも聞こえてくるようになった。
ため息と共につぶやいては、途中まで描いては消してを繰り返し、自問自答を繰り返す。
くしゃくしゃに丸めたクロッキーだけが床に溜まっていく。
そして、あの日からずっと続く長い雨は相変わらずシトシトと降り続いていた。
その日の放課後。
掃除当番を終えたつばめは、久しぶりに一人で部室に向かっていた。
「‥‥‥‥」
しかし、その足取りは重い。
普段ヨウジと連れ立っている時は、寄り道もせず一目散に部室に連れてかれる。でも、一人だとなんだか物足りないキモチがわいてきて‥‥。
つい、つばめの足は自然と遠回りをしてしてしまう。
──たどりついたのは、美術室だった。
相変わらず窓の外からは、他の部員たちが静かに各々の作品制作をしている様子が伺えた。
(アイツ、あれから絵描くの進んでんのかな‥‥)
つばめはふと、ここからは見えるはずもない準備室にいるレイジの事を思った。
二人はクラスが違うので、つばめの方から放課後を利用して立ち寄らなければ、レイジと会う機会はほとんどなくなる。
「‥‥‥‥‥」
"‥‥俺の目、見ても思い出さない?"
だけど、あの日。
レイジが自分にまるでキスをしようと迫って言った言葉が、ずっと頭のどこかに引っかかっていた。
彼はそのあとすぐに「思い出せない記憶なんてその程度のことだよ」なんて笑っていたけど。
つばめにはそれがある種の諦めの言葉のように聞こえてやまなかった。
──おれはきっと、なにか大切なことを忘れている。
それは強くわかるのに、過去を思い出そうとすると、つばめは心が苦しくて思考がストップしてしまう。
レイジ、教えてくれよ。
お前は知ってるんだろ。
おれが忘れてる、本当のおれを。
「‥‥‥‥」
「つばめ?
なにぼーっとしてんの」
つい、美術室の前で立ち止まって考え込んでしまっていたら、背後からニーナに声をかけられた。
「あ!‥‥あ。ううん、」
秘密のルーティンがバレたような気恥ずかしさに、つばめは少しどぎまぎするが、ニーナはそんな事は全く意に介していない様子で、言葉を続ける。
「‥‥気になってんでしょ。レイジ君のこと」
と、図星をつかれて、つばめはドキっとする。
「な‥なんでそうなるんだよ!」
「だって顔にそう書いてあるもん。
でも‥‥ま、いいや。そんな事よりもさ。
最近のレイジ君、ずっとスランプ気味なんだよねー‥」
「え‥‥‥そうなんだ‥‥」
「なーんか、つばめが来なくなってから、制作ペースがガクッと落ちちゃって。
なんだか‥ずっと落ち込んでるみたい」
な、なんだよ、それ。
まるであいつがおれのこと好きみたいじゃん。
‥‥レイジは、雷に打たれる前の、"ノンケ"のおれが好きだったんじゃないのか?
ニーナの言葉につばめは揺れる。
「──だからさ。ちょっとツラ貸して」
と、問答無用で彼女に腕を掴まれた。
「ちょっとでいいから、レイジ君の話し相手になってよ!」
「ええ?!困るって。おれ、これから自主練が‥‥」
「ヨウジ君には後で言っとくから!
