幸福な王子の恋人

「‥‥‥おう。久しぶりだな」

薄暗い部室の隅で一人、真剣な様子で筋トレをしていたヨウジは、つばめの気配に気づくと顔を上げた。

「‥‥‥‥わざわざこんな暗い中でやんなくていいのに」

そう言って、つばめは部室の電気をつける。

「‥‥一人で自主練する時は暗い方が集中すんだよ」

ヨウジは皮肉っぽく言う。

「‥‥」

今日は比較的すずしい気温だというのに、ヨウジはびっしょりとシャワーを浴びたように汗をかいている。
灯りに照らされる汗ばんだ姿がやけに艶めかしく映り、つばめは思わず目を逸らす。

「なにそれ」

ふと、手元に持っている紙を見てヨウジが尋ねた。

「あ、これ?レイ‥、山岸からもらった。似顔絵、描いてもらったて」

「ふーん‥‥あ、そ。
ま、早く着替えてこいよ」

自分から聞いたのに、さして興味なさそうな感じで、ヨウジはぶっきらぼうに返す。

つばめは急いでジャージに着替えると、ヨウジの隣で軽く準備運動を始める。

「それ終わったらさ、ちょっと腹筋手伝ってくんね?」

ヨウジがつばめに言う。

「あ、うん。全然オッケー」

そのままアップを終えたつばめはヨウジにうながされるまま、彼の両足を抑える。

「これでいい?」
「うん」

1、2、3、4‥‥。
ふっ、ふっ、というリズミカルな息づかいと共に、ヨウジの汗でぴったりと服が貼りつく体に腹筋が浮かび上がってはほどけていく。

「‥‥‥‥」

筋肉は硬くて力強い。
抑える手や触れた体越しにヨウジのたくさましさが伝わってくる。

「ふっ‥‥」
10、20、とペースは全く崩れない。

しかし時折り、眉間にシワを寄せて苦しそうな表情で自分の間近まで体をよせる姿に、つばめはドキドキしてしまう。

(し、真剣にトレーニングしてるヨウジの姿を、そんな風に見るなんて‥‥)

罪悪感でいっぱいになる中、つばめはひたすら頭を空っぽにして必死に数えることだけに集中する。

25、26、27‥‥。

それでも──。
目だけはしっかりとヨウジを捉えてしまう自分が心底嫌になる。

「‥‥30!」
「はあっ‥‥」

カウントが終わると、ぐたっとヨウジはその場にうなだれて軽く息を整えた。

「ふぅ‥‥‥」

汗で濡れた髪が床にくたりと落ちる。
少し荒い息で体を激しく上下させながら、天井をぼんやりと見つめる。

すべて、何て事ない仕草のはずなのに、自分のフィルターを通して見るとすべてがいちいち官能的に見えてしまう。

‥‥本当に、おれは最低だ。
つばめは思って、必死に視線を逸らすことしかできない。

「ありがとな、助かった!」
「いーえ」

すぐにヨウジは起き上がると、今度は黙々とスクワットを始める。その隣で、つばめも気を取り直してプランクを行った。

(う‥‥。キツ)

