君を好きになる前に

その日から、つばめが美術室に入り浸る事はなくなった。

以前のように、いつも一緒に行動して、放課後はほぼ毎日ヨウジと自主練(もとい、部活)に打ち込む日々が続く。

ヨウジは、つばめが隣にいると心なしか機嫌がよかった。


レイジは相変わらず授業以外は美術準備室にこもりきりで、毎日遅くまで制作しているが、

「ダメだ‥。こんなんじゃ」

とため息と共につぶやいては、毎回途中まで描いては消してを繰り返し、自問自答することが増えた。


つばめの気持ち以外は、一見すると雷事故が起きる前とほとんど変わらない、ぱっと見は平穏な「いつも通りの日々」が、淡々と続いている。

そして、あの日からずっと続く長い雨も、変わらず降り続いていた。


その日の放課後。
掃除当番を終えたつばめは、いつものように部室に向かう途中だった。

「‥‥‥‥」

しかし心なしか、足取りが重い。

普段ヨウジと連れ立って行く時はいつも真っ直ぐに部室に向かうのだが、一人だとなんだか物足りなくて‥‥つい、つばめの足は自然と遠回りしてしまう。


──たどりついたのは、美術室だった。

相変わらず窓の外からは、他の部員たちが静かに各々の作品制作をしている様子が伺えた。

(アイツ、あれから絵描くの進んでんのかな‥‥)


ふとつばめは、ここからは見えるはずもない、準備室にいるレイジの事を思った。

最近はつばめとレイジは会話を交わすことも、めっきり減っている。

というのも、先日ミズキにこっぴどく「制作の邪魔するな!」としぼられたことや、最近のヨウジはレイジの事になると機嫌が悪くなるような気がして‥敢えてレイジを避けるように距離を置いてしまっていた。


「‥‥‥‥‥」

"‥‥俺の目、見ても思い出さない?"

だけど本当は、あの時レイジに言われた言葉が、ずっと頭のどこかに引っかかっている。

レイジは、そのあとすぐに
「思い出せない記憶なんてその程度のことだよ」
なんて笑っていたけど。

つばめにはそれが、彼にとってある種の"諦めの言葉"のように聞こえてやまなかった。


──おれは、なにか大切なことを忘れている気がする。
だけどそれが何なのか、記憶がいまだにおぼろげでわからない。

「‥‥‥‥」

「つばめ?
なにぼーっとしてんの」

つい、美術室の前で立ち止まって考え込んでしまっていたら、ニーナに声をかけられた。

「あ!‥‥あ。ううん、」

秘密のルーティンがバレたような気恥ずかしさに、つばめは少しどぎまぎするが、ニーナはそんな事は全く意に介していない様子で、言葉を続ける。


「‥‥気になってんでしょ。レイジ君のこと」

と、ドンズバで図星をつかれて、つばめはどきっとする。

「な‥なんでそうなるんだよ!」

「だって顔にそう書いてあるもん。
でも‥‥ま、いいや。そんな事よりもさ。
最近のレイジ君、ずっとスランプ気味なんだよねー‥」

「え‥‥‥そうなんだ」

「なーんか、つばめが来なくなってから、制作ペースがガクッと落ちちゃって。
なんだか‥ずっと落ち込んでるみたい」

なんだよ、それ。
まるでレイジがおれのこと好きみたいじゃん。

‥‥あいつは、雷に打たれる前の、"ノンケ"のおれが好きだったんじゃないのか?