私たちもこれ以上レイジ君にスランプになられたらヤバいんだって!」
そういうと、つばめの返答は聞かないまま、ニーナはグイグイと腕を引っ張ってつばめを教室内にひきずりこむとそのまままっすぐに、準備室のドアの前まで連れていく。
「‥‥レイジ君、あけていい?」
ニーナがノックと共にドア越しのレイジに聞いた。
「うん‥‥」
返事の声は、心なしか元気がない。
「つばめ君、来てるから」
「えっ?」
途端にその声は明るくなる。
──そして、ゆっくりとドアが開く。
「‥‥‥うす。久しぶり」
照れくさそうに挨拶をするつばめの顔をみて、レイジの顔が少しほころぶ。
「‥‥ん」
目はクマがうっすら浮かんでいる。
なんだか、すこしやつれた気がする。
レイジは制服姿のまま、イーゼルの前にある椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。
「じゃ!私は制作あるからこれで」
そう言うとニーナは足早に去っていく。
久しぶりの美術準備室で、つばめとレイジは二人きりになった。
「‥‥‥え。
なんか前より散らかってねえ?」
開口一番、さらに床に散らばった大量のクロッキーを見てつばめが言う。
「うん、なんかずっと描けなくて‥‥。
描けば描くほどわかんなくなっちゃって。
‥‥あとちょっとなんだけどね」
イーゼルに立てかけられた絵は、もはや布がかけられている。絵の具もだいぶ触ってないのだろう。パレットに出しっぱなしのまま、使った形跡がない。
「さっきまで本読んでた」
レイジはそう言うと、画材の詰まったワゴンの上に無造作に置かれた一冊の本を指差した。
「‥‥オスカーワイルド著、『幸福な王子』?」
いぶかしげにつばめが言う。
「うん。今年の演劇部は、この作品をやるんだ。
なんか『幸福の王子』をラブストーリーに再解釈したお話にするんだって。
‥‥だからインスピレーション湧かないかなって、最近改めて読み返してる」
「そうだったんだ。
‥‥へー。この作品ってどんな話?
おもろい?」
つばめは無邪気にレイジに尋ねる。
「‥‥‥うーん。
一言でいうなら、悲しいお話かな‥‥。
でも、救いはある。俺はこの物語好きだよ」
そういうと、力のない顔でレイジが笑った。
「‥‥‥‥‥‥あのさ、つばめ君」
ふいに、レイジが声をかける。
なに?とつばめが返すと、伏目がちにレイジは言う。
「‥‥‥‥ごめんね。この間のあれ、嫌だった?」
『この間のあれ』の意味を、つばめはすぐに理解する。
"俺の目、見てもなにも思い出さない‥?"
「あ、‥‥ああ、『あれ』のこと?」
「馴れ馴れしい俺のこと‥‥。
嫌いになっちゃったかなって。
だってあの日以来、つばめ君パタっと来なくなったからさ‥‥。ずっと、反省してたんだ」
そわそわと目線を何度も泳がせながら、不安げにレイジが言う。
「‥‥違うよ!」
つばめは自分でも驚くほど、とっさに言葉が前に出た。
あれ、でもおれなんでこんなにムキになってるんだ?
「そんなわけないに決まってる」
「ほ、本当?‥よかった‥‥」
ホッとした顔でレイジが笑う。
その顔を見て、つばめもほころぶ。
「‥‥よかった‥‥」
レイジは噛み締めるように、ふたたび言った。
その表情はもはや泣きそうになっていた。
「‥‥つばめ君は、あれから元気にしてた?」
レイジは所在なく画材の詰まったワゴンを見つめる。
「うん。ヨウジに"部活サボんな"ってブチ切れられて以来、まいにち仲良く自主練してる」
「‥‥‥‥‥」
その返答に、レイジはおもむろに先が丸くなったいくつかの鉛筆をワゴンから取り出すと、慣れた手つきでカッターで削りはじめた。
「はは、海野君らしいね‥‥」
膝の上にポケットティッシュを広げて、うつむいたまま手際よくカッターで鉛筆を削っていく。
「あいつ、サッカー命だから、おれにもうるさくてさ‥‥。でも最近はなんかずっと機嫌いいよ」
「へえー、そうなんだ‥‥」
レイジは生返事をしながら、削る手が止まらない。
次第に荒々しくなっていく削りクズが、どんどんティッシュに溜まっていく。
「こないだも一緒にラーメン食った帰り、おれが"ニーナと似てる"ってしつこくてさー」
「‥ふーん‥‥‥」
削りクズはさらに荒く、太くなっていき、カッターを握る手の力が強くなる。
「二人してニンニクマシマシで食べたから、ゼロ距離で顔見られんのしんどくて。もー、ずっと息止めてた‥‥。
でもやっぱりなんかニンニクのにおいって、息止めても不思議とするんだよな。あれは、恥ずかったわー‥」