おかしい。
いつもこなしていたトレーニングなのに、心なしか息が上がるペースが早い気がする。

「‥‥‥‥」

ヨウジは横で自分のことに集中しつつも、そんなつばめの変化を見逃さなかった。

「‥‥ちょっと、場所変えるか」

つばめがプランクを一通り終えたのを確認すると、ヨウジはそう言って彼を部室の外に連れ出した。


着いたのは、人気のない渡り廊下だった。

「グラウンド使えねえ時、たまにここでシャトルランやってんだ。一応、顧問にも伝えてある。
つばめも一緒にやろうぜ」

淡々と言いながら、ヨウジはタイマー付きの腕時計でストップウォッチを設定する。

少しだけ、なんだか様子がいつもより怖かった。

「う、うん‥」

つばめは不安げにうなずく。

「じゃ、最初は20」

間髪入れず、ピッというタイマーの音が鳴る。

二人は走り出す。
最初は肩を並べて、中盤あたりまでは二人ともほぼ同じペースを保っていた。

しかし、そこから少しずつ距離は開いていく。

つばめは追いつこうと走るが全く縮まらない。
それどころか、どんどん離れていく。

その間、ヨウジは一度も振り返らなかった。

つばめよりずっと先にヨウジはゴールすると、そのまま息を整えながらタイムを確認した。

「‥‥」

ヨウジは少し悲しそうな顔をして脇に立つと、無言でつばめを見守った。

「はぁっ、はぁっ、」

後を追うようにつばめが走り終わる。

「‥‥‥遅い」

ヨウジは一言だけ、がっかりした様子で呟いた。


「ごめん、おれ‥‥‥最近自主練サボってた‥‥」

「‥‥別に俺に謝ることじゃないだろ。それに数日程度のブランクなんて、いくらでもリカバリーできる」

言葉はそう励ますが、ヨウジの表情は冷たい。
つばめは背すじが凍る気分になった。

「本当に、ごめん‥‥」

「‥‥謝るくらいならさ、ちゃんと来いって」

苛立ちを隠せない様子でヨウジが言う。

「‥‥最近のお前、変わった。
そんなに自主練めんどいか?」

「違う!そんな訳ない‥。
ただ、最近ずっとレイジに聞きたいことがあって‥。それで‥‥」

その名前に、ヨウジの眉がピクリと動く。

「‥‥‥‥‥‥"レイジ"ね‥‥。
お前、ちょっと前までアイツのこと山岸って呼んでたのに、どういう風の吹き回しだよ。

部活サボってまで、そんなにあいつと仲良しゴッコするのに浮かれてんのか?」

ヨウジの声がどんどん荒くなる。
その言葉には、いつになくトゲがある。


「‥‥ゴッコって、なんだよ。
普通に仲良くなったら呼び名くらい、変わるだろ」

「ほら、やっぱり仲良くなったんだ。
"レイジ君"って言う新しいお友達ができて、よかったな」

「なんだよ、さっきからずっとムキになって‥‥!」

揚げ足を取るようにヨウジが返すので思わずつばめは彼の肩を掴むと、こちらを振り向かせる。

「‥‥誰のせいだと思ってんだ」

ヨウジは、泣き出しそうな顔をしてつばめを睨んでいた。

「‥え?」

「‥‥‥‥‥‥なんでもない」

そう返すと、ヨウジは再びつばめに背を向ける。

「なぁ。昔のお前はそんなんじゃなかっただろ。部活、嫌になったのか?
何かあったんなら言ってくれよ。

‥ ‥‥俺って、そんなに頼りないか?」

こちらを見ないまま、ヨウジは悲痛な声で問いかける。


「‥‥‥‥‥」

つばめは、心が苦しかった。

違うよ。
嫌になるわけない。

むしろ逆だ。

お前と一緒に練習してると、自分が自分じゃなくなって辛いんだ。

──だって、好きだから。

つばめは思ったが‥‥言えるわけなかった。


「‥‥‥‥」

そのまま黙りこくるつばめの様子に、ヨウジは諦めたように深いため息をつくと、悲しそうにつぶやいた。


「オレはさ。
サッカーの特待生でここに来たから、"これ"しか居場所がねーんだよ。

だからせめて、オレの邪魔だけはすんな‥‥。

そういう‥‥ぬるい気持ちで周りをチョロチョロされてキモチ乱されるのが、一番腹が立つんだわ‥」

そこまで口にしたあたりで、ヨウジは言った言葉を後悔するように、つばめの顔を見た。

「あ‥‥」

"しまった"
と、と言う心の声読めるくらいハッとした表情のあと、ヨウジはうつむいて

「わり、いまのは忘れて‥‥」
とだけ言った。

それは、普段弱音が吐かけない彼の精一杯の強がりだという事を、つばめは理解している。

「嫌。忘れない」

つばめはそう言うと、彼の腕をぎゆっと掴んだ。

「ヨウジ‥‥」

「‥‥ほんと、お前さ‥‥。
そう言うところだって‥‥‥」

ヨウジは小さくつぶやくと、髪をくしゃっと掴んで深いため息をついた。