ニーナの言葉に、つばめはとまどう。

「──だからさ。ちょっとツラ貸して」

しかしそんな余韻もないうちに、問答無用で彼女に腕を掴まれる。

「ちょっとでいいから、レイジ君の話し相手になってよ!」

「ええ?!困るって。おれ、これから自主練が‥‥」

「ヨウジ君には後で言っとくから!」

そういうと、つばめの返答は聞かないまま、ニーナはグイグイと腕を引っ張ってつばめを教室内にひきずりこむとそのまままっすぐに、準備室のドアの前まで連れて行かれた。


「‥‥レイジ君、あけていい?」

ニーナがノックと共にドア越しのレイジに聞く。

「うん‥‥」
返事の声は、心なしか元気がない。

「つばめ君、来てるから」

「えっ?」

途端にその声は明るくなる。

──そして、ゆっくりとドアが開く。


「‥‥‥うす。久しぶり」

照れくさそうに挨拶をするつばめの顔をみて、レイジの顔が少しほころぶ。

「‥‥うん」

目はクマがうっすら浮かんでいる。
なんだか、すこしやつれた気がする。

レイジは制服姿のまま、イーゼルの前にある椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。


「じゃ!私は制作あるからこれで」

そう言うとニーナは足早に去っていく。
久しぶりの美術室準備室で、つばめとレイジは二人きりになった。



「‥‥‥え、なんか前より散らかってねえ?」

開口一番、床に散らばった大量のクロッキーを見てつばめが言う。

「うん、なんか描けなくて‥‥。
描けば描くほどわかんなくなっちゃって。
あとちょっとなんだけどね」

イーゼルに立てかけられた絵は、もはや布がかけられている。絵の具もだいぶ触ってないのだろう。
パレットに出しっぱなしのまま、使った形跡がない。

「さっきまで本読んでた」

レイジはそう言うと、画材の詰まったワゴンの上に無造作に置かれた一冊の本を指差した。

「‥‥オスカーワイルド著、『幸福な王子』?」

いぶかしげにつばめが言う。


「うん。今年の演劇部は、この作品をやるんだ。
なんかインスピレーション湧かないかなって、最近読み返してる」


「そうだったんだ。
‥‥へー。この作品ってどんな話?
おもろい?」

つばめは無邪気にレイジに尋ねる。

「‥‥‥うーん。
一言でいうなら、悲しいお話かな‥‥。
でも、救いはある。俺は好きだよ」

そういうと、力のない顔でレイジが笑った。



「‥‥‥‥‥‥あのさ、つばめ君」

ふいに、レイジが声をかける。

なに?とつばめが返すと、少し伏目がちにレイジは言った。

「‥‥‥‥ごめんね。
この間のあれ、嫌だった?」 

『この間のあれ』の意味を、つばめはすぐに理解する。

"俺の目、見てもなにも思い出さない‥?"


「あ、‥‥ああ、『あれ』のこと?」

「馴れ馴れしい俺のこと‥‥。
嫌いになっちゃったかなって。

だってあの日以来、
つばめ君パタっと来なくなったからさ‥‥。
ずっと、反省してたんだ」

そわそわと目線を何度も泳がせながら、不安げにレイジが言う。


「‥‥違うよ!」

つばめは自分でも驚くほど、とっさに言葉が前に出た。

「‥‥そんなわけないに決まってる‥‥」

「ほ、本当?‥よかった‥‥」

レイジはホッとした顔で笑った。

(あれ、でもおれなんでこんなにムキになってるんだ?)