「‥‥‥‥」
‥‥その時、手元が狂った。
カッターの刃が勢いよく滑るようにレイジの指先を裂く。
「いたっ!」
レイジが声を上げる。
「え、どうした?」
つばめは驚いて見る。
そこまで傷は深くないが、それでもサックリと皮膚を切ってしまい、傷跡からは血が溢れていた。
「だ、大丈夫か?」
ポタポタ垂れる血につばめはうろたえる。
「あ‥‥やっちゃった‥‥。ぼーっとしてた。大丈夫、大丈夫。見た目よりひどくないから」
レイジは笑って新しいポケットティッシュで血を抑えるが、止まる気配はなく真っ白なティッシュはみるみる赤く染まっていく。
「‥‥かせ!代われ。
‥‥そんなんで血が止まるわけねーだろ」
「あ‥‥」
そういうとつばめは駆け寄る。
急いで新しいポケットティッシュを数枚出すと重ねて、迷わず傷口を強く抑えた。
「ちょっと痛いけど、我慢な」
「うん‥大丈夫」
レイジの前髪で隠された目が、動揺するように強く揺れてつばめを見つめる。
(ああ‥‥‥)
「‥‥‥‥‥」
そのまましばらくティッシュで押さえて簡易的な止血をすると、5分もかからずに出血のピークは治った。
「ありがと。
絆創膏‥‥保健室でもらってくる」
レイジがそういって立ち上がるのを、つばめは静止する。
「ばか!水で傷口洗うのが先」
そういうと、つばめはレイジを準備室の隅にある小さな流し台に連れていく。
「しみたらごめん」
そういうと、すっかり血の止まった傷口に水をかけて洗い流した。
「‥‥‥‥」
あらかた傷口を洗い終えると、つばめは優しくハンカチで水分を拭き取る。
そして、鞄のポケットから絆創膏を取り出すと指先にくるりと巻いた。
「これで、よし」
「‥‥あ、ありがとう‥‥‥」
なんの変哲もない、ただの簡単な応急処置。
それなのにレイジは、手際よく怪我の手当てをしたつばめの事をじーっと惚けたように見つめている。
「ん、どうした?」
「ううん‥‥なんでもない」
つばめの言葉にハッとするレイジ。
「‥‥そっか。まあ‥‥しっかしさー。お前って、少し会わなくなっても相変わらずどんくさいヤツだなぁ‥。
変わってなくて、なんかむしろホッとしたわ!」
そう言ってつばめが笑いかける。
「あ‥‥‥‥」
(つばめ‥‥‥‥‥。あの時と、同じだ‥‥‥)
そのくしゃくしゃの笑顔に、レイジは雷に打たれたように釘付けになる。
──それと同時に。
ずっと見失っていた創作意欲が、つばめの笑顔を機に腹の底から湧き上がってくる。
「‥‥‥‥ごめん。
ちょっとそのまま、動かないで」
レイジはそう言うと、素早くクロッキー帳と鉛筆を手に取り真剣な面持ちでつばめに向き合った。
「‥レイジ?」
「じっとして」
「あ、悪い‥‥」
「‥ごめんね。
無理しなくていいから。
自然なポーズしてて」
レイジはそう断片的に言葉をかけると、会話も少なく気につばめとクロッキー帳を交互に見ながらひたすら手を動かした。
「──今度は、少し片足椅子にのっけて膝ついて。
膝は両手で抱えて‥‥。そうそう。
力は抜いて、楽にしてて」
つばめはわからないなりに精一杯レイジの言われたとおりのポーズを必死にとる。
「‥‥‥」
前髪の隙間から、何度も何度も真剣なまなざしで見つめられる。
つばめは、絵を描くレイジを真正面から見るのは初めてだった。
(ちょっとだけ、恥ずい‥‥)
「‥‥‥‥‥」
だけど、不思議とそれが落ち着く。
‥‥自分はこのまなざしの心地よさを、ずっと昔から知ってる。
その後も何度もポーズを変えて、何枚も何枚も描く。
レイジはつばめの姿をとらえようと、なにかに取り憑かれたように一心不乱に鉛筆を走らせる。
その筆致の音と、ザーザーと激しく打ち付ける雨の音だけが、静かな美術準備室に聞こえ続けた。
──どれだけの時間が経っただろうか。
「‥‥‥うん、ありがとう。
楽にしていいよ」
ふいに、レイジが満足げに顔を上げた。
クロッキー帳には何ページにも渡って、たくさんのポーズのカットが描かれているのがちらりと見えた。
「うー‥‥体、バッキバキ」
つばめは少し疲れたように体を伸ばす。
しかし、その表情はある種の達成感に満ちている。
「‥‥ごめん。
了承もとらずに勝手に描きだしちゃって」
申し訳なさそうにレイジが言う。
「ううん。ぜんぜんいいよ。
‥‥‥それよりやっぱり絵を描いてる時のお前って、ホント活き活きしてるな」
「ほんと?そう見える?」
つばめの言葉に、レイジは照れくさそうに笑った。
「お前ってさ、やっぱりあれ?