しばらくの間、沈黙が続く。  
窓の外は憎らしい雨が降り続いている。

「‥‥」

「‥‥」

「‥‥‥‥‥‥え。なんか、気まず」

重苦しいムードに耐えられきれずに最初に切り出したのはヨウジだった。


「‥‥なんかさ。
何もしないで黙ってると、急激に腹減ってくるよな‥‥」

小さな声でつばめがぽつりと返すと、ヨウジは吹き出す。

「ふふ、わかる。むしろ動いてる方が気が紛れたりして」

「帰りさ、ラーメン食いに行かね?駅前のところ‥‥‥」

つばめの誘いに、ヨウジは笑って返す。

「いいね、賛成!」

そして気づけば、もう仲直り。
喧嘩は三十分と経たずに終了した。

二人は昔から、そういうふたりだった。

「‥‥そんじゃ、うまいラーメンのためにも、つばめのブランク戻すためにも、こっからどんどん走りこみしてくから。てことで、次は30な」

「押ー忍っ!」

すっかりいつも通りに戻って再開した久しぶりの自主練は、夜まで続いた。



「あ"ー美味かった!」

ヨウジは満ち足りた笑顔でそう言うと、駅前にあるラーメン屋を後にした。

「ほんと。極限まで腹空かして食べる豚ラーメン、マジで最高」

「にんにくマシマシでな」

二人は顔を見合わせて笑う。
人気の少ない雨の降る道を、傘をさして並んで駅まで歩く。

「でもさ‥‥改めてごめん。ヨウジ。
‥‥明日からは心入れ替えて、自主練します」

つばめは切り出すようにぽつりと言った。

「‥‥‥わかればいーんだよ」

言葉少な気にヨウジは返す。

「レイジの所にもいかないようにする。‥‥‥アイツの制作邪魔しちゃうし」

「ん。それがいい。
最近お前、山岸のところ行きすぎだったから」

ヨウジはどこか満足気に笑って返す。

「うん‥‥」

満腹のせいか、足取りが少しだけ重たい。

「‥‥‥‥」

ヨウジは、つばめのどこか曇った表情を横目でちらりと見ると、不意に切り出した。

「まあ、話は変わるけど。
今日、俺も改めて思ったんだけどさ‥‥」

「なに?」

「‥‥お前ってやっぱり。
ニーナちゃんと、いとこ同士なんだな」

「ん?どういうこと?」

「なんか今日、腹筋してる時に近くで顔見たら、そっくりだなーってしみじみ思って」

そういうと、ヨウジはつばめに詰め寄った。

傘同士が強くこすれあう。

「‥‥‥見てたの‥‥‥⁈」

「うん。見てたよ。
だってお前、ガン見してくるから」

「それは‥‥」

──あの時、ヨウジもおれを見てたんだ。

つばめは自分の視線の意味がバレているんじゃないかと恥ずかしくなるのと同時に、なぜだか嬉しさも込み上げていた。


「二人ってやっぱ似てるよな。顔立ちとか‥‥特に目」

そう言って、ヨウジはつばめの顔をじっと見つめる。

「黒目なのに、少し青みがあってさ。宝石みてーにキラキラして」

柄にもなくロマンチックな事を言いながら、ヨウジはつばめを見つめ続ける。

「‥‥きゅ、急に何ヘンなこと言い出すんだよ‥‥。
てか近いって。おれいまニンニクくさいから‥‥」

つばめは、まっすぐなヨウジの視線がまぶしくて、思わず目を逸らして離れようとする。

「そんなん、俺も同じの食ったから一緒だし」

しかし、離れるとヨウジはさらに近づく。

「う‥‥」

ぶつかり合う傘が邪魔で、ヨウジはそのまま手にもった傘を下にさげると、つばめの中にはいり込んだ。

間近にヨウジの顔が迫る。

初々しくも雄々しい、その端正な顔にじっと見つめられると、息を止めてるはずなのにどちらともわからないニンニクのにおいがする気がして、つばめは軽くめまいがする。

「うん。やっぱり似てる」

ヨウジは、つばめの頬に触れると、確認するように満足げに言った。

「そんな、ニーナに似てるとか言われても、うれしくねーし‥‥」

口元を抑えて息継ぎのように小さく呼吸をするつばめをじっと見て、ヨウジはつぶやく。

「‥‥‥そうか?いい顔だと思うけどな。俺は好きだよ」

サラッとそう言うと、ヨウジはつばめから離れ、満足気に傘を差し直して歩く。

「な、な、な‥‥‥‥‥!
バカじゃねーの、何言ってんだよ」

以前ならこんなの笑って流して終わってた。でもいまは、心のどこかで冗談であってほしくない、と思ってしまう。

お、落ち着け、おれ。
つばめは必死に心頭滅却する。

確かにあの雷の日から、俺はおかしくなってしまったけど‥‥。

このキモチは、本当の自分じゃない。
いまは胸が苦しくても、これはまやかしなんだ。

元に戻ればまたあの頃の友達同士に戻れる。

‥‥それでいい。
それでいいじゃないか。

そう言い聞かせて、つばめは胸の高鳴りを必死にしずめていた。