「‥‥よかった‥‥」

レイジは噛み締めるように、ふたたび言う。
その表情は、もはや泣きそうになっていた。



「‥‥つばめ君は、あれから元気にしてた?」

レイジは所在なく、画材のワゴンを見つめる。

「うん。ヨウジに"部活サボんな"ってブチ切れられて以来、まいにち真面目に自主練してる」

「‥‥‥‥‥」

レイジはおもむろに、先が丸くなったいくつかの鉛筆を取り出すと、カッターで削りはじめた。

「はは、海野君らしいね‥‥」

膝の上にポケットティッシュを広げて、うつむいたまま手際よくカッターで鉛筆を削っていく。

「あいつ、サッカー命だから、おれにもうるさくてさ‥‥。でも最近はなんかずっと機嫌いいな」

「へえー、そうなんだ‥‥」

レイジは返事をしながら、削る手が止まらない。
次第に荒々しくなる削りクズが、どんどんティッシュに溜まっていく。

「こないだも一緒にラーメン食った帰り、おれが"ニーナと似てる"ってしつこくてさー。

ニンニクマシマシのやつ食べたから、近寄ってゼロ距離で顔見られんのしんどくて。
もー、ずっと息止めてた‥‥。

でもやっぱりなんかニンニクのにおいって、息止めても体からすんだよな‥‥。あれは、恥ずかったわー‥」

「‥‥‥‥」

削りクズがさらに荒く太くなっていく。

カッターを握る手の力が強くなる。

‥‥その時、
手元が狂って、刃が指先に深く入った。

「いたっ!」

「え、どうした?」

レイジが声を上げるのに驚いて見ると、指先を怪我していた。

そこまで傷は深くないが、それでもサックリと皮膚を切ってしまい、傷跡からは絶えず血が溢れてくる。

「だ、大丈夫か?」

ポタポタ垂れる血につばめはうろたえる。


「あ‥‥やっちゃった‥‥。ぼーっとしてた。
大丈夫、大丈夫。見た目よりひどくないから」

レイジは笑って新しいポケットティッシュで血を抑えるが、血が止まる気配はなく真っ白なティッシュはみるみる赤く染まっていく。


「‥‥かせ!代われ。
‥‥そんなんで血が止まるわけねーだろ」

「あ‥‥」

そういうと一目散につばめは駆け寄る。

急いで新しいポケットティッシュを数枚出すと重ねて、迷わず傷口を強く抑えた。

「‥‥‥‥‥」

レイジの前髪て隠れた目が、動揺するように強く揺れてハジメを見つめる。


「ちょっと痛いけど、我慢な」

「うん‥大丈夫」

そのまましばらく傷口をティッシュで押さえて簡易的な止血をする。

「‥‥‥‥」

5分も足らずに、出血のピークは治る。

「ありがと。
絆創膏‥‥保健室でもらってくる」

レイジがそういって立ち上がるのを、つばめは静止する。

「ばか!水で傷口洗うのが先」

そういうと、つばめはレイジを準備室の隅にある小さな流しにレイジを連れていく。


「しみたらごめん」

そういうと、すっかり血の止まった傷口に水をかけて洗い流した。

「‥‥‥‥」

あらかた傷口を洗い終えると、つばめは優しくハンカチで水分を拭き取る。

そして、ポケットから絆創膏を取り出すと、レイジの指先に巻いた。

「これで、よし」

「‥‥あ、ありがとう‥‥‥」

なんの変哲もない、ただの簡単な応急処置。

それなのにレイジは、手際よく怪我の手当てをしたつばめの事を呆然とする瞳で見つめたまま、目がそらせない。

「ん、どうした?」

「ううん‥‥なんでもない」

「‥‥そっか。まあ‥‥しっかしさー。
お前って、少し会わなくなっても相変わらず
どんくさいヤツだなぁ‥!

変わってなくて、なんかむしろホッとしたわ‥」

そう言ってつばめがレイジに笑いかける。

(つばめ‥‥‥‥‥。あの時と、同じだ‥‥‥)

そのくしゃくしゃの笑顔に、レイジは釘付けになった。


──それと同時に。
ずっと見失っていた創作意欲が、腹の底から湧き上がってくるのを感じた。

「‥‥ごめん。
ちょっとそのまま、動かないで」

レイジはそう言うと、一目散にクロッキー帳と鉛筆を取り出し、真剣な面持ちでつばめに向き合った。


「‥レイジ?」

「‥‥じっとして」

「あ、悪い‥‥」

「‥‥ごめんね。
無理しなくていいから。
自然なポーズしてて」


レイジはそう断片的に言葉をかけると、そのまま会話も少なく、つばめとクロッキー帳を交互に見ながら手を動かした。


"無理しなくていいから、動かないで、自然なポーズ"
とは、一体‥‥。


と思いつつも、つばめはわからないなりに、精一杯レイジの言われたとおりにする。

「‥‥‥」

前髪の隙間から、何度も何度も真剣なまなざしで見つめられる。

つばめは、絵を描くレイジにここまで見つめられたのは初めてだった。

(ちょっとだけ、恥ずい‥‥)

スケッチ中、なんだか少しだけ胸が苦しくて落ち着かない。

「‥‥‥‥‥」

だけど、不思議とそれが心地いい。

‥‥自分はこの心地よさをずっと昔から知ってる。
そんな気がした。



つばめの姿をとらえようと、レイジはなにかに取り憑かれたように一心不乱に鉛筆を走らせる。

その筆致の音と、ザーザーと激しく打ち付ける雨の音だけが、美術部準備室の中で聞こえ続けた。


──それから、どれだけの時間が経っただろうか。

「‥‥‥うん、ありがとう。
楽にしていいよ」

ふいに、レイジが満足げに顔を上げた。

クロッキー帳には何ページにも渡って、たくさんのポーズやカットのつばめが描かれているのがちらりと見えた。


「うー‥‥体、バッキバキ」

つばめは少し疲れたように体を伸ばす。
しかし、その表情はある種の達成感に満ちていた。

「‥‥ごめん。
勝手に了承もとらずに描きだしちゃって」

申し訳なさそうにレイジが言う。


「ううん。全然いいよ。
‥‥‥やっぱ絵を描いてる時のお前って、ホント活き活きしてるな」

「ほんと?そう見える?」
つばめの言葉に、レイジは照れくさそうに笑った。

「お前ってさ、やっぱりあれ?
将来は美大に進学して画家とかめざしてんの?」

つばめが聞くと、レイジは意外にもあっさりとした様子で返した。


「‥‥ううん。
俺ぜんぜんそういうのは興味ない」

「え!こんな上手いのにもったいねえ‥‥」


残念そうなつばめに、レイジは続ける。

「‥‥俺にとって、絵を描くってさ。
ある種のストレス発散なんだよ。
みんながカラオケいって大声で歌うのとおんなじ。
それ以上でも以下でもない」

手元のスケッチをじっと眺めながら、言葉を続ける。


「でもまあ、俺はトロいし、歌も上手くないし。
言葉とか行動で自分の気持ちを伝えることも下手だけど。

でも絵なら。
言葉で言えない事をのせられるから。
だから好きなんだ。だから描く」

レイジは活き活きした顔でそういうと、ワゴンの下にずっとしまいっぱなしだったツナギとエプロンを取り出した。


「今日はありがとう。つばめ君。
なんか久々にキモチがわいてきた。

なんか‥‥いまなら描けそうな気がする」

そんなレイジをみて、つばめも笑う。


「うん。がんばれ。‥‥おれも応援してる」

そう短く言葉をかけると、つばめは静かにその場を立ち去った。