将来は美大に進学して画家とかめざしてんの?」
つばめが聞くと、レイジは意外にもあっさりとした様子で返した。
「‥‥親は入れたがってるけどね。俺は、そういうのはまだあんまり考えてない」
「え!画塾まで通ってるのに?
こんな上手いのにもったいねえ‥‥変なヤツ」
不思議そうに返すつばめに、レイジは続ける。
「‥‥俺にとって、絵を描くってさ。
ある種のストレス発散なんだよ。
みんながカラオケいって大声で歌うのとおんなじ。それ以上でも以下でもない」
手元のクロッキー帳をじっと眺めながら、レイジは言う。
「でもまあ、俺はトロいし、歌も上手くないし。言葉とか行動で自分の気持ちを伝えることは下手くそだけど。
でも絵なら。
言葉で言えないことをのせられるから。だから好きなんだ。だから描く」
レイジは活き活きした顔でそういうと、ワゴンの下にずっとしまいっぱなしだったツナギとエプロンを取り出した。
「今日はありがとう。つばめ君。
久々にキモチがわいてきた。
おかげで‥‥いまなら描けそうな気がする」
そんなレイジをみて、つばめも笑う。
「うん。がんばれ!‥‥おれも、応援してる」
そう短く言葉をかけると、つばめは静かにその場を立ち去った。
以前のように、つばめはヨウジと共に行動をして、放課後はほぼ毎日彼と一緒に自主練に打ち込む日々。
むしろ、レイジのところに入り浸るのを経て以前よりも二人は絆を深めたようなふしまであった。
その証拠に、お互いを見る目線が以前より優しいものになっていることを本人たちは気づいてない。
レイジは相変わらず授業以外は美術準備室にこもりきりの日々が続き、毎日遅くまで制作してたが、最近はもっぱら
「ダメ‥!こんなんじゃ‥」
と焦るようにひとりごとを言っているのが、ニーナ達の方にも聞こえてくるようになった。
ため息と共につぶやいては、途中まで描いては消してを繰り返し、自問自答を繰り返す。
くしゃくしゃに丸めたクロッキーだけが床に溜まっていく。
そして、あの日からずっと続く長い雨は相変わらずシトシトと降り続いていた。
その日の放課後。
掃除当番を終えたつばめは、久しぶりに一人で部室に向かっていた。
「‥‥‥‥」
しかし、その足取りは重い。
普段ヨウジと連れ立っている時は、寄り道もせず一目散に部室に連れてかれる。でも、一人だとなんだか物足りないキモチがわいてきて‥‥。
つい、つばめの足は自然と遠回りをしてしてしまう。
──たどりついたのは、美術室だった。
相変わらず窓の外からは、他の部員たちが静かに各々の作品制作をしている様子が伺えた。
(アイツ、あれから絵描くの進んでんのかな‥‥)
つばめはふと、ここからは見えるはずもない準備室にいるレイジの事を思った。
二人はクラスが違うので、つばめの方から放課後を利用して立ち寄らなければ、レイジと会う機会はほとんどなくなる。
「‥‥‥‥‥」
"‥‥俺の目、見ても思い出さない?"
だけど、あの日。
レイジが自分にまるでキスをしようと迫って言った言葉が、ずっと頭のどこかに引っかかっていた。
彼はそのあとすぐに「思い出せない記憶なんてその程度のことだよ」なんて笑っていたけど。
つばめにはそれがある種の諦めの言葉のように聞こえてやまなかった。
──おれはきっと、なにか大切なことを忘れている。
それは強くわかるのに、過去を思い出そうとすると、つばめは心が苦しくて思考がストップしてしまう。
レイジ、教えてくれよ。
お前は知ってるんだろ。
おれが忘れてる、本当のおれを。
「‥‥‥‥」
「つばめ?
なにぼーっとしてんの」
つい、美術室の前で立ち止まって考え込んでしまっていたら、背後からニーナに声をかけられた。
「あ!‥‥あ。ううん、」
秘密のルーティンがバレたような気恥ずかしさに、つばめは少しどぎまぎするが、ニーナはそんな事は全く意に介していない様子で、言葉を続ける。
「‥‥気になってんでしょ。レイジ君のこと」
と、図星をつかれて、つばめはドキっとする。
「な‥なんでそうなるんだよ!」
「だって顔にそう書いてあるもん。
でも‥‥ま、いいや。そんな事よりもさ。
最近のレイジ君、ずっとスランプ気味なんだよねー‥」
「え‥‥‥そうなんだ‥‥」
「なーんか、つばめが来なくなってから、制作ペースがガクッと落ちちゃって。
なんだか‥ずっと落ち込んでるみたい」
な、なんだよ、それ。
まるであいつがおれのこと好きみたいじゃん。
‥‥レイジは、雷に打たれる前の、"ノンケ"のおれが好きだったんじゃないのか?
ニーナの言葉につばめは揺れる。
「──だからさ。ちょっとツラ貸して」
と、問答無用で彼女に腕を掴まれた。
「ちょっとでいいから、レイジ君の話し相手になってよ!」
「ええ?!困るって。おれ、これから自主練が‥‥」
「ヨウジ君には後で言っとくから!
私たちもこれ以上レイジ君にスランプになられたらヤバいんだって!」
そういうと、つばめの返答は聞かないまま、ニーナはグイグイと腕を引っ張ってつばめを教室内にひきずりこむとそのまままっすぐに、準備室のドアの前まで連れていく。
「‥‥レイジ君、あけていい?」
ニーナがノックと共にドア越しのレイジに聞いた。
「うん‥‥」
返事の声は、心なしか元気がない。
「つばめ君、来てるから」
「えっ?」
途端にその声は明るくなる。
──そして、ゆっくりとドアが開く。
「‥‥‥うす。久しぶり」
照れくさそうに挨拶をするつばめの顔をみて、レイジの顔が少しほころぶ。
「‥‥ん」
目はクマがうっすら浮かんでいる。
なんだか、すこしやつれた気がする。
レイジは制服姿のまま、イーゼルの前にある椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。
「じゃ!私は制作あるからこれで」
そう言うとニーナは足早に去っていく。
久しぶりの美術準備室で、つばめとレイジは二人きりになった。
「‥‥‥え。
なんか前より散らかってねえ?」
開口一番、さらに床に散らばった大量のクロッキーを見てつばめが言う。
「うん、なんかずっと描けなくて‥‥。
描けば描くほどわかんなくなっちゃって。
‥‥あとちょっとなんだけどね」
イーゼルに立てかけられた絵は、もはや布がかけられている。絵の具もだいぶ触ってないのだろう。パレットに出しっぱなしのまま、使った形跡がない。
「さっきまで本読んでた」
レイジはそう言うと、画材の詰まったワゴンの上に無造作に置かれた一冊の本を指差した。
「‥‥オスカーワイルド著、『幸福な王子』?」
いぶかしげにつばめが言う。
「うん。今年の演劇部は、この作品をやるんだ。
なんか『幸福の王子』をラブストーリーに再解釈したお話にするんだって。
‥‥だからインスピレーション湧かないかなって、最近改めて読み返してる」
「そうだったんだ。
‥‥へー。この作品ってどんな話?
おもろい?」
つばめは無邪気にレイジに尋ねる。
「‥‥‥うーん。
一言でいうなら、悲しいお話かな‥‥。
でも、救いはある。俺はこの物語好きだよ」
そういうと、力のない顔でレイジが笑った。
「‥‥‥‥‥‥あのさ、つばめ君」
ふいに、レイジが声をかける。
なに?とつばめが返すと、伏目がちにレイジは言う。
「‥‥‥‥ごめんね。この間のあれ、嫌だった?」
『この間のあれ』の意味を、つばめはすぐに理解する。
"俺の目、見てもなにも思い出さない‥?"
「あ、‥‥ああ、『あれ』のこと?」
「馴れ馴れしい俺のこと‥‥。
嫌いになっちゃったかなって。
だってあの日以来、つばめ君パタっと来なくなったからさ‥‥。ずっと、反省してたんだ」
そわそわと目線を何度も泳がせながら、不安げにレイジが言う。
「‥‥違うよ!」
つばめは自分でも驚くほど、とっさに言葉が前に出た。
あれ、でもおれなんでこんなにムキになってるんだ?
「そんなわけないに決まってる」
「ほ、本当?‥よかった‥‥」
ホッとした顔でレイジが笑う。
その顔を見て、つばめもほころぶ。
「‥‥よかった‥‥」
レイジは噛み締めるように、ふたたび言った。
その表情はもはや泣きそうになっていた。
「‥‥つばめ君は、あれから元気にしてた?」
レイジは所在なく画材の詰まったワゴンを見つめる。
「うん。ヨウジに"部活サボんな"ってブチ切れられて以来、まいにち仲良く自主練してる」
「‥‥‥‥‥」
その返答に、レイジはおもむろに先が丸くなったいくつかの鉛筆をワゴンから取り出すと、慣れた手つきでカッターで削りはじめた。
「はは、海野君らしいね‥‥」
膝の上にポケットティッシュを広げて、うつむいたまま手際よくカッターで鉛筆を削っていく。
「あいつ、サッカー命だから、おれにもうるさくてさ‥‥。でも最近はなんかずっと機嫌いいよ」
「へえー、そうなんだ‥‥」
レイジは生返事をしながら、削る手が止まらない。
次第に荒々しくなっていく削りクズが、どんどんティッシュに溜まっていく。
「こないだも一緒にラーメン食った帰り、おれが"ニーナと似てる"ってしつこくてさー」
「‥ふーん‥‥‥」
削りクズはさらに荒く、太くなっていき、カッターを握る手の力が強くなる。
「二人してニンニクマシマシで食べたから、ゼロ距離で顔見られんのしんどくて。もー、ずっと息止めてた‥‥。
でもやっぱりなんかニンニクのにおいって、息止めても不思議とするんだよな。あれは、恥ずかったわー‥」
「‥‥‥‥」
‥‥その時、手元が狂った。
カッターの刃が勢いよく滑るようにレイジの指先を裂く。
「いたっ!」
レイジが声を上げる。
「え、どうした?」
つばめは驚いて見る。
そこまで傷は深くないが、それでもサックリと皮膚を切ってしまい、傷跡からは血が溢れていた。
「だ、大丈夫か?」
ポタポタ垂れる血につばめはうろたえる。
「あ‥‥やっちゃった‥‥。ぼーっとしてた。大丈夫、大丈夫。見た目よりひどくないから」
レイジは笑って新しいポケットティッシュで血を抑えるが、止まる気配はなく真っ白なティッシュはみるみる赤く染まっていく。
「‥‥かせ!代われ。
‥‥そんなんで血が止まるわけねーだろ」
「あ‥‥」
そういうとつばめは駆け寄る。
急いで新しいポケットティッシュを数枚出すと重ねて、迷わず傷口を強く抑えた。
「ちょっと痛いけど、我慢な」
「うん‥大丈夫」
レイジの前髪で隠された目が、動揺するように強く揺れてつばめを見つめる。
(ああ‥‥‥)
「‥‥‥‥‥」
そのまましばらくティッシュで押さえて簡易的な止血をすると、5分もかからずに出血のピークは治った。
「ありがと。
絆創膏‥‥保健室でもらってくる」
レイジがそういって立ち上がるのを、つばめは静止する。
「ばか!水で傷口洗うのが先」
そういうと、つばめはレイジを準備室の隅にある小さな流し台に連れていく。
「しみたらごめん」
そういうと、すっかり血の止まった傷口に水をかけて洗い流した。
「‥‥‥‥」
あらかた傷口を洗い終えると、つばめは優しくハンカチで水分を拭き取る。
そして、鞄のポケットから絆創膏を取り出すと指先にくるりと巻いた。
「これで、よし」
「‥‥あ、ありがとう‥‥‥」
なんの変哲もない、ただの簡単な応急処置。
それなのにレイジは、手際よく怪我の手当てをしたつばめの事をじーっと惚けたように見つめている。
「ん、どうした?」
「ううん‥‥なんでもない」
つばめの言葉にハッとするレイジ。
「‥‥そっか。まあ‥‥しっかしさー。お前って、少し会わなくなっても相変わらずどんくさいヤツだなぁ‥。
変わってなくて、なんかむしろホッとしたわ!」
そう言ってつばめが笑いかける。
「あ‥‥‥‥」
(つばめ‥‥‥‥‥。あの時と、同じだ‥‥‥)
そのくしゃくしゃの笑顔に、レイジは雷に打たれたように釘付けになる。
──それと同時に。
ずっと見失っていた創作意欲が、つばめの笑顔を機に腹の底から湧き上がってくる。
「‥‥‥‥ごめん。
ちょっとそのまま、動かないで」
レイジはそう言うと、素早くクロッキー帳と鉛筆を手に取り真剣な面持ちでつばめに向き合った。
「‥レイジ?」
「じっとして」
「あ、悪い‥‥」
「‥ごめんね。
無理しなくていいから。
自然なポーズしてて」
レイジはそう断片的に言葉をかけると、会話も少なく気につばめとクロッキー帳を交互に見ながらひたすら手を動かした。
「──今度は、少し片足椅子にのっけて膝ついて。
膝は両手で抱えて‥‥。そうそう。
力は抜いて、楽にしてて」
つばめはわからないなりに精一杯レイジの言われたとおりのポーズを必死にとる。
「‥‥‥」
前髪の隙間から、何度も何度も真剣なまなざしで見つめられる。
つばめは、絵を描くレイジを真正面から見るのは初めてだった。
(ちょっとだけ、恥ずい‥‥)
「‥‥‥‥‥」
だけど、不思議とそれが落ち着く。
‥‥自分はこのまなざしの心地よさを、ずっと昔から知ってる。
その後も何度もポーズを変えて、何枚も何枚も描く。
レイジはつばめの姿をとらえようと、なにかに取り憑かれたように一心不乱に鉛筆を走らせる。
その筆致の音と、ザーザーと激しく打ち付ける雨の音だけが、静かな美術準備室に聞こえ続けた。
──どれだけの時間が経っただろうか。
「‥‥‥うん、ありがとう。
楽にしていいよ」
ふいに、レイジが満足げに顔を上げた。
クロッキー帳には何ページにも渡って、たくさんのポーズのカットが描かれているのがちらりと見えた。
「うー‥‥体、バッキバキ」
つばめは少し疲れたように体を伸ばす。
しかし、その表情はある種の達成感に満ちている。
「‥‥ごめん。
了承もとらずに勝手に描きだしちゃって」
申し訳なさそうにレイジが言う。
「ううん。ぜんぜんいいよ。
‥‥‥それよりやっぱり絵を描いてる時のお前って、ホント活き活きしてるな」
「ほんと?そう見える?」
つばめの言葉に、レイジは照れくさそうに笑った。
「お前ってさ、やっぱりあれ?
将来は美大に進学して画家とかめざしてんの?」
つばめが聞くと、レイジは意外にもあっさりとした様子で返した。
「‥‥親は入れたがってるけどね。俺は、そういうのはまだあんまり考えてない」
「え!画塾まで通ってるのに?
こんな上手いのにもったいねえ‥‥変なヤツ」
不思議そうに返すつばめに、レイジは続ける。
「‥‥俺にとって、絵を描くってさ。
ある種のストレス発散なんだよ。
みんながカラオケいって大声で歌うのとおんなじ。それ以上でも以下でもない」
手元のクロッキー帳をじっと眺めながら、レイジは言う。
「でもまあ、俺はトロいし、歌も上手くないし。言葉とか行動で自分の気持ちを伝えることは下手くそだけど。
でも絵なら。
言葉で言えないことをのせられるから。だから好きなんだ。だから描く」
レイジは活き活きした顔でそういうと、ワゴンの下にずっとしまいっぱなしだったツナギとエプロンを取り出した。
「今日はありがとう。つばめ君。
久々にキモチがわいてきた。
おかげで‥‥いまなら描けそうな気がする」
そんなレイジをみて、つばめも笑う。
「うん。がんばれ!‥‥おれも、応援してる」
そう短く言葉をかけると、つばめは静かにその場を立ち去った。
